稽古なる人生

人生は稽古、そのひとり言的な空間

父、粕井貫次のお別れのご挨拶

2018年04月16日 | つれづれ


粕井貫次 お別れのご挨拶

皆様、本日は、私の告別式にご参列を頂き、ありがとうございます。
昨年、9月11日に妻睦子に先立たれてから、めっきりと気力・体力が弱まりました。

睦子からは、「私はあの世でゆっくりしたいから、
お父さんは、皆に迷惑を掛けないようにしながら、この世を十分に楽しんで下さい。」
「お父さん、早く、あの世にこないでね。」と言い残されました。

しかし、12月10日に満94歳になったのを機に、
近づく、お迎えを考え、隆と相談しながら、川柳を織り交ぜて、
貫次らしい「お別れのご挨拶」を作っておく事にしました。

【私の生い立ち】
私は、大正12年(1923年)12月10日に大阪市東区内久宝寺町に、
父:信一、号は豊誠、母:キミの次男として生まれました。
本名は、完。完成と言う言葉の「完」の字を「たもつ」と読みます。

海軍で姓名判断に詳しい上官から、粕井完では、総画数が良くないと言われ、
戦後、「貫次」を通称に使い始めました。
そして、昭和54年に、戸籍上も、貫次に改名しました。

粕井家の先祖は、河内平野郷で、
鴻池家の配下にて河内綿の加工・販売に従事していた家のようです。
屋号は糟屋。綿の糟を扱っていたのでしょうか。
この糟屋の屋号が家名:粕井の由来です。

家紋は、唐花。これは、平野の郷社である杭全(くまた)神社から
ご先祖が頂いた紋であると聞いています。

明治維新により、洋綿が日本に流入して、我が家は没落しました。

祖母マスは、鴻池家に拾われて、奥女中として
お嬢様の稽古事のお相手などを務めていました。
その鴻池家に、長州士族の岡本秋五郎も勤めており、
やがて、秋五郎が祖母マスと結婚して、粕井家に婿養子に入りました。

父、信一は、若い頃は日本画家を目指していましたが、
私が物心ついた頃には、平版印刷の版下を描いていました。

仕事は住み込みの弟子達に任せ、本人は、謡、郷土玩具集め、
旅行と趣味が多彩で、川崎巨泉など、大阪の文化人と広く交流がありました。
「浪華趣味道楽宗三十三所」や「娯美会」という趣味人の会にも参画していました。
子どもの躾には大変厳しく、よく「勉強をしろ」と叱られました。

母、キミは明石の古瀬家の出身。
優しい人でしたが、昭和15年、47歳の若さで亡くなりました。
父、信一は、長生きをして、昭和48年に、84歳で亡くなりました。
父は亡くなる年の春にも台湾旅行を楽しんでおり、
元気な老人で、当時としては大変な長命でした。

この父の長命筋を、幸運にも、子供が引き継ぎ、
今や兄弟4人全員が、父の亡くなった年を、めでたく越えました。
私は、男ばかりの4人兄弟の次男です。
長男:宏は私より2歳上、弟の寛は3歳下、末弟の實は8歳下です。
宏兄さん、寛さんとは、戦後、フタバヤ、後のホワードを創業し、
長らく仕事を共にしました。

これについては、後で話をします。
實さんは、私が睦子と結婚した当時は、まだ学生でした。
幼い頃に母を亡くし、兄弟も男ばかりだった為か、睦子になついてくれ、
睦子の家事を「姉さん、姉さん」と、良く手伝ってくれました。
粕井家で公務員になる者が少ない中で、實さんは、神戸大学経済学部を卒業後、
陸上自衛隊に入隊し、陸将補まで、昇進しました。

さて、兄弟の性格は4人4様です。
隆に最近、兄弟4人の性格を聞いてみました。隆の言葉です。

「玉手山の宏伯父は、おおらか。生駒の寛叔父は、理知的。東京の實叔父は、優しい。」
「そして、お父さんは、頑固で勝手者。」
「え~」と思っていると、「でも、とっても努力家」と付け加えてくれました。
そう言えば、私は小さい頃、「ごてたも、ごてもんのたもつ」と呼ばれていました。
大きくなっても、この性格は変わらなかったのだと思います。

