〇間合いについて
しない競技は間合がいらぬ。
競技本位なら、間に入って当てあいすればよいが、
剣道という限り、攻めの間合から如何にして打ち間(生死の間)に入るかが剣道の大切なところである。
それを生死の間合の中で平然として攻め合いをして何とかして打ってやろうとか、
ひょっとして打たれやせんかと心の中で迷いながら打ち合いしている。
本人は気一杯で打ち合いしていると思っているがそうではない。
既に気が抜け、心ばかり動き迷いながら打ち合いしているだけで、
丁度気の抜けたビールのように、幾ら飲んでも本来の味(冴えた技が)が出ない。
剣道は打とう打たれまいと思うわが心を切落し、
千変万化の相手の技に対して決して迷わず、
相手の打ちに思わず応じて勝つ技を修業するのが剣道本来の目的である。
そこで若し生死の間合に入った瞬間、心に少しでも迷いが出たら、あとへ引いて間合をとればい。
相手に攻められて、あとへ下がった時は必ず息を吸って剣先が浮いて相手の中心からそれているものである。
一刀流の「鍔割」を体得せば、引くは前に出る為の技で、剣先は中心から離れていない。
ここで少し「鍔割」を説明しておきたい。
これは一刀流のあざやかな手繰打の一手で相手から必殺の精神で打込んでくるのを、
われは剣先を相手ののど元につけたまま、一歩引くが、心は少しも引かず、
相手の打ちおろす太刀先とにわが心の綱を引っかけて、手前に手繰りこむので、
相手の剣先はわが鍔をかすめる程合いまで深く入って、はずれた空を打って剣先が落ちる。
われはこれを眼下に引きずり、腹中に呑込んで、
われは正眼の構えを厳しく保ちながら、相手ののどを突き勝つのである。
この手繰り込んで打出すのは、寄せては返す男波女波の心得である。
ここに間合の大切さがある。
前に出て攻めることを知っていても、引くことを知らない者があるが、
昔、命がけで作った古流の形をやればよく判る。
ついでにいうと、力を入れることを知っていても抜くことを知らない。心すべきである。
古歌に、「心とは、心に迷う心なり、心に心、心変わるな」とあるように、
前述の如くこの迷いを切落すために、間合をとって迷いの心をとり除き、
気と間で攻めてかかるのである。
ここに剣道に大切な間合の稽古が成立するのである。
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【粕井注記】
(まったく同じではないが・・・)
心こそ 心迷わす 心なれ 心に心 心ゆるすな
出典
天台宗の法話集「心こそ」より
人間には生まれた時から「心」というものが具(そな)わっている。
別段親からこの子にはこの心を与えようと貰った訳でもない。
そして心には形がない。形がないから目にも見えない。目に見えないから捕え様がない。
とかく人の事を批判するが、自分の事と成るとさっぱり解らない。
実に厄介(やっかい)な存在である。