稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

餅つき

2016年12月30日 | つれづれ


毎年30日は恒例の餅つきである。
母方の叔父が亡くなった時に石臼を借り受け、そのまま引き継いでいる。
前日から準備をして女房は大変だが私はこの日を楽しみにしている。

餅つきは午前9時から。
大きなガスコンロを庭先に出して8時から蒸し始める。
9時過ぎから車庫に置いた石臼でつく。
数年前から私は引退して、隣のテーブルで肉を焼いてビールを飲む。
兄や従弟と飲んでいる間にいつの間にか餅つきは終わっていた。
今年は7臼。小さなころは20臼はついていたはず。



母方は扇田という姓で私は粕井よりも扇田との付き合いが深い。
年に一度、正月前に朝から夕方まで思いっきり飲んで喋っての楽しいひと時だ。
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無灯火で走り続ける人たち

2016年12月29日 | バイク・クルマ


写真の車はデリカスターワゴン。20年以上も前の車だ。
メーターの照明は前照灯(車幅灯)と連動していて昼間は点かない。
夕方暗くなるとメーターが見づらくなるので当たり前のように前照灯を点ける。

実は、最近、夜間になっても無灯火の車が多いのだ。
毎日、片道20キロ近くの道を通勤で往復するのだが、
毎晩のように1台か2台は無灯火の車を必ず見かける。

脇道から無灯火でスッと本線に入って来る者。
対向車線を無灯火でけっこうなスピードを出してる者。
ロードサイド店から無灯火で出てきて、しばらく走ったあとライトを点ける者。
先行する前の車が無灯火で延々と走り続けることもある。

いずれも、おそらく、常にメーターの照明が点灯しているタイプだろう。

最近の車は昼間、無灯火でもメーターの照明は点灯している。
夜間は前照灯が無灯火だと眩しいぐらいに明るいが気が付かない事も多い。

メーカーは、今後、前照灯のオンオフを自動化する方向にあるらしいが、
そんな事をするより、無灯火時にメーターの照明無しにすれば良いだけの話だと思う。

ちょっと気を付ければ防げる無灯火だが、
気づかないドライバーがあまりに多いのが現実である。
何でも自動化すれば済む問題ではない。増々バカが増えるだけである。
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剣道形小太刀(仕太刀の打太刀に対する腕の制し方)追記

2016年12月27日 | 剣道・剣術
12月27日追記(21日の記事にも追記しておきました)
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日本剣道形解説書の後ろの方「解説書のできるまで」の小太刀三本目の説明に、
“関節よりやや上部をやや横より押さえ腕の自由を制する”について、

“制する場合に、左右の手で逆にとるとの意見もあり、また、この逆のとり方にも、
ねじる方向が違う等いろいろ論議されたが、審議会に諮った結果、
表現は原本どおりとしてツボを押さえ自由を制するとの見解となった。” とある。

結局は結論がつかないまま、玉虫色に決着したということである。
ツボを押さえたがるどこかの大先生の意見が無理やり通ったということか。
ねじるというのもおかしな話だ。ねじったら力技(ちからわざ)になってしまう。

小太刀三本目は関節技なので、ねじったりツボを押さえたりする必要はまったく無い。
二本目ならば軽くねじったり、軽くツボを押さえたほうが良いかも知れない。

ともかく、最近の剣道形講習会には何回か出席したが、
「ツボを押さえる」という説明は一度も聞いた事が無いのである。

原型は「一刀流の小太刀」である。
これを経験したことが無い剣道界の大先生たちが決めることだから、
なかなか訂正は難しいのかもしれないが、
何とか解釈を変えて欲しいものだと切実に願う次第である。
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奄美黒糖焼酎「れんと」