さて、川柳です。
◆「有難く 僕の兄弟 みな存命」
◆「兄弟が 揃って八十路 うまい酒」

【海軍飛行予備学生、そして、特攻へ】
東商業学校を卒業後、軍需工場の山階鉄工所に勤めながら、
夜は大阪専門学校(今の近畿大学)で学んでいました。
当時の徴兵年齢は、満20歳でしたが、それより1年前、19歳で志願をして、
昭和18年9月に、第十三期海軍飛行予備学生として、三重航空隊に入隊しました。

徴兵前に海軍を志願したのは、
体力のない自分が御国のお役に立てるのは飛行機だと考えた事と、
陸軍恒例の新兵への「しごき」に比べ、海軍にはスマートさを感じたからです。

また、家を継ぐ長男の宏兄さんが、川西航空機で技術者として働き、
弟2人がまだ年若の中、男兄弟4人の中で次男の自分が戦場に行かねばという、
若者としての心の高ぶりもありました。

当時は、本土空襲こそまだないものの、日本の劣勢を国民が重く感じており、
また、ご近所でも、年輩者の出征が相次いでいました。

予備学生としての三重航空隊での訓練を終え、
海軍少尉に任官。予科練の指導教官になりました。

当初は、零式水上偵察機に乗っていましたが、特攻編成になり、
九十三式中間練習機、世にいう『赤とんぼ』での特攻訓練を、
鹿児島国分航空隊、熊本人吉航空隊、香川観音寺航空隊、で積み重ねました。

昭和20年8月10日、つまり、終戦の5日前に、
鹿児島国分航空基地で、特攻出撃30分前を体験しました。
12機編成の神風特別攻撃隊「乾隆隊」の一番機です。
天候不良により、出撃は中止。命を長らえました。

今から思うと、生と死が紙一重でした。
予備学生同期の34パーセントが戦没しています。
私は思い掛けず、命を長らえ、戦後、幸せな人生を歩めました。
特攻出撃、散華した同期や部下と、私の戦後の幸せとの違いを考えると、
何時も、感謝の気持ちと、申し訳ない気持ちで一杯です。

一方、海軍で、19歳から21歳の若さで、
少尉・中尉として部下を指導・統率する立場・経験を得た事が、
会社経営者としての基礎と心構えを、自然に形成してくれました。

川柳です。
◆「特攻の 一番指揮機 名乗り出る」
◆「特攻隊 出撃止めで ある命」
◆「こみあげて 同期の桜 歌えない」
◆「目に浮かび 貴様と俺が 歌えない」
◆「冷房の部屋 靖国へ 手を合わす」
◆「戦友の 4倍半も 生かされて」

【起業、フタバヤからホワードへ】
戦後、闇市で、まず、パンやイースト菌の販売をしました。
これから商売として何が当たるかを考えて、繊維・衣料品販売に目をつけました。
そして、あちこちを探し回り、大阪市南区順慶町心斎橋筋に
間口九尺二寸、奥行き二間の店を見つけました。

開店は昭和22年1月10日、商売繁盛の恵比寿さんの本祭りの日です。
屋号は、フタバヤ。
当初は、兄:宏さんと2人でしたが、その後すぐに寛さんが参加しました。

睦子と昭和25年に新婚生活を始めたのは、この店の小さな奥の間でした。

フタバヤは、最初は素人相手の小売店でしたが、
地方の衣料品店の求めに応じて、衣料品卸売業に転換、
業界で最初にセルフ販売を取り入れ、社名もホワードに改名しました。
初めは、社長:宏、専務:貫次、常務:寛、
後に、宏:会長、貫次:社長、寛:専務の経営体制でした。

