という事で三原市内の山の上
に広島空港は作られた。
三原からは非常に便利になっ
た。
しかも、過去の一定時期早割
りだと新幹線よりもかなりど
の席も安かったので、月1の
東京本社勤務期間の頃は常に
新広島空港を使っていた。
マイルはすぐに貯まり、自転
車やいろいろな物をANAから
貰った。(日本航空は嫌いな
ので内外便とも利用しない)
だが、航空運賃が上がり、新
幹線と大差なくなった事と、
導入されたボーイング787の
座席が狭少の機体になってか
らは飛行機利用をやめた。
747の頃は快適だった。二階
席はもちろん、一般席も。
しかし、その後は新幹線利用。
時間がかかろうが。
新幹線にこの3月中旬から喫
煙ルームが封鎖されたのはと
ても残念だが。
いつも10号車の一番東京寄
りの席に乗っていた。ドアを
開ければ喫煙ルームのある位
置。
ことし正月の渋谷での新年会
の時の利用時は喫煙ルームが
あったが、3月の上京時には
前日にルーム廃止(笑
ナンタルチア(笑
室内禁煙はかまわないが、換
気システムの整っていた喫煙
ルームくらいは残しておけよ、
とは思う。
国内でタバコ販売禁止という
ニュージーランドみたいな国
まで登場した。
嫌なご時世だよ。
そのうち、「醤油は体に悪い
から禁止」とかにもなりそう
だ。
コーラ飲むほうがよっぽど体
によくないのに。白砂糖摂取
するとかさ。
料理に砂糖使いまくりっての
は毒盛ってるようなもんだぜ、
あれは。
幼稚園年長組の時に、団地
内のマーケット前の広いコ
ンクリート広場で自転車5台
程で草レースをやった。
自然発生的に。
今のようなこんな本格的な
ものではない。
1960年代半ばの事だ。
ペダルとブレーキ無しでは
ない本物の補助輪無しの
自転車で。
この「よいこ」たちよりも
小学生向けみたいな本物の
自転車でやった。同級生た
ちと。
レースをやった場所は現在
よりももっと広く、地面は
コンクリートパネル舗装だ
った。黒い目地のあるコン
クリ畳状のような舗装。
こちら現在のその現場。
現在衛星写真。青い線内が
コンクリ広場。黄色の会館
の絵画教室に私は通っていた。
で、だ。
オーバルにみたてての
3周のスピードレース。
同級生といっこ上の小1
の子が混じっての競争だ
ったが、おいらぶっちぎ
り。
するってーとだ。
最後の最終をオーバース
ピードで曲がり切れずに
壁面の岩ブロックの壁に
激突した。
車両は友人のY君の物だっ
た。
ドグワシャン!
のドテポキグシャとなり、
あたしゃ壁の向こうの植え
込みまですっ飛んでった。
二輪を見たら、前輪のリム
がへの字に折れ曲がってた。
ひきずってゴールまでドン
ケツで帰って来たが、Y君
のお母さんが鬼のような形
相で睨みつけてる。謝って
も黙ったまま睨みつけで、
二輪を取り上げるように
した。べんしょうします
ごめんなさい、と言っても
無視。
Y君にもひたすら謝ったが
彼は「けがなかった?」と
逆に心配してる。ちょい
太めで薄いピンクの花柄の
ワンピース着たお母さん、
その間も仁王立ちで睨みつ
け。神社の門の横にいる木
造みたいな顔だった。
その晩、母と一緒にY君の
家に謝りに行き、すぐに
完全修理の約束を取り付け
てどうにか取りなしてもら
った。
自分の自転車を持ってくれ
ばよかったが、その場で集
まっていた近所の友人同士
で即席レースになったのだ
った。勝った奴にはみんな
が1円~数円程出してマーケ
ットの駄菓子屋でアイスか
ラムネを買う約束だった。
その後、Y君の自転車も
藤沢駅そばの自転車屋さん
で完璧に直った。前輪と
フォークを全交換したみた
い。
今度はそれぞれ自分の自転
車で乗り合い競争するよう
になったのだった。
ちゃんとコーナー手前では
ブレーキするようにして(笑
ただ、事実私は小学校上が
っても同年代ではダントツ
のぶっちだった。イン側の
ペダルを上げて思いっきり
グリップ限界程にバンクさ
せれば高速度でもコーナリ
ングできる事を園児の「わ
るいこ」の時から知ってい
たからかも知れない。
結局、コーナーが速い奴が
前に行く。直線は脚力馬力
(人力)勝負だが、旋回は
技術だ。
同級生たちは怖がってバンク
させずに曲がろうとしていた。
それ、曲がらないのに。
しかし、そのY君車激突事件
以来、人の二輪に乗るのは
現在までも極力避けている(笑
おったまげたよ。
グーグルマップで近所のおん
べ公園の下の川沿いあたりを
ぶらぶらしていたら、60年近
く前に通っていた算盤塾の建
物がまだあったよ。当時のま
ま。
母親に見せたら「え~~!!」
なんて驚いてた。
好きな服買ってやれると思っ
らその収入遥かに超えてる
わいな。
舎もんなのか?
