今日のうた

思いつくままに書いています

1★9★3★7 (イクミナ) ②

2016-05-17 06:14:15 | ⑤エッセーと物語
(8)おもいだした。「記憶は無記憶になりたいと望み、それに成功する」とは、
   やはりレーヴィが言ったのだった。……「それ(辺見注=記憶)を何度も
   否定することによって、排泄物や寄生虫を体外に出すかのようにして、
   自分自身の中から有害な記憶を輩出する」(『溺れるものと救われるもの』)。
   記憶の無記憶化はじゅうぶんに可能だというのだ。ニッポンは記憶の
   無記憶化にほぼ成功しつつある。敗戦後のニッポンは朝野あげて
   記憶の無記憶化にはげんだ。

(9)善意と悪意の定義は解体され、それらの境界は消えている。
   慈悲と獣性の共存――かもしれない。
   だが、真理のきれはしに触れえたとしても、なぞはとけない。
   獣性はどこにいったのか。
   それはいまのこの社会に細かく揉みこまれてはいないのか。
   戦後とはなんだったのか。
   そのときそこ にいなかった者たちは、
   そのときそこ にあったできごとに
   無関係でいられるのだろうか。 
   そのときそこ にいなかった者たちは、 
   そのときそこ にあったできごとに
   ついて、今後とも無記憶でいられるものだろうか。
   なにかが、ぶりかえしはしないのか。
   いま、ひょっとしたら、大変なことがぶりかえしつつあるのではないか。
   記憶の堰(せき)が決壊し、氾濫することはないのだろうか。

(10)街にはどこかにかならず異形の人がいた。底に車輪をつけたミカン箱や
    リンゴ箱にのり、両手にもった棒で地面をかき、人ごみをこいでいく、
    下肢を失ったひと。ヒロポン中毒者。
    母子の物乞い。気の触れた物乞いもいた。駅前には、白い浴衣のような
    病衣を着て軍帽をかぶった傷痍(しょうい)軍人がいて、
    軍歌「戦友」をアコーディオンで弾いたり、ハーモニカで吹いたりしていた。
    「ここは御国を何百里 離れて遠き満州の 赤い夕陽に照らされて 
    ともは野末(のずえ)の石の下……」。
    かれらには四角い「影」と似たつよい磁力があった。眼光が鋭かった。
    白衣がめくれると義足や義手がむきだされる。
    地べたにすわっておじぎしつづける男もいた。
    両親も親戚もかれらと目をあわせようとはしなかった。
    「ニセモノだ」「ニッポンジンはあんなことをしない」「朝鮮人だ」――。
    白衣の者らには聞こえぬように、吐きすてるように言い、
    わたしの手をつよくひいてとおりすぎた。

    後年聞いたのだが、わたしが二歳の夏、天皇ヒロヒトが「巡幸」と称し、
    故郷をおとずれて、ひとこと「あっそう……」と言ったらしい。
    傷痍軍人たちや異形のひとびは事前にどこかにおいはらわれたという。

(11)わたしはほんとうにものを知らない。むかしもいまも。
    あまりにも不勉強で無知である。
    そうおもい知らされたことがこれまでにいくたびもあるけれども、
    「大日本傷痍軍人歌」のときもそうだった。
    その作詞者が「春よ来い」とおなじであったこともわれしらずかるく息を
    のんだが、さらに、作詞者はすなわち相馬御風(そうまぎょふう)であり、
    早稲田大学校歌「都の西北」を作詞したひとでもあるとおしえられた
    ときにはかるい眩暈(めまい)さえおぼえた。・・・

    「大日本傷痍軍人歌」と「都の西北」を、こころみにまぜこぜにしてみる。
    おもいつくままチャンポンにしてみる。
    「あつまり散じて 人はかわれど 仰ぐは同じき 理想の光 
     前途は遠し皇国の 使命果たさで止むべきか 大和武夫の真心の 
     一徹何か成さざらん わせだ わせだ・・・」。・・・
    だが、「都の西北」も、あまたの校歌や応援歌、寮歌、社歌、
    かつてのいちぶ労働歌とおなじく、軍歌とじつに親和的な歌だったのだ。
    いや、「都の西北」もこの国の軍歌的古層のうえにたてられた、
    軍歌と同根の歌であったと言うべきであろう。……

