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日々雑感

心に浮かんだこと何でも書いていく。

本を売る

2019年06月16日 | Weblog

本を売る

100冊で100円でしか買い取ってくれない。 もう一度読みたかった本もあった 。

人は年齢とともに経験が増えるから、若い時に読んだ本を、老年になって読むと味わいが違う。

そう考えて本を 捨てないで残してきた。

 しかし近頃そうもいかなくなった。

 年をとって理解できないことは、突っ込んで理解しようとはせず、飛ばし読みをする。

もう一つは眼鏡をかけても文字が読みにくくなって、読む気にならずという事が生じてきた。

ほんの2度読みは崩れた。計画倒れになった 。 だからもったいないが、やはり無料なり一冊1円で処分しなくてはならない。

何とも悔しい。今から処分するのだが、未練たらたら。


先進国である、日本の現状

2019年06月15日 | Weblog

  先進国である、日本の現状

5人きょうだいの長女として生まれたさくらさんには、弟が2人、妹も2人います。

 小学生の頃に両親が離婚し、子どもたちは全員父親に引き取られました。 しかしその後、父親は重い病気にかかり、それが原因で仕事を失ってしまいました。

 家計はひどく苦しくなり、お腹いっぱいにご飯を食べることもできなくなってしまったそう。 住むところはあって、毎日食べるものに困るほどではない』

 しかし、子どもたち自身ではどうすることもできない家庭環境などの問題を抱え、自分の将来に希望を持てない子どもたちがいる…。 それが先進国である、日本の現状なのです。

離婚に続いて病気と重なれば、どうしても以上のような貧乏に落ち込んでいく

。原因は避けようがない。 しかしこういう状況の人たちを支えるシステム が充実しておればこんな貧困の悪循環は断ち切れる。

 社会福祉の充実といえばいいのか、とりわけこういうケースに対応できる体制があって先進国の仲間入りができる。

 国力の強さや大きさだけが国民を幸せにするものではない。 国民が生きやすく、底辺にいる人でも社会的連帯が行き届き、 最低生活は保障されるのが先進国だと私は思う。  

現状を見るに日本はまだそこまで社会が進んでいないようだ。


いじめの訴えを放置

2019年06月14日 | Weblog

    いじめの訴えを放置

大阪府吹田市の小学校が女子のいじめの訴えを放置していた問題

 市の教育委員会は保護者側に加害した男児が幼いため、解明は難しいと伝えていた

 市教委は女児へのいじめが重大事態に当たるとの認識を示したが,加害男児の記憶は薄れもはや解明は難しいとして、外部調査は必要ないと答えたと言う.

 大阪府警は暴力行為に関わったとして男子児童5人をと児童相談所に通告していた。 女子児童の保護者が被害届を出した

  新聞報道は以上のようなものになっている。おそらくこの通りに自体は推移していたと思われる。

保護者は警察に被害届を出した。賢明な行動だ。

誰からも非難されるような学校や市教委のやり方では絶対に問題解決にはつながらない。 なべて学校とは市教委とはこの程度の認識しかもっていない。 こんな連中を相手にいじめ問題解決を求めたところで良い結果が出るはずはない。

被害したら直接警察へ相談するか被害届を出すか。そして警察の手が入れば、いじめはほぼ解決する。このことをこの事件がはっきりさせた。いじめは学校ではなくて直接警察に相談しよう。是が正解だ


ワット、プノン0

2019年06月13日 | Weblog

                ワット、プノン

 昨日、単車で市内を回ったから、めぼしい物 がどこに有るか、あらかた見当をつけておいた。雨期の湿気で湯船に入ったような街を地図を片手にマイペースであちこち市内を歩きまわった。
 ワットプノンはアチャミン通りを北上して、駅の北側の道を右、つまり東側に曲がりそれを少し北に行った所に有った。小乗仏教のにおいのするお寺で、タイのそれとよく似ていた。サップ川から近く、小高い丘の上にたつ、この御堂は石段を作りそこを上るようにはしてあるが下からみると自然の盛り土の上にちょこんと建っている風情で、どこからでも上れる感じがした。


 回りは緑が濃い大きな木々によって囲まれ、その木陰は何にもまして涼しさを作り人々に安息の場所を提供していた。サップ川から時折吹いてくる川風はすばらしい清涼剤、僕はしばらくここを離れることができなかった。
 
こんな所でどうして小鳥をかご一杯に積めて売りにくるのか、鳥かごを持った少年がうるさくつきまとい、なにかしゃべりかけてくるの。うとましく思い、僕は少々怒気をふくんだ顔をしあっちへいけと怒 った 。何回いやな顔をしても懲りずについてくる少年には堪忍がならなかったのである。最後はじっと立ち止まって彼をにらみつけた。彼は悲しそうな顔をして、うるさく騒ぐ小鳥篭をもって黙って去っていった


