渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

映画から判るその時代の世俗 『ギターを持った渡り鳥』(1959)

2021年01月09日 | open


『ギターを持った渡り鳥』(1959/日活)

のっけからこれだもんね(笑)。

どこの国よ?というのが「日活無国籍映画」
だ。
主人公の滝伸次は、銃でいくら人を殺して
も逮捕されない(笑)。
最後に警官隊が来て逮捕されるのは決まっ
て宍戸錠だ。
その宍戸錠(ジョー、マサ、テツ)の
役むきの最期は1970年の『ハレンチ学園』
だ。そこで、マカロニ先生(宍戸錠)に
撃ち殺されてしまう(笑)。
その時の登場の台詞がこうだ。
「チッチッチ。10年前、石原裕次郎に
殴られ、小林旭に蹴っ飛ばされまくって
たコルトのジョーとは俺のことだ」

さて、主人公渡り鳥の滝は函館の町に
流れ着く。元神戸市警のデカだった
事は物語の最後のほうで明らかになる。


そして、バー「ビオン」で白人に喧嘩
を吹っ掛けられている人を助ける。


突然登場する滝。
白人のマドロス(笑)のパンチを見事
にかわしてからウイスキー浴びせ!


だが、おかしいことに気づく。
上のカウンターにいる客たちの位置を
見てほしい。そこに滝はいないのだ。
しかし、突然ちょい前まで背広の
おっさんが座っていた角から6番目
の席にヒーロー滝は座って酒を飲んで
いるのだ。ギターの傾きも逆になって
いる。変なの(笑)。


しかし、このカットもおかしい。
一番奥の端のカウンター席に座ってる
のだ。
ところが殴り合いのシーンではそれ
より手前側の席にいたことになって
いる。
そもそも、その数秒前のシーンでは
そこは背広のおっちゃんがいたんだ
しよ~(笑)。
変なの(笑)。

映像の編集トリックで違和感がない
ように錯覚させるが、ちぐはぐさは
すぐに出る。映像は嘘つかない。
それに、チッチッチ。パッとその場
を見て、誰がどこに何人どういう
服着てどのような体勢でいるか、と
いうのは瞬時に見抜いて把握しないと、
ハジキを扱う奴は生き残れないのさ(笑)。

驚くママさん。ママでなくマダムか。

ラムが120円。サントリーオールドが
1杯150円だ。
レート相場は大体現在の1/10と思えば
遠くはない。
ダルマが1杯1500円というあたりの店。
ウォッカが安いね。1杯80円だ。


ママさんが色っぽい。これ、映像で
見た方が分かりやすい。この色香が
理解できるようになるには、修羅場

をくぐらないとならないという。
知らんけど。


このバーは同じ建物の中にダンス
ホールキャバレーがあり、生バンド
演奏や踊り子がステージで踊る。
その建物の2階には町を仕切る裏世界
の悪者の事務所。表の顔は実業家だ。
事務所へ続く部屋にはビリヤード
ルームがあり、四つ玉台が2台設置
されている。
驚くのは「カウントさん」と呼ばれた
点数数え専門の女性を雇っている事
だ。
四つ玉は紅白の4つの玉でプレーする。
白い手玉を決め、白-赤=1点、赤-白
=2点、赤-赤=3点、3玉当て=5点だ
ったが、後にすべて1点にルール変更
になった。持ち点を200点とかに決め
て対戦する。上級者はバンキングで
勝ったら大抵1キューでノーミスの
まま持ち点を撞き抜いてしまう。
それは、レール際に3個の玉をクラスタ
に固めて、それをコツコツと撞きな
がら三角形を崩さずにレールサイド
をずっと延々に歩き回る「セリー」と
いう撞き方をするからだ。
そのために、さらに難易度を上げる
ために、コーナー付近や四角囲いの
エリアでは的玉を一度外に出さない
と無得点とするボークラインが誕生
した。
カウントさんは、どの撞球場にもいて、
「ふたじゅうさん。ふたじゅうご」
というように、点数ごとに声を出して
告げたり、ボールをセットするのが
仕事だった。玉撞きができないと
やれない女性の仕事だった。

四つ玉は日本で生まれた競技だが、
非常に奥が深い。
海外での穴無し台でのキャロムビリ
ヤードは三つ玉か大台でやるスリー
クッションがメインだ。
英語のビリヤードとはキャロム競技
の事を厳密には指している。
穴入れ撞球はスヌーカーもしくは
アメリカン・ポケットビリヤード=
プールと呼ばれる。
日本では1980年代後半までは、日本
全国、四つ玉が主流だった。
しかし、映画『ハスラー2』(1986)
の影響で日本でもポケットが流行
し始めた。元々は京都大阪がポッケ
が主流だったのだが、プールは米国
でも「ギャンブルの為の撞球」である
ことが多かったので、日本ではあまり
普及していなかった。
フィリピンなどは今でもプールといえ
ば博打のことだ。ビリヤード=博打
でしかないのがフィリピンの事情だ。
金を賭けずにスポーツで玉撞きをする
人間はフィリピンには一人もいない。
金ではない、腕の勝負を本心では希望
する、という映画『ハスラー』(1961)
や『ハスラー2』(1986)でテーマに
なった真剣勝負精神などはフィリピン
には存在しない。ビタ一文だろうが、
金が賭けられないのならばフィリピン
では玉撞き対戦は行なわれない。
日本ならば麻雀がそれにあたるだろう。
警察官だろうが検察官だろうが弁護士
だろうが、金を賭けずに麻雀をやる
人を私は知らない。公的なプロ対戦
や大会麻雀以外の雀荘でのパイつまみ
は全部賭博が行なわれているのだ。