2016年12月25日 | つれづれ




奄美に住むMさんから黒糖焼酎が届いた。

奄美黒糖焼酎は、鹿児島県の奄美群島で造られている。
米麹とサトウキビからとれた純黒砂糖を原料に醸造し単式蒸留した本格焼酎だ。
黒糖焼酎は無糖で辛口の焼酎だが、まろやかでやさしい味と豊かな香りがひろがる。
キレ味抜群でどのような料理にも合うし、アテ無しで飲むのもまた楽しい。
昔は芋や麦の焼酎を好んだが最近は奄美の黒糖焼酎ばかりである。

正月に飲もうと置いていたが、辛抱堪らず封を切ってしまった。
猫を膝に乗せ、無料の映画など見ながらの晩酌である。
年賀状も出し終わった。
まったりと時間が過ぎる日曜日の夜である。
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伏見稲荷神社

2016年12月24日 | 旅行や街角メモリー


昨日の天皇誕生日はひょんな事から伏見稲荷神社を参拝。
比較的近くにありながら生れて初めての参拝となった。

あいにくの雨だったが持って行った大き目のビニール傘が大活躍した。
しかし登り道を間違え、遠回りの南側の険しいコースを取ってしまった。
元々痛めている膝は最後の登りで悲鳴を上げていた。今は山は苦手である。

参道を連なる鳥居は見事で、稲荷山の上まで続いている。
ときおり強く降る雨の中、外国の方の観光客も多く見受けられた。



帰りは宇治に寄って抹茶を楽しんだあと平等院を参拝。
新しく博物館が出来ていて展示物が見事であった。

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越後樽焼(株式会社三幸)

2016年12月21日 | つれづれ


スーパーで売っている株式会社三幸の「越後樽焼」が好物である。
仕事中に小腹が空いた時に1~2枚かじりながらコーヒーを飲む。

一時期少し甘味が強かった期間があり、一度メールで抗議したことがあった。
返事が来たが、ロットによる味の小さな違いは仕方が無いそうだ。

みりんの効いた甘い醤油煎餅はどこでも出しているので興味は無い。
しかしこれを少し加工すると格段に旨くなる。B級グルメなる秘伝である。

まずプラスチックのザルにあける。粉が落ちるが仕方ない。
それを500Wの電子レンジで80秒ぐらい加熱する。
(うちの事務所の電子レンジは秒数がきちんと計れないので適当)
少し焦げ目が付いたら完了。

取りだしたらお互いが軽くくっついているのでバラバラにする。
少し冷めたら袋に戻してオシマイ。簡単である。

小さな頃から食べていた、丹念に焼いた醤油餅の表面の味がして旨い。
「こげ樽焼」として商品化したら売れると思うけどどうだろう。
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剣道形小太刀(仕太刀の打太刀に対する腕の制し方)

2016年12月21日 | 剣道・剣術
剣道形小太刀二本目

日本剣道形解説書には、“打太刀の二の腕を押えて腕の自由を制する”とある。
注には“関節よりやや上部を上から押さえて、腕の自由を制す”とある。

全解・日本剣道形増補版(剣道日本編集部)には、留意点として、
“二の腕を押さえるときは、関節よりやや上部を上からしっかり押さえて自由を制する”
とある。

先日(12月4日)の大阪府の剣道形講習会(講師:石田健一・北村宏二)では、
「打太刀の右肩が少し下がるぐらいにしっかり押さえる」と説明された。

剣道形を初めて教わったのは高校1年生の時だから今から45年も前の事である。
この45年間、様々な制し方を見てきた。今でも時々見受けられる。主なものを列挙する。

1)仕太刀の二の腕を上から(または横から)軽く握る。
2)仕太刀の袖を握る。(あるいは指で摘まむ)
3)仕太刀の二の腕のツボを上から力任せに親指で強く押さえる。

いずれも間違いなので訂正して欲しいと思う。

特に3)であるが、
本当の闘いになった場合、力任せに強く圧迫すると、
打太刀は痛みに反応し、右足後ろに刃を返して逆袈裟に切り上げるか、
左足前に体当たりし仕太刀の小太刀を撥ね上げるなどしてしまうだろう。

すでに勝っているのだから、仕太刀はことさら強く圧迫する必要は無い。

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剣道形小太刀三本目

日本剣道形解説書には、“打太刀の二の腕を押える”とある。
注には“関節よりやや上部をやや横より押さえ腕の自由を制する”とある。

「やや横より押さえ腕の自由を制する」とは何の事なのか、
なぜ打太刀は3歩下がってしまうのか疑問に思わないだろうか?

