2020/9/27 礼拝説教
【テーマ】 祈りを再考する
【説教題】 「内なる人が強められるように祈る」
【聖書箇所】 エペソ3:14-16
3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
○ 私たちは常に「祈りとは何か?」という問いを持ちつつ祈っているのではないかと思います。今日のテキストにはパウロの祈りが出てきます。
Ⅰ.膝をかがめて祈る
A.ひざまずいて祈る
1.私にはひざまずいて祈るという習慣がありません。信仰を持ったときの教会でも、その後に行った教会、そしてアッセンブリーの高槻キリスト教会に行った時もそういう祈りをしていかなかったからです。
2.神学生の時、ある教会に派遣されて祈祷会に出席した時、祈りの時間になると一斉にみんなが反対を向いたので、私は何事が起こったのかと思いました。それはベンチの下に膝をついて、座面に肘をつき祈りの姿勢をとるためだったのです。思わず、私もそうしましたが、慣れないことなのでしっかり祈れなかったことを思い出します。
3.牧師になってある教会に呼ばれると、講壇にある椅子に先生がひざまずいて祈られるのを見て、また真似をしました。これがもとで緊張してしまいました。その形で祈っている先生には普通のことなのだと思います。
B.祈りは心の態度がポイント
1.ユダヤ人は普通、立って祈っていたそうです。しかし、 Ⅰ列王 8:54 こうしてソロモンは、この祈りと願いを・・・それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた や ダニ6:10 ダニエルは、・・・日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた のようにひざまづくこともありました。また、イエスは十字架を前に マタイ26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた とひれ伏して祈っておられます。
2.パウロも膝をかがめて祈ったようですが、大事なのは神への心の態度かなと思います。パリサイ人からクリスチャンになったパウロはその祈りのスタイルは真面目なユダヤ人の祈りのスタイルだったのかも知れません。しかし、彼の心の膝はかがめられていたのです。私たちもまず神の前に膝をかがめてへりくだって神と向き合いたいものです。
Ⅱ.御父の前に祈る
A.おとうちゃんと呼べるか?
1.ひざまずくような、ひれ伏すような神ではあるのですが、パウロは 御父の前に祈ります と言っています。それは、ユダヤ人も異邦人もない、全ての人を救いの対象としてくださった偉大な神であり、同時にクリスチャンという家族の父だというのです。神は 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父 なのです。その父なる神に祈るのです。
2.私たちも祈る時、最初に「天の父なる神様」とか「御在天の父なる神よ」などと呼びかけます。それはイエスが教えてくださった「主の祈り」の最初 マタイ6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。 と教えられているからです。なぜ「父」なのでしょうか? 皆さんは本当に「お父様」という思いで祈っておられますでしょうか?
