稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

初孫誕生

2024年06月30日 | つれづれ
さかのぼって書きます。

6月5日に初孫が生まれました。
三男の星矢とこです。
370gの男の子、陽向(ひなた)くんです。

仕事が忙しい時期でもあり、
厳島神社、伊勢神宮の演武があったりと、
なかなか見に行く時間も無く、ブログにも書けずにおりました。

6月5日、八尾市民病院で誕生。





6月14日、初めて見に行きました。(遅すぎるやろって皆に言われました・・)



6月30日、女房と次男が行ってくれました。
(私は西日本古武道大会で行けませんでした)





星矢の生まれた時の写真を持っていって並べて撮影。







ともかく丈夫で健康に育って欲しい。
出来れば剣道もして欲しい。
八尾の剣友会に知り合いは居たっけ?
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最近のあれこれ(まとめ)

2024年05月23日 | つれづれ
稽古の記事ばかり続くので、ちょっとまとめて他の事も書いておきます。

2月
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ホワードのいつもの仲間と心斎橋で飲み会。
ホワードを辞めて、ホワードが無くなってもう随分経つのに話は尽きない。
一人がコロナで欠席。脅威は去ったがコロナに罹る人は増えてきたように思う、



帰りは心斎橋から難波まで歩く。
しばらく見ないうちに街並みが変わってしまった。
道頓堀橋から道頓堀を写す。

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長正館のMちゃんの甲手。
気が付いたら破けまくりなので急いで修理に持っていった。
防具や竹刀などの破損は怪我する大きな原因になる。
子供任せにしていては駄目だと改めて反省した。

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仕事も兼ねて姫路まで。
姫路城の中は混雑していてイマイチだったが外から見る姫路城は良い。

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足を伸ばして万博公園まで。
ここは昭和45年、15才の大阪万博で来た時以来だ。



せっかくなので太陽の塔の内部まで入った。待ってた甲斐あり。

3月
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卒業時期はカンバッチやキーホルダーの注文が多い。
だいたいは出荷作業が終わった夕方から作業が始まり深夜までかかる。
根気のいる仕事だが結構好きかも。

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長兄夫婦を自宅に呼んで飲み会。
兄貴と飲むと酒が進み、延々と長時間飲み続けてしまった。

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名古屋の木刀収集家から2年半前に預かった木刀の曲がり補正。
この木刀、太くて曲がりも大きくて見た瞬間「難物やなあ~!」って思ったのだ。
こういう木刀の曲がり補正は大変なのでお断りしたのだが断り切れなかった分である。

太くてクセが強くてマジで修正が大変だった。
直しても直しても違う部分が歪んだり逆反りしたりするのだ。

結局2年半もかかってしまった。
満足していただいたが割に合わない仕事である。

4月
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大阪城の夜桜を見に行った。
ついでに修道館の剣道稽古もしばらく見学した。
夜桜は見事だが、やはり桜は青空のもとで見るほうが良い。



しだれ桜の前で。



大阪城内にある「ミライザ大阪城」の一階で。



けっきょく数日後、近所の佐保川の桜を見に行った。

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以前から食事に行こうと言ってた大野先生と牡蠣を堪能する。
せっかくなので着物を着て行った。ずっと二人で剣道の話をしていた。
大野先生は大阪の剣道の生き字引のような先生である。
一緒に一刀流の稽古が出来るのが嬉しい。



大野先生って、写真では笑わないんだよね。w

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事務所の近くはれんげ畑が多い。
4月のほんの数週間だが楽しませてくれる。
小さな頃、もう60年も前だがどこにでもれんげ畑があったものだ。
れんげ草は一番好きな春の花の一つである。

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八尾に住む三男夫婦がやってきた。
次男も彼女を呼んで自宅で食事会である。
みんな健康で元気なのが何より嬉しい。酒が進む。

5月
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急に思い立って薬師寺に来てみた。
確か、中学か高校時代に、高田好胤の本を読んで来た時以来だ。
あの頃は、何~~~~んも無かった。ので驚いた。立派になってた。

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般若心経のキーホルダーは前から販売しているが、
神社好きの一刀流の加藤氏に薦められて作ったのが天津祝詞のキーホルダー。
般若心経キーホルダーの裏面は般若心経、天津祝詞キーホルダーの裏には天津祝詞キの全文が印刷されている。
600円で販売中。送料は190円。いちおう然るべき神社でお祓い済み。最近、売れ始めているので嬉しい。
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MAKOMの「年賀状の部屋」

2024年02月29日 | つれづれ
紹介したことがあったか無いか忘れた。
個人的なホームページは、「MAKOMの部屋」として開設して、もう30年近くにもなる。

MAKOMの部屋
http://makom.my.coocan.jp/makom/

まあ、雑多な内容を脈絡も無く記録しているサイトだが、
少し内面的なサイト「MAKOMの隠れ家」というサイトもあり、
無料サイトの閉鎖を機会に、今は、MAKOMの部屋に間借りし、トップページからもリンクしている。

