稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.18(昭和60年9月28日)剣道即実生活について

2018年08月25日 | 長井長正範士の遺文


○剣道即実生活について

剣道は古流の形を中心にして考えねばならないことは前に述べた通りで、
あらゆる形を見ても剣道に大事な仕太刀が師の位の打太刀に対し、
自分の調子で先に打ってゆく形は少しもないのである。

打太刀が心気で攻めて、
さあ、ここがお前(仕太刀)も勝つ機会だと必ず先に打って出てくる。

これに対し仕太刀は必ず安心して先先の先、或いは後の先で勝たせて貰うわけであるが、
打太刀があらゆる手段で千変万化の技を出して打って来ても、
これに応じて必ず勝って生きのびる技を教えてある。

剣道即実生活なら、如何なる時代に遭遇しても、その時代、時代に応じて
必ず正しく生き抜いてゆくという剣道でなければならない。

それを深く考えないで、昔の剣道は良かった、
今の剣道は真剣味がなく骨抜き剣道だと嘆いている方があるが、これは思慮が浅い。

私はこれを、わらじの時代と車の時代とは違うのだ、と言いたい。

昔はわらじがけで何里の道を歩いてやっと道場へたどりついて、それから稽古した。
真剣勝負も野外である。地面は凸凹だし、
大きな草の株、木の(株)など踏みまたがって斬り合ったから右足は高くあげて踏み込んだ。

これは自然の現象だが、今は道場で稽古するんだから摺り足で踏み込む。
これを右足を大きくあげて、どすんと踏み込んだらよいかと言えばそうではない。
いけない事になっているように、すべて時代と共に変わりつつあり、
特に今は剣の理法の修練による人間形成の道であるとはっきり明示され、
竹刀を剣として本筋の昔乍らの立派な剣道を要求されている時代である。

近時、少年少年剣道始め一般大学に至るまで試合の数が多く、
之が為、勝負にこだわって手段を選ばず、
とにかく勝てばよい剣道になりつつあるのが嘆かわしい次第で、
余計人間形成という点に力を入れなければならない時代である。

ゆえに「温故知新」古流を研修し、新らしく迎える時代に応じた剣道は
どうあらねばならないかを知らねばならない。

いつまでも昔の先生の指導はよかったと
過去の郷愁に甘んじ今を嘆いているのは進歩がないのである。

それなら昔の先生が組打ち体当りで道場の窓から突きほうり出され、
あばらの骨の一本や二本折られた命がけの剣道を今やれば、
それは暴力になるという時代である。

嘆いてばかりいずに今の剣道はどうあらねばならぬか、
よくよく考えねばならない時代が来ている。

あえて言うとこれは古流を見直し、
本物の剣道の理念を究明し立派な剣道を精進することである。

○剣道をする前に相手を見抜くことが肝要である。
元に立つ者は相手が間合いが明るければつめて稽古してやる。
そうでない者は引いてやる。

商売で言うと、店に入った客がひやかしか、物を買う客か、この人は沢山買うか、
少ししか買わないか、値切る客かどうか見抜くことが大事であるように、
剣道のかけひき精神即人生であり、剣道は日常生活に役立つものでなければならない。
(註:うそとかけひきは違うこと注意のこと)

ただ剣道は心身の鍛錬だというだけでは誰でも言えるが、
何をどうして鍛錬するのか、科学的に物理的に医学的に生理的に解明出来なければいけない。
相手から要求されればいつでも説明出来るものでないと剣道家とは言われないのである。
コメント
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