高度成長時代に上手く乗れ、東京店を出店するなど、社業は順調に拡大しました。
実際は、兄弟の意見が異なる事も多かったのですが、
業界からは、「ホワードが強いのは、三本の矢、
宏:経営、貫次:営業、寛:経理」があるからだ、とよく言われていました。

また、倉本長治郎先生に箱根の商業界ゼミで商売の心を教わった事、
船井幸雄先生に経営の鉄則を学んだ事、ダスキン創業者の鈴木清一さんに、
先輩経営者として親しくご厚誼を頂いた事、今では良き思い出です。

川柳です。

◆「大阪中 駆けずり回り 店見つけ」
◆「九尺二寸 開店の日が 本えびす」
◆「商売の まなこ開けた 箱根ゼミ」

【妻:睦子】
睦子とは、昭和25年に戦友の古沢龍介君の仲人で見合い結婚をしました。
睦子は、正に才色兼備、料理も上手く、気難しい私とは違い、
気さくで、思いやりのある性格で、広い交友関係を持っていました。

一方、さっぱりとした性格で、夫である私には、甘える事などまったくなく、
その意味では、そっけない妻でした。

しかし、お互いが老年になり、いたわり合ってから、
新たな夫婦の関係が芽生えたと思います。
睦子が、昨年、私より先に旅立ったのは、残念な思いで一杯です。

川柳です。

◆「わが妻は 時には天女 時に夜叉」
◆「来生の 契を妻に いなされて」
◆「手を握り 妻につれなく ほどかれて」
◆「あっちこち いたわり合って 老夫婦」
◆「お互いに 病院通い 老夫婦」
◆「この僕を 見送ってから 逝ってくれ」
◆「早朝に 妻の寝息を 確かめる」
◆「人生に 波風あった なあ妻よ」

【子供と孫・ひ孫】
昭和27年に滋、昭和28年に隆、昭和30年に誠の3人の男子を得ました。
滋は、未熟児で生まれたので丈夫に育って欲しい。
隆は、隆々たる人生を歩んで欲しい。
誠は、誠実で信頼される人になって欲しい。
という願いで、それぞれ名前を付けました。

特攻が中止となり、生き長らえた私の命ですが、
子3人、孫10人、ひ孫7人、我が子孫が20人に、広がりました。
ひ孫は、これからも増えると思います。

幸せな事に、隆の長女さやか、が、7年前から、ひ孫3人を引き連れて、
月曜日から金曜日に掛けて、同居してくれるようになりました。

3人のひ孫達は、貫次・睦子・隆・みづほ、の4人生活に咲いた、
正に枯れ木に花の存在でした。
身体が不自由になった睦子と私にとって、さやか、が日々の生活の頼りであり、
ひ孫の進太郎、みのり、あかり、との触れ合いが、
外に出る事が少なくなった老人二人の生きがいでした。

川柳です。どうしても、可愛い、ひ孫の句が多くなっています。

◆「何とまあ 子から孫から お年玉」
◆「わが血引く 二十の命 生き生きと」
◆「ひ孫たち 大ばあちゃんを 放さない」
◆「ご飯でチュ 末のひ孫が 言いに来る」
◆「二歳半 ひ孫パタパタ 呼びに来る」
◆「三人目 ひ孫を膝に 飲むビール」
◆「三人の ひ孫に読書 乱される」
◆「ひ孫たち 可愛さ八で うるささ二」
◆「小生の ひ孫は行儀 それなりに」
◆「入院を 心配ひ孫 した涙」

【ホワード引退と東邦でのエルダー人生】
平成の世になり、ホワードの業態、前売り衣料問屋は、
地方でのショッピングストアの台頭、「しまむら」の多店舗展開、
衣料品産地の海外シフト等の中、徐々に商売が厳しくなってきました。

平成9年、ホワードが創業50周年を迎えた年に、
経営陣を刷新する為に、私は社長を退任し、経営を離れました。

その折に、次男:隆の勧めに甘え、
隆の会社:東邦ビジネスコンサルタントのエルダーとして、
毎日、東邦の事務所に出勤する事にしました。私が、74歳の年です。

東邦は、若い女性スタッフが多く、社長:隆の親父として、
特別待遇で大事にしてくれました。
昔話の相手や、パソコンの指導を快く務めてくれました。
90歳を過ぎて、足腰が弱って、電車で通えなくなるまで、
東邦で過ごす時間が、現役引退後の私の楽しみでした。

