稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

No.16(昭和60年9月20日)枯れるということ、他

2018年08月18日 | 長井長正範士の遺文
○枯れるということ
春、花が咲き、夏に青葉繁り、冬に枯木で立っている。
その姿を見ると厳然として立っている。この姿が剣道でなければならない。

本当の剣道は、山は深山、木は古木でなくてはならない。
何千年も昔から慄然として立っている、
この静けさ、ある時は風雨にさらされ、雷に幹をさかれても厳然として古木が樹立している。
それが優雅に見える。枝が折れていても、いいな~と、その全体の優雅さに魅せられる。
これが本当の剣道ではなかろうか。

○光澤のある剣道のこと
肝を錬り技を磨くというが、磨けば光沢を発する。即ち光沢のある剣道でなければならない。
肝を錬るとは、あらゆるものに迷いがないことに到達する為で、肝を錬り、技を磨く、
その肝から発した技が光り輝いたものである。

○剣道は気剣体一致、心気力一致というが、これは五倫五常の道を中心にして、
それを鍛錬するものである。(この項、吉田誠宏先生の教え)

即ち、気剣体一致、心気力一致の鍛錬の根源は五常の道、
(仁義礼智信)にある。五倫の道(義、親、別、序、信)にある。
この五倫五常の精神を剣道ではどこで養うかというと、
剣先を合わせ、静から動へ変る、その機に望んで五常の道の根源をさぐる。
そうでなければ迷ってしまうのである。

ちなみに剣先を横に振るのは迷いのある証拠である。
剣先が相手とわれの中心を離れない。これは迷いない証拠である。
ここで以前申し上げた項と重複するが、相手と相対した時の大切な点を述べておくと、

○剣先の力というものは、左こぶし、下腹、竹刀の先、
この三点の結合したものが剣先に表われなくてはならない。

一刀流の攻めは剣先で相手の鍔こぶしを攻めるよう教えてあるが、
あくまで攻めは気と間で攻めること。
こうなってくると剣道は如何に呼吸が大切かが判る。

即ち、構えた時には下腹に力を入れて左手三本指に力を入れる。
攻めるには引き息して真中の腹に力を入れて間合に入る。
正面打ちには上腹に(水月=みぞおち)力を入れて打出すのである。
逆に、攻められたら、瞬間、止め息すれば落ち着いて迷わない。
この呼吸の大切さは具体的にNo.10に書いたので省略するが、

○私は呼吸の大切さを研究せよと吉田誠宏先生に言われたので
(具体的に教えて貰えず自分で苦労して考えたあげく)
先ず社交ダンスで足の運び、呼吸を研究した。

又、地下鉄谷町四丁目で下車、地上までの八十五段の階段を呼吸を乱さず
地上まで上がる方法を考え、ずっと今日まで、いや終生これを続けて行きたい。
それには先ず自分の呼吸を整えることから始めねばならぬ。
そして如何なる対象物に対しても、それに従い、呼吸を合わさねばならない。

六段の筆曲にも合うような剣道でなければ本物ではないと悟り昭和五十四年八月、
筆曲「六段の調べ」の初段による少年剣道の基本動作を考案して少年達にやらせている。
次にその着眼の趣旨を述べておく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする