稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

日本剣道形講習会、及び、合同稽古会など(2019年9月29日)

2019年09月30日 | 剣道・剣術
大阪南地区剣道普及協会主催日本剣道形講習会並びに立会稽古会及合同稽古会
という、なが~~い名前の講習会に出席してきた。
場所は大阪市立西スポーツセンター。開始は10時。

講師は教士八段の濱口雅行先生。
いつもの2人1組の稽古法と違って濱口先生を中心に、
段位の低いものから順番に外側に円陣になっての指導だった。
午前中は太刀7本、午後は小太刀3本。
最後は段位別にグループ分けして2人一組での指導。
あとは立会稽古と自由稽古。


(円陣での指導、午前)


(円陣での指導、午後)


(左が濱口先生)


(右が濱口先生)


(静から動に変わる瞬間が見事である)


---指導語録(最初の部分だけ)---

着装を見れば品がわかる、礼法を見れば格がわかる、
構えを見れば品格がわかる、初太刀を見れば覚悟がわかる。

腹に力を入れるために下帯を着ける。

剣道は移動を伴った打突動作である。
移動をうまく使えば当たる確立は高くなる。
移動をうまくするには身体をニュートラルの状態にしておくこと。
ニュートラルの状態は中段の構え。中段の構えのまま移動する。
移動した時の相手の反応は、面か小手かフリーズである。
フリーズには面、反応が速い面には小手、遅い場合は面。
打てる体制と心を保ったまま中段の構えで前に出れるかどうか。
そのためには気迫という心のエンジンが絶対に必要。
剣道は(自分の)打ち間がわからなければ値打ちが無い。
ところが、この打ち間がわかっていない人がほとんどである。
わからないと、ずんずんずんずん間合いに入ったりしてしまう。
この打ち間、打つ機会を教えるのが形である。
触刃から交刃の間、打ち間(勝負の間)での攻防が大事。
攻め入りは長短遅速の使い分け。気攻め、体攻め、剣攻め。
右の手のひら、表の鎬がセンサーになっていなければならない。

形はカタチで誰がやっても形は形。お茶でもお花でも同じ。
しかし、その中にどれだけの表現が出来るかを学んで稽古する。
形で打ち間での気の持ちようを学ぶことが大事。
稽古の前に1本だけでも形を打てば剣道は変わる。

筋肉は温度が高いほど能率は上がる。
ウォーミングアップは筋肉の温度を上げるため。


(稽古終了)


【感想・反省点】

本質的には、ほぼ、木曜会(誠先生の剣道教室)で学んだ事とほぼ同じで驚いた。
ほぼ同じだが、分析の角度が異なるのと表現が違うので話は新鮮で面白い。
濱口先生は特に「打つ前の気剣体の形を作る」ことを大事にしておられると思う。

とても勉強になった一日だった。
師匠と同じく濱口雅行先生も素晴らしい。

ただ、六段の立会い稽古の後の寸評で、
「そんな遠い間合いで時間を潰していては駄目だ」
「いきなり交刃の間に入っても良い」とのお話があった。

少し誤解をしていた者も多いようなので、ここで私なりに解釈する。

「そんな遠い間合いで時間を潰していては駄目だ」は、
六段審査までは1分間だが実質的に50秒ぐらいしか無い。
そんな貴重な時間なのに、遠間で無駄な時間を潰してはいけない。
ということ。

「いきなり交刃の間に入っても良い」は、
触刃から交刃、打ち間まで、ちょこちょこ小刻みに入っていって、
相手の動きをキッカケに打ちにいってしまうぐらいなら、いっそのこと、
思い切って交刃まで入り、そこできっちり攻め合いをするほうがまだマシ。
ということ。

-------------------

自由稽古では中段の構えの維持に努めてみた。
相手の胸元、喉元を抑え突く(突いても後ろに下がってあげるのだが)ので、
お相手した方々はやり難く感じただろうと思った。

稽古は消極的。昨日の突き指部分がまだしくしく痛むのである。
鉄製のガードを着けたがそれでも痛む場面が何度かあった。

-------------------

お聞きした話で書きたいことはたくさんあるがここで止めておく。

木曜会と同じで、ある程度詳しくここに書いてしまうと、
指導を受けていない人が、現実に直接に先生から指導を受ける際に、
「ああ、あの話かぁ・・」とわかったような気持ちになるのがイヤなのだ。
講習を受けた人が「そうだったそうだった」と思い出せれば良いレベルを書きたい。

わかったように感じているうちは何もわかっていないのだ。

最後に聞いた先生の言葉は、

偶然は努力から生み出された必然である。
まずは強い思いを持って努力すること。努力を続けた結果が必然である。


(本日はバイクなり)


(家に帰って写した左右の右親指、手前の右親指は変形して、おまけに腫れている)
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大阪剣道同好会創立90周年記念祝賀行事(2019年9月28日)

2019年09月29日 | 剣道・剣術


大阪剣道同好会の創立90周年記念祝賀行事ということで、
急ぎの仕事を片付け、他の稽古を全部休んで出席した。


(長正館の道場解体の前に収容した大阪剣道同好会45周年の名簿)


(長正館の長井長正先生も会員だった)


(なんば養正会の師範だった池田勇治先生も会員だった)

45周年の名簿は私が持っていても仕方が無いので事務局へ預けることにした。
すでに当時の会員で現役はただ一人。なんば養正会の吉本先生だけだ。


(45年前の吉本先生)


(ピンボケ失礼・・吉本先生91歳とのツーショット)

集合と稽古場所は大阪市此花区の住友化学の体育館。
集まったのは60名以上。


(住友化学体育館)


(集合写真)


(集合写真の前に1枚)


(体操のあとで稽古が始まる)


(宴会は住友化学の「ゆめさき倶楽部にて)


(最後は恒例の万歳三唱)


【感想・反省点】

稽古は相手を選んだ。
真っ先に年輪ピック出場のY本先生。
Y本先生には何回も面で勝負に出た。何本かは相面勝負になる。
自分としては入りもスイッチも合格点だが打たせてもらえない。
豪快なY本先生のやや半身から飛んでくる面を数本食らってしまった。
相面でまた右手の親指を突き指してしまった。痛いイタい。

あとの先生方とも当てっこはしないで、出来るだけ正当な剣風を心掛けた。
打たれることも多いが、相手を引き出すという感じはわかってくる。

反省としては面に飛ぶ時に左脇が空いてしまうこと。
夢中になると「当てよう」という意識が強く出てしまうせいだ。

宴会では木曜会同門のNさん(女性)が目の前だったので、いろいろアドバイス出来た。
1)ちょっとずつ間合いに入るのではなくシュッと大きめに入る。
2)足を出しながら打つのと、足を出してから打つのでは入る間合いがちょっとだけ違う。
3)どこまで入るか、どう入るか、どうスイッチを入れるかは、相手、あるいは状況によって変わる。
4)真っ直ぐ入ること。案外と真っ直ぐには入っていないものだ。
5)「すりかぶり」そのままの打ちでは打てない。打つ時の重心はやや前、配力は左足8右足2。
6)普段「もっと遠間から打て」と言われるのは、こわごわ、ちょっとずつ入るからである。
7)最初からうまくは出来ないもの。同レベル以下に何回も試して挑戦し続けること。
8)打ちの強度と冴えは握りが正しいか確認した上で木曜会での素振りを実践すること。