川柳です。

◆「引退後 柔らか席が 待っていた」
◆「ネクタイを 毎日替えて 新事務所」
◆「居るだけで 良いと言われて 居る至福」
◆「エレベーター 前まで今日も 見送られ」
◆「ボク好み 美人の席が 斜め前」
◆「パソコンの ベテラン嬢も 頼れそう」

【学業と趣味】
東邦を大阪での活動の拠点とし、東邦の顧問料を軍資金として、
若い頃、現役時代に適わなかった学業と趣味を楽しみました。

まず、学業です。
平成11年:産能大学 経営情報学部 学士
平成13年:佛教大学 文学部 学士
平成15年:大阪商業大学 大学院 地域政策学 修士
平成19年:放送大学 大学院 文化科学研究科 修士

学位は、昭和27年に働きながら夜学に通った、
近畿大学商学部と合わせて、合計5つになりました。
私の勉強好きの血は、残念ながら子と孫には伝わりませんでした。
ひ孫達には、是非、私の勉強好きが遺伝して欲しいと、曽祖父として願っています。

趣味は、川柳、謡曲、絵手紙、写真、太極拳、水中歩行、
気功、リズム体操と、多くを楽しみました。
気功やリズム体操では、男性は私一人。嬉しい事に、
美人の先生が、男一人の私に個人レッスンをしてくれました。
その頃、個人ブログ「粕井貫次の最近感じること」を立ち上げました。

川柳です。
◆「学生証 老春手帳と 使い分け」
◆「修士論文 まとまるように かしわ手を」
◆「学位記が 五つ目自分 よくやった」
◆「僕以外 気功教室 みな女性」

【特攻体験を語る】
平成18年頃から、戦争体験、特攻体験を世間に語るようになりました。
特攻の真実、国を守りたいという当時の若者達の心を、
少しでも戦争を知らない世代に知って貰いたいと考えたからです。
私の戦争体験・特攻体験は、
「雲流るる果てに ~出撃30分前 特攻隊員の戦争体験~ 」
「特攻 最後のインタビュー」
として、まとめ、残しました。貫次家の子孫の家で、家の記録として、長く伝えて下さい。

【健康・リハビリ、そしてヘルパーさん】
90歳を超える頃から、身体が徐々に弱まり、耳と目も悪くなりました。
デイサービスでのリハビリ、家に来てくれるヘルパーさんを川柳に読みました。

まず、健康の川柳から
◆「ケイタイも スマホも無用 目と耳が」
◆「スカタンが 多い痴呆の 先触れか」
◆「いやな事 聞かない様に 遠い耳」
◆「マイナスの ことは聞くなと 遠い耳」
◆「故障は ここだと思えば あっちこち」
◆「長生きも 痛いしんどい あっちこち」
◆「広告の サプリメントを つい買って」

次に、リハビリの句です。
◆「リハビリの お蔭か杖を 置き忘れ」
◆「快調で 次のリハビリ 待ち遠し」
◆「すみません 有難さんが 多くなる」
◆「トレーニング 過ぎたか食後 うとうとと」
◆「手も足も 苦労を掛けたな 有難う」

そして、毎日家に来てくれるヘルパーさんと、
世話になっている訪問看護婦さんを読んだ句です。
◆「ヘルパーさん 心優しく みな天使」
◆「ただ感謝 訪問看護 ヘルパーさん」
◆「楽しみは 今日のヘルパー どなたかな」
◆「親切な ヘルパーさんに つい甘え」

【お酒】
お酒は、私の生涯の友です。
入院中の病室にワンカップ日本酒を持ち込んで、看護婦長さんから、
「お酒を飲むなら退院して下さい」と、厳しく叱られた事もありました。