この形の元となったのは一刀流小太刀「左右の払い」である。
笹森順造著「一刀流極意」には“左手にて打方の右小手を下から捻じ上げ”とある。
(一刀流で言う「打方」は剣道形で言う「打太刀」のこと)

下から捻じ上げとは、右手の小太刀で打方(打太刀)の鍔元を押さえているから、
テコの要領で、左手で下から持ち上げると関節技になって打太刀は身体ごと浮き上がる。
痛いので下がるしかなくなり、一刀流では打方(打太刀)は四、五歩下がるのである。

剣道形に戻る。
つまり「やや横」というのは「真下ではなくやや横」の意味ではないか。
体格の差やお互いの体勢によって「やや横」の方向は変わるが理合は同じである。
実際には仕太刀の体勢が大きく崩れるほど関節技をきめることは無いが、
元々は打太刀の右肩が上がり、身体はのけ反り、だから後ろに下がるのである。
打太刀の体勢は「見苦しく無いほどに崩れる」のが正しいと思う。

先日(12月4日)の大阪府の剣道形講習会(講師:石田健一・北村宏二)でも、
石田健一先生や北村宏二先生は、きちんと関節技で制しておられた。
見ていても理合どおりで見事であった。

ところがこの肝心である「制し方」が一般剣道家では結構あいまいなのである。
根本である剣道形解説書が曖昧だからなのかも知れない。主なものを列挙する。

1)(右手の小太刀が効いていないまま)仕太刀の二の腕を横から軽く握る。
2)仕太刀の袖を横から握る。(あるいは指で摘まむ)
3)仕太刀の腕を内側(あるいは外側)にねじる。
4)仕太刀の二の腕のツボを力任せに親指で強く押さえねじる。

これらは時々見受けられる。いずれも間違いなので訂正して欲しいと思う。
関節技なので仕太刀に強い力は不要である。
軽く(真下ではなくやや横から)押さえるだけで打太刀が降参するのである。

問題の本質は、関節技なのにその事を明記していないことに起因する。
講習会でも講師陣は関節技として遣うのにはっきり「関節技ですよ」とは言わない。
剣道形が制定された時に解釈で揉めて、あえて曖昧に制定したのだろうと想像する次第だ。

【あとがき】
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範士の先生方でも違いがあります。特に体勢の崩れです。

動画を見ても、三本目で強く体勢を崩す先生もおられますし、
ほとんど肩が平行なまま(体勢が崩れないまま)後ろに下がる先生もおられます。
きっと先生方の剣道形に対する美的感覚の差なのだろうと思います。
(表面上の美しさを追求する、荒々しくも理合に忠実でありたい、と思う差かな?)

この記事は「これが正しい」という結論ではありません。
自習した内容なので間違っていれば遠慮なくご指摘ください。
ただし「私は偉い先生にこう習ったんだ」という無理やりなご指摘はご勘弁願います。


12月27日追記
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日本剣道形解説書の後ろの方「解説書のできるまで」の小太刀三本目の説明に、
“関節よりやや上部をやや横より押さえ腕の自由を制する”について、

“制する場合に、左右の手で逆にとるとの意見もあり、また、この逆のとり方にも、
ねじる方向が違う等いろいろ論議されたが、審議会に諮った結果、
表現は原本どおりとしてツボを押さえ自由を制するとの見解となった。” とある。

