知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~
どうしてSK材の全鋼肥後守なのに、研ぐ
とこうした日本刀のような景色が出てくる
んでしょうね。
まあ、この景色はまさしく熱変態の姿その
ものですし、それを出すには研ぎ方にも
よるのだけど、日本刀研磨に準じた研ぎ
をしてあげると、このような鋼の素顔を
引き出すことも可能な訳です。
青紙挟み込み利器材の肥後守よりも、全
鋼の肥後守のほうが研いでいても面白い
のは、こうした鋼の素顔をやり方次第で
引き出せるからです。
これ、人造砥石だとこの研ぎは出来ませ
ん。
無論、化学薬品などは使っていません。
砥石のみです。
まあフェザーはかつぶし削りのつもりで。 というか、鰹節をナイフで削る人はいない
けど、要するにカンナかけのつもりで薄く
長く削ると着火しやすい。
もっと着火しやすくするのは、マッチ棒
程に細いフェザーにするのだが、それだ
と点火して着火して火がついても、すぐに
燃えてしまい、スティック本体には引火
しない。
引火させるには、温度を100℃以上に加熱
させて可燃ガスを出させなければならず、
フェザースティックをティンダー=焚き木
にするにはそのあたりが難しい。
最初から油脂分の多いティンバー木片を
ティンダーとすればかなり楽になる。
油脂が燃料代わりに燃えるからだ。
この刃先の整え研ぎの後、私は特殊な研ぎ
を施して切れ味を増す。
切り味は私の好みの切り味にアジャストさ
せる。
ウルトラマイクロベベルの設置は、野外 刃物では必須だ。
一、二回のみ切れるのでいいならウルトラ
マイクロベベルは要らない。
しかし、アウトドア汎用ナイフや皮剥ぎ
ナイフ、雑用、調理ナイフにおいては、
ウルトラマイクロベベルの付加は絶対条件
だ。
超マイクロベベルを研ぎ落としてベタ刃で
野外活動に臨もうとするのは、それは刃物
の素人。
よく論理的、理論的に解析してみるとい
い。整合性も合理性も一切具備していな
い。刃物を解ったようなつもりになって
いるだけだ。
事の真贋は、野外人ならば自分自身で確
かめよ。
ビシッとした刃付けができたならば、その
刃物の恐ろしい切れ味と刃持ちを知る事だ
ろう。
そして、それが自分好みの切り味となって
いたならば、それは使用者として至福だ。
その時君は、単なるナイフ使用者から物切
人へと変身する。玄人の世界に入るのであ
る。
黙っていても、そんな自分にはなれない。
野外人ならば自分でやるしかない。
君よ!嵐の中に起て。
遅すぎるよ。
まあ、トラベル中止宣言直後に首相自ら
宴会やって開き直ってるような国だから
な。
「俺はコロナには負けない!マスクなん
て必要ない!」と言ってた奴の真似して
んのかも知れないけどさ。
で、コロナにかかってやんの。
罹患した後も「コロナになんか負けな
い!」と強気アピールして、選挙に負け
てたら世話ねえよ。
今こそ、首都圏だけでなく、不要不急の
外出と集団会合は全国的に控えるべきだ
ろう。
でないと、もうどうしようもないところ
まで来ている。
広島県内も医療機関等は厳戒体制で臨ん
でいる。
ほんとにやばいんだから。
多分、1月末には、日本国内では死亡者
が続出すると思われる。
(古刀三原)
古刀とは江戸期慶長以前の日本刀の事を
指します。
新刀とはそれ以降の刀剣の事。
さらに古刀の中でも「古〜」という呼称
が類別的に用いられます。
古備前や古三原がそれにあたります。
これらは平安末期から鎌倉、南北朝時代
までの刀をそう呼びますが、古備前の場
合には主として平安末期源平時代から鎌倉
初期の物を狭義には指します。
三原物(備後刀)の場合、古三原というと
南北朝時代まで下る作も古三原と呼ばれ
ています。
ここで、大切な事を何故か刀剣界の多くの
人たちは見落としています。
それは、中世にあっても三原物と呼ばれた
備後刀はどこで作られたのか、という事
です。
三原という現在の場所が三原と呼ばれる
ようになったのは、天正8年(1580年)に
三原城ができて以降の事です。
それまでの三原はこのような場所でした。
(想像図)
重要なことは、鎌倉時代や南北朝時代、 室町時代の人たちは、三原と称する刀が
この海の場所で作られたのではないこと
を確実に知っていた、ということです。
地面が無いのですから、当然です。
では、三原と呼ばれる刀はどこで作られた
のか。
これは、地形的な事実から、現在の三原城
のある三原でない事は確実ながら、一つの
事実が浮かび上がります。
それは、「三原と呼ばれる場所は現在の
三原(狭義の三原。三原城のある三原)では
なく、別な場所に三原と呼ばれる場所が
存在した」ということです。
「三原」については、もう一つ、不可解な
謎があります。
これは伝統鍛冶職の方や刀鍛冶や日本刀
研究者の方はご存知の「三原鉄」の存在
です。
三原鉄という鉄は地鉄系ですが、現存して
います。高級刃物にも貴重なその残存鉄が
使用されたりもします。
ところが、この三原鉄なる鉄がどこで生産
されたのか、一切明らかになっていないの
です。
これはかなり不思議な事。
出雲鉄や備州の赤目(あこめ)などは産地が
比定されていますが、こと三原鉄だけは
一切不明のまま。
三原城築城後に三原鉄なる鉄を産出した
という記録もありません。
ではどこの鉄のことなのか?