言いながら自分の反省点そのままであることに気づいた。
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カメラの裏蓋が壊れたので修理(SONY NEX-5)

2019年09月28日 | 写真・カメラ
小さな頃からあまり物を大事にするほうでは無い。
そのくせ妙に古い物が残っているのは修理をして使い続けるせいだ。
母方の祖母(扇田たつえ)から「物は大切に」と言われて育ったのだ。
乱暴に使って壊してしまうが直して使い続けるという変な奴なのである。

マニュアルレンズ専用機としてSONYのNEX-5を使っていた。
マニュアルのレンズは思ったように画質を調節出来るので面白い。
で、猫の写真を撮っていて、うっかりして床に落としてしまった。

壊れたのは裏蓋部分。本体側のヘリが欠けてしまって閉まらなくなった。
アロンアルファで修理してみたがしばらくしたらまた壊れた。

SONYのサイトで確認すると、
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本製品の補修用性能部品は弊社所定の保有期間を満了しております。
そのため本製品は故障箇所によっては修理ができない場合がございます。
製造打切り年:2012年 補修用性能部品保有期間:7年
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となっていて、修理の目安料金は、24,000円~31,500円(税抜)と出た。


(このレンズは望遠レンズである)

もともとオークションで5000円ぐらいで買ったカメラである。
そんな高い金を出して修理しようとは思わない。
思い切って捨てようか・・・

しかし撮影に何の支障も無いのに捨てるのも勿体ない。
裏蓋をテープで止めて使おうかとも思ったがそれは最終手段で良いだろう。
取りあえず何とか引っ掛かる部分を作ってみようと思い立った。

まずはハンダごてでプラスチックを盛って成型加工しようと試みた。
しかし、どうしても凹みの部分がうまくいかない。

で、書類を綴じるクリップを切ってU字形にして熱で押し込むことにした。
結果、ちょっと固いが何とか止まって使用出来るようになった。
また駄目になれば、その時また考えよう。


(クリップをライターで炙って押し込み引っ掛かりを作った)


(蓋側の金具も取れたので手持ちのビスで留めた)


(試し撮り・・星ちゃん)


(同じく)
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木曜会定例稽古(2019年9月26日)

2019年09月27日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)


四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時から21時20分まで。今年32回目。参加人数25名ほど。
涼しいが湿度は高めかも。

素振りのあと3人組で基本稽古と相面稽古。
最後は六段以上と五段以下に分かれて1分間の回り稽古。

気のついたところのみ記す。

---素振り---
右手中心にならないこと。右手は柔らかく。
腕の力を鍛える目的では無く、体幹を整え肩を柔らかく使えるように。
子供への左右面の指導は手刀で軌道を確認してやると良い。特に右面の角度。
先に竹刀を上げて打つ指導は警察剣道に多い。


(素振りの後の面着用のひとコマ)

---基本---
呼吸法の切返し。(子供は8と9の間に息を吸う)
心気力が一致した機剣体のある技は息を詰めた中から瞬時に出す必要がある。

正面打ちでは姿勢が崩れないところまで間合いに入ること。

思い切って中(相手の鍔元)まで入る。
そしてしっかり止まってそこから打つ。
打ったあとの体捌き、残心の取り方に注意する。
足が悪く、抜けれないのなら、打った瞬間に残心は終えておく。
そこから歩み足で下がって間合いを取ってしっかり構える。慌てないこと。

入る時は恐る恐る入るのではなくシュッと入る。

相面勝負は先の気持ちで。
間合いが詰まってすぐ打つのではなく「仕掛ける」こと。
待ったり避けたり受けたりしてはならない。
自分で間境、慮点を探って欲しい。
手首が固いと竹刀と竹刀がぶつかって有効打突に結びつかない。
素振りで「先を効かす」ことを学ぶこと。

---回り稽古---
打ったあとは美しく。

自分から仕掛け無いと駄目。当てにいっては駄目。
スイッチを入れるまでが剣道。技前(経過技術)の剣道を目指すこと。
あとは捨て身となること。

---終礼にて---
山岡鉄舟の話より。
剣道における「勝機」は相手が打とうとしたところ以外に無い。
どちらも打ちたい。その打とうとするところを打つのが本当の勝ち。

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【感想・反省点】

基本打ちでは時々良い打ちが出る。
力は入れ過ぎていないが抜き過ぎてもいない。

相面稽古は時間を多く取ってもらった。これは勉強になる。
先の気持ちだが慌てても駄目。このへんのサジ加減が難しい。
結局は打つ前の準備をするタイミング。相手によっても変わる。

1分間の回り稽古は審査のつもりで。礼法からきっちりと。
六段七段相手だと、なかなか有効打突になるものでは無い。
同門(木曜会の剣風)同士なので気持ちが良い稽古が出来る。
打たれても良しの稽古。

受ける避けるを多発する六段には注意させてもらった。
木曜会の稽古では必要ない。

山岡鉄舟の話は下に付録としておく。
私のレベルではまだまだ難解で理解は難しい話である。


--------------

【付録】

剣法邪正弁(けんぽうじゃせいのべん)
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夫れ、剣法正伝の真の極意者、別に法なし、
敵の好む処に随ひて勝ちを得るにあり。

敵の好む所とは何ぞや。
両刃相対すれば必ず敵を打んと思ふ念あらざるはなし。
故に我体を総て敵に任せ、敵の好む処に来るに随ひ勝つを真正の勝と云ふ。

譬へば箱の中にある品を出すに、先ずその蓋を去り、細かに其中を見て品を知るが如し、
是則ち自然の勝ちにして別に法なき所以なり

然りと雖も、此術や易きことは甚だ易し、
難きことは甚だ難し。
学者容易のことに観ること勿れ。

即今諸流の剣法を学ぶ者を見るに、是と異なり、敵に対するや直に勝気を先んじ、
妄りに血気の力を以て進み勝たんと欲するが如し。之を邪法と云ふ。

如上の修業は一旦血気盛なる時は少く力を得たりと思へども、
中年過ぎ、或は病に罹りしときは身体自由ならず、
力衰へ業にふれて剣法を学ばざるものにも及ばず、
無益の力を尽くせしものとなる。

是れ、邪法を不省所以と云ふべし。
学者深く此理を覚り修行鍛錬あるべし。

附して言ふ、此法は単に剣法の極意のみならず、
人間処世の万事一つも此規定を失すべからず。

此呼吸を得て以て軍陣に臨み、之を得て以て大政に参与し、之を得て以て教育宗教に施し、
之を得て以て商工農作に従事せば、往くとして善ならざるはなし。

是れ余が所謂、剣法の秘は、万物太極の理を究むると云う所以なり。

明治十五年一月十五日

山岡鉄太郎
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年9月25日)

2019年09月26日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
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【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。https://blog.goo.ne.jp/admin/newentry/#
http://doujyou.net/choseikan/
----------------------------------------

少し蒸し暑いがかなりすごし易くなった。
井上館長は絵の展覧会の準備のためお休み。
本日の稽古参加は12名。うち小学生2名、中学生2名。
A君弟は風邪のため見学。
ベトナム人の初心者の見学者1名あり。


(時間までは恒例の剣道形稽古)


(F六段による準備運動と素振り)


(基本稽古)


(終了、面取れ~!)




