日々雑感

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信太の森の物語 葛の葉伝説

2007年11月01日 | Weblog
昭和62年、2月13日の毎日新聞に連載された歌枕シリーズの一つに、葛の葉伝説が取りあげられた。信太の森の狐の話 。関西人なら誰でも、 父や母や、いやもっと古く、おじいさん、おばあさんから、子供の時から直接伝え聞いて、物語の詳細は知らないまでも、何となく、頭に残っている民話である。

信太と言えばキツネとあぶらげの代名詞の関係で あぶらげを甘辛く煮てその中に寿司飯を入れた、いなり寿司はあぶらげとキツネの深い関係を物語っている。油あげのことを別名しのだとも言う。
そして関西では子供の頃からこの伝説のことをなんとなく知っている。

阿倍保名や清明の話は小さい頃から、私の記憶の中にあったが、その語り伝えを、現実のものとして、受け止めたのは、毎日新聞論説委員の記者によって書かれた記事によってであった。

巧みな文章に引きずりこまれて、私の心は平安朝の昔へとさかのぼっていた。
信太の森は、泉丘陵いっぱいに広がって、素晴らしい郷をなしている。車も走らないし、電車も通っていない。大阪の南に住む阿倍氏にとっては、日帰りの狩りを楽しむには、絶好の狩り場となっていたが、信太の森は、本人や狐やその他の小動物と人間の共存の場所でもあった。

阿倍保名だけではなく、平安貴族やこれに類する人々は、この優雅な狩りというレジャーを信太の森の周辺で楽しんだに違いない。
典雅な貴族が、狩りの衣装を身につけた姿で、狐やウサギを追いかける姿は、追いまわされる動物の立場に立てば、命をかけた大変な出来事には違いないが、人間の側から見ると、優雅そのものである。

そういう時代背景をバックに狩りにきた阿倍保名が、傷ついた白い狐を助けたことから、狐と人間のドラマが始まり、それが、男と女の愛情物語に変わり、はては陰陽師・安倍晴明の誕生と、夫別れ、子別れの話に変わっていくのが葛の葉伝説のストーリーである。


本来、動物と人間の結婚生活などは、あり得ない話であるが、伝説の作者は、人間に姿を変えた狐と、人間を結婚させた。ここが面白い。さらに狐は人をばかすという。
本当にそうだったら、動物園の狐飼育係となって、バカされる体験をしてみたいものだ。

それは、現代人にはとても信じられない話であるが、先人はそういう夢をすでキツネに覆いかぶせた。そのせいか、私はいまだに狐といえば、他の動物にはない神秘性を感じるのであるが、この葛の葉伝説にはもう一つのきっかけがあるように私には思える。

すなわち、安倍晴明という陰陽師の存在である。陰陽師の持つ神秘性と、狐の持つ神秘性。これが輻輳をして、この物語を一層ロマンチックなものに仕上げている。少なくとも現代からみると、表向き現実離れしたこの伝説は、現代人にも通ずる子別れ、親別れの悲しいテーマをその中にかかえこんで、現代人の心にも共感を与えるのである。

私はともすれば、忘れられがちなロマンあふれる民話に今一度、現代人の目と心をもって、見直すことが、我々の心をリフレッシュし、豊かにすることへの一助になると、かねがね考えてきた。

だから、この記者の穏やかな論調から、すぐさま、彼と心の会話を交わした、つまり敏感に反応したのかもしれない。

狛犬の代わりに狐が巻物をくわえている写真と、それを支えている記事は、直ちに私の楽興を呼び起こしたのであった。真偽の詮索や理屈はそっちのけで、私は、驚くほどの速さで、曲を完成させた。


日本人の心情は舟歌.。演歌の大作曲家古賀政男先生が、言われたように舟板の1枚下は地獄。そんな苦しい状況を抱え込んでいるがゆえに、日本人の心には常に哀愁の風が漂い、それがもの悲しい演歌の歌詞や、メロディーになって表れる。

そのためか、あるいは、私の個人的な好みが、そのいずれかは分からないが、私の心の琴線は決まったように哀愁に彩られて、奏でられる。だから悲しいメロディーがついても不思議でないと、自分に言い聞かせたが、またまた悲しい歌が出来上がった。
作曲し終わったばかりのホヤホヤの曲を聞いてみると、平安朝の雅と共に、悲しみがあふれている。

新聞を片手に、私は葛の葉稲荷明神を訪ねた。人影のまばらな境内を一巡すると、目につく巨木が、平安朝を彷彿とさせる。
5月の空に映える巨木の若葉の黄緑が、目に眩しい。境内の中ほどに立つ碑文に書かれた、
「恋しくは、訪ね来てみよ、和泉なる、信太の森の恨み葛の葉、」  
という古歌を眺めているせいか、私は今、信太の森に、立っているのだという実感が、足元から立ち登ってくる。
巻物をくわえた狐の石彫が、目の前にある。その姿から、子別れ哀話を連想するには5月の緑は余りにも、明るすぎた。

葛の葉伝説、私はこの作品を地元いずみ市民の手によって歌ってもらい、育ててもらいたいものだと考えた。
その昔から和泉を有名にしたこの信太の森伝説をいつまでも語り伝えていくのは、やはり地元の力だ。そのために、和泉に生まれ、育ち、生活し、文化を守り育てる事に、尽力されている方に、会いたいと強く望んだ私は、氏の有力者に、紹介を受けた。

論説委員が紡ぎ出したこの物語は私の心に、曲を紡ぎ出した。さらにそれは、地元和泉の皆さんの協力によって合唱曲として、歌われる事になった。

クズのは伝説は、時間空間を越えて、多くの人たちの心の輪を広げることになった。さらに、それが、郷土和泉の文化に、一点の花を飾ることにでもなれば、私は作曲家冥利に尽きると、思っている。

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