NHK の大往生という番組を見た .
人間の終末はあのレポート通りである 。
僕はもう何十年も昔に、「姥捨」という作品を作った。
その視点では社会的な大きな流れに、親を捨てる、という現実が悲しかった。
その悲しみと、どうにもならない悔しさが、メロディーに溢れていた 。
今日大往生の様子をテレビで 通して人生の終末を現実視した。
目の不自由な娘が一人で、父親の最後を看取るときは、他人ごとながら、涙がこぼれた 。
だが僕はこれは姥捨ではないと思うと同時に、往生の裏に隠れた、残る家族の看護の大変さ
にも思いを寄せた。
老人ホームへ送り込んで「ハイ終わり」はある意味、仕方のないことで、
そこでは誰も責めることはできない現実があるということに気がついた。
老人ホームで生涯を終えることは姥捨という言葉では片付けられないものがある。
人間の終末はあのレポート通りである 。
僕はもう何十年も昔に、「姥捨」という作品を作った。
その視点では社会的な大きな流れに、親を捨てる、という現実が悲しかった。
その悲しみと、どうにもならない悔しさが、メロディーに溢れていた 。
今日大往生の様子をテレビで 通して人生の終末を現実視した。
目の不自由な娘が一人で、父親の最後を看取るときは、他人ごとながら、涙がこぼれた 。
だが僕はこれは姥捨ではないと思うと同時に、往生の裏に隠れた、残る家族の看護の大変さ
にも思いを寄せた。
老人ホームへ送り込んで「ハイ終わり」はある意味、仕方のないことで、
そこでは誰も責めることはできない現実があるということに気がついた。
老人ホームで生涯を終えることは姥捨という言葉では片付けられないものがある。