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西洋音楽歳時記

旧称「A・Sカンタービレ」。07年には、1日1話を。その後は、敬愛する作曲家たちについて折に触れて書いていきます。

ブルックナー「交響曲第1番」

2007-05-09 10:22:49 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第1番」が初演された日です(1868年、リンツ)。
ブルックナーは、「交響曲第9番」(未完成)が最後の交響曲の番号と言うことで、全部で9つの交響曲を作曲した、というところですが、実はもう広く知れ渡っているように、この「第1番」の前に「第0番」というのを作曲しています。更にその前にも「交響曲」を書いていて、これは通常「第何番」という言い方はしないで「習作」などと読んでいますが、その2曲を合わせ、全部で11曲書いているということになります。ブルックナーをまだよく知らない時、「交響曲第0番」というのはどういうことなのか、などと思っていましたが、作曲者本人が、「1番」の前に書いた交響曲が発見されたので、「1」の前の「0」をつけたということなのでしょう。私には、自然数でない「0」がつけられることにどうしてもピンと来ないことがありますが、数列を考えると納得します。それで、その前の「習作」交響曲を「マイナス1番」とか「00番」などと呼ぶ言い方も出てきたように思いますが、これは作曲者自身がつけたのではないので、やはり避けるべきでしょう。

「交響曲第1番」は、1865年から66年にかけて作曲されました。しかし、その後、ブルックナーにおいてはよくあることですが、「第8番」(第2稿)を書き上げた後、1890年から91年にかけて改訂しています。それで、最初の稿を第1稿(リンツ稿) そして後の稿を第2稿(ウィーン稿)と呼んでいます。ここで、いつも思うのですが、ふつう改訂稿の方が優れていて、決定稿とみなされるべき所ですが、この「第1番」に関しては、「リンツ稿」の方が好んで取り上げられています。自分ではまだ2つの稿を聴き比べて、その理由を納得するに至ってないですが、いつか解説などをもとにしてみたいと思っているところです。

この交響曲は、最初のハ短調の曲(全部で3曲書いています)ですが、第1楽章の出だしがとてもユニークに思われます。作曲者自身この曲を「悪童」とか言っていたようですが、そのニックネームがわかるような気がします。私は、ベートーベンに次いでブルックナーがすべての作曲家の中で好きですが、この曲を最初聴いて良い曲だなどとは決して思っていなかったでしょう。何度も聴いてやっと曲に慣れていったのだと思います。この曲自体を取り上げれば、初演当時そうだったように、わかりやすい優れた曲とはいえないでしょうが、このような曲があったからこそ、後の第7・8・9番などの偉大な曲が作られたのだと思っています。この最後の3つの交響曲は、たとえようもないほど優れた曲です。

しかし、先に記したように、この曲の改訂が最後の「第9番」を未完にしてしまったのではないかなどと思うことがあります。善意からとはいえ、周囲の人の3・8・1番などの改訂を勧めることがなければ、「第9番」が完成したのではなどと考えたりすることもありますが、どうなのでしょう。



ブルッフ「バイオリン協奏曲第1番」

2007-04-24 14:15:18 | ロマン派
今日は、ブルッフの「バイオリン協奏曲第1番」が初演された日です(1866年、コブレンツ)。
ブルッフはバイオリン協奏曲を3曲書いていますが、その最初の曲である第1番が良く知られ、もっとも良く演奏会で取り上げられているようです。チャイコフスキーもピアノ協奏曲は第1番がもっとも有名ですが、やはり3曲書いています。サン・サーンスは、チェロ協奏曲を3曲ではなく2曲書いていますが、第1番が圧倒的に有名ですね。私は、常々、芸術家は後になるほど、晩年に向かうほど優れた作品を残すべきで、これは音楽のみならず、美術、小説の分野でもそうあるべき、と考えますがその例外もあるということなのでしょう。
このブルッフのバイオリン協奏曲ですが、以前バイオリンを独奏とする管弦楽全集がLP3枚で出た時があり、買い求めましたが(もちろんこの中には、1番に次いで有名な「スコットランド幻想曲」も入っています)、あまり回数を聴いてないですが、1番が印象的だったように思います。

この初演の年1866年は、歴史に残る年となった。初演後2ヶ月ほどして、プロシア軍は、ハノーバー、ザクセンそれにヘッセン・カッセルの国境を越えた。普墺戦争の開始である。7月3日のケーニヒグレーツの戦いでオーストリアは完敗を喫し、戦争は終わる。これにより、ドイツ連邦は解体し、プロシアを中心とする北ドイツ連邦が成立した。これはオーストリアのドイツからの排除を意味するものであった。