【感想・反省点】

本日、稽古中に写真を撮る時間は無かった。

あとから考えると怪しい局面が多々あったが、
出来るだけ崩れないようにしようとはしていた。
しばらくは「打たれても良し崩れぬことが一番」を心がけたい。

F六段が「七段受ける自信は無いですよ」とボヤいていた。
S口二段やH尾三段相手になかなか思うようにならないと言う。
50を超えるとタイミングとスピードだけではやっていけなくなる。
まあ、みんな、そんなもんなんやけどね・・・と答えておいた。
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No.70(昭和62年6月21日)

2019年09月25日 | 長井長正範士の遺文


○その初めに「日本の武道」を最初から拝写すべきですが、私が理解いたしました所から
書かして頂きますので、次回には、その次に判って来ました所を書きたく、従って項目は
ご本と違い相前後致します点何卒ご寛容下さい。以下本文です。

○正身正息
武技の実践には、姿勢を正すということが根本になります。
これを生理的に言うなら、地球の重心に身を委ねて、まっすぐに身を立て、
体のどの局部にも力の凝らぬよう、従って全身が渾然たる球形を成すように身を保つことです。
すると生理の当然として、腰がすわり、首がまっすぐに立ち、下体の中心部に力の中心の座が現われて、
いっさいの動作がその中心の力によって行われることとなります。

ですから、ここに支配する理も、上来述べてきたった武の哲理と同じことで、
身を正す上の生理はそのまま哲学の論理と一致するのです。
武技の動作はいろいろの形を採りますが、動作のどの切断面においても、
全身の筋肉が常に落ちつき切り、一々の動作がいつも「全」の表現であるように、
いわば「神ながら」の動作であるようにふるまうのが、正しい動作となります(「動中静あり」)。
またそのようにしてでなければ、技、神に入るの名人芸はできません。

このことは武道に限ったことではなく、身をもってするいっさいの芸道にも通ずることです。
下体に現れる力の座は、これを丹田と称え、日本では武道、武芸の士が、
何ごとも腹又は腰の力でするようにということを大切な心得としています。
ただし、丹田は全身の力の座ですから、特に下腹を意識して(即ちそこを一局部視して)
そこに力を集中するのではなく、全身の筋合いを調え(ととのえ)、
丹田におのずから力の現れるように、身を渾然と持つのです。

○丹田の所在を確かめる容易な方法があります。
それは、息を吐いて胸を虚にし、残った息で笑ってみることです。
すると腹部がキュッと締まりましょう。その締まる所が全身の力の座、即ち臍下丹田です。
あるいは、つばを呑みこんで、それを腹の底に納めてみます。
すると下腹がキュッと締まって、それを迎えます。笑う際には下腹に力がちょっと脱けて、
息が瞬時に吸いこまれましょう。

笑いにおける、けいれん的な右の呼吸を、一筋に平静に行うのが「丹田息」と呼ばれ、
武道、武芸など、いっさいの身行(しんぎょう)における本格的な呼吸となっています。
この正身正息を道として立てたのも日本文化のすぐれた価値です。
それは人間が正しく生活する上の実践的基準を確立したものです。
この正身正息そのものが、坐禅として又、静坐禅として独立にも行ぜられています。

○哲学と身行
仏教では自覚の両極が般若(の智慧)と三昧(の行)として立てられ、
真理の観照道は身行の真実道と不可分のものされる伝統を保ってきました。
「般若-三昧」又は「慧-定」の対極は大乗仏教では「中観-瑜伽(行)」の形で現われましたし
(この項続く)

※瑜伽(ユガ)は梵語yugaの音釈で相応の意味で、主観、客観の合一不二なること。
瑜伽宗は印度の世観の開いた宗派です。
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私はこれで東亜特殊電機(現 TOA)を辞めました。

2019年09月24日 | つれづれ


東亜特殊電機の中谷社長は「私たちの会社は音を売る会社です」と言われた。
それに感銘を受けて「この会社で精一杯頑張ろう」と思った話は昨日書いた。

そんな会社をなぜ辞めてしまったか?

原因の一つは「蟻カード(アリカード)」にある。
お客様の生の声、現場の声は、製造する側に反映しなければいけない。
という中谷社長の声は「蟻カード」という情報収集活動制度にも現れた。

ある日、名刺の大きさの「蟻カード」が営業職全員に配られた。
蟻のマークのトーア蟻カード。
お客様の声、製品へのクレームや改善点、新製品の提案など、
何でもいいから蟻のように本部(宝塚市)に送れという制度だ。

小さな事例でも、数を集めれば、それは大きな力となると言うわけだ。
蟻カードは小さいので、たった一言のメモでも構わない・・と言われたのだ。
良い提案があって「おや?」と思ったら、必ず折り返し連絡します・・と言われたのだ。


(工房を整理中に輸送箱から出てきた書き損じ未提出の蟻カード)

私は喜んだ。
秋田という僻地(秋田の皆さんごめんなさい)にいて、
たった一人で何でもこなしているが本部が何をしているのかさっぱりわからない。
組織の末端にいた私にとって蟻カードは本部と唯一の情報の架け橋のような気がした。
どう使われるかわからないが、私は情報を送り続けてやるのだと決心した。
それが中谷社長の言われた「音を売る」ということに繋がるのだと。

自主目標1日1件だが数枚は書いた。かかさず毎日書いていた。
けっこうくだらない内容もあったかも知れない。
でも、県や市町村の役場、設計事務所、電気屋、電気工事屋など回れば顧客の要望は山ほど聞く。
秋田県は広く運転時間も長く、運転中にあれこれ考える時間もたっぷりある。
テレビの放送も少ない秋田では駐在所に帰ってからも時間はあった。
蟻カードで書き切れない事はレポートとしても書いて提出した。
毎日書いて、盛岡営業所に持って行き、月に1度、まとめて本部に送ってもらっていた。
何か一つぐらいは本部の担当者の目に留まることを信じて・・・