「うちで働かないか」と函館の町の
暗黒街のボスに誘われたが、主人公
滝はそれを断る。のちに用心棒で
働くのだが。
滝は、独り波止場(死語)でギターを
爪弾くのだった(笑)。
意味わからん。
だが、このパターンは、石ノ森章太郎
の『人造人間キカイダー』によって
引き継がれたのだった(笑)。
キカイダーのジローは凄かったなぁ。
機械だからか、手にグローブはめた
ままでもギターを爪弾けちゃったもん。
できるかっつーの(笑)。



映画のおかしいシーン 『渡り鳥いつまた帰る』(1960)

2021年01月09日 | open


『渡り鳥いつまた帰る』(1960/日活)

この作品の中で、致命的なミスがある。
早打ちで腕比べをする渡り鳥小林旭と
宍戸錠。
あきらかに宍戸錠のほうが早くビール瓶
を撃ち砕いている。
宍戸錠が命中させた時、小林旭はまだ銃
を構えてもいない。

ところが!


かなり遅れて撃った小林旭に対して、
まるで小林旭が先に命中させたかの
ように、宍戸錠は言うのである。

「やるじゃねえかよお」


いえ、錠さん。
あんたの勝ちですから(笑)。
しかも名前が最初登場した船の上では
マサという名前なのに、いつの間にか
途中からテツになってるし(笑)。
変なの(笑)。

日活無国籍映画渡り鳥シリーズでは
『ギターを持った渡り鳥』(1959)が
一番作品としては面白いように思える。
毎回どの作品でも話は同じ内容なんで
すけどね(笑)。
『ギターを持った渡り鳥』は映像描写
がとても美しいことと、函館の街を実に
綺麗に撮っている。まるでハリウッド
映画のように。あれはかなりいい。



三原城の濠

2021年01月09日 | open


本日、三原城の濠の水が異様に澄ん
いる。なんでだろ。




ここまで濠の水が澄んでいるのは見たこと
ない。


三原港の目の前にあるカネショウ。


元々は八百屋だったが、戦後にカフェと
り、大変人気のある店だった。
2階に港が見えるカウンターがあり、夜
は小洒落たパブだった。
私も高校生の頃から、三原に来るたびに
立ち寄っていた。この店から見る港の夜景
がなかなか良かった。
その頃、私はカティーサークのボトルを
入れていた。
今でこそ、未成年の喫煙や飲酒は厳しい
が、昔は社会的にゆっるゆるだった。
私の高校時代には、赤坂でダンスパー
ティーを開催したり、JAZZ喫茶で曲を
聴きながらジンを飲んだり、歌舞伎町や
池袋の居酒屋で文化祭の打ち上げ乾杯!
などは普通だった。
なんせ、高校2年の時のS特進クラスの
担任教師が家庭にうちら生徒を呼んで、
一緒に酒盛りしていたくらいだ。担任は
のちに開成高校に転職し、学年主任から
副校長(教頭)になっていた。早稲田文学
を担う人でもあった。
高校卒業直後に、2年次担任や英語教師
たちに連れられて、高校のそばのラウンジ
を借り切って大宴会をやった。英語教師
があれほど弾けた人だったとは、その時
初めて知った。店内駆け巡り大爆発の
大騒ぎだったからだ。
第一、大学1年はまだ18才でしょう?
大学では新入生歓迎コンパで大宴会の大飲
み会が開かれるのは世の常だった。18才
の新入生も飲まされる。酒を飲んだ事の
ない地方からの入学者は、宴会での一気
でまずあとでリバースモードになるのだ
が、都内の高校から都内の大学に進学し
た連中は、大抵はケロっとしてぐいぐい
とやっていた。
高校生も二十歳前の大学生も、旅行先など
では、ごく普通に喫茶店に行き、また、
夜はバーや居酒屋に行って酒を飲んだり
していた。
大学生とかは「パブ」に行く事が多かっ
た。今でいうと居酒屋チェーン店だろう。
40年程前は、チェーン店は少なく(養老乃瀧
はおじさんサラリーマン御用達だった)、
レストランのような洋風パブがリーズナブ
ルで流行っていた。銀座のライオン・ビア
ホールのような洋風の店が。
三原にあったカネショウも、東京のそんな
飲食店に雰囲気がとても似ていた。
東京に住む人たちは、やたらめったらと
外食をする。東京横浜で一番多い店舗の
職種は外食産業だろう。

三原のカネショウは今は建物は貸し出し、
カネショウさん自体は、棟内の1階の一画
に小さな喫茶店を経営している。
外装内装はリフォームされているが、基本
は戦前の造りのままだ。
現在、角地は1階2階ともダイニングとして
別店舗が営業している。


向かいは三原港。



新しい観光船が三原から広島市内まで就航
しているようだ。知らなかった。
これ、何だか面白そう。




1966 昭和東京

2021年01月09日 | open

Everyday life in bygone days in Tokyo,
1966 昭和東京

私が5~6歳の時の東京はこんな感じ
だった。



これまた貴重な映像。
1961年の東京環状七号線だ。
#昭和の東京シリーズ 第5回 車載カメラが
捉えた昭和の東京 環状七号線
(昭和36年(1961年))

私が1歳の頃の映像だ。
その頃は環状六号山手通り
沿いの中目黒
の住宅地に住んでいた。

このあたり。中目黒が都電の終点だった。


ロシアの爆竹

2021年01月09日 | open

【危険】ロシアの手作り爆竹‼
もうこれ玩具の域超えてるだろ!


これは危険。完全に爆薬ですね。