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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

まぐれと思っていた

2020-06-27 17:35:17 | 礼拝説教
2020/6/28 礼拝説教
【テーマ】  神の恵みのすばらしさ
【説教題】 「まぐれと思っていた」
【聖書箇所】 エペソ2:8-10
2:8 この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。
2:9 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。
2:10 実に、私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをあらかじめ備えてくださいました。

○ 皆さんは「まぐれ当たり」の経験はありますか? 今日はまぐれ大当たりした人の話をします。
 
Ⅰ.私たちは恵みによって救われた
A.恵みによって
1. この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 とありますので、 この箇所を共同訳聖書で見ますと エフェソ2:8 あなたがたは恵みにより、信仰を通して救われたのです。それは、あなた方の力によるのではなく、神の賜物です。 とあり、二つ並べてみるとより分かりやすくなります。ただただエペソ教会の人達は神の恵みによって救われました。私たちもです。
2.「恵みとは何か?」というと「あわれみ」という意味もあり、私たちに対する神の無条件な愛をいいます。つまり、恵みとは、全く値しない者に注がれる一方的な神からの賜物です。人間的に見て価値がある場合、「だからあの人は選ばれたんだな」とか「あの人はできるからこの職に就けたんだ」とか言います。こういうのは私たちにとって普通ですが、そういうのがないのに選ばれたことです。

B.行いによらない
1.日本人は「恵み」がよく分かっていないと言われるそうです。恵みの反対の「報い」という考え方が強いのだそうです。「頑張らねば」という考えです。
2.何かをすれば救われるというのは分かりやすいのでしょう。例えば「お金を積めば救われる」「良いことをすれば救われる」などです。しかし、こうした行いは人によって差があります。全ての人に差がないのは神の基準の「義」で見たとき、その義を行える人はいないという点です。

 そこで、今日は私に与えられた神の恵み、私の力によらない。私の行いによらない恵みを証します。気楽にお聞きください。

Ⅱ.まぐれと思っていた
私が牧師に選ばれているのが正にそれ「恵み」です。今日は、この後私の証をします。神の恵みと気付くまで単にまぐれと思うような人生でした。私はかつて自分の人生を「まぐれ人生」と言っていました。
「神の恵み人生」と呼び変えた方が良いのだろうと思うのですが。とりあえず大学受験ぐらいまでさかのぼることにしますと、私の入学できた大学はとても私の学力では入学できなかった大学です。それは模擬テストでもはっきりしていました。
私は比較的数学が得意だったのですが、この大学の赤本では40点がやっとでした。しかし、当日、私は100点を取ってしまいました。
続いて卒業後、教師採用試験。私の学力では当たり前ですが、1年目は落ちました。教師を諦めて他の職探しをしようとしたものの、もう見つからなくて、友人から教えてもらった講師の申請に教育委員会に行きました。ものすごい数の講師申請の履歴書が見せられて、「今頃来ても遅いと思いますよ。他の皆さんは早くから申請しておられますよ。無いものと思って他も当たってください」と「講師は無理ですよ」と言われたので、これもだめだと思って、バイト探しを始めた矢先、教育委員会から電話があり、「すぐに来てくれ」と。行きましたら、「障がい児学級の産休講師をしてくれないか」と。「もちろんします」と。なんとすぐに講師の道が開かれました。なぜでしょうか?それは障がい児学級の担当者が産休で産休講師が求められたからです。しかも、その先生の免許である「美術」の免許を持っていなければなりません。が、学校から要求されたのは「障がい児教育の免許を持つ人」だったのです。この二つの免許を持っていたのはあの何百という履歴書の中で私だけだったのです。お陰で私は数日待っただけで講師になれました。なんとまぐれ。
そして、7月末で産休の終わった先生が来られるので、私はまた職探しかと思いきや、もう一人の先生が産休に入ることになりました。でも、この先生は家庭科の免許です。ところが、主任と校長がかけ合ってくださって私は12月1日まで講師を続けられることになったのです。しかも12月1日にボーナスをいただいて辞めるのです。本来ボーナスは12月1日に働きを再開した正教師の先生の方に出るのです。もちろんその先生はボーナスをもらうために12月1日に仕事を始めます。2日だともらえませんから。すると、私はもらえないで11月30日付で終わるところだったのです。ところが、校長が「藤井君、ボーナスが出るかもしれんぞ」と言って教育委員会に行かれました。そして市役所から電話がかかってきて「ボーナス出るぞ!」と。わけのわからない私は戻って来られた校長にわけをお聞きすると「講師と引き継ぎの日は一日」という規定があるのですが、7月末までずっと障がい児学級を見ていましたので、次の産休の先生と引き継ぎをしていなかったのです。「引き継ぎは最初でも後でも良い」という規定によって、私の引き継ぎが12月1日になりました。そこで、二人とも12月1日に働いていることになり、二人共にボーナスが出るということだったのです。「こんなケースは初めてや」と教育委員会でも言っていたそうです。まぐれです。
それから2週間間が空いて中学校の事務職の産休講師になるのですが、「事務の経験なんかありません」と言ったら、「かまわん、やってみろ」と。2週間は遊ぼうと思っていたら、三日目に教育委員会から「すぐ来い」の電話。「小学校の六年生の担任をしてくれ」です。「えええー、小学校の免許持ってないです」「いいから、10日間だけだから。担任が病気で出てこれなくなって、教頭が代わりを務めていたけど、限界や。しかも君が中学に行く前日までだから、ちょうどいいんだ」と。私は10日間小学校六年生の担任もしたのです。その翌日から中学校事務室です。そして、産休明けの事務職員さんが戻ってきました。今度は試験に合格していましたので、私は正式に採用されるのです。まぐれだらけです。
ここまででもまぐれだらけですが、中学校の正教師になるときも、教師になってからもまぐれの連続です。

Ⅲ.行いによらない
本来入れる学力がないのに大学に入れたのはまぐれ? 恵み?? そのように私が救われたのは私の力によらない、神の恵みです。私は本来天国に入れる資格が無いのです。それなのに天国に入れたのはなぜでしょうか? それは神様の一方的な恵みなのです。

★ 私の証をしましたが、皆さんにもあるのではないでしょうか。神の恵みによって救われたと同じように、今まで不思議なまでに神の恵みを感じる事が。神の恵みを自分の力や何かと思わないでください。私たちの救いは私たちの何かを神が見てくださったというのではなく、私たちを救いたくてたまらない神の愛がそうさせたのです。