そんなある日、秋田県湯沢市の電気屋さんから
店頭のイベントに参加して欲しいと要望が来た。
私は新発売の出力10wのカラオケのデモ機を持参した。
店の前には松下電器(現パナソニック)の10wカラオケも展示してある。
何となく「音質とパワーを比べてみよう」という話になった。
私は「音響専門メーカーの製品が負けるわけが無い」と自信たっぷりだったのだ。

結果は惨敗。パワーも出ないし音質も悪い。
おまけにデザインまで悪ければいいとこ無しである。
私は少なからずショックを受け、その事を蟻カードに託した。

数ヵ月後に同期の結婚式が大阪であった。
寝台列車で大阪に戻って久々に会う同期たちと話をした。
何となく蟻カードの話になり私は毎日1枚書いていることをやや自慢げに話した。
すると経営企画室の同期が「あんなん見もせんとゴミ箱行きやで」と言ったのだ。
おまけに「全国で書いているのは君だけや」とも言われた。

私は大変驚き悲しんだ。

秋田というか日本海側の冬は暗い。
11月から3月までは太陽はほとんど顔を出さない。
景色はモノトーンで白と黒と灰色だけの街である。
雪の暮らしには慣れてはいたが太陽の無い暮らしには慣れなかった。

女房は元社員(青森出張所)なので無報酬で秋田駐在所で手伝ってくれる。
けっこう大変で、それが原因なのか過労で第一子を流産してしまった。
真冬の秋田市民病院へ毎日仕事帰りに見舞いに行く時の侘しさと無力感。
親戚も無く剣道以外での付き合いもほとんど無かった。孤独だった。
夫婦そろって使い捨ての駒になったような気分だった。
仕事に対しての情熱はその時から急激に冷めていったのだ。

会社に対しての失望に加え、太陽が顔を出さない毎日と、
女房の入院で、私は若干の鬱状態になっていたのかも知れない。

女房が退院し、それからしばらくして会社に辞表を提出した。
もっとやりがいのある仕事をしたかった。将来に光が欲しかった。
引き止められもしたし辞めて何のあても無かったが迷いはしなかった。
まだ20代。秋田で一人で何でもやってきたのだもの・・という思いだ。

それから千葉に引越し、早稲田大学でシステム工学を1年間勉強し直し、
そしてホワード株式会社東京本社に入社し10年、その後大阪勤務になった。
大阪で10数年、散々な目にあってホワードを辞め、独立して今に至っている。

蟻カードで希望に燃え蟻カードで打ち砕かれた。
蟻カードが無ければそのまま東亜特殊電機に居たのだろうか。
まあそんなことは無いとは思うが工房の片付けで昔を思い出した。

1000キロ離れた東亜特殊電機の本部に向けて、ひたすら信じ、
読まれもせぬ蟻カードをせっせせっせと書き続けた頃が妙に懐かしい。
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東亜特殊電機(現 TOA)で死ぬか思った経験

2019年09月23日 | つれづれ

(勤務時代のTOAの輸送箱、工房の片付け時に出てきた)

昭和53年から昭和59年まで東亜特殊電機株式会社(現在はTOA)に勤めた。
日本大学の生産工学部電気工学科を卒業し、初めて就職した会社で、
秋田県の担当となり、失敗を繰り返して仕事のノウハウを覚えていった。
営業職だったが、機器の修理、弱電設備の設計と製図、現場での工事など、
何でもこなした(こなさなくてはならなかった)人生の基盤とも言うべき会社である。

個人的にも、岩手県盛岡市で剣道を再開し、社内結婚もしたので、
僅か6年間の勤務だったが、いまの私の人生はここで培ったと言って良い。

東亜特殊電機株式会社は音響機器、平たく言えば拡声器の製造メーカーで、
選挙用のスピーカーから、学校やビルの放送設備、カラオケ、ホール音響、
議会用の議場アンプ、マイクなど幅広い製品を作って販売していた。

入社した時の社長は、中谷太郎という2代目創業者で、
新入社員の研修の場で一度だけ直接お話を伺ったことがある。
中谷社長はいきなり「皆さん、うちは何を売っている会社ですか?」と聞いた。
我々新入社員は突然の社長の問いに戸惑いつつも、
「スピーカーとアンプです」などと答える者もいた。

中谷社長はうんうんと頷き、一呼吸おいたあと、
「皆さん、私たちの会社は音を売る会社です」と言われた。
そしてアンプやスピーカーを売るということは良い音をお客様に届けるということ。
良い音をお客様に届けるには良い商品を作り続ける努力も必要だが、
お客様の生の声、ご要望を設計製造するほうに持ち帰ってこなければならない。
研修を終え色々な部署に配属になると思うが、
常に「音を売る」という基本を忘れてはならない・・とそう言われた。

私はひどく感銘を受け、良い会社に入れた喜び、
そして良い仕事をしていくぞと使命感に燃えたのを覚えている。

配属は岩手県の盛岡営業所。
秋田県担当となり毎週盛岡から秋田に出張した。
移動距離は1週間で400キロ~500キロ。高速道路の無い時代である。
やがて移動が大変だと秋田に駐在することになり、たった一人で駐在所勤務になった。
秋田駐在時代は今から考えれば自分自身に至らぬ点も多いのだが、
週休2日なのに休みをほとんど取らなかったり、深夜にカラオケの修理に出向いたり、
弱電の建築設備設計図面を2晩も徹夜して書き上げたりして一生懸命だった。

電気工事会社、電材会社、電気器具卸商社を中心に活動し、
設備設計事務所、秋田県庁から市町村の役場まで活動範囲は広かった。
卸商社と同行して町の電気屋さんなどキャンペーンで回ったことも多い。


(輸送箱と一緒に出てきた黄ばんだ名刺)

今でも「よくあんなことやれたよなあ」と思うのは、
ある小学校の体育館の天井アリーナスピーカーの取り付けである。

秋田県の担当になってしばらくした時に、
新築小学校の工事現場の東北電気工事の監督から電話があった。
「トーアさん、天井スピーカー付いてないけどどうするの?」
現場に駆けつけると出来上がった体育館のアリーナ中央にあるべきスピーカーが無い。
前任者が工事の手配を忘れていて、アリーナスピーカは倉庫に眠っていたのだ。
体育館完成後でも取り付け可能な壁掛け型スピーカーと勘違いしてたのだろうか?