MAKOMの隠れ家
http://makom.my.coocan.jp/makom/kakurega/

ここには「年賀状の部屋」があり、1999年から毎年の事を記入している。
いわば日記で無く年記である。本音ばかりが書いてある。

今年は少し弱気な書き込みになった。
下に紹介する。



ご心配をおかけした蜂窩織炎(ほうかしきえん)も一年以上が過ぎ、
実は完治はまだですが一刀流剣術をメインに剣道稽古も復帰しつつあります。
年相応に仕事も遊びも武道も、無理せず健康に過ごしたいと考えております。
今年も、皆さまにとって良い年でありますよう願っております。

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コロナの影響からかと思われるが、とんぼ堂の売り上げも年々ジワジワと下がってきた。
もう昔のように、何でもしてやろう、何か面白いものを見つけて売り上げに結びつけてやろう
・・という気持ちも無くなった。

ホワード時代から付き合いのあった仕入れ先でも、
事業を縮小したところや廃業したところが増えてきた。

とんぼ堂として、もう20年以上も活動してきたなあ、
そろそろ廃業も視野に入れないといけないのだろうなあ・・・

・・というのが最近の心境である。

蜂窩織炎以降、何より健康を意識するようになってしまったのだ。

もう若い頃のように無理は出来ない。剣風もおとなしくなってきたな。
酒の量も減った。車の運転も慎重になった。もうそろそろ大人しくすべき時かも。。
そんな事を思いながら年明けを迎えたのだ。

今年(2024年)いっぱいで東大阪の事務所も閉鎖しようかとも考えている。

思い出の物品も全部処分するつもりだ。
まだ身体が動く間に計画的に行動を始めなくては間に合わないだろう。

さあてどうするかな。

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以上である。

「お年の割には元気ですね」
とはよく言われるが、お年はお年である。もうジジイだ。

いつ、ひょんな事から病気になったり怪我をしたりで寝たきりになるかはわからない。
そうなってからでは遅いのだ。元気なうちにどうするか考え、着実に行動しようと思う。
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能登の軍艦島(見附島)の崩落

2024年01月16日 | つれづれ


石川県能登地方の景勝地として知られ、その形から「軍艦島」とも呼ばれる
見附島(同県珠洲市)の一部が能登半島地震の影響で大きく崩落した。
2022年の最大震度6弱、23年の最大震度6強の地震でも一部が崩壊したが、さらに拡大。
地元住民は衝撃を受けていた。
見附島は珠洲市の海岸近くにある小島で、最高所の標高は30メートル近くになる奇岩。
今回の地震後、船首と船尾に当たる部分が崩落し、土砂が周辺に積み重なった。
見附島を見に来ていた同市の小木勇希さん(42)は「子どものころから見慣れた景色が別物になってしまった。
これまでの地震でも崩れていたが、今回の被害は比べものにならない」と話した。

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軍艦島を始めて知ったのは高校2年の終わりの昭和48年(1973年)3月だった。

前の年の修学旅行の仲間7人のうち5人と、1年後輩の1人、計6人で、
奈良から能登半島に向けて旅行しようということになった。
片道約500キロ。

3人は50ccのバイク2台+自転車、あとの3人は電車。

満足な地図も、携帯電話も無い時代。
確か時刻表と、授業で使ってた日本地図帖が頼りだった。
2組(自転車は同じ道だが早めに出発したので実質3組)が、
行き違いをする事も無く、途中で落ち合い、旅を続けられたなあ、と今から思えば不思議でもある。

金など無いのでバイクにテントを2つ積んで走った。
3月の北陸がどんな天候なのかも調べず今から思えば無謀すぎる旅だった。
もう半世紀以上も前のことである。

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(金沢駅前にて、商業車の原付、ヤマハFB50)


(金沢城前で、左は吉澤君)


(東尋坊で、自転車の塩浜君と吉澤君)

雪混じりの雨が降る過酷な旅だった。
防寒具など無く、セーターの上に薄いウィンドブレーカーを2枚重ね着していただけ。
ともかく寒くて寒くてずっと震えてた。下着も手袋もぐっしょり濡れた。
驚くべきことに、私は雨具さえ持ってなかったのだ。
2枚重ねのウィンドブレーカーは無力過ぎた。

今なら絶対にやらない。


(威風堂々たる軍艦島)

この時に出会った軍艦島は高校生の私にとって衝撃的だった。
いかにも日露戦争当時の戦艦を思わせるその景観は軍艦好きの私の心を揺さぶった。
当時は観光化もされず、簡単な案内板があった程度だと記憶している。
威風堂々たる軍艦島。

軍艦島の正式名称が見附島だと知ったのはずいぶん後のことだ。

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宿泊はテント、金沢駅泊のあと、能登では珠洲駅前の食堂兼民宿に2泊だか泊めてもらった。
後輩の親戚の経営だったので好意で宿泊費を無料にしてもらったのだ。

禄剛崎の灯台。
大多数はバスで行ったが、私は起きれなかった。
連日ずぶ濡れで走って風邪をひいたんだと思う。
禄剛崎の灯台に行けなかったのがずっとずっと心残りだった。

帰りは金沢駅泊、最終は琵琶湖の湖岸泊。
真っ暗闇の中でテントを張り、そこらの井戸で水を汲んだ。
井戸水は鉄のニオイと味がした。
赤い井戸水。真っ暗だから飲めたと思う。

で、2007年にバイクでリベンジ。

下はその時の軍艦島。
バイクはヤマハSR250.