。1人になると、またもとの静寂は戻ったが、なにか悪いことをしたような気がして心のなかは必ずしも穏やかでは無かった。
 こんな所で小鳥を買ってどうしろというのだ、餌をやるやる訳にもいかないし、第一飛行機に乗せて持って帰るわけにもいかないじゃないか。買えばたちまちにして処置に困る僕に対してどうして買えというのだ。所詮君は小鳥を僕に売りつけて僕から金を巻き上げれば好いと思っているのだろう。君はそれでも好いけれど期待に応えたら僕は大いに迷惑をする。だから買わないのだ。


心の中でなにかにひっかている僕は、そう自問自答した。いや言い訳ををした。しかしもしこの時に放生と言う言葉が思い浮かんだなら、誰かが、たとえばさっきの少年でも好い、なにかそれらしいヒントをくれていたら対応はまた違っていただろうに、悲しいかな放生ということはまるで眼中になかった。

もし昨日キリングフイールドやツールスレンを訪問しないで、大量虐殺の事実を知らなければ、僕はワットプノンはよいところだとしか書かなかっただろうが、ポルポトの所業に対し心から怒りを感じていた僕はこの世に一体、神や仏は有るのかと強い憤りに身も心も包まれていた。


罪無き人々を救うことができない宗教に対して怒っていた。こんな無力な宗教ならお布施の必要が無い、生きている人を救わずして何が宗教か。僕は怒りを神や仏に向けて悪態をついた。そうでもしなかったら気が収まらなかったのである。
 幾時間が過ぎたのか分からなかったが、袖を引っ張られて気がついた。海外旅行ではよく経験する事だ 。いつのまにか自分の横に人が立っているのだ。韓国でもインドでもそうだった。


それは突然地中からわき出るという表現がぴったりで、大抵の場合結果は悪い出会いになる。またか、思わず口からチョロと言う言葉が飛び出した。


インドで繰り返し繰り返しいやほど使った言葉で、あっちへ行け、という意味である。
 チョロの意味が分からない青年はつったったまま片手を出している。情けを掛けるというよりは付きまとわれてはうるさいので、100リエル札を2枚渡して立ち去る振りをした。


小鳥売りの時もそうだったが、普段考えていることと、現実の場面とでは丸で違ったように振る舞ってしまう。この青年の場合もそうだ。きっと少年の時に兵隊にかり出されたか、遊んでいて地雷を踏んだかで片足を無くしたのだろう。同じ世代に生きている者として、どうしてもっと優しくできないのだろうか。そろそろ自分がいやになってきた。
 
吹く風はさわやかで、辺りは静かでのんびりしている。旅の疲れをいやすにはもってこいの場所であるにも関わらず、心の中はなにかもやもやしている。肉体的には快適でも心の中はブルーで、何ともいえない、いやな気持ちである。
 
小1時間もいたであろうか、僕はまた旅人にもどった。小乗仏教はいかんな、僕は訳の分からないことを言って自分をごまかしながら、サップ川の方をめざして歩き出した。


老後資金不足2000万円

2019年06月12日 | Weblog

老後資金不足2000万円という報告書が金融庁の部会から報告された。

年金だけでは毎月5万円不足するから老後資金として2000万円ほど必要だとある

庶民にはいかにも現実的な話で2000万円不足が一人歩きしたのも無理はない。

是は現実問題として実感があるから急浮上したのは納得できる。

是に困ったのは7月に参議員選挙をひかえた自民党である。早速財務相が受け取らないことにした。

都合の悪いことは受け取らないという格好つけて選挙に臨む考えであるが、一旦一本立ちしたこの2000万問題を受け取らないとかいって、隠したとしても庶民はかなり深刻に受け止めたはずだから、簡単に火は消えそうもない。

不安と誤解を与えたから受け取らないというのはこどもだましの感がぬぐえない

はっきり言えばもっと大人の収拾の方があったのではないか、この始末には笑いを禁じ得ない。


愛染さん9

2019年06月11日 | Weblog

愛染さん


ハチ公と熊ハチは何でも話せる仲である。


彼らの話を聞いていると、東海道中膝栗毛の野次さん喜多さんを思い出す


ハチ公
「ところでお前。その愛染さんと言うのは、何の神さんや」


熊ハチ
「愛染さんかいな。愛染さんは、これと、あれの仏さんや神さんとは違うで、」


ハチ公は小指を立てて、ついで人差し指で輪を作った


「ふーん。色と金かいな。ええ仏さんやなぁ」


「お前なんか、日頃の行いからして、1番先におまいりしあんな、アカンのと違うか。」


「そうやなぁ。ホントのこというて、今困ってんのが一つあるんや。切ろうと思っても、もうくされ縁になってしもうて、きれへんねん。次のは、できそうな気配がし困ってんねん」


「そうか。それだったら、愛染さんに1回頼んでみたら、どないや。まことに虫のいい話ですが、今のくされ縁はきれいさっぱり消せて、新しい彼女と仲、よくなれますように、というてみ。
案外うまく行くかもしれへんで、。」