3.原語的には「お父様」というより「お父さん」「お父ちゃん」というような近しい感じの呼び方だとも言われます。でも、「おとうちゃん、」と言って祈り始めるのはやはり気が引けますね。これも習慣だと思います。
B.家族だからこそ「父」と呼べる
1.ユダヤ人は最初神の名前を知っていたようですが、みだりに神の名を唱えてはならないということから「主」と呼び替えていました。「主よ」というのが普通であったとすれば、イエスが「お父さん」と呼びかけるように言われたことは凄いことです。パウロは救われてこのことがよくわかったのです。遠い神ではなく、近しい関係の神です。
2.そして、教会は「家族」です。 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります とは、教会ができたことによって言える言葉です。イエスの十字架の時に神殿の幕が上から裂けたことによって神と人との間の隔てが取り払われたことによるものです。
Ⅲ.御霊により祈る
A.聖霊は内なる人に働いてくださる
1.祈りは何と言っても御霊によるのです。もちろん自分の言葉で祈ることであるのですが、救われた人(クリスチャン)は聖霊が住んでおられるので、祈りを聖霊が助けてくださるのです。
2.つまり 内なる人 とは「精神」「心」ではなく、「新しく造り替えられた自分」です。同時にそれは生き方まで変わるので、「内なる人」の表れは「信仰生活」でもあるわけです。
3.聖霊は神です。三位一体の神です。パウロが願うのは 3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 と、私たちの内なる人、信仰生活が強められるようにと祈っています。聖霊が働くということは私たちの内に神の性質が形成されていくことなのです。神のみこころにかなった生き方をするようになり、愛に満ち、霊的一致をもたらすようになります。
B.愛の力が強められるように祈る
1. あなたがたを強めてくださいますように と、パウロは祈りますが、キリスト教での強さは腕力や戦力、学力、健康力ではないことはすでにご存知のことと思います。その強さは「愛の力」です。互いに愛し合う力です。
2.愛し合えないと思われていたユダヤ人と異邦人がイエスの十字架と復活により共に共同相続人にされました。一つ家族にされました。この両者が愛で結束していくようにパウロは祈っています。
3.聖霊が働くことでユダヤ人と異邦人の間にも平和が与えられ、一つ家族となれたのです。愛の力が平和を生み出します。教会にも世界にも、家庭にも平和を生み出すのは聖霊が働いてくださることによって成り立つのです。聖霊に満たされようではありませんか。
● 十字架を目前にしたイエスがペテロに ルカ22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 と言われましたが、イエスのことを「知らない」と言ったペテロが聖霊を受けてから本当に他の信徒を力づけるようになりました。彼の内なる人が強められ、他の人の為に祈る人になったからです。
★ 私たちも他の信徒の成長のために祈ろうではありませんか。聖霊に満たされて、内なる人が強められ、赤ちゃんクリスチャンで留まらず、成熟したクリスチャンになるように祈ろうではありませんか。
【テーマ】 祈りを再考する
【説教題】 「内なる人が強められるように祈る」
【聖書箇所】 エペソ3:14-16
3:14 こういうわけで、私は膝をかがめて、
3:15 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。
○ 私たちは常に「祈りとは何か?」という問いを持ちつつ祈っているのではないかと思います。今日のテキストにはパウロの祈りが出てきます。
Ⅰ.膝をかがめて祈る
A.ひざまずいて祈る
1.私にはひざまずいて祈るという習慣がありません。信仰を持ったときの教会でも、その後に行った教会、そしてアッセンブリーの高槻キリスト教会に行った時もそういう祈りをしていかなかったからです。
2.神学生の時、ある教会に派遣されて祈祷会に出席した時、祈りの時間になると一斉にみんなが反対を向いたので、私は何事が起こったのかと思いました。それはベンチの下に膝をついて、座面に肘をつき祈りの姿勢をとるためだったのです。思わず、私もそうしましたが、慣れないことなのでしっかり祈れなかったことを思い出します。
3.牧師になってある教会に呼ばれると、講壇にある椅子に先生がひざまずいて祈られるのを見て、また真似をしました。これがもとで緊張してしまいました。その形で祈っている先生には普通のことなのだと思います。
B.祈りは心の態度がポイント
1.ユダヤ人は普通、立って祈っていたそうです。しかし、 Ⅰ列王 8:54 こうしてソロモンは、この祈りと願いを・・・それまでひざまずいて、天に向かって両手を伸べ広げていた や ダニ6:10 ダニエルは、・・・日に三度ひざまずき、自分の神の前に祈って感謝をささげていた のようにひざまづくこともありました。また、イエスは十字架を前に マタイ26:39 それからイエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈られた とひれ伏して祈っておられます。
2.パウロも膝をかがめて祈ったようですが、大事なのは神への心の態度かなと思います。パリサイ人からクリスチャンになったパウロはその祈りのスタイルは真面目なユダヤ人の祈りのスタイルだったのかも知れません。しかし、彼の心の膝はかがめられていたのです。私たちもまず神の前に膝をかがめてへりくだって神と向き合いたいものです。
Ⅱ.御父の前に祈る
A.おとうちゃんと呼べるか?