2007年のバイク旅行は自分のサイトに旅日記として書いた。
http://makom.my.coocan.jp/makom/kakurega/bike/SR250/touring/2007/2007noto.htm

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2009年には夫婦で車で行った。





2007年も2009年も、泊まったのは珠洲市の谷野旅館。
谷野旅館のおかみさんに聞いたら、廃線になって、珠洲はすっかり寂びれてしまったとの事。
多くの食堂や旅館は廃業されたらしい。

今回の地震で思い出の軍艦島が壊滅してしまった。
形あるものはいつか滅びるとわかってはいるが寂しい限りである。
何かしらの支援募金をするつもり。

現在、珠洲の谷野旅館も周辺の民宿も宿泊は出来ない。
復興したら、必ずまた、能登に行こうと思う。
変わり果てた軍艦島もしっかり見て受け止めよう。
ともかく、がんばれ、能登。
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どうでもよい話

2024年01月12日 | つれづれ
その1)側溝

(写真はイメージです)

昨年最後の木曜会、12月21日。
この日も有意義な稽古で終わった。充実した気分だ。
撮影機材など入れた重い防具袋と竹刀と木刀を担ぎ、車まで行ったのだ。
前から回ると狭いので、後ろから回り込んだ。
学校の照明は消え、真っ暗な中で、側溝の上にある金属板が薄ぼんやり見えている。
まずはその上に右足を乗せ、続く左足を踏み出したのだ。
側溝の上にはフタが続いていると思っていたのだ。
左足は深い側溝に落ち、右足の膝を側溝の角で思いっきりぶつけてしまった。
涙が出るぐらい痛かったが男は我慢と運転して帰ったのだ。

12月27日の長正館の稽古では大丈夫だった。
12月30日の餅つき、31日の大みそか、元旦の自宅で飲み続け、
1月2日の実家で久々に大酒をかっくらってしまった。

それが原因か、膝が妙に腫れぼったく痛んでいる。
3週間も経過したのに、右膝を着くと激痛が走る。歩行に支障は無い。
おそらく膝の皿にヒビでもあるのだろう。
昨夜が初稽古だったがやはり痛い。
痛みが増すようであれば医者に行く予定。


その2)羽毛布団

(写真はイメージです)

昔から軽い布団って好きじゃなかった。重ねて重く使うのが好きなのだ。
でもあまりに寒いので、三男が家を出る時に置いて行った羽毛布団を使ってみた。
生まれて初めての羽毛布団だ。
おお、なんて軽いんだ、なんて暖かいんだ、暑いぐらいだ・・・
と驚いた次第。


その3)迷惑電話


電話番号は公開しているので勧誘の電話は毎日のようにある。
たいていは「興味なし」と言ってガチャ切りすると二度とかかって来ない。

さきほどのは計7回?かかってきた。
「蛍光灯をお使いですか?」
「はい」
「LEDに交換すると政府の補正予算が・・・」
「興味なし」と言ってガチャ切りした。

すぐまたかかってきた。
最初と同じように「補正予算が・・・」と言ってる。
面倒なので、受話器を放り投げておいた。
しばらくして切れたようだ。

数分後にまた掛かってきた。
おお、根性あるなあ・・と、また受話器を放り投げておいた。

それから2回電話があった。
着信拒否ボタンを押したら、違う電話番号でかかってきた。

「電話じゃわからんから営業マン、ここに寄越せ」
「私は何もそのようなことをお伝えしてるわけではありません」
「説明しに来いと言ってるんよ、どうするん?」
と言ったらガチャ切りされた。

5分後にまた別の電話番号からかかってきた。
受話器を取る前に切れた。
根性あるなあ。

ヒマな時期なら、話を聞くだけ聞いて遊んであげるつもり。

最初に名乗ったのは「ESサポートセンター」という会社名。
合計3つの電話を使ってきたが、さらに複数の電話、会社名を使っているらしい。
いずれもLED照明器具の押し売り販売である。注意されたい。

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以前も同じような事があった。
2回目の電話で「いいんですか?契約の件ですよ・・」と言い始めた。
おやまあ、知らない間に、何かしら契約でもしてしまったのかと勘繰った。
「契約うんぬんと言うなら説明を聞きたいから来てくれ」とした。

オペレーターは女性だが、来たのは男性の営業マン。
電話での無礼、話の矛盾を指摘して、さんざん説教したら謝って帰っていった。


その4)浴槽の交換

(写真はイメージです)

家の浴槽がボロボロになってきた。
塗装が浮いてきたのだ。汚れてもいる。
浴槽だけ交換できないか・・と適当に業者を探して見積もってもらった。
すると、TOTO製だが、すでに交換できる同じ大きさの浴槽は無いそうだ。

念のため、別の業者にも見積もりをお願いした。
ユニットバスなので、全交換となると100万円はかかると言う。
再塗装は簡易で費用は20万円ぐらい。でも10年ぐらいの寿命だろう。
金は無いし、今のでも使えないことは無いし・・・

さあてどうするか迷っているところ。
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謹賀新年(2024年1月1日)

2024年01月01日 | つれづれ


ご心配をおかけした蜂窩織炎(ほうかしきえん)も1年以上が過ぎ、
実は完治はまだですが一刀流剣術をメインに剣道稽古も復帰しつつあります。

年相応に仕事も遊びも武道も、無理せず健康に過ごしたいと考えております。
今年も、皆さまにとって良い年でありますよう願っております。






(元旦 自宅前で)