「切れるということは、金も付いて回るということやで。そんなうまいこと、くされ縁が切れて、その後始末の金まで都合してくれはるやろか」


「そんなこと。おれ、知るか。同じ頼むんやったら、この際、思いきって思っていることを全部頼んで見ろよ。


その代わり、聞いてくれはったら、命をかけて、愛染さんに、お礼参り、せなあかんで、


だいたい、密教系の仏さんは、何事もこの世のことは積極的に肯定して、現世利益をくれはるさかい、ヴィヴィランとしっかりと頼めや。


それは、愛染さんも、なんと虫のいいごとをいう男や、とお前のことをおもははるやろ


それでも、愛染さんは、愛欲と貪欲の仏さんや。


人間の基本的な本能要求を満たしてくれはる仏さんやさかい


人間の思案で、あれは頼める。これは頼めへんと思わんと相矛盾するところでも、何でも1回頼んでみたら、どうだ。


かなえてくれはるか。どうか、そんなことおれ知らんで


そりゃ、おれは俺なりに御利益をモロてるよ。


思わぬところから小銭が入ってくると言うのは、何回もあったで。小指の方は、、、うーん、、、、おれも嫁さんおるから、


本当のことは言われへんけど、ええことはあったわいな。


神さんや仏さんに、ものを頼むのに、あんまりこ難しい理屈は、言わんこっちゃ


はらで思っていることがそっくりお見通しや。人間どうしだったら、ドロドロして、


口には恥ずかしくて、口に出せないことは、体裁をつくろってきれいにいうような。
本心はここにあるのだが、口先でいうときは、一見すると、あっちにあるような


錯覚を生むような、きれいな言い回しを考えて、自分が傷つかないように気配りして、いうやろ。


あんなん必要ないんや。なんぼきれいことをいうても、


腹の中が、見透かされているのやから。そやから、開き直って思っている通りに


正直にお願いするんや。それでええやないか。相手は人間と、違うんやさかいに。」


「ほんならお前のいう通りに1回頼んでみようかな。
あかんで、もともとやさかいに。」


「阿呆いうな。あかんで、もともとやとは一体なんちゅうこっちゃ。


頼むんやったら、冷やかしは、あかんで。まじめに頼まな。


だいたい、お前の話は虫がよすぎる。だから、余計にまじめに頼まなアカンねや。
愛染さんは、しゃないやつやけど可愛い気があるから一つ聞いてやろうかと思われるかもしれんよ。


仏さんのなさる判断を、こちらサイドで決めて結論を出しその結論を信じつつ、


仏さんにお願いするというのは、仏さんをおちょくっとることになるで。


どうせお前なんかどんなに特称なことをほざいても、それで、今までの罪が


パーになることはまずあらへんから、最初に懺悔して、お見かけ通りの


迷える男羊ですが、何卒、よろしく、とすっぱり反省しているところを見せた方が、仏さんだって、こいつは男らしい。受けたろということになるように思うが、、、、
さっき,ゆうたやろ。ごちゃごちゃ言わんと、裸になってお願いしてみ、」


「よっしゃ。わかった。1回行ってみるよ。」


その後、彼と顔を合わせていないので、事の顛末がどうなったか知らないが


私は私なりに、あのときは真剣に、アドバイスしたつもりである。


愛染さんの寺誌を読むと、真実の信仰への一つの手段とでもいうのか、


現世利益を説いている。「まことの信仰」とはどういうものか分からなくても、


私はとにかく神仏とご縁があるということは、人の一生にとって、どれほど大切なことか。


またどれほどありがたいことか。と常日頃思っているので、どんな形にせよ。


愛染さんに、おまいりになる方が、御利益をいただかれて幸せに、なれるのは私にとっても嬉しいことである。


この欲の渦巻く俗界にいて、それを積極的に肯定し、欲望の実現成就なさしめたもう神仏は、人間にとっていちばん必要な部分であると私は思う。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


先生

2019年06月08日 | Weblog

私が先生という言葉を使う場合は二通りの意味がある。
ひとつは尊敬語で心から尊敬の念を抱いて使う言葉

もうひとつは表面上は尊敬を装いながらその実、内面では軽蔑しているとまでは言わないが、尊敬していない 、尊敬の念がない言葉だけの先生という場合


何か宗教か

2019年06月07日 | Weblog


この世で苦しみまわっている人を救わないで何か宗教か 宗教家がこの精神を忘れずに、言動すれば、救われる人は多いはずである。生活上やむなく都会で働かなければならない人に田舎にいるときと同様に宗教心を求めても無理である。
何の素養もない人に御宝号や御真言を唱えろと説得しても基礎がないだけに無理なことを求めることになる。
まず生きている人の悩みや苦しみを軽くする、相談相手になる事からはじめうると良い。
人生のアドバイザーを求めるに、やはり修業を積んだ坊さんに頼るのか一番だとは思うが、新旧仏教教団にはその役割が果たせていない。
頼りにならないから人々は宗教から遠ざかる。こうしてお寺や教団が負のラスパイエルに陥っている。宗教を往時のものにするためには、まず人の悩みや苦しみに寄り添って困った人を助けることから始めなければならないと思う。
宗教離れを言う前に、僧侶や教団が現代人が求めていることに答えながら宗教活動をしないとどんな宣伝をしても人は振り向かないだろう。