結局は結論がつかないまま、玉虫色に決着したということである。
ツボを押さえたがるどこかの大先生の意見が無理やり通ったということか。
ねじるというのもおかしな話だ。ねじったら力技(ちからわざ)になってしまう。

小太刀三本目は関節技なので、ねじったりツボを押さえたりする必要はまったく無い。
二本目ならば軽くねじったり、軽くツボを押さえたほうが良いかも知れない。

ともかく、最近の剣道形講習会には何回か出席したが、
「ツボを押さえる」という説明は一度も聞いた事が無いのである。

原型は「一刀流の小太刀」である。
これを経験したことが無い剣道界の大先生たちが決めることだから、
なかなか訂正は難しいのかもしれないが、
何とか解釈を変えて欲しいものだと切実に願う次第である。
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忘年会(宝剣会)

2016年12月20日 | 剣道・剣術

(左から有山七段、石丸七段、大畑四段、バンザイが私、中村五段、松江八段)

昨夜は地元、奈良は生駒、宝剣会の忘年会でした。
宝剣会は生駒市の宝山寺の下にある生駒市武道館で稽古しています。
人数は少ないのですが高段者ばかりで中身の濃い稽古が特徴です。
私など文字通りボコボコにされます。

仕事や他の行事のせいで、ほとんど稽古に行けてませんが、忘年会は参加しました。
昨年なんか「そんなに稽古に来れんのやったら辞めてまえ」と言われたほどです。
でもボコボコにされてるうちは辞める気がありません。リベンジリベンジ。



二次会は呑み助3人でカラオケスナックへ。久々に下手なカラオケしてしまいました。



生駒駅周辺は再開発が進んでしまい、私が生駒高校に通った昭和40年代の面影はありません。
二次会の帰り道に昔見た懐かしい看板を見つけ撮影しました。
幾世屋の「宝"多餅」です。これで「ぼたもち」と読みます。
こんど買おうと思ってます。
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師が間違った時

2016年12月18日 | 剣道・剣術
古流で師が間違って指導してしまった。
門人の手前、何とか穏便に済ませたかった。
例を出して訂正をしたが余計にこじらせ怒らせてしまった。
すぐに謝ったが4時間経っても口をきいてもらえない。

自分の間違いに気が付いて気マズくなったのか、
それとも誤解されたままなのか、それもわからない。
どちらにせよ放っておくしかない。
他山の石とはこのことかと改めて思う。

今夜の酒はたまらなく苦い。


12月22日追記
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昨夜和解しました。
私の発言を誤解して受け止めたのが主な原因です。
落ち着いた時によく話し合うことが大切ですね。
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多汗症(てのひらの汗の悩み)

2016年12月16日 | つれづれ


私は多汗症です。特に掌(てのひら)が特にヒドイのです。
気付いたのは小学校高学年の時です。もっと前かも知れません。
テストの答案用紙が汗で濡れて破れたり、消しゴムで消せなかったり、
授業のフォークダンスで相手に怪訝な顔をされたりしました。

自分だけが変なんだと気付いてとてもショックでした。
少し緊張すると冬でも汗が出てきます。
ヒドイ時はポトポトと手から汗が滴るほどです。
「大人になれば自然に治るよ」と言われましたが還暦を過ぎても治りません。
恋人が出来ても手を握れないので若い頃は随分と悩んだものです。
嫌われた事もあったと思います。
薬を塗ったり電気治療もしましたが無駄でした。本当に困ったものです。

今も握手は苦手です。
緊張していなければ握手は出来ますが、「汗が出るかな?」と思った瞬間にジワ~と出ます。
握手が出来ないので今までビジネスや友達関係でも損をしたことがたくさんあると思います。
握手が嫌いなのではなく、相手に嫌な思いをさせたく無いのです。
今でも握手が必要な場面ではすごく消極的になってしまいます。

実は友人の娘さんが中学生ですが私と同じ多汗症らしいのです。
多感な年頃の娘さんだけに悩みは大きいと思います。可哀想です。
それを聞いて何だか堪らず投稿し告白する次第です。
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曽祖父・粕井秋五郎(かすいあきごろう)