今年もよろしくお願いします。

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久々の餅つき(2023年12月30日)

2023年12月31日 | つれづれ
2019年12月30日にやったきりだから、4年ぶりの餅つきだ。
12月の始めに女房に「餅つきやるの?」と聞かれた。
女房にしたら、家の掃除、片づけから始まり、もち米の準備、食事の準備などで、
前日というか、数日前から大変な作業になるわけだ。

「やる、誰も来なくてもやる!」と即断して押し切った。

我が家の餅つきはお袋の実家(扇田家)の恒例行事だった。
先代の石臼は、お袋か生まれる前からあったらしく、
ということは、大正時代か、もしかしたら明治時代からのものかも知れない。
5~6年前に、誰かが杵で角を叩いて欠けてしまって大往生した。捨てるに捨てられぬ。

ずいぶん前に、扇田の叔父貴(扇田善次)が亡くなって、餅つきしないって聞いたので、
その時に我が家に持ち帰って扇田家の餅つきを継承してるというわけである。
私が元気なうちは続けたいと思う。

皆が撮った写真など並べてみる。




























今年もあとわずか。
来年も幸多い年でありますように。
日本に平和が続きますように。
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夏からの飲み会(まとめ)

2023年11月15日 | つれづれ
8月13日の「粕井貫次・睦子 七回忌法要」以降の飲み会のまとめ。

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8月26日、愛洲移香斎剣祖祭前夜 in三重県南伊勢町


恒例の定宿「海晴」が満室だったので、紹介してもらった「民宿満玉」に泊まった。
リーズナブルで料理も美味く、携帯が繋がらない事を除けば良い宿だった。
写真は夕食。この時はあまり飲まなかったが、食後に部屋で宴会になった。
残念ながら宴会の写真は無い。撮り忘れたのだ。メンバーは下の写真。

(翌日の演武のあとでの集合写真)

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9月22日、紀州ひのき屋、岡田社長と京橋


岡田社長とは剣道との縁で知り合った。
まもなく岡田社長の製造する「ムカデシャット」という商品を「とんぼ堂」で扱うようになった。
ムカデシャットはムカデなどの害虫忌避剤で、他社大手に勝る大変優秀な商品である。
扱いだしてからもう20年以上にもなる。この商品のおかげで何とかやってこれた。
岡田社長は同い年。三重県尾鷲市在住。剣道はむちゃ強い。
京橋で落ち合い、いつもの飲み屋に行ったら廃業していたので近くの別の店へ。
仕事の話、剣道の話など話題が尽きなかった。良い時間を過ごせた。

仕事と剣道はほとんど全部そのままつながっている。
そういう意味で私は剣道のプロかも。


(ムカデシャットの名札)

この名札を見かけたらお声をおかけください。
ムカデシャット屋内用のサンプルお渡しします。

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9月30日、阿波座にて、長正館一刀流暑気払い

(右下の私の写真ははめ込み)

長正館は剣道の飲み会はやらないが何故か一刀流の飲み会は定期的に行っている。
この日はY山氏幹事の飲み会で、飲み放題食べ放題の台湾料理。
顔も忘れていて「あれ誰?」という者も飲み会には参加するのが面白い。
参加者には、とんぼ堂特製のカンバッチをプレゼントした。


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9月31日、女房の同窓会 in鶴橋


二日続けての飲み放題。
この日は女房の青森時代の同級生夫婦が来阪し鶴橋で待ち合わせ。
韓国料理のサムギョプサル の店で飲み放題食べ放題。

ご主人は青森市浅虫出身で女房の小学校・中学校の同級生。
奥さんは隣町の久栗坂出身で女房の中学校・高校の同級生。
共通の学校は今は廃校になった浅虫小学校、浅虫中学校である。
中学校の跡地は浅虫水族館になってしまった。
高校は現存しているが、今では男女同学になってしまった明の星高校だ。

女同士の話は尽きないものだ。
青森の話が多く、私は寡黙がちで、ニコニコと酒を飲んでいた。

下は写真加工のアプリでの加工写真。

加工前


加工後


「ババアが娘さんに変身したなあ」と言ったら叱られた。

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10月21日、大阪剣道同好会 in難波


なんば養正会との合同稽古。
1時間の稽古のあと、裏手の中華料理「大福」にて有志での飲み会。
剣道談義が続く。先輩たちの良い話をたくさん聞けた。

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11月21日~22日、京都旅行


仕事も兼ねての京都旅行。
回ったのは八坂神社、知恩院、琵琶湖疎水インクライン、南禅寺、鞍馬寺、貴船神社、石山寺、三井寺。
こんなに歩いたのは何年ぶりかも。
心配していた蜂窩織炎後遺症の痛みのある足も、ゆっくり歩いたので何とかぎりぎり無事だった。


南禅寺の水路閣にて。

下の写真は水路閣の同じ場所で撮影。なぜか親が回りに居なかった。
元の大きなサイズの写真は良い出来なので、お心当たりの方が居たらご連絡ください。
元のデータ送ります。11月21日13時17分撮影です。
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蜂窩織炎(ほうかしきえん)に罹って一年経ちました。