ありがとう

2019年06月07日 | Weblog

歩き遍路であれ車遍路であれ,遍路をされた人人の体験談を読んでみると必ずと言って良い程,御礼とか感謝とかいう言葉が出てくる.
普通の観光 旅とは違ってこれは物見遊山気分ではできない旅である
ある人は1200キロを歩き通し,またある人は例えマイカーで巡拝すれにしても、山門や本堂の軒下で野宿をするようなきつい旅行をしている人たちが多い.
その人たちが御礼とか感謝とかいう言葉を口にするのだから我々が日常会話で使っている言葉の意味とは少し違うように思う..
普通の観光旅行と違ってかなり厳しい条件の旅をしつつもどうして御礼とか感謝という言葉が出るのであろうか.普通の常識からいうとそこに何か違和感がある.
しかし私が違和感を抱こうとそういう遍路をされている人は心の底から
気持ちを込めてそれらの言葉を口にされるからそれは真実の言葉なのである.
四国88カ所遍路して回る旅はひとつには自然とのふれあいであり
また四国の人々の暖かい人情に触れることでもある。そこで何を発見するのか。
普段は心のをそこに閉じこめられでしまって心のそこで眠ってしまっている感謝という言葉や気持ちを思いだしたりして人間本来の素直な気持ちになることからいう言葉が出てくるのであろう
いずれの年からか私もまた菅笠や2白装束の遍路姿ににあこがれを抱きバイク遍路を始めるようになった
確かに肉体的には楽な旅ではないが、精神的には今まで経験したことがないようなすがすがしいさを感じる。
もちろんお大師さまには心を寄せて同行二人という安心はあるものの
初めての遍路の旅ということもあって心細い感じもした

私が四国遍路を思いたった理由のひとつに先祖供養ということがある
今は亡き父母や父方や母方の祖父母の菩提を弔うために写経をしてそれを本堂と大師堂に納経するために遍路したいのである
簡単なことではあるが、写経100枚はそれなりに我慢のいることであった。100枚目が終わったときに私はまずありがとうという言葉が口から出た、さあ出来た。やれやれ。これでいけるという前に、ありがとうが出たのだ。何故だかわからないが、ごく自然に腹の底から出た言葉であった。
ひょっとしたら お遍路さんは今の私のような状態でごく自然に御礼の言葉が出たり感謝の言葉が出たりするのではなかろうか。
意図していう言葉ではない。自然に口をついて出る言葉である
もちろん遍路には人それぞれの目標がある。それが成就されたとき
には、感謝の気持ちが湧いてきて当然だ。
そして目的成就を考えてみるとそこには同行二人つまりいつもお大師さまが側にいて、付き添ってくださりそのおかげで満願成就したという実感もある。
理由はなんであれ物欲に振り回されいつも飢餓状態に置かれている現代人が幸せのもとである感謝の気持ちを取り戻したあるいは自覚したというのなら現代人にとって遍路することこそ幸せへの近道ではないかそんなことも考える。
さて私は8月末の天候にはいらいらしている。あんなに暑かった日照りの続いた今年の夏は早衰えて秋雨前線が2、3日おきに雨を降らせている。バイクで走るには雨の日は都合が悪い。雨で写経がぬれて字がにじんでしまうことも考えられるし、なによりも道が滑って危ない。
そこで私は天気の日を選んで巡ろうと思っている。

それにしても長いあいだ忘れかけていた感謝の心を教えて、とりもどさせてくれた四国遍路には感謝したい気持ちでいっぱいである
お大師様ありがとう。四国遍路ありがとう。

 

 

 

 


世間虚仮0

2019年06月07日 | Weblog

 世間虚仮


 


南九州は暖かい。冬は2月までで終わり、3月になると、ぐっと暖かくなる。 ぽかぽか陽気に誘われて、春先になると冬眠していた蛇が、太陽に照らされて暖かくなった、人の通り道に寝そべっていることがよくある。


 たぶん中学生ぐらいの時のことだったと思うが、鼻歌を歌いながら歩いていたら グニャと異様な感覚が足の裏から伝わってきた。私は咄嗟に蛇をふんだんに違いないと思って大急ぎでその場を逃げた。 恐る恐る本の場所に戻ってみると蛇は動かないで、そのままじっとしている 。近づいてよく見ると、それは大きさも色も蛇によく似た縄切れだった。蛇と縄切れはとてもよく似ていた。 「なんだ。縄か」。一安心したが、ふんずけだときは実にびっくりした。足の裏には、まだあのぐにゃっとした感覚は残っている  縄切れなのにどうして蛇とに間違ったのか。僕はこのことを今でも考え続けている。目には縄として映っていたはずである。 だが私はそれを蛇と認識してしまった。 明らかに事実と、認識したものとでは、違いが生じている。目に映った物体の事実が、認識される過程において類似のものに変更されてしまったのである。 だとすれば認識の主体は何だろうか、たぶんそれは脳だろうか、それ以外のどこかにある種の意志が働いて縄が蛇になってしまったのだろう 。これは縄と蛇に限らず、枯れ尾花を幽霊に見間違うことと、同じ理屈に違いない。


じゃ脳に働く意思とはなんだろう 。目に映った像に対して脳のどこかに命令判断する部分があるのではないか、たいていは見たものをそのままに認識するようになっているが、時として映った像を別のものとして認識することが起こる。 目に映った像は紛れもなく縄であるが、認識する脳が認識する過程で、ある種の力が働いて 縄を蛇と認識してしまうのだ。 ある種の力とは、その時の置かれている状況によって心の奥底に潜む心理的な力が、意思として働き、誤った認識を生じさせるのではないかと思う。 ただしこの場合、自分の意志を自覚できないままに、人は自分が見たものは真実だと思う。 縄(真実)を蛇(判断が加味された真実)と認識するから次の行動として、びっくりとびっくり声が出るのだ。つまり人は真実を真実として認識するとは限らない。言い換えれば人の認識には真実の認識と錯覚による認識がある。 人の見た事実は、それが真実である場合もある、錯覚によって作られた事実の場合もある。ところが人は自分の見たものは真実であると信じて疑わない。


世間虚仮 唯仏是真 これは聖徳太子の言葉である。 人間の世界は真実で満たされているのではなく、人間そのものが不確かで、時として錯覚の上に世界を構成展開する。これは不確かな世界であてにはできないにもかかわらず人は自分の認識の正しいことに拘泥する。だから人間世界は矛盾に満ちているのである。 つまり我々が住むこの世には、もちろん真実はあるが、それを認識する主体、言い換えれば  人間は不確かなものであるということに気づくべきだと思う。 今まで私は自分の五感に触れるものは、それがそのまま真実と思ってきたが、こういうことを考えると、果たして自分の認識に100%の信頼を置いて良いものかどうか。自信が無くなってきた。


もし自分の五感があてにならないということになればいったい何を信じただよいのか。  あいまいな自分の認識やそれに基づく判断から身を守るためには、物事に頑迷にこだわる態度を改めるべきだ。ということは頭のどこか片隅に疑念を抱く部分を残しておくということだ。今後起こりうる自分のこと、他人のことを判断する際には、すでにこの部分から光を当ててみる習慣が必要だ。そしてそれはすべてに対して猜疑心を持ち続けるということではない。 そういう次元ではなくて、人間は不完全なものだということをすでに念頭に持っておくということが大切だと思った。  聖徳太子の言葉 「 世間虚仮 唯仏是真 」 、こういうことを考えてみると、改めて聖徳太子の偉大さが身にひしひしとしみこんでくる。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


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警官もよくやってくれるな

2019年06月05日 | Weblog

警官もよくやってくれるな

 芦屋署の 慰労会での出来事

副所長を乗せて定員オーバー 2名

女性の股ぐらに手を突っ込んで身長比べをしたという。

手を突っ込んだ段階で明らかにセクハラ。常識があれば誰でも解る。

警察官も人の子か。と苦笑するか、許せんと眉をつり上げるか。

さあさ、どちらにするか?

 

 

 

 


クリシュナ神生誕の地マトウーラ

2019年06月05日 | Weblog

 

クリシュナ神生誕の地マトウーラ

 ブリンダーバン
 
 ニュデリーのホテルの前からバスに乗って、アーグラとマツーラの観光に行った。
途中交通事故が有ったので、渋滞がおき、マツーラ到着は夜8時過ぎだった。マツーラ近郊の、ブリンダーバンというところは、クリシュナ神 が幼少を過ごした所で、とりわけ宗教に関係の深い街であるとガイドブックには書いてある。日本で言うならさしずめ、遍路巡礼都市とでもいうところだろうか。夜のこと、どこをどう通ったのかわからないが、ツアー客は、
一団となってガイドの後をついて行った。
 
 日本では神さんはお宮・神社に祭ってあるから、さしずめお宮さん、神社参りということになる。神社は日本のように住居とは別棟になっている訳でなく、軒を接していたように思うが、夜道のことでよく分からない。
芝居小屋のような感じのする所へ入って行く。
 入り口を入ると、幅2間くらいの土間の通路が有り、奥に向かって左手には、70から80センチの高さの床が作られて、一段高くなっている。奥ではローソクを一本灯して、御詠歌だろうか、粗末な身なりをした年寄りが二人、高低のない単調な歌を歌っている。近づいてみるとそれは老女だった。
 人々は靴を脱いでローソクと、裸電球と、薄暗い蛍光灯の光を頼りに、床に上がり腰を下ろした。
 僕はといえば、神さんを拝む訳ではない。あくまで観光、冷やかし気分で来ている。
 上り口のところには寄付を求める賽銭箱があった。賽銭箱といっても日本でいう、あんな大きなものではなく、三宝さんの足のないやつ、というところか。
 賽銭の額が知りたかったので、こそっと覗いて見た 。100ルピー札が何枚も見えたので、信仰の篤さがわかるような気がした。確かに日本と違った信仰への激しい思い入れが感じられて、インド人の信仰熱心の篤い思いが伝わってきた。
それはそうだが、賽銭の額など見えない方が良い。見た後で僕はそんな感じを持った。見えると催促がましく感じたからである。
 寄付の看板は、勿論字が読めないからわからない。
推測するほかはないのだが、瓦のご寄進は1万円という風に書いてあるのだろう。
                
 神様にご対面

 日本では、仏像はお目にかかっても、神像にはめったにお目にかかることはない。というより神像は仏像のように数多くは存在しない。
 僕がお目に掛かったのは、神仏習合時代の東大寺の僧形八幡神像
くらいのもので、普通ご神体は鏡であったり、剣であったり、山や、岩であったり、自然の大木であったりして、像にお目にかかるチャンスはほとんどない。
 ところがである。
ドウールガーという神様に、これからご対面できるというのである。僕は期待した。
 一般にアジアにおける神像は僕が見た限り、日本のそれに比べて作りが軽い。つまりおっちょこちょいなのである。少なくとも手を合わせて拝む対象であるならば、もう少し荘重で、威厳があり、荘厳な趣が必要ではないか。
 ボダガヤのマハーボーテイ寺院で見たお釈迦さんだって、軽い作りだった。あんな偉大なお釈迦さんを軽く作ってどうする。見たり、飾ったりしておくならば別、少なくとも拝む対象であるからには、それにふさわしい格調や貫禄が必要であると僕は思う。しかしこれは文化の違いだと割り切って納得した。こう解釈することによって、自分が拝む対象にしたかったのだ。
 
 いよいよご開帳がはじまった。ざわついていた場内は、水を打ったように静まり返った。 神殿即ち、舞台の袖にいた人が綱をひっぱると、
カーテンがあいて神様が姿を現した。
 見たとたん、僕は空いた口が塞がらないだけでなく、キョトンとした。
「なーんだ。これ。へえ、これが、、」
一瞬僕は我が目を疑った。「これが神様か。へえ。」
 身の丈、70から80センチくらいの大きさの、人形がたっているのである。全身はまっくろで、漆塗りか、黒光りしている。ちょっと目には、大きめの黒猫そっくりで、おまけに真っ赤な舌をベローっと出している。そのうえ、首にはよだれ掛けをしている。
これじゃ猫のお化けじゃないか。僕は失望した。いや呆れた。僕はこの猫のお化けの神像に見とれてはいたが、静まり帰った場内には突然地中から吹き上げるような、大きな歓声が沸き起こった。いっせいに祝詞を唱えるのか、むにゃむにゃいう人、手をあわす人、歓声を出す人。それが歓声の源だった。
 そして次には大きな拍手が起こった。なにごとかと思ったらツアーのメンバーの一人が、かなり多額の寄付をしたようだ。拍手は寄付した本人に向けられていた。
 次いで、紐が引っ張られて黒猫のお化けが、そろりそろりと前へ出て来た。じっと見つめている人。合掌して祈る人、真剣な眼差しからは、光のようなエネルギーの放射さえ感じられる。
 へえ、これがインドの神様か。僕は改めて神様をまじまじと見つめた。
ものの10分も経たないうちに、神様は紐に引かれて後ずさりを始めて、カーテンの位置から、中に入ると、カーテンも引かれて舞台は閉じてすべては終わった。
神様は元の座に鎮座したのである。
日本流の仏像を見慣れてる僕は、インドのみならず、東南アジアの荘重さを欠く釈迦像には、なにか物足りなさと違和感を感じて来た。
ところが、今見たこの神様には、徹底的に驚いた。いやもう違い過ぎて嫌気が差し、更にこんな姿の神を拝み、うつつを抜かすインド人の信仰に腹が立ってきた。本家本元よりも、それを伝えられて、自分なりのものにしている日本の方が、余程宗教的雰囲気を持つ像を造り、もっと静か
に拝んでいるじゃないか。
 陽気なのは良い、賑やかなのもいよい。が、像はあくまで礼拝の対象物である。黒猫のお化けみたいな、ふざけた神様など拝む気がしない。
僕は今行動を共にしているインド人と、この場で神様を共有しているのだが、心の中は、全く空々しい。完全に一人だけ浮き上がっている。
ついていけないのだ。
 メッカの方を向いて、1日に何回も頭を地面にすり付けて拝むイスラム教にも違和感を感じるが、このインドの宗教も到底受け入れることは出来ない。
 先ほどから、インド人の神に対する想いが、色々な形を取って表現されているのを、この目で見てはいるが、我々日本人のそれとは、大凡かけ離れたものである。
ただ、人々の神への想いは、日本人のそれと比べて、大仰に表現されるので、篤い想いだけは伝わってくる。
 一体礼拝などというものは、心を静めて、出来る限り落ち着いた状態の心をもって、神様を静かに拝んでこそ、礼拝したことになる。心を騒がせて、興奮状態の心で、果たして心のこもるお祈りが出来るのか。僕は率直にそう思った。