1.ひざまずくような、ひれ伏すような神ではあるのですが、パウロは 御父の前に祈ります と言っています。それは、ユダヤ人も異邦人もない、全ての人を救いの対象としてくださった偉大な神であり、同時にクリスチャンという家族の父だというのです。神は 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父 なのです。その父なる神に祈るのです。
2.私たちも祈る時、最初に「天の父なる神様」とか「御在天の父なる神よ」などと呼びかけます。それはイエスが教えてくださった「主の祈り」の最初 マタイ6:9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。 と教えられているからです。なぜ「父」なのでしょうか? 皆さんは本当に「お父様」という思いで祈っておられますでしょうか?
3.原語的には「お父様」というより「お父さん」「お父ちゃん」というような近しい感じの呼び方だとも言われます。でも、「おとうちゃん、」と言って祈り始めるのはやはり気が引けますね。これも習慣だと思います。
B.家族だからこそ「父」と呼べる
1.ユダヤ人は最初神の名前を知っていたようですが、みだりに神の名を唱えてはならないということから「主」と呼び替えていました。「主よ」というのが普通であったとすれば、イエスが「お父さん」と呼びかけるように言われたことは凄いことです。パウロは救われてこのことがよくわかったのです。遠い神ではなく、近しい関係の神です。
2.そして、教会は「家族」です。 天と地にあるすべての家族の、「家族」という呼び名の元である御父の前に祈ります とは、教会ができたことによって言える言葉です。イエスの十字架の時に神殿の幕が上から裂けたことによって神と人との間の隔てが取り払われたことによるものです。
Ⅲ.御霊により祈る
A.聖霊は内なる人に働いてくださる
1.祈りは何と言っても御霊によるのです。もちろん自分の言葉で祈ることであるのですが、救われた人(クリスチャン)は聖霊が住んでおられるので、祈りを聖霊が助けてくださるのです。
2.つまり 内なる人 とは「精神」「心」ではなく、「新しく造り替えられた自分」です。同時にそれは生き方まで変わるので、「内なる人」の表れは「信仰生活」でもあるわけです。
3.聖霊は神です。三位一体の神です。パウロが願うのは 3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。 と、私たちの内なる人、信仰生活が強められるようにと祈っています。聖霊が働くということは私たちの内に神の性質が形成されていくことなのです。神のみこころにかなった生き方をするようになり、愛に満ち、霊的一致をもたらすようになります。
B.愛の力が強められるように祈る
1. あなたがたを強めてくださいますように と、パウロは祈りますが、キリスト教での強さは腕力や戦力、学力、健康力ではないことはすでにご存知のことと思います。その強さは「愛の力」です。互いに愛し合う力です。
2.愛し合えないと思われていたユダヤ人と異邦人がイエスの十字架と復活により共に共同相続人にされました。一つ家族にされました。この両者が愛で結束していくようにパウロは祈っています。
3.聖霊が働くことでユダヤ人と異邦人の間にも平和が与えられ、一つ家族となれたのです。愛の力が平和を生み出します。教会にも世界にも、家庭にも平和を生み出すのは聖霊が働いてくださることによって成り立つのです。聖霊に満たされようではありませんか。
● 十字架を目前にしたイエスがペテロに ルカ22:32 しかし、わたしはあなたのために、あなたの信仰がなくならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」 と言われましたが、イエスのことを「知らない」と言ったペテロが聖霊を受けてから本当に他の信徒を力づけるようになりました。彼の内なる人が強められ、他の人の為に祈る人になったからです。
★ 私たちも他の信徒の成長のために祈ろうではありませんか。聖霊に満たされて、内なる人が強められ、赤ちゃんクリスチャンで留まらず、成熟したクリスチャンになるように祈ろうではありませんか。