(参考図:体育館の天井中央にあるのがアリーナスピーカー)

今から思えばどうして上司(営業所長)に相談しなかったのだろう。
金さえ出せば工事をしてくれる業者はあったはずなのに。

ともかく自分で解決しなければと考えた。
私はすぐに1升瓶2本を買って包んで工事現場に行き、
工事の総監督に酒を手渡し、鉄骨の足場を一晩貸して欲しいと交渉した。
総監督は「傷でもつけたら承知しないからな」と言ったが何とか了承してくれた。

提携している弱電屋さんは電気工事は不得手で見守るばかり。
その弱電屋さんの友人が電気工事屋だったので私と2人で足場を組んでいった。
天井アリーナまでは何段あるのか忘れたが、体育館の中央天井はかなり高い。
足場は下は広く作り、上に行けば塔のようになる。

高所恐怖症の私は2段目でも足がブルブル震えている。
1段組み立てるごとに足場にしがみついて震えが止まるのを待っていた。
ハシゴは無い。次の段に登るには足場の外側をよじ登るしか無いのだ。

それでも少しは慣れるもので、
やっとの思いで天井まで足場を組んだがそれはまだ序盤でしかない。
次にスピーカーの取り付け金具を2人がかりで時間をかけて上に上げた。
いったん降りて、次に大型の電気ドリルとコードを担いで登っていく。
一人がスピーカー金具を抑え、もう一人が天井の金具に穴を開ける。
火花が顔に降りかかるが防御用のメガネも無い。

何とか金具を取り付け、いったん下まで下りて、
体育館用のコラム形の大型スピーカ4個を分けて上まで上げる。
スピーカーの結線が終わったら最後に上から足場を分解していく。

作業は夜の9時ぐらいから明け方までかかった。
足場を元の置き場まで持っていく時には足がもつれていた。
ズボンもネクタイもワイシャツもドロドロになっていた。
心身ともに疲れ果て、次の日は仕事にならなかったのを覚えている。

私は本当に高いところは駄目で少し高いところだと足がすくむ。
それでも体育館の天井アリーナに向けて足場を組んでいく時は、
使命感で無我夢中で上まで登っていった。

いま思い出しても手に汗を握るほどである。
落ちて死んでもおかしくはなかった。
誰も知らない作業。やり遂げても誰にも褒められないのに。

まだ若い23才か24才だったからこそやれたのだと思う。
あんなことはもう二度とごめんだ。
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往馬玄武会、長正館、宝剣会(2019年9月21日)

2019年09月22日 | 剣道・剣術
午前中は往馬玄武会さんへお邪魔して稽古の後半のみに参加した。
(往馬玄武会は複数の剣友会の有志が集まる稽古会)

私の目的はH名四段の指導。彼は五段挑戦中である。
前回の審査の動画を撮り改善点を指摘して数ヶ月。
さてどのように改善されたか、審査までの留意点は?のためである。


(往馬玄武会は回り稽古中心で基本と地稽古を行う)

地稽古の回り稽古に参加して、回り稽古と終了前にH名さんを指導。
竹刀をやや下段に構えるクセは無くなった。気迫も出てきた。
右手での抑え打ち(相面で打ち負けないように相手の右面側を打つ)
は直っていないが意識すれば真っ直ぐ打てるようになった。
あと礼から3歩進み蹲踞して立ち上がり構えるまでの所作、
打ち抜けてから振り返って構えて一歩出るまでの所作を指導した。
審査は10月6日。ぜひ合格して欲しいものだ。


(往馬玄武会のあとは生駒一振館の稽古が行われる)

夕方は一刀流稽古。
17時からだが鍵を開けるため16時前には到着。
待っていたらT先生(全剣連居合道八段)が来られたので打方の指導をする。
私は仕事で前半のみの参加なので時間前の稽古は貴重である。


(大阪市東住吉区中野中学校での稽古)


(本日はT先生の打方特訓となった)

夜は宝剣会の稽古。
今週も遅れて行ったので切返し+打ち込み+切り返しの連続。
息を入れ直して地稽古。先週よりは涼しく多少マシだが汗だくに変わりは無い。


(行ったら基本稽古も終わりかけで地稽古が始まろうとしていた)


(急いで着替えるが気持ちは焦る)


【感想・反省点】

どうしても相手によって剣風が変わってしまう。
石丸師範には近間での攻防になる。
A山七段には正剣+大きく振りかぶる剣風。
O畑五段にはあの手この手の難剣風。
N村五段とH田六段には正剣での対処が多い。

O畑五段との稽古を見ていたらしく、終了後にA山七段から
「もっと七段教士らしい落ち着いた剣道をするように」と注意される。
そうそう「きょうは打たれても正剣でいくぞ」と思っていたのに。。。
難剣に対しての正剣は大きな課題である。易きに流れていては駄目だ。
相手によっても変わらない自分の剣風を作らねばならない。

本日は剣道形稽古は無し。
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奈良県立生駒高等学校剣道部(昭和48年度卒業)

2019年09月21日 | 剣道・剣術

(1974年の卒業アルバムより)

私は生駒高校の3年間、剣道部に属していた。
当時は森田健作の「俺は男だ」のテレビドラマが人気の時代で、
剣道部に入部する者も多く20名近くの新入部員がいた。
稽古は週に4回だった記憶がある。曜日は憶えていない。


(森田健作主演、1971年から1972年にかけて放映されたテレビドラマ)

全員が未経験で、正門下の崖上の駐車場に並んで町並みを見下ろし、
竹刀を持って構えて「メーン、コテェー、ドォー」と発声したのを覚えている。
(私は小学校時代に少しだけ経験していたがほぼ未経験と言って良い)

胴着袴のまま竹刀を持って往馬神社まで走るのが新入部員の特訓だった。

先輩は3年生に車谷、2年生に水野、吉田、朝町の計4人だった。

「俺は男だ」に憧れて入部しただけの大多数は厳しい稽古に耐え切れず、
次から次へと辞めていき、最終的に残ったのは私を入れて3人だけだった。

思い出-1
1年生の夏休みに「奈良警察に出稽古に行け」と言われ、
何もわからないまま一人で出かけてシゴかれ死にそうになった。
どうやら紹介も何もないままだったようだ。

思い出-2
生駒町が生駒市になり、生駒市民体育祭第一回の剣道の部に出場したが、
出場したのは生駒高校の剣道部だけで、審判も会場係も何も無く、
指定された体育館で、試合のようなものをやった記憶がある。
それでもメダルと賞状が出たが、私は下位で参加賞だけだった。
体育館は、生駒市民体育館だとずっと思っていたが、
生駒市民体育館は昭和51年に開館とあるので違うようだ。
あれは一体どこだったんだろう。

思い出-3
夏季練習の初日に道場に行くと私以外の1年生は誰も来なかった。
2年生の3人だけが居て「なぜ他の者は来ないのだ?」と言われたが、
さあ・・知りません・・とボソボソ答えたらさあ大変。
真夏の道場で3人相手、きっちり10分ずつ30分の休みの無い懸かり稽古をつけられた。
あれほどふらふらになった稽古は今まで経験したことが無い。

思い出-4
「水は飲むな」が普通の時代で、2時間ほどの稽古中に水分補給は出来なかった。
途中で反吐を吐いて倒れる者、泣き出す者もいた。みんな辞めていった。
稽古が終わると水をヤカンに入れるのが新入部員の役目だが、
率先して汲みに行き冷たいウォータークーラの水を飲んだ。
面倒なのでヤカンには普通の水道水で水増しして戻った。