リスト「死の舞踏」

2007-04-15 13:04:52 | ロマン派
今日は、リストの「死の舞踏」が初演された日です(1865年、ハーグ)。
リストは膨大な作品を残していて、また自作・他作の編曲作品が多く、何が原曲なのか戸惑うことが多いですが、この「死の舞踏」はピアノと管弦楽版が元のようです。そしてこの初演と同じ年にピアノ独奏版と2台のピアノ版も作られたということだ。ピアノと管弦楽の作品では、何と言ってもピアノ協奏曲第1番と第2番が有名であるが、私は後で作られた1番が大好きである。躍動感ある出だし、全体を貫くリストならではのピアニズムに惹かれるからだ。そしてこの曲には、リストのピアニストとしての感性を十二分に表現する名演奏が手元にあるのが嬉しい。それは、ルドルフ・ケーレルの独奏によるものだ。前にも述べたことがあるが、ケーレルの演奏があれば、他は聴く必要がないとさえ思っている。
「死の舞踏」であるが、これはヨーロッパ中世に伝わる、老若を問わず、さまざまな身分の者が、死者・骸骨と共に輪になって踊るという「死は万人を襲う」とのモチーフに基づいたもので、画題に多く使われているが、音楽にもこのモチーフがとられ、リストのほかにサン・サーンスにも同名の交響詩がある。



ベルリオーズ・序曲「リア王」

2007-04-09 09:16:56 | ロマン派
今日は、ベルリオーズの序曲「リア王」が初演された日です(1834年、パリ)。ベルリオーズは大規模な管弦楽曲のほかに序曲と呼ばれる作品をいくつか残していますが、「リア王」はその一つです。やはり、その中で一番有名なのは「ローマの謝肉祭」でしょう。
大規模な管弦楽曲を見てみると、私は第一に、劇的交響曲と名付けられた「ロメオとジュリエット」に注目したいと思います。交響曲などと言っていますが、もちろんこれは通常の4楽章よりなる交響曲とは全く異なった形式を持つ、演技を伴わないオペラといったところです。私が注目するのは、この曲とワーグナーの関係です。彼はこの曲について、がらくたの中に珠玉の部分がある、の趣旨のことを述べていてかなり辛辣ですが、この曲にはあの「トリスタンとイゾルデ」を連想されるものがあるのではと、聴くたびにいつも思っています。ワーグナーはそのあたりのことをいっているのではないかということです。
同じくワーグナーの「ニーベルンク」に影響を与えたオペラに、ロッシーニの作品があります。「モーゼとファラオ」です。確かどこかでそんな記事を読んだように思います。
更に言うと、リムスキー・コルサコフの作品「見えざる町キーテジと聖女フェブローニャの物語」には、今度はワーグナーの「パルジファル」が影響を与えていると言います。
このように傑作と呼ばれる作品には、それ以前の作曲家の偉大な作品が影響を与えているようです。そんなことを考え、鑑賞するのも面白いのではないかと思います。

ブルックナー「第5交響曲」

2007-04-08 11:28:40 | ロマン派
今日は、ブルックナーの「交響曲第5番」が初演された日です(1894年、グラーツ)。
ブルックナーの交響曲は長大なことで知られていますが、この曲はおそらくは一番長い曲でしょう。ブルックナーというと、ニックネームのついた4番「ロマンティック」や7番あたりから入り、8番・9番となり、次にやはりニックネームのついた3番「ワーグナー」となり、この5番はなぜか敬遠されがちですが、これこそはブルックナーならではの交響曲と思っています。この曲はいろいろな呼び方をされています。「カトリック風」「コラール風」「中世的」「信仰的」などと。ブルックナー自身は、「幻想的」と呼んでいたようですが。私は、ある本に書かれた次の言葉がこの曲をうまく言い当てているように思っています。「この曲は内省的で、苦難の体験を打ち込んで、孤独、精進の生活を経て、永遠の彼岸に達しようとする心境を具現したものといえる。」(張源祥著「ブルックナー/マーラー」)
さて、この初演であるが、作曲者の意図とは無関係の様々な変更を伴った楽譜でなされたと言うことである。今では考えられないことだが、周囲の友人の作曲者のためを思っての行動であった。その後、ずいぶん経ち、ローベルト・ハースの献身的な努力により、いわゆる原点版で本来の姿を聴くことができるようになった。
晩年のブルックナーのエキスパート我が朝比奈隆氏は、シカゴに飛び、ブルックナーの交響曲を演奏したが、その時取り上げられたのが、この「第5番」だった。やはりこの曲こそが、ブルックナーのエキスが詰まったものとの考えだったからではないかと思っている。

