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懐かしい日本の風景、戦争から遠く離れて/絵本『道草いっぱい』

2009-11-15 11:00:23 | 絵本・児童文学
道草いっぱい
やしま たろう,やしま みつ
創風社

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 八島太郎の絵と光の文による絵本をみたのは、「モモの子ねこ (1981年)」が初めてであった。
 八島太郎(本名、岩松淳)は、小林多喜二のデスマスクを写生した人である。戦前は、プロレタリア美術同盟に加入し、反戦活動を続けた。東京美術大学(現東京芸大)の学生の時には、軍事教練のボイコットを理由に、退学処分を受けている。1930年に、笹子友恵と結婚、夫婦は何度も反戦運動、民主主義運動を理由に弾圧を受け、何度も投獄されている。光夫人は、妊娠している身で9カ月まで投獄された。釈放後の1933年に長男マコを出産している。その後、1939年に、マコを妻の実家に預け、弾圧を逃れて渡米する。戦時下は、米情報局で日本人向けの反戦ビラなどを制作した。
 あの狂気の戦争時に、戦争に反対して戦った人たちがいたことは、現代の私たちの誇りである。
 
 八島太郎は、絵本作家としてアメリカで成功している。

 「道草いっぱい」は、英語では“Plenty To Watch"という題名である。

 小学生の時の、故郷の思い出の風景が描かれている。学校が終わると、すぐに家に帰ることはなく、村の中を通って、道草をしながら歩いていく。家に着くのは、夕食の前であった。
 男の子と女の子の二人の帰り道に待ち受けているものは、桶屋さん、染物屋さん、お菓子屋さん、畳屋さん、提灯屋さんなど、今では、すっかり懐かしい風景とそこで働く人の生き生きとした姿だった。子どもたちは、その仕事ぶりをみることができた。時々しか硝子戸が開いていない看板屋さんは、国一番の絵描きに見えた。戸が開いている時は、のぞき見ができた。子だくさんの豆腐屋に買いに来る1人暮らしの老人の姿をみると、何となく可哀想に感じた。
 障害者も働いていた。ろうあ者のおじさんは、下駄の歯をすげたり、修理をしていた。その隣では、片足をなくしたおじさんが一日中、米をついていた。
 時々は、村の中を通らずに山道から帰ることがあった。樟脳工場があった。骨粉の肥料を作る水車小屋もあった。牛がうすを引いてサトウキビを押しつぶしていた。カスのサトウキビはをかじりながら帰ることもあった。鍛冶屋に床屋。そした農家。農家での農作業の様子が詳しく描かれている。まだ、機械化される以前の昔の農家の働きぶりが。

 絵本の最後の言葉「私たちは帰り道で、大人になるためのさまざまなことを学ぶことができました。」
 そう、なんて素敵な言葉なんだろう。

 このように描かれた日本の風景の一部、そこには、懸命に生きる人々がいた。しかし、その風景の中にも、やがて、多くの犠牲を出す侵略戦争の闇が覆うことになっていく。

 この絵本は、最初はアメリカで1954年に出版されたものである。翻訳は、息子のマコ岩松が担当している。マコ氏は、アメリカで俳優として活躍している。僕が最初に観た彼の映画は、「コナン・ザ・グレート」の魔法使いの役であった。