思い出-5
2年生になって1年生が10人ほど入ってきた。
さあて、しごいてやろうと思っていたら、
小学校から剣道をやっていた者がいて私の腕ではとうてい適わない。
先輩風を吹かしたいのにとうとう最後まで出来なかった。

思い出-6
中学校は柔道部だったので、隣の柔道部に剣道着のままで稽古に参加したことがある。
高校は締め技があるので私は簡単に負けてしまったが楽しかった。

思い出-7
顧問の吉田先生は剣道四段で、教えるというより憂さ晴らしに来るような感じだった。
懸かっていくと「そんなんあっか!」の繰り返しでボカボカ打たれ足を叩かれた。
何の指導も無かった。「いつか仕返ししてやろう」と密かに思っていた。
吉田先生は今も剣道を続けているのだろうか?
一度お手合わせ願いたいものだ。

 ※「そんなんあっか」=「それでは駄目ですよ」

思い出-8
同級生3人(杉本、山本、粕井)のうち、杉本が部長になり二段を取った。
当時の高校生では二段が最高で、私と山本は初段。
部長の杉本はスポーツ万能で剣道も滅法強かった。
「大阪の清風高校に奈良出身の松田というすごい強い一年生がいるらしい」
と3年生の春に部長の杉本から聞いたが、それが今の松田勇人範士八段である。

思い出-9
夏、休憩時間中に胴着と袴を脱ぎ捨て隣の水泳部のプールに飛び込んだ。
涼むつもりで50メートルを泳いで稽古に戻ったが疲れ果てて稽古にならない。
水泳はたいへん疲れるものだとわかった。

思い出-10
2年生の時に袴を忘れて道場に掛かっていた朝町先輩の袴を借りた。
臭いし、かなり汚れていて気持ち悪かったが我慢して着用した。
あとでお礼にいくと「あの袴、洗ったことが無いねん」と言われた。
それから数年間、ひどいインキンに苦しめられた。
人の袴など、洗濯したてで無い限り借りるものでは無い。

思い出-11
ともかく小遣いが少なく竹刀の破損が何より困った。
部員全員が同じで、割れた竹刀を削って、ビニールテープなど巻いた。
今では考えられないような修理方法だが当時はそれが普通だと思っていた。

思い出-12
地稽古を待つ間、立つことは許されず蹲踞姿勢で待つのが恒例だった。
疲れて踵を下ろし便所座りなどしようものなら竹刀が飛んできた。
自分の番が来て立てるのが嬉しかった。蹲踞姿勢はキツイ。


以上、こんなものかな?

-------------

恐ろしかった水野泰嗣先輩は、
奈良西少年剣道クラブ(奈良西警察署)で指導されている。

総じて3年間、稽古には不熱心だったと思う。
生徒会や勉強だと、何だかんだと言い訳をして休んでいた。

もっと熱心に稽古してたらあとの剣道人生は大きく変わったのだろう。
剣道を辞めなかったのは他のスポーツが出来ないから。
ただ、大学では剣道部に入らなかった。
大学は部活に入ると4年間で卒業は出来ないとの噂を聞いたから。
それに大学の稽古についていける自信が無かったから。

社会人になって剣道を再開し、だらだらと今に至っている次第。

2016年12月15日に関連記事あり
曽祖父・粕井秋五郎(かすいあきごろう)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20161215/

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【2019年11月15日追記】

2年上の車谷健三先輩が亡くなっていた。
奥様からの喪中はがきが届いて知ったのだ。
車谷先輩は、格好良くて強くて我々1年生からしたら神様のような人だった。

卒業後も剣道は続けられ、洞川剣道クラブ五心会の代表をされていた。
洞川温泉の名水「ごろごろ水」の製造販売もされていた。

2016年10月に洞川温泉に旅行に行った時、
偶然、車谷先輩にお会いしてお話出来たことも懐かしい。

洞川温泉(2016年10月1日)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20161001/

車谷先輩はまだ65才か66才。亡くなるにはあまりに早過ぎる。
事故かご病気だったのかはわからないが、本当に残念で悲しい。
先輩、心よりご冥福をお祈りいたします。

----------------------

【2020年5月11日追記】 関連記事書きました。

生駒高校剣道部(昭和45年、奈良中央武道場前の写真)2020年5月11日
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20200511/
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木曜会定例稽古(2019年9月19日)

2019年09月20日 | 木曜会(誠先生の剣道教室)


四條畷市立四條畷西中学校の体育館。
20時過ぎから21時25分まで。今年31回目。参加人数20名ほど。
かなり涼しくなった。


(稽古はK山七段の号令による素振りから始まった)

本日は素振りのあとは座学中心。
最後は2人1組で礼法作法の稽古。

以下、気のついたところのみ記す。
(難剣への小手打ちのテクニックについては略す)

普段の稽古内容が本番で発揮出来ないことが多い。
正しい剣道のすべての大本は「構え」にある。

配力と重心とは違う。
重心は真ん中でも力の配分は左足が7で右足が3である。
打とうとする瞬間には重心はやや前になるが配力は左足が8で右足が2になる。

剣道は打った打たれたという結果を求めるスポーツでは無い。
剣道は経過技術を高め、その結果として有効打突を求めるものである。
構え、体捌き、竹刀の操作などの「技前」の部分を修練し、
その結果として相手の心を動かし有効打突に結びつけることが大切である。
経過技術がどうであれ相手の打突部位に当てりゃ良いというものでは無い。
昇段審査で「あんだけ当たったのに受からない」というのは、
まず構えが出来ていないし、当てに行く技術に長けているだけなのである。

審査をしていて、礼をして蹲踞して立ち上がって構えた瞬間に
「ああこれは駄目だな」と思うことは良くあることだ。

気を外して相手の崩れをフェイントで誘って打つ技術はあるが、
相手の正中線を取り合って攻め、機の動くところを打つ技術とは雲泥の差がある。
打たれて釈然としない打ちと「良いところを頂きました」という打ちは違う。

左足を軸とした三角矩の構え、体軸のブレない構えからの攻め入り。
生死の間合いで、それを自分からの能動的な攻めで乗り越えて打つ。
それがスイッチだが、スイッチの入れ方も間合と状況によって変わる。
相手の目を見ながら全体を観察し、いつでも打てる構えになっておく必要がある。
重心真ん中、配分が左足7右足3はいつでも動ける構え。(触刃まで)
重心やや前、配分が左足8右足2はいつでも打てる構え。(交刃から先)

打つべき機会の機は相手の心と身体と技が変化しようとする兆し。



左足は相手に対して真っ直ぐ。足幅一つ分空けて右足。左足爪先の位置に右足踵。
左足が横を向いているとどうしても右手に力の入った構えになってしまう。
一足一刀の間合いで左手親指の付け根が臍の前、剣先の向きは相手の左目の目頭。
結果、柄頭は木曜会の「会」の位置になる。
無理やり中心を取ろうとすると相手は守りに入ってしまう。