2016年12月15日 | 剣道・剣術
曽祖父の粕井秋五郎の写真を私は持っていない。
祖父(粕井豊誠)が同居していた伯父(粕井宏)の家にはあるかも知れない。
しかし伯父とは絶縁状態だからもう見ることは無いだろう。

高校一年生になると同時に剣道部に入った。生駒高等学校である。
剣道部に入ったことを祖父に報告すると意外なほど喜んでくれた。
「おじいちゃんのお父さんは撃剣の先生でなあ、めっぽう強かったんや」
「背ぇも高こうてなあ、お前みたいに鴨居に頭がつかえるほどやった」
「家にはいつも稽古着が掛かっててなあ、それに宮本武蔵と書いてあった」

秋五郎は萩藩(山口県)出身で、旧姓は岡本。
大阪に出て、鴻池家の使用人になった。
使用人だが鴻池で撃剣を教え、用心棒のような立場でもあったらしい。
女中頭であった曽祖母の粕井マスと結婚し婿養子になったのだという。

親父も喜んでくれた。
「海軍でなあ、下士官が我々予備士官を剣道でいじめるんよ、無茶苦茶叩きよるんよ」
「せやけど大学で剣道やってたもんがおってなあ、下士官全部返り討ちにしよった」
「あれは今思い出しても痛快や」

祖父も親父も運動はからきし駄目で、実は私もスポーツは大の苦手である。

高校の剣道部は憧れていたチャンバラの世界とは違い過酷なものだった。
今と違って水など飲ませない。休憩も滅多に無く、休憩姿勢は蹲踞のまま。
真夏の稽古で面の中に反吐を吐いてそのまま稽古させられた者もいた。
15名ほど入部したが、3年まで続けたのは私を含めて3人だけだった。

1年生の夏休みに暑中稽古があり、2年生3人が猛暑の剣道場で待っていた。
ところが稽古に行ったのは私だけ。他の者は全員ずる休み。
「ほかのもんはどないしたんや?」「さあ、わかりません・・・」「なにぃ?」
結局、2年生3人を相手の30分連続懸かり稽古が始まった。本当に死ぬかと思った。
この時の稽古はいまだにトラウマで、今も懸かり稽古は恐怖でしかない。
(ちなみにこの時の先輩の一人が奈良西少年剣道クラブの水野泰嗣先生である)

結局、稽古が嫌で、勉強だ生徒会だと言い訳してはサボり通した3年間だった。
そんな嫌いな剣道も、就職し就任した盛岡で、他に何もすることが無いため再開した。

曽祖父の秋五郎の旧姓は岡本。岡本秋五郎である。
鴻池で同じ使用人の粕井マスと結ばれて粕井姓になった。
明治維新の時はまだ子供だった秋五郎は時の変革に参加出来なかった。
剣士の矜持を持ち続け、何かせんと、たまらず大阪に出てきたのだろうと想像する。
秋五郎の子、孫、ひ孫は全部で25名だが、剣道をある程度以上やった者は私だけである。
(兄の粕井隆は居合と槍術をやっている)
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祖父・粕井豊誠(かすいほうせい)

2016年12月13日 | つれづれ

(左が大正9年、右が昭和3年の祖父、粕井信一、号は豊誠)

祖父(粕井信一、号は豊誠)は明治22年生まれで私が高校3年の時に亡くなった。
私の名前「誠」は祖父の号から貰ったものだと聞いた。

日本画家で、仕事としては平版印刷の版下を作っていたらしい。
貧乏だが趣味人で、大阪で娯美会(ごみかい)や面茶会(おもちゃかい)に入っていた。

「粕井豊誠」で検索するとけっこう出てくる。下は、Kokeshi Wiki の内容の一部。

娯美会(ごみかい)
----------------------------------------
大正末期から昭和の初めにかけて大阪を中心に趣味人が集まった会。
東京には、三田平凡寺が中心になって結成した趣味の集まり「我楽多宗」があったが、
関西にもそれに刺激を受けた「浪華趣味道楽宗三十三所」という集まりが出来た。
娯美会はその中の仲の良い一部の人たちが集まったもの。