お酒を読んだ川柳です。
お酒の句は、絞るのが難しく、多くの句を聞いて下さい。
◆「幸福な 人生でした うまい酒」
◆「運の良い 人生だった うまい酒」
◆「缶ビール あと酒一合 おらが春」
◆「こんなのが 幸せだろうな 酔い心地」
◆「晩酌の 睡眠薬が 待っている」
◆「楽しみは 晩酌だけで 欠かせません」
◆「何時退院ですか ビールが 待ってます」
◆「晩酌は うまいが睡魔 連れてくる」
◆「年かなあ 晩酌の量 また減って」
◆「卒寿来て 不義理してます 夜の酒」

【人生を読む】
粕井貫次の人生を読んだ句です。
中身が重なっている句もありますが、聞いて下さい。
◆「禍福あり 福多かった 九十年」
◆「生と死の 境を越えて 七十年」
◆「これからの 生き方すべて 自然流」
◆「助かった 命素直に 生きてます」
◆「長生きの 見本をせめて 子や孫に」
◆「百寿まで 生きてみようか 手術終え」
◆「有難や 孫十人に ひ孫七」
◆「何もかも 欲なくなった 九十四」
◆「ふりむけば 七転びなり 運をつれ」

【お別れに臨む心】
94歳を迎えた今の気持ちを、川柳に読みました。
◆「大往生 呼ばれるまでは 生きようか」
◆「お迎えに 南無観世音 喜んで」
◆「お迎えが 来たら素直に 参ります」
◆「やり残し この世未練は ありません」

【感謝の気持ち】
まず、みづほ、へ
ありがとう。隆と結婚してからの長きの同居。孫、ひ孫との交流。
特に、睦子への長い間の介護、自宅での看取りと、
身体が不自由になった私の日々の世話。
何時も、食事は家族みんなで一緒でした。
私の好物を食卓に揃えてくれました。
贅沢な家族旅行にも、賑やかに行きました。
振り返って見ると、隆夫婦と同居して、私達夫婦の幸せがありました。
みづほ、健康に留意して、将来、隆と楽しい老後を過ごして下さい。

さやかへ
孫に大事にお世話をして貰った、日本一幸せな祖父母です。
父:信一は男兄弟4人、私:貫次も男4人兄弟、
そして、子供は滋、隆、誠の男ばかりの3人。
睦子も4男1女の男家庭。
さやかは、そんな男環境の中で初めて得た、可愛くて心優しい女の子でした。
さやか、そして、ひ孫達の幸せを、あの世で仏様に、睦子としっかりお願いします。

妙子さん、妙ちゃんへ
睦子の弟、昌司君の嫁と言う、粕井家とは遠い関係の筈なのに、
本当に長らく我が家を支えてくれました。
睦子が30台で、長らく肝炎で入院した折に、
ワンパク盛りの息子達がグレずに育ったのは、妙子さんのお陰です。
そして、睦子が自由に暮らせたのは、妙子さんの存在があったからこそです。
ありがとう。末永く、お元気で。

恵美子へ
何時も私の話し相手になってくれて、ありがとう。
誠と孫達の事、宜しくお願いします。

そして、本日ご参列頂きました皆様方に、それぞれ、大変お世話になりました。
感謝しております。

【最後に】
そろそろ、お別れの時間です。子、孫、ひ孫達に伝えたい事を話します。

海軍五省、海軍時代に教え込まれ、私が現役時代に、心の支えにした教えです。

一 至誠に悖るなかりしか
一 言行に恥ずるなかりしか
一 氣力に缺(欠)くるなかりしか
一 努力に憾(うら)みなかりしか
一 不精に亘るなかりしか

子、孫、ひ孫達も、この五省を人生の支えにして、
「長さ、強さ、広さ、深さのある未来」を、楽しく生きて下さい。

私の最後の川柳です。
◆「いい人生 だったさようなら 子や孫に」

どうか、皆様、運の良かった私の人生のおすそ分けを貰って下さい。

では、さようなら、お元気で。

粕井貫次






コメント (2)
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