渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

グッドパフォーマー

2023年02月11日 | open







ちぎって真剣モードに入ってから
キュー交換。
ノーラップローズに替えた。
斎藤一の四条虎徹。
最高なのである。
どノーマルではなく、私用にいろ
いろカスタムしてあるがソリッド
感が良い。決してスティフではな
く。
最大加工内容がバットの太さで、
細く削った。太すぎて繊細な操作
性が低かったからだ。

バットの太さにはいろいろ理屈
があるようだが、手の大きさと
関係はない。
関係あるとするキューメーカー
もいるが、私は全否定する。
TZだけでなく、RSにしろワー
クスマシンにしろ、レーサー
スロットルが一様にかなり細い
のには意味がある。
また、ハーレーのグリップがレ
ーサーからしたらまるで牛乳瓶
であるかのように太いのも意味
がある。
それらには全て意味がある。
手の大きさ如何ではなく、それ
らの物体の寸法は、ある物理的
な法則によって規定されている。
手の大きさなど一切関係ない。
それを言うメーカーがいたとし
たら、それはあまりにも世の中
を知らなすぎる。
鉛筆がマジックのように太かっ
たら?書きやすいか?手によっ
て太さを選ぶのか?
否、である。
描画にしてもそうで、ごんぶと
の筆で細密画は描けない。
ビリヤードのキューもそうで、
手に合わせてテーパーや太さを
変えるのではない。
太さの選択は目的が異なる。
ハケで壁は濡れるが、ハケで
鉛筆のような細密な作業はで
きない、という定理だ。
その定理が、手に持つ道具と
してビリヤードのキューにも
発生している。
キューの太さがキューにより
異なるのは、使い手の手の大
きさなど関係なく、ある狙っ
た個体性能を付与させるため
だ。
手の大きさに合わせて云々など
という製作者がいたら、それは
事の道理が見えていないたわ
けである。
ビッグネームだろうが、そんな
事は関係ない。たわけはたわけ
だ。

TADキューは総体的に細めの
バットを旨としている。
これは、明確な狙いがあるから
だ。
なお、宮本武蔵は身長180程で
当時としては超巨人的な背丈だ
った。四肢も長く手も大きい。
だが、武蔵の使う刀の柄は極め
て細い。いわゆる武蔵柄。二天
一流は木刀もとても柄が細い。
薩摩流儀の逆を行く。
また、二天一流と対峙した新陰
流の柳生柄は細身であるだけで
なく独自の三角に近い断面を持
つ。
これらには全て操刀の術から来
る理論が背景にある。
使い手の体躯などは関係ない、
そんなものとは別次元の一つの
物理的な定理を基盤として寸法
出しが成されているのである。
これが真理だ。
ビリヤードのキューのバットの
太さもそれと全く同種の「ある
定理」に基づいて設計の狙いが
ピシャリと定めらている。
使い手の手の大きさや肉厚が
どうだからこうだ、などと言う
製作者がいたとしたら、あまり
にも世の中の「得物」の歴史と
先人たちが気づいた確定的な
事象に関する知見について疎す
ぎる。無知蒙昧だと断言できる。
椅子の高さを人によってアジャ
ストするのとは別次元に属する
事がキューや刀の柄や二輪のス
ロットルには存在するのである。
選択はその不動の定理を踏まえ
た上で「どこを狙うか」であり、
手の大きさが云々と言うのは、
別なファクターを誤認により主
軸に置いたもので、製作者とし
ての見識が低すぎる。
キューも刀もスロットルも、オ
ーダーメイドの仕立て服ではな
い。
抑えるべき物の道理を無視して
勘違いしてはならない。
規矩ニハ規矩の理有之ニテ御座候。


音確認

2023年02月11日 | open


3本ともスピーン音の快音。

いいみたい。


今夜は真ん中のスニーキーピート
を使う。



映画『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)

2023年02月11日 | open


心が揺さぶられる作品だ。
2006年以来、17年ぶりに観た。
この作品を観て、「昭和30年代
のあの頃はこうだった、ああだ
った」という事は言いたくはない。
作品として観る。
そして、作品として、清らかな人
世界を純粋に描いているものを
観て、どうして拒否できようか。
現実は違ってもいただろう。
だが、灯火の光は、いつも明るい。
それを否定する意識は、私には
無い。