バスに戻ってからも、人々の興奮はさめやらないのだろう、席をたって大勢の人が興奮気味に話している。
違うな、確かに違うな。深いところまでは分からないが、日本とインドは神様1つをとってみても、大きな違いがあることを、僕はしっかり心に刻み込みながらつぶやいた。
 勿論インドにはシバ神やビシュヌ神しかいないわけではない。インドにおわす八百万の神々総てがこうだとは思わないが、今でも鮮明な記憶として残っているのを見ると、やはり余程大きな違和感だったんだろう。

 インドは貧しい国だ。だが民衆の神に対する想いは、熱狂的なものがある。現世が貧しく苦しいから、人々は熱狂的に神を求めるのか、それとも来世の幸福を求めて熱狂的になるのか、その辺の所は分からないが、いずれにせよ、日本とは大分違うなという感じだけが残った。

 


熊さん八っあん談義0

2019年06月04日 | Weblog






















 




15:55 (0 分前)
 


 









 



 


 

 



どうも臭いなあ。何か事件でも?


それ何の話や ?


いや防衛大臣があんな形で照射問題を棚上げしたようなふりをして協調路線に向けて話をするということ


お前もそう思うか。俺もそう思う 。


つけるべきけじめはきっちりつけて、その後から 協調の話だよな


 悪く勘ぐると、あの男何か袖の下でも掴まされているのじゃないか 。


中谷さんだったら、きっちり決めると思う。


筋がないというのか知らないが、軟弱防衛大臣 というイメージがあるね。


国民がどんなに怒っているかわからないのかな?それともその思いを乗り越えて日韓協調を前に出しているのか。


 しかし今までの経緯を考えてみろよ。日本人の感覚からすると韓国人の本音はとても受け入れがたいものだ。


あのような考え方を持った人種とは、対等に付き合いはできない。本筋とかけ離れた話に転換して、図々しくも自分の説を押し通す。


嘘でもハッタリでも何でもいいんだよ。自分に都合さえよければ


今後いくら付き合っても、本質的には変わらないのだから


徹底無視か断交しかないだろう。


本質的なところで合意が形成できなかったら、付き合えば付き合うほど虚しさが募り、腹が立ってくるだけだ。


 だから全てにおいて無視か、断交して関わりを持たないことだ


最初はこちらも苦しいが、乗り越えてしまえば平気だよ。


話は変わるが中国とのサッカー戦で、トロフィーを足で踏んづけたと言うじゃないか。 なんということをする奴らだ 。


後になって謝ったと言うが、それは本心からではないよう。


日頃から中国にはあまり好感を持たれてないから、この際腹いせに中国のトロフィーを踏んづけてやったというのが彼の本心だよ 。


謝ったのは、口先だけそれが見え見えじゃないか。なんせ常識はずれのことが多すぎる。


どんなに指摘されても腹の底ではせせら笑っている民族だからそのくせ自己を主張する際の図々しさは、超ド級だ。


それにしてもおかしな話だね。それだけ嫌って反日思想に染まりながら、 あの国の人は700万人も日本にやってくるという。


腹のなかと足とは別々なのかね 。悪口ばっかりになったが、これ日本人の本音だよ。 関係を持たないことが一番大切。


間違っても日韓協調などと言わないこと。客観的に見て日本の方が大国だから関係を持たなくても、アンタッチャブル路線を貫いてもやっていけるよ。


そうだそうだ。





(深い川より) チャムンダー5-49

2019年06月02日 | Weblog

(深い川より) チャムンダー


インドから帰国して、僕はインドに関する本を何冊か読んだ。

本の中に描写されているインドの風景だの、インド人の人情や物の考え方なりを、自分がインドで
経験したものと比較検証したかたったのである。
中でも狐狸庵先生の、『深い川』にはホテル・ド・パリの描写が僕が見たとおり、実に正確に描かれており、これには驚いたというより懐かしかった。


ふんふん、そうだそうだ、僕は本の中に引き込まれて行った。中でもこの中に描かれているチャームンダという名の女神には深く心奪われた。
日本では女神と言うものはどんな神でも、美人で柔和に描かれいて、その表情には苦悩の跡がない。すくなくとも僕が知っている女神はそうである。

ところがチャームンダは違う。全身創痍の苦しみを背負い、その苦しみに耐えてはいるが表情に苦悩がまざまざと表れている。胸近くにはさそりが噛み付き、両足は腐りかけて赤く腫れ上がっていると描写されている。
自らをそこまで痛めつけながら、その苦しみの中にあってなお、現世で苦しみもがく人達をすくわんとする貴い姿こそ、この像の真の姿であることを知ったとき、僕は深い感動を覚え、思わず写真の中の像に手を合わせた。
これこそ本当の神である。我々とともに生き、苦しみ、ともにもがき、ともに悲しむ姿こそ百万言よりも説得力がある。

現世、この娑婆の世界で、もがき苦しむ人々と同じ次元の世界に住み、同じ次元に立ち、同じ苦しみを味わい、苦しみに顔を引きつらせ、それどころか民衆の何倍もの苦しみを背負い、しかもそのうえに、苦しむ人々を救おうとする強力な意志をもち、敢然と苦しみに立ち向かう貴さを、何故僕は見落としたのか、何故その表情から苦悩を読み取らなかったのか、僕は非常に残念に思った。


