稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

六段審査について思うこと

2018年04月14日 | 剣道・剣術
ベテラン五段で六段に受からない人はけっこう多い。
弱くて受からないなら納得もいく。
そこそこ強いのに受からないのだ。
自分より弱い者が先に六段に受かる事に不満があったりする。

五段までは強ければ合格する。
ガチンコ勝負で打ち負けなければ合格する。

六段の難しいところは「強く美しく」なければ受からない点にある。

自分自身の経験で言う。
私も道場剣道でそこそこ強かった。
相手が動いた瞬間に大きく振りかぶって頭上から振り下ろす剣風だ。
七段にはかなわないが自称「六段キラー」だった。

しかし六段には受からない。何回受けても受からない。
20回以上も受け続けるとやはり疑問が生まれてくる。

自分の剣道は、何か根本的に間違っているのではないか?

こうなるとドロ沼化する。
悲しいことに良い先生が回りにいなかった。
いや、教えてくれてたのだが「何が正しいかわからなかった」のだ。

右足に体重を掛けて構え、抜重して、前に倒れこむ力を利用して打ったら良いとか。
先革が交わるような遠間から思い切って飛び込むと良いだとか。
振り上げずに左拳を下げて、下から突き刺すように打つと良いだとか。
腰も肩も直角に相手と真っ直ぐ正対して竹刀は真っ直ぐ直線に構えるのだとか。
意味も無く交差した剣先を左右に振って牽制の真似事をしてみたりだとか。
剣先を合わせると読まれるので、わざと下段に構えてみたりだとか。

何が正しいのかわからないままに周りの意見に左右され、
たまたま当たった打ち方を正しい打ち方だと誤解したりしてしまう。

ある日、剣友が私の稽古を録画してくれた。
もらった動画を見て驚いた。実に醜い。構えも打ちも残心も。

これではいかぬ。ともかく構えから治そう。

そう思って見本となるべき人を選んだ。
出稽古で来ていた人だが構えがすばらしい。ともかく真似し続けた。

構えを意識すると動けなくなり打てなくなる。
「おまえ何しとるんや?」と叱られたりした。

一番苦労したのは撞木足。いくら意識しても撞木になる。
打ったあとは、自分の左足先がどちらを向いているのかわからない。
ともかく相手と対峙している時だけ真っ直ぐになるよう意識した。

構えを治して、何とか以前のように打てるようになるのに1年かかった。
そして六段に合格したわけだ。長い長い道のりだった。

四段や五段でも指導者となっている道場や稽古会はたくさんある。
五段にもなれば海千山千で経験豊富なベテラン剣士も多いものだ。
特に40才を超えた五段剣士はあの手この手の得意技を持っていて、
道場や試合においてはけっこう強い人が多いのだ。

しかし六段は違う。
全国審査となる六段は「指導者としての器」を審査される。
試合では形を崩してもガムシャラに勝てる場合があるが、
指導としては基本を大きく外したことをしては駄目なのである。

身構え、気構え、立ち振る舞い、構え、発声、攻め、打ち、残心。
そういうところに位(くらい)を感じさせるものもなければならない。

打ちたい打たれたくないという気持ちが顕著だったり、
フェイントや、相手が打ったらかがんで下から上げ小手したり、
ともかく当ててやろうと、あの手この手でガチャガチャしてしまったり、
こういう六段審査はまず合格はおぼつかないだろう。

4月29日は京都で六段審査である。
合格しても落ちたとしても自分の剣道をいま一度見直して欲しい。


(自宅の桜がようやく満開)
コメント (2)
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