2023年10月17日 | つれづれ
蜂窩織炎(ほうかしきえん)に罹ったのは昨年の10月13日。
朝から猛烈な痛みで歩くことも出来ない。
最初は痛風の発作だと思った。
右足はふくらはぎから下がパンパンに腫れ、激痛が続くので医者に行った。

血液検査で蜂窩織炎(ほうかしきえん)だと言われた。
入院を勧められたが断り、抗生物質を朝晩打ってしのいだ。
ともかく寝てばかりいた。いや痛みで眠れない。うとうとしては激痛で目が覚める。

右足首から下の皮膚がボロボロと剥がれていくのが奇妙だった。
何か悪い異物を皮膚が吸収して壊死して剥がれ落ちていくような気がした。


(昨年の足・皮膚が剥がれ落ちたあと)

松葉づえを使って生活した。
腫れた足では靴を履けず、はだしで何とか運転して仕事をした。
一ケ月半を過ぎて片手杖に変えた。
それでも数百メートルの歩行は困難で全ての稽古を休んだ。
寝てばかりいた。禁酒。食事の内容に気をつけた。
良かれと思うものは何でも試した。

年が明け、蜂窩織炎はコロナワクチンの後遺症ということを聞き、まさしくそれだと確信した。
コロナワクチンを打つと免疫力が極端に下がり、感染症に罹りやすくなるという。

年が明け、1月いっぱいは片手杖で生活した。
稽古はまだ無理。少しの距離でも歩くのが出来ない。


(本日の足)

稽古は3月から再会。軽く。ほんの軽くから再開。
痛みのある時は迷いなく休んだ。

いまも痛む。基本稽古は極力しない。時間が経つと足首から先が痛んでくるからだ。
シクシク、ビリビリとした痛みである。何か悪いものがまだ潜んでいるのだろう。
打ち込みを続けると痛みが増してくる。待ち剣になるのがイヤだが仕方が無い部分もある。
地稽古も、一人や二人なら何とかなるが、それ以上は受け身になってしまうのだ。

まだまだ悪いが、それでも月単位では良くなって来ているとは思う。
悪化するようなら医者には行こうと思っているが、まあ大丈夫だろう。
稽古量は極端に減ったがまあ仕方が無い。

健康が良い。死ぬまで健康でいたいと切に思う。
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久々に、ホワードの夢を見ました。

2023年09月12日 | つれづれ
駅の改札に居ます。妙に混雑して前に進めません。時間は朝の6時半。
売り出しの初日なので7時15分には出勤しなければなりません。ぎりぎり間に合う時間です。

改札からホームに進みますがなぜか前に進めません。電車が入って来て扉が開きます。
焦ります。無理やり前に進もうとしますが進めません。目の前で扉は閉まってしまいました。遅刻です。

会社の前まで来ました。時間は7時21分です。
遅刻した言い訳をあれこれ考えながら裏口から中に入ります。

なぜかタイムカードが見当たりません。照明も薄暗く、というか真っ暗のような感じです。
困ったなあと思いながら近くの売り場に入ります。暗く、なぜかガランとしています。
空き箱やゴミなど散乱してます。椅子や陳列棚も捨てられたように転がってます。

部屋の隅で、スポットライトが一個だけ、ぼんやり暗く光ってます。
根元のスイッチをひねって消そうとしますが回しても消えません。
スイッチを回しながら「そうか、もうホワードは潰れたんや・・」と気づきました。

夢はここまで。

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ホワード株式会社は大阪の船場(せんば)心斎橋にあった、
暮らしの衣料を中心とした現金前売り問屋の中堅で、同業に大西衣料や丸光がありました。
最盛期は大阪東京を合わせて社員で300名、パートを入れて400名を超える社員が居ました。
私が入社する数年前までは、臨時ボーナスが何回も出たほど景気が良かったらしい。

同業の大西衣料や丸光がある船場からは、ホワードは少し離れた心斎橋の位置にあり、
現金前売りという業態だと少しばかり分が悪い立地だった。
その分、小売り向けの立地であると言える。

ホワードを辞めた(正確には会社都合退職、つまりクビ)になったのは平成19年(2007年)3月31日。
役員も誰も私の前には来ず、人事担当の課長が「辞めてもらえませんか?」と3月31日の19時過ぎ。
「会社都合なら辞めてやっても良い」と返事して、「自分の荷物は後日分けて運ぶ」と退社した。

当時はお元氣ハウスという屋号で楽天にショップを出していたが、
辞めるのを予測していたので事前に閉店しておいた。直属の部下も居なかった。

ホワードの事業を引き継いだ鈴花(佐賀県本社)の社長だか専務は、
「インターネット事業はどうなったんだ?」と、激高したとあとで聞いた。
私の上司である山内という口先だけの無能な役員は、ほぼ5年間も私の前に顔を出さず、
私が何をどのようにしていたのかも知らなかったはずだ。

そんなこんなでお元氣ハウスは名前を変えて「とんぼ堂」となり現在に至る。

ホワードの夢は退職してから10年間は時々見てた。
場所は東京であったり、大阪であったり、場面は売り場だったり会議の場であったり。

最近見ないなあ・・・と思ってたら今朝の夢。

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東亜特殊電機を辞めて、東京に出てきて、一年間、
早稲田大学ビジネススクール(早稲田大学 大学院経営管理研究科)で勉強し、30才で東京ホワードに入社した。
社長(粕井貫次)の息子という事で、腫れ物に触るかのような、でもしかし
「世間知らずのバカ息子らしい」というイメージは皆に持たれていたように思う。