初太刀の返し胴はあまり評価されない。
中心を取るのには左手を使う。


(寸田と丹田を結ぶ線は垂直に)


(寸田と丹田を結ぶ線が前に傾いてはいけない)

竹刀はアンテナである。竹刀で相手を感じ取る。
感じ取るから後の先が可能になる。
感じ取るのは左手。(握り締めているわけでは無い)(小指は半掛け)

文字で勉強することも大事。
知っていることで位(くらい)も高まる。

左足の向き、左手の位置が構えの基本中の基本。
ここが出来ていないままで剣道の組み立ては出来ない。

礼法作法は普段の稽古で心がけること。
立ち間(遠間触刃の間)をしっかり意識すること。


(終了後も個人指導は続く)


【感想・反省点】

座学のみだが非常に勉強になった。
ここに来ると迷いが吹っ飛ぶのである。
反省点はいくつかある。自分の課題は難しいがはっきりした。

K山七段に聞かれたので下に記す。

【狐疑心(こぎしん)】
狐は疑い深く、猟師から逃げる時に途中で立ち止まり後ろを振り向く習性がある。
「本当に猟師が追ってきてるのかな?」と疑ってしまうのだが、
迷わず一目散に逃げれば助かるのに、立ち止ってしまって撃たれてしまうのだと言う。
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長正館定例剣道稽古(矢田中学校、2019年9月18日)

2019年09月19日 | 剣道・剣術
大阪市東住吉区の矢田中学校の体育館で毎週水曜日19時半から。
----------------------------------------


【長正館練習生募集中】
初心者、元経験者、有段者を問わず募集中。
レベルに応じて個別指導を行います。
詳しくは長正館ホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
----------------------------------------

本日は平野剣道協会さんとの合同稽古である。
角谷先生以下6名が参加された。合計16名。


(準備運動と素振り)


(基本稽古)


(井上館長はA君弟の指導)
















【感想・反省点】

ようやく涼しくなってきた。
参加人数が多いのは良いことだ。
平野の子供達にもいくつか良いところを打たれた。
稽古するたびに強くなっていくのがわかる。
打って反省、打たれて感謝。
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指先に庭の木のトゲが刺さった(2019年9月17日)

2019年09月18日 | つれづれ
庭の草が生い茂り庭木の枝も伸びてきたので、
女房と二人で庭の手入れをしたのは暑い盛りの9月1日だった。

軍手をすれば良かったのだが面倒だったので軍手はしなかった。
素手でつる草や小さな枝など引き抜いていたら左手の指先に痛み。
枝のトゲが刺さって小さく血が出ていた。

トゲは引き抜いて血を絞り出しておく。
あとは水で洗ってカットバンをしておいた。

ところが数日たっても痛みは治まらない。
「ああ、トゲが残ってたんだな・・・」
虫眼鏡を使って針でちくちく刺したが埋没していてよくわからない。
カッターナイフを取り出して少し探ったが痛くて止めた。

「そのうち膿んで出てくるだろう」と長年の経験で判断して放置した。
普通は黄色く膿んで、1週間もたてば膿みと一緒にトゲは出てくる。

そう思いながらすでに3週間が経ってしまった。
痛みは軽くなったが指先に違和感が残る。
気持ちのよいものでは無い。

で、職場近くの毎月一回通院している広谷整形外科へ行った。

高尿酸値と高血圧の薬をもらうためだがついでに聞いてみた。
「先生、小さなトゲが刺さったままなんですが大丈夫ですかね?」

先生は指先を見て「ちょっと切ってトゲ探って取りましょか?」

瞬間、冷や汗がどっと流れ始めた。
武道をやっているくせに私はすこぶる弱虫だ。
切腹など絶対に出来ないタイプだ。
死ぬなら突撃して一息に討ち死にするほうが良い。

結局、支障が無ければ、そのままにしても特に問題は無いらしい。

トゲはそのまま皮膚の中に残るか、
いずれトゲの周りが固くなるかも知れない。
そうなれば探りやすいのでその時に判断しましょう
・・・ということである。

放っておけば、何か毒素が回るのでは無いか?
破傷風菌か何かで死んでしまうのでは無いか?
トゲが深く入って、全身を回って心臓などの臓器に刺さらないのか?

いずれも「そんなことはありません」と大笑いされてしまった。

とりあえず一安心。


(刺さった部分が僅かに色が変わっているが写真ではよくわからない)

ふと、小学校(奈良女子大学文学部附属小学校)の、
担任の倉富先生に書いた詩を褒められたのを思い出した。
倉富先生に褒められたのは後にも先にもこれ一件なのでよく覚えている。

“小さな怪我だけど、嫌だなあ”

短いが、無駄が無くてとても良いとのこと。
私もクラスの皆も「????」だったと記憶している。
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大規模停電に思う(2019年9月9日の台風15号)

2019年09月17日 | 詐欺、迷惑、防犯、防災、危機管理


wikipediaから
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A4%E5%92%8C%E5%85%83%E5%B9%B4%E5%8F%B0%E9%A2%A8%E7%AC%AC15%E5%8F%B7

気象庁の予報では、台風は小笠原近海を北西に進みながら徐々に発達し、8日21時には神津島付近で中心気圧955hPa・最大風速45m/sの「非常に強い」勢力であると判定された。この勢力を保ったまま台風は三浦半島に接近、9日3時前に三浦半島を通過した。台風の中心は東京湾に抜けて北東に進み、9日5時前には千葉県千葉市付近に上陸した。台風が「非常に強い」勢力(JTWCの1分間平均風速ではカテゴリー3相当)を保ったまま関東の至近距離まで接近するのは非常に珍しく、千葉市付近に上陸するときの勢力は中心気圧960hPa・最大風速40m/sの「強い」勢力であったが、関東上陸時の勢力では過去最強クラスとなる。その後、茨城県水戸市付近で海上に出た台風は、福島県や宮城県を暴風・強風域に巻き込みながら東進した。

以下は国土交通省が発表した資料より引用する。

1時間降水量

109.0 mm: 天城山(静岡県、9日0時31分まで)
89.5 mm: 大島(東京都、8日23時38分まで)
76.0 mm: 三崎(高知県、7日9時39分まで)
73.5 mm: 笠利(鹿児島県、7日5時47分まで)
72.0 mm: 江戸川臨海(東京都、9日4時29分まで)
72.0 mm: 横浜(神奈川県、9日3時50分まで)
70.0 mm: 鋸南(千葉県、9日3時47分まで)

(70mm以上)
24時間降水量

441.0 mm: 天城山(静岡県、9日8時20分まで)
308.5 mm: 湯ヶ島(静岡県、9日8時40分まで)
307.5 mm: 大島(東京都、9日10時00分まで)
251.5 mm: 箱根(神奈川県、9日10時20分まで)