このことからも、三原とは現三原=海が
埋め立てられて陸地が出現した場所の事
ではなく、戦国末期以前の古墳時代から
陸地のあった場所のどこかを「三原(柞
原)」と称していた、ということになりま
す。
紀記古書にある柞原の「柞」とは、生い
茂った山林のことを表しています。海で
はないし、もちろん見通しの良い原でも
ない。三つの原が合流した場所を三原と
呼んだ、とするのは後世の付会であり、
三原城築城までは城背後の原=谷戸(やつ)
は繋がっていません。
行政が説く説が正しいとすると、築城以前
に三原という地名が存在したこととの整合
性は不在になります。
三原とは三原城の作られた海辺ではなかっ
たという事実が類推ながら浮上するので
す。
三原城築城後に、城内三之丸の鍛冶場で
作られた刀は、当然現三原で作られた三原
刀ということになりますが、それ以前の
いわゆる「三原」と分類されている刀剣群
は、三原城のある三原ではない別な場所で
製作された。これは物理的事実です。
しかし、刀剣界では、古三原さえも「現在
の三原で作られ」などという世迷言がまか
り通って開設されています。
あり得ない事なんです。
例えば東京月島は明治に造られた人工島で
すが、「虎徹は月島で鍛刀し」とか言うよ
うなものなのです。古三原を現三原の地で
作られたとするのは。
私は、「三原」という刀剣界の分類表現
は廃棄して「備後」とすべきだと思って
います。三原とはどこのエリアであったの
か学術上も皆目不明なのですから。
備後刀ならば完全に間違いはない。
備前刀のように備後刀で区分することが
最適で整合性を持つ。
これは私が私的に思う思わない関係なく、
それが実理です。
ただ、大雑把な区分けとしては、「かつて
三原と呼ばれていた刀工群」としての意味
を含んで「三原」と称するのは差し支えな
いかと思います。
しかし、古三原を「現在の三原の地で
云々」と言うのは、明らかな間違いです。
三原刀の来歴や系統を専一的に決めつけ
た佐藤寒山先生は、三原が洋上に造られ
た人工城郭都市であった事を知らなかっ
たのでしょうか。
三原刀が大和鍛冶の影響云々も多いに
疑義がある。
それならば、鵜飼や青江も大和鍛冶の
影響なのか、となる。
そして、三原の祖と佐藤寒山が決めつけ
た備後国分寺助国は、古書には備前一文字
の流れとあるに、作風が直刃調小乱れを
以て、三原の祖としてしまった。
芦田川流域刀工群との類似性、日蓮宗と
関係の深い芦田川中洲(後世に河川の流れ
が移動して中洲となった。元は川沿い)の
法華一乗鍛冶との作域の差異をも無視し
て決めつけた。
権威主義者が決めつけを行なうと、斯界
の提灯待ちたちはひれ伏します。
結果「古三原は現在の三原の地で」という
ことを平気で言うようになる。
間違いは間違いです。
国王が言おうと、間違いは間違い。
三原に地面は無かった。
当然、そこでは人も住まず、作刀などは
絵空事なんです。
三原城築城後は、備後鍛冶や備中鍛冶が
招聘されて作刀していました。
尾道の辰房という三原派に分類される鍛冶
も、来歴は不明ですが、末裔は備中鍛冶と
合流し、また青江系の流れと合体して、
備中水田鍛冶の一族となったという伝が
残されています。
水田はさらに各地に転じるのですが、やが
て代々国重を名乗るようになります。
苗字は大月。
一門一族は、3代目が古刀備中備後の造り
から一挙相州伝に転じてからは人気が爆発
しました。
江戸期の刀剣書をみると、虎徹よりも高値
で水田国重(大与五)が取引されています。
江戸期の虎徹や幕末の清麿(すがまろ)が
超高値になったのは、講談や小説の影響
によるものです。
それは、肥後国菊池の同田貫(どうだぬき)
にもみられました。
劇画とドラマ、映画の影響で、劇中で主
人公に使用された「胴太貫(どうたぬき)」
という架空の刀が肥後の同田貫と音が似て
いるので誤解されて、実際の刀剣市場でも
同田貫が一気に高騰しました。
まあ、これは俳優の萬屋錦之介さんが
買い占めたというのもありますが。
数百口の同田貫が氏によって買い占められ