(娯美会、祖父は前列左から5番目、娯美會の提灯の右)

主なメンバーとその趣味の対象は次の通り。

川崎巨泉(末吉 画家) :  人魚
濱べにや(屋号「木綿屋」)  :  絵馬
三好米吉 (古書籍商「柳屋書店」「柳屋画廊」) :  顔面に関する短冊
(中略)
粕井豊誠 (信一・画家) :  伏見人形
(中略)
河本紫香 (正次・傘商) :  伝説玩具の牛
中西竹山 (康雄・食料品商) :  各地旅館カード
西田静波 (清次郎、亀楽洞・棕梠商) :  納札

この中でこけし蒐集家としても知られるのは、川崎巨泉、筒井英雄、梅谷紫翠、青山一歩人、
河本紫香、西田静波、村松百兎庵、粕井豊誠など。
こうした蒐集家のこけしは昭和10年代から戦後にかけて開かれた入札会に出たものが多い。

----------------------------------------

祖父は伏見人形やこけしを集めていたとある。

実は小さな頃、祖父と同居していた時期があった。
店(ホワード)の2階の倉庫には祖父の収集物があった。
全国の郷土玩具や雑多なガラクタである。
一度、兄達といじくっててこっぴどく叱られたことがある。
祖父にとっては大切なものなんだと子供心に思ったものだ。

他に検索すると、岐阜の日本土鈴館のブログにも「粕井豊誠」の文字を見つけた。
http://blog.nihondorei.com/?eid=281



京都御所鈴で、作者「粕井豊誠」とある。
作者と書いてあるが、おそらく所持していただけだと思う。

ともかく岐阜の日本土鈴館は来年の3月に行ってみることにする。
土鈴だけではなく、全国の郷土玩具が展示してあったりするらしい。
祖父の血が残っているのか私も旅行や郷土玩具が好きである。まだ先だが楽しみである。

日本土鈴館
http://www.nihondorei.com/
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虫歯の治療(その2)

2016年12月13日 | つれづれ
歯並びが悪いので小さなころからけっこう歯医者のお世話になった。
ホワード株式会社に入社してからはニット健康保険組合の診療所。
ここは入れ替わり立ち代わりアルバイトのような歯医者にいじくられる。

いつの頃からか奥歯に歯の割れがあると言われたが放っておいた。
常に爆弾を抱えていたようなものだが、ホワードを退職してから定期検診も無し。
とうとう10年近く前に爆発した。

事務所のすぐ近くの後藤歯科(今は廃業されている)へ。
驚いたのは受付兼看護婦さんが大変なお婆さんだった事。
診察室へ入ったらやはり大変なお爺さん先生。うちの親父より年かも。
診察椅子は3つあり、そのうち1つが昭和40年前後のベルト駆動の古い機械だった。
(ベルトがプーリーを通して先端までつながっているタイプ)

BGMは昭和40年頃流行ったスピーカーと本体が一体型の大きな真空管式ステレオ。
何だか子供の頃に戻ったみたいだ。でも結構良い音がしていた。

レントゲンも何もなく黙々と作業は進む。
注射器なんか用意するので「どうするんですか?」って聞くと「抜く」と言う。
え?いきなり抜きますか?大丈夫ですか?と動揺したが覚悟を決めた。
震える手で麻酔注射されるのは怖かったが無事抜歯。まさに昭和40年代の歯医者。