(250mm以上)
最大瞬間風速

58.1 m/s(209.2 km/h): 神津島(東京都、8日21時03分)
57.5 m/s(207.0 km/h): 千葉(千葉県、9日4時28分)
52.0 m/s(187.2 km/h): 新島(東京都、8日23時38分)
49.0 m/s(176.4 km/h): 木更津(千葉県、9日2時48分)
48.8 m/s(175.7 km/h): 館山(千葉県、9日2時31分)
48.4 m/s(174.2 km/h): 三宅坪田(東京都、8日22時12分)
48.3 m/s(173.9 km/h): 稲取(静岡県、8日23時17分)
47.1 m/s(169.6 km/h): 大島(東京都、9日1時11分)
45.8 m/s(164.9 km/h): 成田(千葉県、9日5時36分)

(45m/s以上)

---------------------

もう1週間も過ぎたのに、いまだに多くの地域で停電している。
想定外の災害であったのは事実だが、少し辛口の批評をさせていただく。

私の体験だが、
昭和36年の第2室戸台風で実家(奈良市登美ヶ丘)が風でほぼ全壊し、
まかり間違えば命を失っていた経験がある。

いや死んでいても不思議では無かった。
驚くほど風が強く、強風に煽られ内側にしなる窓ガラスを押さえていたのだ。
突然「バーン!」という音とともに窓も壁も屋根も飛ばされていったのだ。
6歳の私は突然現れた空を見上げて呆然として立ちすくんでいた。


(昭和36年9月16日、実家の屋根のほとんどが吹き飛ばされた)

その時の記憶を書いた記事。(2007年9月6日)
https://blog.goo.ne.jp/kendokun/d/20070906/

その時の恐怖と体験は私の人生のトラウマになっている。
20数年前に自宅を新築した時に、全窓にシャッターを取り付けたが、
住宅会社の担当者に「そんな事する人いませんよ」と言われたほどだ。

今回の台風15号による大規模停電での危機管理の欠如は少なからずある。
風の強さを予測してたのなら、なぜ電信柱が折れることを想定していなかったのか?
電柱ごとの風に対する耐久力などデータとして無かったのか?
気象庁も電力会社も「過去に無いほどの強い台風です」とは言うが、
具体的な被害予測も、それに対する備えも不充分であったことは否めない。
危ない危ないは誰でも言える。どの程度危ないのかわからなければ対策のしようも無い。

個人レベルの話をする。
庶民の暮らしの基盤はインフラが無くなれば脆いものだ。
しかし、水が無くても電気が来なくても、それが当たり前だった時代もあった。

我が家では、普段から災害時の備えはしている。
米と飲み水の備蓄は一週間以上はある。
毎晩、風呂の水は抜かないで溜めておく。(台風の前には水を入れておく)
車のガソリンは常に半分以上入れておく(台風の前には満タンにしておく)
車の中にはACインバーター(100v100Wの小さなもの)を積んである。

キャンプ用のコンロ、カセットガスコンロなどは複数ある。
明かりも灯油ランタンもガソリンランタンも複数ある。
灯油、ホワイトガソリン、炭、ローソク、電池は充分ある。
非常用の灯油ストーブ、懐中電灯やラジオもある。

こうしておけば、長期間停電になっても、冷蔵庫の中のものを燻製にし、
必要なだけ米を炊いて何とか耐え忍ぶことが出来るはずだ。
飲み水が切れたら、石ころや炭で簡易浄水器を作れば良い。
川の水でも池の水でも、浄水器を通して沸騰すれば飲み水になる。

何でもかんでも便利になって最低限の智慧を失っては駄目だと思う。
ナイフで鉛筆を削れない(ナイフの使い方を知らない)、マッチを擦ったことが無い、
焚火をした事が無い、普通の鍋でご飯が炊けないなどは、イザという時はまったく間に合わない。
危機管理から言っても、何でも自動化された生活に慣れるとあまりに脆い。

最低限の安全は自分で心がけて守ること。
人や行政のせいにするばかりではいけない。
前にも書いたが「健全な危機感」は防災面でも大事だと思うのだ。
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長正館、月例稽古(2019年9月15日)

2019年09月16日 | 剣道・剣術
長正館の月2回の日曜稽古。
前半(17時~)は一刀流、後半(18時半~)は剣道稽古。
通称「月例稽古」は東住吉区湯里小学校の体育館。
剣道稽古は、どなたでも自由に無料で参加出来ます。
詳しくはホームページまで。
http://doujyou.net/choseikan/
----------------------------------------


(早めに着き、まだ門が開いていないので定番の暇つぶしショット)

---小野派一刀流稽古---
17時~18時。本日は刃引の指導。
特に摺り込み部分を重点的に行う。
刃引きの摺り込みは小さな切落しとも言える技術で地味だが重要な技である。
Hちゃんは別枠で井上館長と剣道形の特訓。合計11名。

途中、合間合間に、正しい正眼の構え、三角矩、鍔の守り、陰(八相系)や脇構えの利点、
前脇構えの理合、摺り足を基本とする腰から移動する歩み足(道場と屋外の足使いの違い)、
さらに、「一つ勝」と「乗り身の一つ勝」の理合の違いの話などした。

一刀流(一刀流に限らずだが)は形をなぞるだけでは無い。
同じ形でも状況によって技法は目まぐるしく変化することに留意したい。


(私とFさんが打方で指導した)


(Hちゃんは井上館長に剣道形の指導を受ける)


(剣道稽古までの休憩時間に剣道形稽古)

---剣道稽古---
準備運動と素振りのあとは自由稽古。
暑いので、ちょっと早めに始めて早めに終わることにした。
18時25分~19時45分。参加人数13名。


(準備運動と素振りは稽古の定番)


(F本六段とS口二段)


(K藤六段に掛かるM三段、少し斜になるクセが出る)


(K芦五段に掛かるH初段)


(K藤五段に掛かるS口二段)


(N村六段に掛かるK芦五段)


(N村六段とK藤六段)


(稽古終了~、面取れ~)(S村さんは足が悪いので膝を崩している)


(指導の六段4名、奥の私服は一刀流のM上さん)


【感想・反省点】

稽古不足の上に昨夜の疲れ、そして前半の一刀流の疲れ。
おまけにペットボトルの水を忘れ脱水症状で疲れ倍増だった。

なんだかんだと理由をつけても基礎体力は絶対である。
わかっていても対処出来ないのは未熟なせいもあるが疲れのせいでもある。
最低でも一週間に一度は本気の稽古をしないと自分的には不調になってしまうようだ。

しかし、この長正館月例稽古。
だんだん参加者も増えて盛り上がってきたのが嬉しい。
このブログを見た人は段位に関わらず気軽に参加して欲しい。
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