入社してすぐに「現金前売り問屋の業態はもう駄目だ」ということに気づいた。
今はまだ良いが、近い将来、絶対にダメになると確信した。40年近く前の事だ。30才過ぎだ。
メインのお客である地方の小さ波洋品店に将来性は無いと判断したのだ。

あれやこれやと社長(父親)に言うが相手にしてもらえない。
「まずは自分の部門(子供洋品課)の数字を上げてから言え」と散々に叱られた。
ここの数字は上がらない。もともとファッションなど無縁な人間である。
相談する相手も無く、悶々として腐りきった日々を送っていたのだ。

黙って服従して10年間が過ぎた。少しは意見を言えるようになったのは40才過ぎ、
大阪に転勤になって、やっと経営の仲間入りが出来ると思ったのも束の間、
社長(粕井貫次)は株主(兄弟連合)に潰され社長の座を奪われたのだ。


(名刺では部長という肩書だが給料は減らされ続け、主任レベルにまで下げられた)

そうなると息子である私は居場所は無い。
「お前は苦労知らんから一度苦労してみたら?」と伯父の粕井宏に言われて役員からは外された。
「あんたどれだけ48才の俺の人生知っとるねん?」とは思った。それほど伯父とは接触が無かったのだ。

こうなると誰の助けも無い。何をやっても低評価しか無いのである。
人間関係のいやらしさ、持って行きようの無い怒り、悲しみ、無念さ。

朝5時半に起きて7時過ぎは出社した。
まずは店頭の浮浪者を追い払い、会社の回りのゴミを拾い掃き清めた。
そこそこ大きい敷地である。30分間はかかったであろうか。
時には酔っ払いの吐しゃ物や排泄物も処分して洗い流した。

それから屋上で半時間、木刀の素振りと居合刀による抜刀の稽古。
洗面所で汗を流し、それから仕事にかかったのだ。
夜は「剣道ばかりして仕事しよらん」と非難を浴びながら(週3回だけ)19時半に会社を出て難波まで稽古に行く。
21時半には会社に戻って残業した。23時に退社施錠して自宅に戻って夜12時過ぎに寝る。
そんな生活が何年も続いた。まるで修行僧のような生活である。

ある日、休日に、自宅で、時間をかけて愛刀の寝刃を合わせた。
給料が下がり続け手取りで20万を切り、もうどうしようも無くなってしまったのだ。
会社に愛刀を持って行きロッカーに置いた。本気で人を殺す事を考えてた。
結局、家族の事を考えると実行できなかったのだが、あれは50前後の頃かな?
家族が居なかったら今の自分は無かったと正直思うのだ。

剣友に「粕井さん、最近、目つきが変やよ」と言われたのもその頃だ。
立場を利用して、弱い者を追い詰め続けたら駄目である。本当にそう思う。



ネットショップを任され、ゼロから年商1000万まで伸ばした。
「本気で取り組めば大化けしますよ」と提言したが平良守というバカ社長は鼻で笑うのみだ。
そこで方針を変えた。自分のため、いつでも独立できるように変化させた。

いや、腐っていたばかりでは無いのだ。
密かに会社再建の道を模索してた頃でもあった。

当時は土地バブルの真っ最中、でも終わりも見えていた頃。
みずほ銀行を始め、弁護士、不動産屋など、いくつかの協力も得ることが出来たのだ。
そして住友銀行からの多額の負債を、合法的にチャラにする手法も学んだ。

まず不動産鑑定を行った。
鑑定には22万円もかかったが背に腹は代えられない。
ホワードの土地を処分したら、いくらぐらい手元に残るかを査定したのだ。
弁護士には30万円を支払った。これで貯蓄も無くなった。背水の陣。

あとは株主である、伯父、叔父、父親を説得すれば良いだけだ。

ホワードの優良な部門を残し、あとは解散する。
辞めてもらう社員には充分な退職金も配分できるように配慮した。
残ったホワード本体は基本的に不動産業で生き残るのだ。

社員も株主も皆ハッピー。悔しがるのは住友銀行だけとなる。
そういう案を具体的な計画として外部各所と相談しながら作り上げた。

心斎橋筋北商店街、船場心斎橋筋商店街の両方の活動と付き合いの中で、
生き残るには不動産の活用しかないと徐々に思い始めて研究した結果だ。



しかし株主への説得は出来なかった。
みなもう自分の責任逃れしか考えていない。

株券を、何も知らない鈴花に無料譲渡して、代わりに経営責任を逃れようとしたのだ。
鈴花は住友銀行から「大阪で事業の拡大が出来ますよ」と言われて騙された。
住友銀行だけが濡れ手に粟で、まだ相当の資産価値があった心斎橋の土地を手に入れた。

ホワードに入社して10年間の30代は自分自身が腐りきっていた。死のうと思った事もある。
その頃、部下や家族など、回りに迷惑をかけた事も事実だ。今も痛恨の思いである。