単に像を目で見るだけなら小学生だって出来ることだし、することである。その像に託された作者の意図、願い、希望など、要するに作者の目的を何故探ろうとはしなかったのか、作者はこの像を作り何を言いたかったのか。こういうことに思いをいたして初めてこの像と対面した値打ちがあるというものだ。

実物はデリーの博物館にあるそうだが、見ないままに帰国してしまった。次回インド訪問の時は必ず見たいものである。


大分長い間大阪市内の映画館では、『深い川』が上映されていた。それは新聞の広告で知っていたが、そのうちに、そのうちにが重なって、ついつい見逃してしまった。
僕はどうしても見たかったので、ある日、わざわざ電車にのって遠い貝塚まで見に行った。興業はよい『映画を勧める会』みたいなところが主催して観客の層は五十歳代以上の年齢層の人達に限定されていた。

彼らは映画が終わると、考えられさせられた、と一様に口々に言いながら帰って行った。 人々から漏れ聞くまでもなく、感動もので、いい映画であった。
僕はと言えば、実際に訪れて、感激を受けたバラナシの沐浴風景や、町の様子や、ホテル・ド・パリを知っているだけに、その場面が映るにつけて懐かしさが込み上げて来て、遠くでおぼろ気にかすみかけていた記憶は鮮明に蘇って来た。

特に印象深かったのは、やはりチャムンダーという女神である。
映画で映ったあの場所に安置されていたのかどうかはしらないが、満身創痍の苦しみを体全体で表しながら、なお現世に苦しむ人々を救おうとふんばる姿は、映画であるとはいうものの、思わず合掌したくなった。

インドは現在の日本に比べて確かに貧しい。カルカッタでも、バラナシでもよい、町を歩けばその貧しさは一目瞭然だ。貧しさのなかで苦しむ人は多いが、特に女性はいまなお根強くのこる、カースト制度という社会構造からくる重圧に抑圧されながら、この女神の苦しみのように現実生活の貧困の中で苦しんでいる人が多いことだろうと思わずにはいられなかった。

ところで我々日本人は女神というと、端正で美しい女人像を思い起こす。すくなくともチャムンダーのように苦しみもがく女神など、お目にかかったことはない。どの女神も美人で、いかにも福ふくしく柔和である。弁天さんにしても、観音さんにしても、吉祥天女にしても、みな見とれるほど美しい女神像ばかりである。拷問を受けている真っ最中のような苦しみの表情をしている女神などお目にかかった事はない。そういう意味からすると、日本の女神さんは神の世界の住人であり娑婆の住人とは違っている。ところがインドでは、この女神は娑婆の住人もいいところで、人間世界、特にインド社会の日常生活のなかで、のたうちまわっているインド女性の苦しみを一身にうけて、現実そのものを表しているようだ。

インド女性が天上世界の女神よりも、ともに苦しみもだえる地上に、このチャムンダー という女神の出現を願望して、この女神を迎え、作り出し、親しみを覚え礼拝供養して、救いを求めるのは人情の自然にかなっていると僕は思った。
僕はこのチャムンダーこそが真の意味で救済の女神だと思う。神が姿形をとって人間を救済している瞬間を目撃したことなどないが、チャムンダーこそは神が人間を救済する姿かもしれない。
『深い川』はクリスチャン、狐狸庵先生の作品だ。先生はさすがに目の付け所がちがう。 僕はかぶとを脱いだ。


 


 


 


自己分析と評価

2019年06月02日 | Weblog

自己分析と評価

視聴回数が400を超えたものが74曲の中に 12曲ある。

 

1,演歌系  曲名       視聴回数        

 1,玄海男船       1731     1020        

2,岸和田だんじり祭 605     640        

3,越前竹人形      509         635        

 4,金沢旅情        503          536        

5,白浜の宿       460             502        

 6,雨の長崎   446           534  

 

2, 歌謡曲系                

1,恋衣         1038          1093         

 2,ワットアルン   645       671         

 3,滋賀のさざ波   566      577         

4,春の妖精       521          571  

 

3,宗教曲          

   1,聖徳太子讃歌 (動画) 741  894     

 2,延命十句観音経     411      491

評価

1,演歌系    

 王道・本流演歌は日本人の心情にぴったりなんだろう。

 聴衆も作者の僕も心情は心に染みついた演歌なのだろう    自然なことだと思う。クラシック系の僕が言うのも変だが、、、。

2,歌謡曲系    

 近頃滅多に耳にしない作品つまり新曲で、編曲の妙味や英語詩、ヂュエットの美しさが受けたのだろう  

3,宗教曲系  

受けるはずがないと思っていたから意外だった。プロの声楽家の声の響きの美しさや、   合唱団の動画だったから受けたのかもしれない.歌は聴覚だけでなく視覚も大切だ。  

結論 日本人の心情には演歌が似合う。これからも演歌を作ろう