入れ歯が出来るまで数回通ったが、私以外の患者を見たこと無かった。
前回読んだ漫画雑誌が、そのままの形で置いてあったこともあった。

ほどなく反対側の奥歯も痛くなった。
パンフレットが入っていたので後藤歯科より遠いS歯科へ。
痛くてたまらんというのに「取りあえず鎮痛剤しときましょ」ばかり。
これはアカンと反対方向の大きなパール歯科へ行った。

パール歯科はレントゲンではなくCTスキャン。
あれこれ検査して申し訳なさそうにインプラントを勧められる。

医「大変申し訳ないですけど、貴方の歯にはインプラントが一番良いと思います」
医「ただ保険が効かず料金がけっこうかかるんですけど」
粕「いくらぐらいですか?」
医「150万はかかりますね」
粕「ええですよ、やってください」

即答したらかなり驚いた様子。
私はいつも無地のTシャツに迷彩ズボンでお金のあるようには見えない。
医者も駄目モトで言ってみただけだったのだろう。

当時はホワード再建を夢見て資金を集めはしたものの、
再建する金額にはほど遠い。しかし200万円ぐらいなら何とかなった。

結果的には200万円近くかかって下の奥歯全部をインプラント。
手術も怖かったし最初は違和感があったが今では大満足している。
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木刀の修理

2016年12月12日 | 剣道・剣術


剣友のジョージ・マッコール氏からの依頼品です。
一刀流の太刀がひび割れてしまったので「小太刀に出来ますか?」という依頼でした。
他からスヌケの櫂型木刀の修理(短くして形を整える)もあったのでついで作業です。

まずは柄の「城侍」の焼き印を残すように剣先と柄元を切ります。
次にハンドグラインダーで大まかに形を整えます。
この時にささくれ部分を取り除きますが、今回はけっこう深部まで割れていたので苦労しました。
後は工作ナイフで修正し、木工やすりと紙やすり数種類で磨き上げます。
最後に亜麻仁油を塗って完成です。今回は稽古用なので少し大雑把な仕上げです。

鍔は元の大太刀に付いていたものを流用しましたがブカブカでした。
接着剤で革を穴の内側に貼り付けて穴を小さくしました。
あとは鍔止め革をボンドと釘で付けて終了です。
今週末の一刀流の稽古日には手渡せそうです。

実は市販の一刀流の小太刀は細すぎて軽すぎて太刀の打ち込みに負けます。
剣道形のように形をなぞるような稽古なら良いのですが、
我が長正館の稽古では打方(打太刀)は本気で打ち込んできます。
これを真剣に捌かなければ怪我します。
(5月に私が小指を骨折したのは仕方の勘違いです・・念のため)
だから小太刀は充分な太さと重さが必要なのです。

そういう意味からも太刀を短くした小太刀は最適です。
今回は磨き上げたら愛おしくなって手渡すのが少々惜しくなってしまいました。
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93歳、親父(粕井貫次)の誕生日

2016年12月10日 | つれづれ


今日は親父(粕井貫次)の誕生日。
大正12年生まれだから93歳かな?

写真は実家。左上が私の長兄。右上3人は我が息子と女房。
実家に居るはずの次兄夫婦は出かけていて留守。
私は剣道稽古のため出席で出来なかった。
代わりに我が女房が世話をして息子達もお邪魔した次第だ。

お袋は昭和2年生まれなので89歳かな?
鬱からくる症状なのか、表情に精気が無い。
やっぱり自分の母親の元気さが一番気にかかかる。

親父は一時期元気が無かったが今は元気である。
今夜も自分の自慢話を孫(我が息子達)にしていたみたいだ。



まあいいや。親の自慢はそのまま受け入れておこう。

このあと長兄(滋)と我が家で飲み直して散々言いたいことを言い合った。
やっぱり長生きしたもんの勝ちやねえ・・・と言うのが結論。
早く死んだら言いたいこと言われれしまいまっせ。です。
少なくとも次男よりは長生きしようと誓い合う長男と三男でありました。
(長男は粕井滋、次男は粕井隆、三男は粕井誠)
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