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礼拝説教、聖書を読んで感じた事

私は罪人では無い!・・?

2014-02-09 18:04:40 | 礼拝説教

  2014/2/9礼拝説教
【テーマ】  全人類に及んだ罪
【説教題】  「私は罪人では無い!・・?」
【聖書箇所】 ローマ5:12-14
  5:12 そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。
5:13 というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。
5:14 ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。アダムはきたるべき方のひな型です。

○ 前に、「私たちは神の敵であった」というお話をいたしました。自分は神の敵であるという自覚は無くとも、神様の言葉に従わないこと、神様を愛さないことで、すでに神の敵であるということでした。同じように私たちは「あなたは罪人です」と言われても自覚に乏しい者です。これがなかなかキリスト教を身近にできない原因でもあるようです。

Ⅰ.アダムは罪を犯した
  A.神によって造られた罪の無い人
    1.私たちが罪人であるという話はどこから来ているのかというと、今日の聖書にあるように ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り というところです。この ひとりの人 とはアダムのことです。
    2.聖書は人間の存在を進化論で教えていません。人間は神によって造られたのです。その最初の人間がアダムです。アダムという名前が固有名詞として使われるまで、アダムは「人」という意味でした。それは「土(ちり)」(原語「アダマー」)から造られたので、「アダム」と呼ばれたようです。
    3.神様によって造られた人「アダム」は良かったのです。つまり罪が無かったのです。アダムから造られたエバも罪はありませんでした。
   
  B.人は罪人となってしまった
    1.では、どうして罪人となってしまったのかというと、創世記2章と3章を見なければなりません。神様はエデンの園にたくさんの木を植えられ、それらの木々は美味しい実をつけていました。二人はその実を食べてよかったのですが、ある1本の木だけは禁止されたのです。 創世記2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」 と。
    2.ところが、蛇がエバを誘惑してきました。エバは神の言葉に忠実であるよりも蛇の言葉を心地良く思って、その実を食べてしまったのです。そして、アダムも食べました。二人は神様の命令を破ったので、彼らと神様との親しい関係は無くなってしまいました。神様の命じられたことを守らないことが罪です。彼らは罪人となったのです。

Ⅱ.全人類が罪を犯した
  A.一人の人によって
    1.アダムとエバの罪がどうして私たちにまで関係があるのか?  と言われることが多々あります。私も正直なところ上手く説明はできません。ある人は罪の遺伝子が代々続くようになったと説明しますが、現代は遺伝子工学も進み、そうした遺伝子を発見すれば取り去ることができる可能性があるのでしょうか? 罪は単に遺伝子的なものだけで説明はできないでしょう。
    2.アダムは人間全員を代表しています。アダムでは無く、私たちであっても、神様の言葉に従わなかったはずなのです。とすればまた、「神様は私たちを罪を犯すように造ったのか?」と、言われてしまいます。というか、私がこの質問を度々してきたのです。ただ、理解して解決したのではなく、信仰で解決しました。
    3. ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、──それというのも全人類が罪を犯したからです。 とパウロが言うように、全人類が罪を犯しました。自覚は無いけれど、罪を犯す者だという事実は誰もが認めざるを得ないと思います。人間はみんな死ぬという事実は誰もが分かりきっているように、それが罪の結果ですから、死ぬということは全人類に罪がある証拠です。
   
  B.律法が無くても罪はあった
    1.というのは、律法が与えられるまでの時期にも罪は世にあったからです。しかし罪は、何かの律法がなければ、認められないものです。 と、あるように、確かに「それが罪だ」と指摘できるのは律法によってです。律法はモーセの時代に初めて神様から与えられました。あの十戒です。
    2.しかし、十戒は罪がはっきりわかるために文字化されたものでであって、その精神は神様によって教えられてきました。神様の言葉に従わないこと、神様を愛さないことが罪であるのは事実なのです。
    3.反抗期の研究をしていて思ったのは、わずか人生2年や3年の幼子が親の言うことを聞かないのです。その姿を見た時に「あー人間は罪をもって生まれてきたなあ」と思いました。また、自分自身を見ていても正しいとわかっていることがなかなかできない、してはいけないと思うことをしてしまうという姿を発見してしまいます。幼子であっても、成人になったとしても罪は私たちの心を支配しています。

Ⅲ.来たるべき方のひな型
  A.死が支配している
    1.ところが死は、アダムからモーセまでの間も、アダムの違反と同じようには罪を犯さなかった人々をさえ支配しました。 改めて、この御言葉が語るようにアダムのように罪は犯さなかったと言っても、死が訪れるのです。それは罪があるからです。
    2.十戒によって罪が指摘される前でも「死」があったということは罪があった証拠だと言うのです。つまり、人類は誰一人として死を免れることができないように、「私は罪人では無い」と声を大にして言ってみたところで、罪が無いわけではないのです。
    3.ですから、全ての人はこの罪の問題を解決しないと死の問題も解決しません。アダムが死をもたらして以来、人間には誰も自力で解決できた人はいません。神様によるしか解決は無いのです。
   
  B.解決はあるのか?!
    1.アダムはきたるべき方のひな型です。 というのですが、誰のひな型かというとイエス様です。どういうひな型かというと、全人類を代表しているという点です。
    2.アダムは全人類を代表して罪を犯しました。その一人の人によって罪が全人類に及んだのです。そして、誰一人解決できなかったわけです。
    3.イエス様も全人類の代表ですが、それはこのお一人の身代わりで全ての人がイエス様のように罪の無い姿に変えられる点でです。イエス様一人で罪の問題を解決してくださったのです。

 

★ アダムは人類を代表しているという点でイエス様のひな型ですが、大きな違いがありました。アダムもイエス様の十字架によらねば救われない人でした。同じく、アダムと同じ罪人である私達もイエス様の十字架以外に救いは無いのです。


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