次の40代は臥薪嘗胆だ。男の仕事人生で一番輝ける40代を何もしてこなかった。
そして50代は切羽詰まって開き直ったような人生を歩んだ。

経営を引き継いだ鈴花も赤字を出し続け、間もなくホワードは解散した。
ホワードが創業した土地には、今ではダイソー心斎橋店がある。

30才から52才までのホワードでの経験は今でも夢を見るほど尾を引いている。
いちどは楽しいホワードの夢でも見たいものである。

(書きなぐった書き込みなので、あとで加筆訂正する場合があります)
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2023年8月13日、粕井貫次・睦子 七回忌法要

2023年08月14日 | つれづれ
母、粕井睦子は、2017年9月11日に亡くなった。
父、粕井貫次は、2018年4月7日に亡くなった。

二人の七回忌法要を8月15日に行った。
久々に親族一同が集まった。
台風が接近する中、関東方面の面々が心配だったが、幸いにも台風の速度が遅かったのだ。

いつものごとく飲んで食べて喋って笑って。。。

写真の一部をUPする。

1)王竜寺で墓参り









2)実家にて法要





3)新大宮の桃谷樓(とうこくろう) にて食事











カメラマンの私は上の写真には写っていない。
最後の集合写真を大きくUPしておこう。



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ホワードミニ飲み会(大石会)2023年7月13日

2023年07月14日 | つれづれ
コロナのせいで少なくなったが、コロナ以前は年に数回集まっていた飲み会。
今は廃業したホワード株式会社の仲の良かった者の集まりである。
総務や経理、情報システム、広報関連などのスタッフ部門かな?

昨年11月もあったが、私はあの忌々しい蜂窩織炎のせいで参加を諦めた。
松葉づえをついて行こうかとも思ったが数十メートルも歩けなかったのである。
まあ行ってもアルコールは飲めなかったけどね。

前回から参加の従兄の努さんも来てくれた。私より2つ年上。
努さんの親、つまりは伯父の粕井宏は大嫌いなヤツの一人だが努さんは良い人だ。
彼の奥さんがこのブログを見てると言うことなので、今回は写真を全部載せちゃおう。
努さんの奥さん、まだ会ったこと無いけど、よろしくです。(←これ個人的な挨拶です)



まずは刺身の盛り合わせ。
集まったのは心斎橋駅改札北の御堂筋に上がるところにある「かつら亭」。
ここは刺身が美味い。値段もリーズナブルである。お勧め。


(左端が従兄の粕井努さん)



まずは生ビールで乾杯。飲み放題なのでピッチャーで何杯もおかわり。





お気に入りの唐揚げとスルメ天。我々の定番メニュー。
あとは蕎麦の揚げ物とか豆腐サラダとか、厚揚げの何かもあったかな?







ともかく話が弾んで2時間半があっと言う間に過ぎてしまった。
話の内容は公開すると大騒動になりそうな話ばかり。
要約すると、時代の変化に対応できずにいた会社の経営陣+監査役に対する罵詈雑言。
住友銀行に騙された鈴花と鈴花から来た無能な経営陣の話。
知らないエピソードもあったなあ。

何年かぶりかで会ったカッキーも元気そうなので安心した。











考えてみたら一緒に仕事してたのはもう20年近くも前なんだなあ・・・
みんな年をとったけれど、また集まろう。そして楽しく飲もう。

(写真は秋月さん撮影の写真も入れてます)
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最近の出来事・あれこれ

2023年02月22日 | つれづれ
「最近の出来事・あれこれ」は、年末に書いたきりです。
年末からの分をまとめて書いてみます。

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粕井家伝統の12月30日の餅つき(正確にはお袋の実家の扇田家の伝統)も、
1月2日の親戚の集まりも無しで、年末から元旦はの~んびりだらだらと過ごした。


(近鉄奈良駅にて)


(近鉄ビルのエレベーター内にて)

2日には茨城県から長男夫婦が、八尾から三男夫婦が来て、近鉄奈良駅上の百楽荘にて団らん。
足の悪い事、商売も整理している事などを話し、ここに「父親卒業宣言」をしておいた。
あとはそれぞれ自分で考えやってくれ。みなもう良いトシや。

ということで肩の荷が下りた。

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1月3日は長兄一家を呼んで正月祝いをした。
兄貴も3回も結婚して色々あった人生である。ここいらでやっと落ち着くだろう。
春には二人でバイクツーリングに行く約束をした。うん、楽しみである。

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正月なので餅を焼く。
小さな小さな電気コンロで何回もひっくり返して焼く。
最後は醤油を万遍につけてこんがりと焼き上げる。
外はややカリッとして中は柔らかい。
お袋はこの餅の焼き方を「粕井の貧乏餅」と馬鹿にしていた。
お袋の実家の扇田家ではさっさと焼いて柔らかいまま食べるのだ。
私は食べなれた貧乏餅が好きで時間をかけて焼いて食べるのだ。
ゆっくる過ごせる正月だけのマイナーな楽しみである。

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稽古のほうにも書いたが1月14日は枚岡神社に参拝した。
例年は元旦に、家の近所の杵築神社に参るのだが元旦は足の具合が悪く家でだらだらしていた。
長正館のための参拝なので家の初詣はまた別の日に。

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1月の週末は奈良の川上まで仕事を兼ねて一泊旅行。
定宿の杉の湯ホテルは温泉のお湯が出ないとかで急遽手前の小さな旅館に。
ぼたん鍋がとてもおいしく温泉もとても良かった。