て市場価格が爆発したというのもありま
す。
萬屋さんの死後、数年したら市場に同田貫
が溢れましたが、価格は値上がりしたまま
となってしまいました。
それまでは、豊後高田刀と同程度の市場
価格でしかなかった「脇物の下作刀」と
刀剣界中央によって見下されていたのが
肥後同田貫だったのです。軍刀のような
扱いで。
そうした事をしてきたのも、日本の刀剣界
の中央を牛耳る権威主義者の勢力がやって
きた事です。
脇物の三原刀などは、「下作も下作の束
刀」くらいの扱いでした。
三原正家は天皇の御物にもなっていたの
に(笑)。
権勢欲、金権に目がくらむと、どうやら
肝心の刀まで見えなくなるのが天が我ら
人間に下した理のようです。
備後三原派の流れを汲むとされる備中水田
国重。(山城大掾源国重、大月伝七郎作)
尾道の「三原刀」である古刀辰房。
北欧ラップナイフのスカンジグラインド がなぜセーバーグラインドと呼ばれたか。
それは、文字通り刀剣(セーバー/サーベ
ル)の断面形状だったから。
日本の鉄器刀剣は2世紀に中国から伝来
した内反素環頭大刀(うちぞりすかんとう
たち)に始まる。
分類では切刃造と呼ばれる現在の北欧の
ナイフと同じ刃の形状になっていた。
この切刃はのちに後退して「鎬(しのぎ)」
を形成する。年代とともに棟側に寄り、
大和伝では中央付近だったものが、備前伝
登場の頃には中央より棟側まで鎬は移動し
た。
帝室技芸員宮本包則83歳の作(復元刀)
弥生時代に大陸渡来の内反りだった刀剣
は、やがて直刀となり、その後、東北の
蕨手刀の影響を受けて反りを持った湾刀
に変化して行く。
大和朝廷に叛旗を翻した平将門軍が反り
のある湾刀で朝廷軍を圧倒した事が記録
に見られる。
平将門は、盛んに地元で独自の方法で自家
製鉄を行ない、刀剣と鉄器を生産した。
平将門の製鉄炉(復元)
農具に使われた鉄器は、開墾進展や農作物
の増産をもたらし、土地が富む。鐵こそは
金(金属)は王哉(おうなり)であった。鐵を
制した者がこの世を支配した。
将門軍との緒戦で直刀が折られて敗退した
朝廷軍は、自らも湾刀を作らせて対抗し
た。
そして、大和朝廷お得意の飴と鞭の騙し
裏切りの強要の謀略で周辺を傘下に収め、
将門軍を包囲して壊滅させた。
大和朝廷は遠くヤマト連合政権成立以前
のクマソ「征伐」の頃から、人を騙して
欺いての毒殺や暗殺等の汚い手で事を為し
て来た。それは江戸幕末戊辰戦争でも励行
され、さらに明治になっても薩摩に対して
敢行された。日本ほどいかにも権力者らし
いこ汚い手口で権力を行使して来た国はな
い。「美しい神州日本」などという世迷言
で目に鱗をうかうかつけていると、自分も
その人騙しの裏切りの汚い側の人間に与し
てしまうので、人としての道に外れたくな
いのならば注意が必要だ。
湾刀の発生を以って日本の刀剣は「日本
刀の発祥」となす。
当初、その湾刀は東北で捕えた刀剣製造
者が捕虜であったため「俘囚の剣」と呼ば
れていた。
朝廷は、捉えた俘虜たる刀剣生産者を
日本全国各地に派遣集住させて刀剣を
生産させた。
それゆえ、日本刀の謎の一つでもある、
全国同時多発的に時を同じくして各地の
刀剣産出が勃興したという現象が発生し
た。
日本刀が天から降って来たように遠く離れ
た全国各地で同じような形状で発生した
のは、そうしたまさに「天から」降った
政策によるものだった。
中世以降のように私的生産者などいない。
全て「官製」であり、完成品は朝廷が召し
上げた。それらは、整備された古代街道
を荷駄に積まれて全国から中央に集められ
た。
全国に産鉄民と鍛冶を派遣集住させた地は
全国で一様に「別所」として置かれた。
普通の場所ではない「別な場所」とされ
たのである。特別の場所ではない。別物
の場所という排外主義的な意味だ。
こうした手管はヤマトは得意で、征服した
者たちを集住させた隔離コロニーやそこ
に移住させた人民を鬼、鹿、龍、葦(吉と
同、悪し衆の略)、と呼んだ。悪し原を
吉原と呼ぶような佳字変化させて煙に