    にしたって、「元より君の御為に 捧し身なり生きの身の 生きの限りは
    日の本の 心の花のつわものぞ」の歌詞の、ひとをひとともおもわない卑しさ、
    下品さはどうだ。
    これを負傷した「皇軍」将兵だけでなく、朝鮮人傷痍軍人にまで
    うたわせた無神経はどうだ。
    駅頭の傷痍軍人をニセモノ→朝鮮人ときめつけた敗戦後のニッポンの
    手のつけられない差別と身勝手さはどうだ。
 
(国家総動員法を連想させる「一億総活躍社会」、いまだに「抜刀隊」が
 自衛隊・防衛大学校の観閲式の行進曲として使われいる現実、
 そして軍歌と紛う校歌や応援歌など――こうしたことが私たちに
 サブリミナル効果のようなものを、もたらしているとは考えられないだろうか)

(12)元大元帥陛下=昭和天皇はその後、原爆投下について「遺憾には思って
    いますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に
    対しては気の毒であるが、 
    やむを得ないこと と
    私は思っています」
   (傍点〈太字を用いました〉は辺見。1975年10月31日、
    日本記者クラブ主催「昭和天皇公式記者会見」)とかたる。
    わたしは唖然とした。だが、ニッポンはそうじてとくにがく然とも
    唖然ともせず、怒りもしなかったのだ。
    ニッポンはその後も、原爆をまるで「自然災害」のごとくにかたり、
    みずからの侵略責任と相殺するかのように、原爆投下の責任を米国に
    問うことはなかった。

(こうしたことで、全てのことがうやむやにされていったのだろう。
 それにしてもこの会見が終戦直後ではなく、1975年だったとは……)

(13)いつだったか、まだ子どものころ、酔った父がとつじょ言ったことがある。
    静かな告白ではない。
    懺悔でもなかった。野蛮な怒気をふくんだ、かくしようもない、
    かくす気もない言述である。
    この記憶はまだ鮮やかだ。「朝鮮人はダメだ。あいつらは手で
    ぶんなぐってもダメだ。スリッパ(軍隊で「上靴(じょうか)」と
    よばれていた、いかにもおもそうな革製のスリッパ)で
    殴らないとダメなんだ・・・」。
    耳をうたがった。発狂したのかとおもった。
    いまでもわからないのだ。ニッポンという”事象”に伏在する病が、
    父をよくわからなかったように、よくわからない。
    わたしは父の戦争経験を忖度し、非難を抑制してきた。
    しかし、かれが激昂し、スリッパをふりあげてひとを打ちすえている
    図にはとても堪えられなかった。いまも堪えがたい。

(30年ほど前になるが、私はある県立高校で働いていた。体育館で全校集会が
 行われるので、多くの生徒たちが集まってきていた。
 体育館の入り口には体育教師が立ち、自分のサンダルの片方を脱いで、
 定刻に遅れて来る生徒たちを待ち受けていた。そして入って来るや、
 その汚れたサンダルで、男子、女子かまわず一人一人の頭を殴り始めたのだ。
 逃れる生徒もいたが、もろに殴られる生徒もいた。誰もそれを止める
 教師はいなかった。
 ALTとして働いていたアメリカ人の女性だけが、
 「テリブル!アンビリーバブル!」と言って顔を背け震えていた。
 それから数か月後、「日本の全てが私を疲れさせる」という言葉を残して、
 彼女は帰国してしまった。
 この高校は英語教育で文部省のモデル校になるなど、ごく普通の高校だった。
 私も含め、こうした暴力に対して誰も何も言えない日本人。
 見て見ぬふりをする日本人。今も学校でこのようなことが起きているのだろうか)

(14)「上靴バッチ」を朝鮮人にたいしてやった父と、それをやったことはない、
    父の長男であるわたしのかんけいとはなんなのだろうか。
    かんけいはないのか。やはり、ある、とおもう。
    わたしが想起したくなくても想起するかぎりにおいて、
    父の歴史とわたしの歴史は交叉せざるをえないのだ。
    ひとが歴史を生きるとはどういうことなのだろうか。
    歴史的時間を生きるとは。
    それは、ニッポンジンでも朝鮮人でも、韓国人でも、自己の生身を
    時間という苦痛にさらし、ひるがえって、時間という苦痛にさらされた
    他者の痛みを想像することではないのか。
    わたしの記憶と父の記憶は、傷んだ筏(いかだ)のように
    繋留されたままである。
    からだに時間の痛みとたわみを感じつつ、自他の「身体史」を生きること――
    それが歴史を生きることなのか。             ③につづく



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