○禅について
禅は実地の修業が第一であること。即ち自分を悟る。この悟りが禅であると言える。
従ってどんな苦しみがあっても、その苦難を乗り越え、
本当の自分に目覚めなければ禅の意味がない。
然し悟ったからと言って、これで良いと止まっておっては何もならない。
禅宗の修行は更に更に奥深く、道は遠く広く尽きる所なく、
終生未来永劫に修行を積み重ねてゆかなくてはならない。
そこで公案をもって、これでもか、これでもかと実際の修業をさせるのである。
故にこの考案は禅宗の宗旨としては権威ある法則と言えよう。
即ちこの公案は禅宗の祖師が定めた法で、生死の大事を究決するにある。
禅宗の修行の根本は自分の私心の一心でなく、
大宇宙に充満している一心であり、これを佛心と言うのである。
この佛心をわがものにしたところに成佛があるのである。
これは決して遠くに求めるのじゃなく自分の持っている一心の姿を悟って、
それを充分に働かさねばならない。と説いてある。
悟りは一言で言うと、スカッとしたものである。
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この悟りについて昔から作り話がある。
山中で樵(きこり)が斧で木を切っておったところ、
近くに“さとり”という妖怪がおって、樵にいちいち、
そんな切りかたじゃ切れんじゃろとうるさく言うので樵は腹をたて、
何をぬかすかこの化け物めと斧を振り上げ、たたき切ってやろうとすると、
その化け物はその直前に、いち早く察知して、
今俺を切って殺そうとしているんだろうと言うので、
樵は相当頭に来て、よし今度こそは本当に叩き切ってやろうと思った瞬間、
またしても、今俺を叩き殺そうと思ったろうと言うので、
樵はこんな奴に相手になっておっては仕事がはかどらないから、
もうあきらめて、せっせと木を切り始めたが、
何の拍子か振りかぶった斧の先が外れ飛び、
偶然にも傍におった化け物の首にぐさっと刺さり化け物は即死したのである。
樵が無心に振りかざした斧の先が飛んだのであるから、
さすがの“さとり”も無心の技には勝てなかったという話である。
これは悟りと言うことをこの作り話でよく判るように物語っている。
味わうべきである。
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○剣禅一如について
先ずこの言葉は徳川時代から言われて来たと伝えられている。
将軍が柳生但馬守と沢庵に「極意を見せてくれ」と言われたので、
まず但馬守が小雨の降る庭の梅の木の枝を縁側からサッと飛び降りて、
抜く手も見せず斬りとり将軍に見せた。着物もあまり濡れておらず、
その早わざに将軍はさすがだと誉めた。
今度は沢庵、おもむろに起ち上がり縁側から降りて下駄をはき、
傍に立てかけてあった番傘をさし、ゆっくりと梅の木に近づき、
手頃な枝を一本折って、雨に少しも濡れず静かに上にあがって来たのである。
これを見て将軍は「貴僧の極意とはこのようなやり方がそうであろうか、
ちと判りかねるが」と言ったので、
沢庵は「早わざには危なげがある。自然にはあぶなげが無い」と返事したと言う。
将軍も真の極意はここにあると感じいった。
但馬守も同感し、それ以来、剣禅一致、剣禅一如の言葉が生まれたと言う。
(以下続く)