巻くことも起きた。出雲国風土記等には
それが顕著に現れている。
元々刀鍛冶は征服された俘虜ゆえ、被差
別民としての立場にさせられたのであ
った。
日本刀となる湾刀は捕虜となった敗北者
たちが生産していた刀剣であったという
厳然たる事実から目を逸らしてはならな
い。それが日本刀の歴史の事実だ。
その製鉄製剣技術を簒奪して御剣(みつる
ぎ)としたのが朝廷だったのである。
フツノミタマノツルギと呼んだ原初聖剣は
大陸渡来の内反素環頭大刀(うちぞりすか
んとうたち)であった。国産ではない。
国産の聖剣とした「日本刀」は、制服し
た俘囚の剣が原初だったのである。
それは、東北の刀剣こそが日本刀の原形
であったことを指し示す。
日本刀の歴史にこそ、日本の権力者による
簒奪構造と体質が如実に現出している。
そこは事実であるので、日本刀を歪んだ
視点で美化するのは美化ではなく愚だ。
よく日本刀の反りは騎馬戦に適した云々
という説がまことしやかに言われること
があるが、それは大いに疑義がある。
なぜならば、当時の日本の産駒は、乗馬
戦闘に適した体躯ではなく、あくまで移動
による機動戦用だからだ。馬上から大刀
(たち)を使うなどは後世夢想のファンタ
ジーだ。
日本刀の湾刀は反りを持った蕨手刀など
から来た流れだ。馬上戦闘の騎馬戦に適し
た云々は夢想である。サッと馬で移動し、
下馬して戦闘におよんだ事であろう。
日本刀を「俘囚の剣」から発生したもの
ではないとしたがる視点が、そうした
日本刀の反りの発生等に対して非現実的
な想像を以って創作を開始する。
ましてや、湾刀たる日本刀は朝廷が初めて
作り出した物であるなどと言うに至って
は論外だ。舞草刀の存在の説明がつかな
い。
そして、さらに重大な事実がある。
湾刀たる刀剣=のちの日本刀を保持した
のは朝廷の貴族ではない、という歴史的
な事実だ。
原初は朝廷は直刀。在郷武士は湾刀。
日本刀は武士が所持した。
平将門などは典型だった。
国内各地の完全制服に朝廷は600有余年の
歳月をかけたが、各地に残る武装して在地
で治世を張る集団は古代末期まで多くい
た。
これは朝廷としては看過できなかった。
武士を使って武士団を制圧させる事をやる
しかなかった。
しかし、それがあだとなり、やがて武士は
朝廷から政治実効権力を奪取して、自らが
国の政治を執り行なうようになった。
奇しくも、それは平将門、藤原純友の挙兵
を制圧する事により、天皇親政たる古代の
終焉をもたらし、封建領主が全国を散在的
に治めるという「中世」の登場となった。
西洋にみられる「中世」は、アジアでは
唯一日本のみに存在した。
日本刀こそは武士の物なのだ。使うのも
武士だ。貴族が戦闘する訳ではない。
貴族は後方の安全地帯から指図するだけ
だった。それはやがては権力を失う。
軍事力、暴力装置は装置ではなく統治者
そのものになるのは自然の流れだからだ。
理由は明白。
生死をかけた戦闘現場は、全て武士が
担っていたからである。
その修羅場の戦闘の現場で血にまみれて
刀剣を使っていたのは武士なのだ。貴族
ではない。
現場を知る者が、それにより全てを円滑
に執り行なう現実主義を実践しようとする
ように動き始めるのは人の世の道理である
のだ。
やがて武士たちは、貴族から政権を奪取
して「自主管理」としての武家政権を確立
したのである。形の上では朝廷や貴族は
温存させておきながら。
日本刀こそは武士の剣、武人の刀なので
あった。
武士はただの戦闘者ではない。武を以って
為政を成すのである。歌詠み鞠蹴りでどう
して国を護れようぞ。
それが武士だ。
貴族は国を護らない。
まして、民などは、虐げて搾取するだけの
下々としか考えていない。
国と民を護り守るのは武士であり、その
武士の魂が日本刀であったのである。
ちなみに武士の士という文字は、斧のよう
な刃物を表す象形文字から来ている。
士は生まれた最初から刃物あり、なのだ。
80年前に言うと投獄されるようなこうした
事こそ、真(まこと)の日本の歴史の真実で
ある。