わたしが死について語るなら (未来のおとなへ語る)山折 哲雄ポプラ社このアイテムの詳細を見る |
現代は、核家族化の進展、医療の進歩から、自宅で死ぬということが少なくなったようだ。病院での死亡が多くなったのかもしれない。その一方で、自宅での孤独死が報道されることが時々ある。人間関係の希薄に依る孤独死は、もっと多いと思われるのだが、人の目に触れない所で処理されているようだ。
一昨年の身元不明などで、引き取り手のない死者が3万2千人に上っていたことがNHKの調査で判明したという。
こうした現象に反して、私たちの多くは、死について考えることもほとんどなく、毎日の生活に追われている。人は必ず死ぬものであるが、敢えて、死の問題に向き合うことを避けているのかもしれない。
子どもたちも、昔の日本の生活から比べると、死の存在から遠くで生活を送っているようだ。
ある調査では、若者の少なくない割合が、人の再生ということを信じているとのことだ。身近に、死を観ることが少なくなったことも原因と考えられる。
近時、スピリチュアリズムという形の非合理主義が、社会に広がったことも無関係ではあるまい。
著者が若い人に対して、死を学ぶことの大切さを訴えている本書は、生を見つめるためにも、妥当な考え方である。
著者のライフヒストリーは、大いに参考になるだろう。寺院の長男として生まれながらも、寺を継がずに宗教学者への道に進んだ人生の記述は、死についても多くを語っている。
死を学習する上で、古典から続く日本の文学が良いテキストになるというのはその通りだと思う。
本書に載っていた二編の詩が印象に残った。
金魚 北原白秋
母さん、母さん、
どこへ行た。
紅い金魚と遊びませう。
母さん、帰らぬ、
さびしいな。
金魚を一匹突き殺す。
まだまだ、帰らぬ、
くやしいな。
金魚を二匹締め殺す。
なぜなぜ、帰らぬ、
ひもじいな。
金魚を三匹捻ぢ殺す。
涙がこぼれる、日は暮れる。紅い金魚も死ぬ死ぬ。
母さん怖いよ、眼が光る。ピカピカ、金魚の眼が光る。
大漁 金子みすゞ
朝焼小焼だ 大漁だ。
大羽鰯の 大漁だ。
浜は祭りのようだけど
海のなかでは 何万の
鰯のとむらい するのだろう。
著者は、戦後教育が生の肯定のみを推し進め、死に関する教育はおざなりにしたと言っている。
その延長で、平等主義、個性の尊重といった教育方針に対して、否定的な評価を加えている。この点は、徒競争に順番を付けないという、おかしな反差別意識に基づく悪平等の考えが一部の教育現場で実行されていることは否定できない。しかし、個性の尊重に関しては、一部の保守主義者のステレオタイプのような主張には賛同できない。個性を尊重しない教育が、保守的な教育委員会などを通して推進されてきたというのが実情に思われるからだ。いじめの問題も、他の生徒と違うことから発生するケースが多いのではないか。「みんなと同じように振る舞える」事が、現場では要求されてきたのではないか。
しかし、死を見つめる教育の必要性はある。