バイブルサロン

礼拝説教、聖書を読んで感じた事

主の名のもとに集まる(Y師)

2020-06-21 06:45:55 | 礼拝説教
2020/6/21 礼拝説教
【テーマ】 信仰生活の五原則
【説教題】 「主の名のもとに集まる」
【聖書箇所】 マタイ18:20
【新改訳2017】
マタ 18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。

① 信仰生活の五原則
1.祈る 2.聖書を読む 3.集会に出席する 4.奉仕をする 5.献金(ささげもの)をする が五原則なのだが、これらを守っているなら、私たちは信仰を維持することができるのである。
「祈る」とは、祈りは願い事ばかりを言うことではない。神に感謝を献げ、ほめたたえ、主の声を聞くのも祈りである。「聖書を読む」では、私たちは神の口から出る一つ一つの御言葉(聖書の言葉)によって、御言葉を命のパンとして生きている。「集会に出席する」はこの後詳しく見るとして、「奉仕をする」のは、教会の実際的な働きのために必要である。礼拝の司会、手話通訳、奏楽、PA、受付、献金係、会計、清掃、週報準備、礼拝を休まれた方へ礼拝DVD、CD、週報の発送等々、数え上げると次々出てくる。このように誰かが奉仕をしてくれるお陰で、私たちの信仰生活が守られている。また実際にそのような奉仕ができないと言われる方がいても、教会のために祈るということも大事な奉仕である。そして「献金」は、建物の維持、水光熱費、印刷物の発行、郵送費など、実際の運営に使用される。

② 集会に出席する
 私たちは信仰を守るために、主の名によって集まることをやめてはならない。
先日5/31はペンテコステの日だった。これは、日本語で「五旬節」と訳されるが、五旬節とは、五十日目の祭という意味のギリシャ語に由来する。大麦の収穫の初穂の束をささげる過越の祭から五十日ということで、「七週の祭」、「初穂の日」とも呼ばれ、仮庵の祭とともに、ユダヤの三大祭りとされていた。この日、弟子たちや、主の名によって集まる人々の上に聖霊が注がれ、教会が誕生した。
 使徒2:1「 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。」主はエルサレムを離れないで留まっていなさいと言われた。そして皆が集まっていたところに聖霊の御業が起こった。その場にいた人々はペテロの説教に導かれ、三千人の人々が主を信じたという。
使徒2:40 ペテロは、ほかにも多くのことばをもって証しをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って、彼らに勧めた。2:41 彼のことばを受け入れた人々はバプテスマを受けた。その日、三千人ほどが仲間に加えられた。:42 彼らはいつも、使徒たちの教えを守り、交わりを持ち、パンを裂き、祈りをしていた。:43 すべての人に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行われていた。:44 信者となった人々はみな一つになって、一切の物を共有し、:45 財産や所有物を売っては、それぞれの必要に応じて、皆に分配していた。:46 そして、毎日心を一つにして宮に集まり、家々でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、:47 神を賛美し、民全体から好意を持たれていた。主は毎日、救われる人々を加えて一つにしてくださった。
 ここに教会が生まれたわけだが、教会はギリシャ語でエクレシアと言われる。私たちの教会は「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド教団」に属しているが、「アッセンブリーズ・オブ・ゴッド」とは「神に召し出された者の集まり」すなわち、ギリシャ語のエクレシアを英訳したものなのである。「神に召し出された者の集まり」は、世と時代の邪悪さに目覚め、キリストの救いと恵みに生きる者となった信徒の共同体、つまり主の名による集まりである。人々は「使徒たちの教えを堅く守り」、「交わり」をし、「パンを裂く(聖餐にあずかる)」生活をしたのだった。

③ 主の名によって集まる
 「集まる」という御言葉は複数あるが、「主の名によって集まる」ことに関連して、ヘブル書には次のような御言葉がある。
ヘブル 10:25 ある人たちの習慣に倣って自分たちの集まりをやめたりせず、むしろ励まし合いましょう。その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか。
 私たちは、孤立を避けて、いっしょに集まることをやめてはならない。この御言葉によると、「ある人たち」はキリスト者の集会から身を引いてしまったようである。教会は、育った環境も考え方も違う人々の集まりである。そこには当然衝突もあり、心を傷つけられることもある。あるいは、集まることで、わずらわしさを覚えたり、優越感のために集会から何も得るところがないと考える人もある。それゆえ、教会を去ることになり、非常に残念だ。しかし、「その日」、つまり「キリストの再臨の日」は近づいている。「その日」はいつなのかはわからないが、私たちは御霊に導かれて進まなければならない。聖霊に導かれて歩むとき、どのような環境下に置かれようとも正しく生きることが可能なのである。私たちは、このような時代であるからこそ、一人にならず、また独りよがりの信仰に陥ることなく、集まって互いに励まし合うことが必要である。
 そして最後に、今日の説教の聖句マタイ18:20とその前の:19を見てみよう。マタイ18:19 まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださいます。18:20 二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです。
 実はこの御言葉は、罪を犯した兄弟に対する愛の態度を表している。教会という人々の集まりは、罪人の集まりでもある。私たちは罪を悔い改め、主を信じる者になったとしても、この肉体がある限り「罪人」である。そのために、教会という人々の集まりの中で、ある人を傷つけたり、家庭や職場、学び舎などで罪を犯してしまうこともある。しかしそのようなことがあろうとも、複数のものが心を一つにしてその人が悔い改めて主のもとに戻ることを祈るなら、主はそれをかなえてくださる。小さい者が一人でも滅びることは神のみこころではない(マタイ18:14)。それゆえに、神の御旨を熱心に求める者たちの中にイエス様も共におられるのである。

結び)私たちは、信仰生活において孤立してはならない。主の名のもとに集まろう。そこには、あなたの信仰を支える人々が共にいる。そして、イエス様も必ずそこにおられるのである。

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