ブラームス

2007-04-03 09:37:39 | ロマン派
今日は、19世紀ドイツの大作曲家ブラームスが亡くなった日です(1897年)。
ブラームスは、バッハ同様、オペラこそ書きませんでしたが、他の分野の作品は数多く残しています。交響曲が4つだけというのは、数を聞くと少し寂しい気もしますが、内容・規模ともにその1つ1つが違った特色を持つ傑作揃いだと思います。20年もの歳月をかけた1番は、名指揮者ビューローをしてベートーベン以来の傑作で「10番」と名付けるに相応しいなどの発言があり、その通りとは思いますが、私は最後の4番に惹かれます。レコードの帯に「枯淡の境地」などとあったように思いますが、さすがこの言葉はぴったりだなあと今でも思っています。様々な組み合わせを持つ数多くの室内楽曲、それに150曲くらいはある素晴らしいリート、130曲ほどのドイツ民謡、これらブラームスならではの作品を聴くと、素朴な当時の人々の精神世界に触れられる思いがします。
ブラームスがなくなる前年の11月、ブラームス同様ウィーンで名声を博していたブルックナーが亡くなっています。市内のカール教会で式は執り行われたが、このとき教会に入らずその大玄関の前で行列にお辞儀をした人物がいた。ブラームスである。彼はこのとき死の病(胃がんとのこと)にかかっていて、周囲の人に教会に入るよう言われても拒んだということである。そして「もうすぐ私の棺に触れたまえ!」というような言葉を発したと言う。ブラームスは、最初ブルックナーを理解しない発言があったようだが、後にはブルックナーを正しく評価したようだ。周囲の人の両派を対立させるような動きはブラームスには極めて残念なことだったに違いない。かつてドボルザークの才能を認め、世に送り出したブラームスは、公平無私の人生を110年前の今日、閉じたのであった。



メンデルスゾーン「バイオリン協奏曲」

2007-03-13 11:35:47 | ロマン派
今日は、メンデルスゾーンの「バイオリン協奏曲 ホ短調」が初演された日です(1845年、ライプチヒ)。この曲は、ベートーベン、ブラームスのそれと共に「3大協奏曲」などとも言われるバイオリン協奏曲の傑作です。私はこの曲の出だしのソロの主題部分を聴くと、いつも女性的な曲だなという印象を持ちます。それはともあれ、これは全体のバランスというのか、とてもよくできた傑作だと思います。上にあげた3人の作曲家は、いずれも一つしかバイオリン協奏曲を書いていないと長らくいわれていました。しかし、このメンデルスゾーンは若い時(13歳!)にもう一つ書いていて1つだけではないことがわかりました(もう50年以上も前ですが)。そしてこの作品は、あまりパッとしない曲のようで見つからなかった方が良かったという人もいます。しかしこのような習作があってこそ、名曲ができるのだと思います。ブラームスだったら、破棄したでしょうが。
以前、中学生時代の音楽のノートをぱらぱらと捲ったら、この曲の第1楽章を聴いたようなことが書いてありました。全く記憶にありませんでした。普通、後に音楽関係に進むほどの人だったら、このような曲を聴けば、それがきっかけで何か楽器を始めるとかということもあるでしょうが。しかし、音楽の問題集などを勉強するのは好きでした。今は、高校入試に音楽や美術などは考えられませんが、当時はありました。しかし、なんでいろいろな調があるのか、よくわかりませんでした。今も分からないというべきですが。しかし最近ある記事を見てはっと思いました。シャープが多くつくほど神に近くなり、フラットが多くつくほど人間らしくなる、というものでした。長年の疑問を簡単に言われた感じで、ちょっと驚きましたが、少し疑問が解けたような気がします。試しに、ブルックナーの第9の第3楽章を見るとシャープが4つで終っています。ベートーベンの「英雄」交響曲はフラット3つの変ホ長調ですね。この2つを出して納得すると単純すぎると言われそうですが、自分では何かヒントを与えられた気がします。今書いてあった新聞を見つけようとしましたが、見つかりませんでした。とにかくこう教えてくれたのは、今をときめくバイロイトでも日本人として始めて指揮したO氏なのですから。記事が見つかったらまたその時書きたいと思います。



