泣いてもいいだろう。
泣きたければ。別な場で。
だが、相手への礼さえも忘
れ、会場で感情のままに場
もわきまえず号泣して試合
運営を妨げたのは紛れもな
い動かせない事実だ。
泣くならば、独り人知れず
泣けばよいではないか。
武道家ならば。
甘やかしてベタベタ慰める
人々は、詩選手を擁護した
いあまり、柔道の本質と大
切な柔道の心さえも踏みに
じろうとしている。
「人として」とかの偽造美
辞麗句を枕詞にして。
人としてであるからこそ、
柔道が柔道の一番大切な
事を無くしてはならないの
だ。
柔道の心を捨象させて行く
疑似的な虚構のいたわりに
よって、武道の尊厳を根底
から踏みにじる。ニセモノ
のナァナァよしよしの慰め
で。
それは断じて許せない事な
のだ。
相手への礼無き柔道は、も
はやただの軍鶏の喧嘩だ。
武道は殺人テクニックとし
て鍛錬された時代の武術で
はない。「道」なのだ。
心得違いを心得違いである
と教育指導しないのは、そ
れはもはや武道でも何でも
ない。
かつて、モーターサイクル
ロードレースで日本で初め
て女性で国際A級になった
小沼賀代子選手は、ノービ
ス時代にワンワンと大声で
泣いた。サーキットで。
「男に負けた」と泣き喚い
ていた。見ていて痛ましく
なる程に。
だが、それはそれでもいい
のだ。ロードレースは日本
武道ではないから。
日本の武道家としての心得
が厳格に求められる武道の
場ではないから。
だが、柔道や剣道や合気道
や弓道や相撲等の場でそれ
をやっては絶対にいけない
のだ。
ましてや、試合の相手への
礼を忘れる無礼を働いて、
試合進行を妨げる事まです
る試合会場で試合直後に号
泣して居座るなどというの
は、あってはならない事な
のだ。それはたとえスポー
ツ化されて国際的に世界で
競技されるようになった
柔道でさえも。
否、柔道であるからこそ、
やってはいけない。礼を
忘れる行為は一切。
剣道ではガッツポーズを
したら即失格だ。敗れた
対戦相手を慮らず、自己
欲しか大切にしない心は
邪心である、という日本
の精神がまだ剣道の世界
には「伝統的な日本人の
礼節」として生きている
からだ。相撲もガッツポ
ーズは禁止事項になって
いる。
私は柔道を知らない訳では
ない。
小学生時代は剣道と共に柔
道もずっと道場に通って学
んでいた。柔剣道をずっと
やっていた。
そして、今でも私は剣道連
盟に属している武道に身を
置く者だ。
金銭的不正や人に対する嘘
偽り、試合上の不正、礼節
の無視などは武道に身を置
く者は絶対にやってはいけ
ない事なのだ。
それを忘れるならば、武道
の世界からは身を引いて別
のエリアに行った方がよい。
これは段位や実力の優劣、
知名度などは一切関係ない。
武道をやる全ての人間に課
された絶対命題なのだ。
心無き武道などは、ただの
相手を倒してやり込めて喜
ぶ事に価値を求める非人間
的な腕力でしかない。
やめたまえ、腕力は。
それは、柔道の心でも剣道
の心でもない。
心正しからずんば、剣体また
正しからずだ。
君よ、人が人でなしになる
事に武道を利用するのはや
めよ。周囲も含めて。
原点をもう一度見つめよ。
柔道の心「自他共栄」から。
「自他共栄」
(嘉納治五郎の教え)
自他共栄とは柔道の開祖嘉納
治五郎が掲げた柔道の指針。
相手を敬い、感謝する事で信
頼し合い助け合う心を育み、
自分だけでなく他人と共に
栄えある世の中にしようと
いう理念。
他人のために尽くす事に理由
を求めるのではなく、自らの
保身に走らず他人のために尽
くす事の大切さを説く。
その心が無く、自分勝手な行
動ばかりでは、やがて己も人
も破滅させてしまうという事
を戒める柔道の最重要な教え。
嘉納治五郎が掲げた柔道理念
の大切な教えが「自他共栄」
である。
これは「柔道の心」の一つと
なっている。
柔道を学ぶ者は、この柔道理
念の教えをまず学び、礼の意
味と深さを知りて実行する。