ついでに家の初詣。石上(いそのかみ)神社と三輪神社。
帰りは奈良の弥生時代の大集落跡「唐古・鍵遺跡」を見てきた。
時間の余裕があったので、のんびりくつろいだ二日間だった。

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2月から稽古は再開する予定。
とは言っても剣道は無理。打ち込みの足をすると痛みが大きい。
まずは一刀流から。無理は禁物。お酒もほぼ飲んでいない。
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ワクチン接種のせいで免疫力が低下したのか?(蜂窩織炎の原因)

2023年01月14日 | つれづれ

(まだまだ右足の浮腫みは治まらない)


(右足首の腫れと痛みは続いている)

SNSで、新年の挨拶をかわす事も多くなった。
年賀状よりも費用がかからない事はもちろん、SNSだと近況を気楽に交換できる。

だいたい年賀状で何十年も続けて「お元気ですか?」と書き続けるのも愚なものだと思う。
昨年より年賀状仕舞いしたのもそのせいだ。(年賀状を出さなくなった旧友たちよ御免)

そのSNSで、
薬学関係ではそこそこの権威と実績のある、小中高の同級生からの返事。
蜂窩織炎の事など書き送ったあとからの彼からの返事。
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そうそう、蜂窩織炎だってね。
これは余計なことかも知れないけど、ワクチン打った? 
もし3回以上打っていたなら、蜂窩織炎はそのせいかも知れない。
なにせ、あのワクチンは免疫力を極端に下げてしまうので、感染症に陥りやすくなりますし、
最悪、発癌やエイズなどなどの発症の恐れが指摘されています。いずれにしても、おだいじにね。
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そっか!ワクチン接種が蜂窩織炎の原因なんだ!

確かに稽古のし過ぎ、酒の飲み過ぎ、慢性的な睡眠不足はあった。
しかしそれは以前からのものだし、急に生じたものでもない。
仕事のストレスはそこそこあるが、それも極端に負担にはなっていないつもりだ。

新型コロナワクチンは4回打った。
最終的に打ったのは昨年、2022年7月26日。

思い起こせば4回目のワクチン接種後から、妙に疲れやすくなったのは事実である。
8月の真夏の稽古は例年つらいものなのだが昨年は特につらく苦しかった。

8月9月と稽古のあとに飲み会もあったが、
不思議なことに好きな酒が美味いと思わなかった。

特に9月17日の曽祖父、粕井信一の50周忌の法事の際の酒はまったく進まなかった。
はっきりでは無いが、それ以前から体調に少し違和感があるのも感じていた。
その頃から感染症である蜂窩織炎になる下準備が整っていたのだろう。

引き金は10月8日の大阪剣道同好会の稽古のあとの飲み会。
これは記憶が無くなるほど無茶苦茶に飲んでしまった。

そして10月12日から右足首が痛み始める。
最初は痛風だと思っていた。

医者で血液検査をしたら蜂窩織炎(ほうかしきえん)と診断され入院を勧められた。
入院はしなかったが朝晩の抗生剤の点滴を受け続け、しばらくして飲み薬となり、今は自然治癒を目指している。

数日前の診察で、
「お酒は飲んじゃいかんですか?」と医者に聞いたら、
「地雷原を歩くようなもんやで、悪化して良いと言うなら別やが・・」

つまりは「飲むな!」である。

蜂窩織炎では無いが、全身が痒くて仕方が無い。
もともとアレルギー体質で冬場は肌が乾燥し痒いものだが今年は異常だ。
もしかしたら、これも新型コロナワクチン接種による免疫力低下のせいかも知れない。

免疫力が低下して、持病を持ってるものは何かと悪化するのだろう。
心臓病、肺病、腸炎、帯状疱疹などの皮膚病・・・なんでもござれだ。
きっと新型コロナやインフルエンザにも、接種前よりかかりやすくなると思う。

マジで恐ろしい。

ワクチン接種は健康障害を生じるというのは間違いないと思う。
素人の経験からだが、結論としてワクチン接種はお勧め出来ない。
自宅に5回目のワクチン接種券が届いているがもう打つ気はしない。

親しい人には個別に忠告しておくことにする。
ここには私的な記録として残しておく。公開はするけど。
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2023年1月2日 一家全員の集まり

2023年01月03日 | つれづれ


コロナ禍の前は、12月30日に我が家で餅つきをし、
1月2日は実家で親族が集まって祝いをするというのが恒例であった。
それは亡くなった両親、貫次・睦子を中心とする親族の絆のごとき行事でもあったが、
中華コロナのせいで恒例行事が無くなったのは寂しい限りである。

今年は、奈良の中華料理百楽にて私の一家が集まった。
茨城のつくば市から長男夫婦、八尾市から三男夫婦も来てくれた。
それぞれが立派に仕事をこなしていることに安心した。
そして、息子たちみな、とっくに親離れしているのを改めて感じた。
こういう正月も良いものだ。

よく考えたら蜂窩織炎になってから初めての外出・・・

というか、バスや電車を使っての移動は初めてである。
(車やバイクは歩かないので大丈夫なのです)

不安だったが年末より腫れも痛みもマシになったので思っていたより普通に過ごせた。
ただ大幅に歩くのは無理で、小幅でゆっくりと歩いた。爺さんみたいに。
杖は卒業出来たもようです。







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