正直さで痛い自分出して
るのは、悪魔に魂売って
ないからかも知れないけ
どな。だが、到底都会人
とは思えない。浅葱裏の
カッペ臭さ全開でたまら
ん。
しさ。
くくそダサい。
トーヨコでも通用しなさそう
でワロタ。
コベロンチョにさえも足もと
に及ばないよな(笑
「ズンドコベロンチョ」 草刈正雄
1991/4/18
早朝から都内のMCブラザー
と東京のラーメン話をしてた
ら、たいめいけんのラーメン
が滅茶苦茶食べたくなった(笑
最高だぜ。
最近の「~系」とかいう新興
ラーメンではなく、ザ・ラー
メン。ラーメンてのはこれよ。
王監督が病気になって、記者
会見した時、「私はラーメン
屋の倅なので、ラーメンが食
べられなくなるというのが
一番辛いです」と言ってた。
なんだかわかる。
東京のザ・ラーメンはそれに
慣れ親しんだ人たちはその味
が最高だと心底感じているか
ら。
蕎麦はもり。ラーメンは東京
醤油ラーメンね。
ハマっ子ならばサンマー麺が
定番だけどさ。あれまた極う
まだ。横浜でしか食べられな
い。
それと同じく、本物の東京の
ラーメンは東京でしか食べら
れない。すっきりとしてなが
らコクのある醤油スープだよ。
「粋な浅草、イナセな神田、
性格悪いは麹町」
てなことは戦前から言われ
てた。
尤も、東京人でないと粋と
イナセの違いさえ理解でき
ないだろうが。
ましてや、明治以降も言われ
た麹町の人間がなぜ性格悪い
かなんてわかんねぇだろうなぁ。
そりゃ、あーた、ザーマスの
一族大集合だからだよ。
今で言うと、シロガネーゼや
港区女子という勘違い連中
みたいなのが昔っからいたっ
てわけ。丸ノ内のOLみたいな
自分が上流かと勘違いしてる
高慢ちきのドカンチみたいな
連中な。
最近では世田谷の在の連中が
なんだかハイソだとか勘違い
して調子こいてるみたいだが、
スカスカに背中煤けてるよな。
「あンた、背中が煤けてるぜ」
てなヤツ。
1977年、私が高2の時に原宿
にホコ天が登場した。
ホコ天エリアでは人が増えす
ぎて移動困難となり、次第に
代々木公園にロッカーたちは
移って行った。
国内の一大ロカビリー(1950
年代にロックンロール登場の
初期の形態)の再興が創出さ
れたのは、原宿にロカビリー
用品専門店クリームソーダが
1976年に登場した事が国内の
カルチャーシーンに大きな影
響を与えたからだ。
一方、1978年に原宿に登場し
た衣料店「竹の子」で購入し
たダボダボでふわりとした衣
装を着る集団が1970年代末期
に都内に登場する。
彼らは竹の子族と呼ばれた。
彼らは集団でディスコのホー
ルを占領して他の客が踊れな
くなったので、段々とディス
コから出入り禁止をくらう。
行き場の無い彼らはやがて
原宿ホコ天に進出する。
1970年代末期~1980年代初期
には、原宿は多くの買い物客
とロッカーと竹の子であふれ
返っていた。
ロッカーを凌ぐ数の竹の子族
は一時2000名を超える人数が
原宿に集結して踊り狂ってい
た。
ロッカーはせいぜい数百人程
度だった。
♪ジンジンジンギスカン
なんてのは竹の子族のラジカセ
からガンガン流れていた。
ロッカーと竹の子の違いは曲
や踊りよりも衣装で明白だっ
た。
ストリートロッカーたちは革
を着る。あるいはデニムを。
アメリカンバイカーズのよう
にアームカットオフのGジャン
も革ジャンの上に着たりもし
た。髪型はダックテール。
女子はアメリカングラフティ
スタイルのフレアスカートに
ポニーテールだ。
一方竹の子族たちは、男女と
も同じような恰好だった。
男はバイセクシャルな装いで、
それは後のホコ天出身バンド
「クスクス」の雰囲気の先取り
のような感じだった。
てか逆で、クスクスが竹の子と
トロピカルスタイルを融合させ
て衣装とメイクにしたのは間違
いないのだが。ジェンダーレス
風味で。
竹の子族
クスクス
竹の子族は消滅した。
だが、ロカビリーとロッカーは
現代でも存在する。
なぜか。
この答えや如何に。
それはクリームソーダ創設者の
故山崎眞行氏の言葉に核心が
ある。
「ロカビリーはフィフティーズ
のオールディーズだ。それを今
やるのは最初から古いものをや
っている。変わりようがない」
そして山崎氏は続ける。
「流行を着るのが一番ダサい」
ロックを好む連中は、時代や
流行などとは無縁だ。
流行りだからやる、ブームだか
ら着る、皆がやってるから興味
持つ、などという心根とは無縁
なのだ。
ロックをやる奴の魂の軸線はぶ
れない。
特にロック・ア・ビリーとロッ
ク・アンド・ロールを好む連中
は。
六本木の道路が川のよう…
車通るたびに波
都心で“10年で初”記録的短時間
大雨情報【報道ステーション】
(2024年8月21日)
こいつぁかなりやくい。