R.シュトラウス「英雄の生涯」

2007-03-03 10:15:09 | ロマン派
今日は、R.シュトラウスの「英雄の生涯」が初演された日です(1899年、フランクフルト)。
R.シュトラウスの作品の軸をなしているのは、歌劇・交響詩・歌曲だと思います。最初期には、交響曲にも作品を残していますが、交響曲よりも交響詩に自分は向いていると考えたのでしょう。交響詩というと、リストの「前奏曲」などがすぐに思い浮かびますが、R.シュトラウスのそれは、リストのを更に拡大発展させたものと見てよいでしょう。
「英雄の生涯」は、自身交響詩と呼んだ、最後の作品で、これまでの交響詩の集大成をなすものと考えてよいでしょう。そこには、「ドン・ファン」「ティル」「ツァラトゥストラ」「ドン・キホーテ」などこれまでに作曲した作品が登場します。全体は、6部からなりますが、圧倒的な「英雄」を示す主題から始まり、途切れることなく、最後まで続いていきます。シュトラウスの才能を誇示するかのような挑戦的な作品と見ていますが、どうでしょうか。
この作品を録音するのは、それだけの指揮者でないとできないことでしょう。やはり、私は、カラヤンの名盤を第一に薦めたいと思います。何度か録音してますが、シュヴァルベをソロに起用したベルリン・フィルによる、70年代のEMI盤が、私は好きです。レコードのジャケットには、革ジャンを着たカラヤンを見ることができます。どうもその印象が強いのか、「英雄の生涯」というと、どうしてもこの1枚に手が伸びます。実際これは圧倒的な名演と思います。レコードだから、途中で切れてしまうのはすこし残念ですが。昔は、このように、レコードはジャケットを楽しむこともできました。CDは確かに便利ですが、この楽しみがほとんどなくなったのは非常に残念な気がします。ついでに言うと、私は、レコードの方が、CDよりも音が自然な感じがします。そのように主張している人も少なくないように思います。

ブラームス「ドイツ・レクイエム」

2007-02-18 13:32:47 | ロマン派
1869年の今日、ライプチヒでブラームスの「ドイツ・レクイエム」が初演されました。作曲者35歳の時です。実は、前年に第5部を除いた演奏が行われていて、全曲の初演ということになります。宗教曲の大曲はこの1曲だけで、ベートーベンは晩年にあの偉大な「荘厳ミサ」を書き、生涯の締めくくりを感じさせる作品を残したのですが、ブラームスの場合、比較的若いうちに老大家を思わせる曲を書きました。この曲に接すると、いつもそのようなことを考え、もし晩年にもう1曲宗教的大曲を残したならば、どのようなものだったろうなどと考えてしまいます。
この曲は、7部からなる大曲ですが、私は第2部を好んでよく聴きます。本当に良い曲と思います。
「なぜなら、すべての肉体は草のようなものであり、
すべての人間の栄華は
草の花のようなものなのだ。
草は枯れ、
花は散るのだ。
・・・」
という歌詞で始まるこの章は、「苦悩するものへの慰め」を基本理念として書かれたこの曲の真髄をよく表しているように思います。

今手元にあり、よく聴くCDは、カラヤン指揮、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団によるものですが、カラヤンはドイツ敗戦後すぐの1946年(47年?)にこの曲を録音しました。このことを考える時、何かカラヤン自身のドイツへの鎮魂曲としての演奏と考えてしまいます。


フェリックス・メンデルスゾーン

2007-02-03 22:56:08 | ロマン派
この作曲家の名前を聞くと誰しも、有名な「バイオリン協奏曲 ホ短調」を思い浮かべることでしょう。今日は、メンデルスゾーンの生誕日です(1809年)。メンデルスゾーンほど幸せな作曲家はいなかった、といわれています。裕福な銀行家の家に生まれ、祖父は有名な哲学者、才能に溢れ、若いころから作曲を行っていました。名前の「フェリックス」は、「幸福な」という意味です。ただ、父の死、姉(ピアニストであり作曲家でもあった)の死に気力も萎え、40歳前に亡くなっています。こういうと「幸せな」はどうなのかと言われそうですが、彼の音楽は、幸福感に満ちた美しい旋律に満たされているというのは事実でしょう。イタリア旅行の印象から作曲した交響曲第4番「イタリア」はその第1楽章はとりわけ有名です。スコットランドへの旅行にヒントを得た、交響曲第3番「スコットランド」と「フィンガルの洞窟」も名曲です(この後者の曲を指してワーグナーは、「メンデルスゾーンは一流の風景画家だ」と述べています。)「真夏の夜の夢」の中の「結婚行進曲」は超が付くほど有名です。無言歌集の中の「春の歌」、これも有名で、幸せな気分溢れる名曲と思います。他にも室内楽曲、合唱曲など、聴くべき作品はたくさんあると思います。そういった作曲活動と共に、忘れてはならないことが一つあります。それは、大バッハの「マタイ受難曲」の蘇演です。その年、1829年はまさにバッハ「復活の年」といってもいいでしょう。ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に迎えられ、この楽団を一躍世界的なオーケストラにするなど演奏活動の面でも才能を発揮した。やはり、こういうと、メンデルスゾーンは「フェリックス」かな。