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透析しながら考えた事、感じた事。内部障害者として、色々な障害者,マイノリティの人とお互いに情報発信したい。

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読書『統合失調症とのつきあい方―闘わないことのすすめ』

2010-02-04 00:13:41 | 読書
統合失調症とのつきあい方―闘わないことのすすめ
蟻塚 亮二
大月書店

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 内容については、『 出版社/著者からの内容紹介
統合失調症は「不治の病」という印象を与えてきましたが、適切な環境の整備や人間的関わりによって回復します。又、症状や障害は状況によって大いに改善します。幻聴も赤子が泣くのと同じで、これと闘っても勝ち目はありません。さらに統合失調症や生活習慣病は当事者参加型疾病です。当事者や家族、支援者がこの病気について正しく理解できることを目的にしています。』と紹介されている。

 幻覚・妄想は、もともとは外からやってきたものではないという。嫌な自分を切り離したものだ。日常生活を送る上で、誰でも体験する激しく強い感情をそのままにしておいては、現実には生活できないし、つらすぎる。だから、その感情を自分から離れたところに置こうとする。外在化しようとする。幻覚・妄想も同じ外在化されたものだ。著者は、氷山モデルで表している。海面上には、自分と幻覚・妄想という2つの氷山が存在するように見える。でも、その2つの氷山は、海面下ではつながっているのだ。ただし、困ったことに、外在化したはずの幻覚・妄想が、本人に攻撃を加えてくる。だから、無視すること。聞かないこと。聴けば聴くほど、耳は敏感となる。執着すればするほど、妄想は強くなる。
極意は闘わないことだという。

 「健常者」といわれる人間も、青年期を中心に、軽い統合失調症にかかり、自然治癒しているケースが多いのではないかと著者は言う。

 ノーマライゼーションの社会を目指した場合、精神障害者も「地域で生活できる」ことが望まれる。
 『かりに、当事者の能力と環境条件とを数字で表し、それぞれの点数の合計が10点に達したときに「地域で生活できる」ものとする。

 個人の能力(X)+環境の充実(Y)=10

 もしも環境による支援(Y)が八点あるならば、個人の能力(X)は二点あればよい。逆に劣悪な環境(Y=二点とする)の中で生活を送るには、個人の能力(X)は八点もの高いレベルを求められる。つまり個人にとって地域生活のハードルが高くなる。欧州型の精神科リハビリテーションは、環境(Y)の充実を重視して個人(X)に高い負担や期待を求めない。つまり、当事者にとって、地域生活への移行のハードルは低い。本書P122.123』。

 また、著者の『身体障害は、「動作の障害」であるのに対して、精神障害は社会的役割喪失などを中心とする「社会的障害」。だから、変わるべきは当事者ではなく、社会である。』という発言と共に、特に印象に残った所である。

 本書には、適切な投薬による再発防止の必要性や、家族との関係等、多くの有意義なことが語られている。

 出来ないことを責めるのではなく、ハードルを下げて、まずは患者のいいところを評価することから始めなくてはならない。社会が優しければ、生きやすい。
 患者が見せるマイナス行動も、その根底にある意味を見出す必要がある。表面上だけでは理解できないという患者の本当の気持ち。
 今までの、精神医学が、患者個人にだけ注目していたのを、彼らを取り巻く環境を含めて理解する必要性があるのだ。

人権侵害としての職場のいじめ問題/『知っていますか?パワー・ハラスメント一問一答 第2版』

2010-01-23 00:41:45 | 読書
知っていますか?パワー・ハラスメント一問一答 第2版
金子 雅臣
解放出版社

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 いじめは、学校ばかりではなく、職場でも起こっていた。今までは、「熱血上司」と「空気の読めない部下」というように、個人的な問題と理解され、職場の問題、労働条件に関する問題とはなかなか捉えられなかった。
 合理性のない叱責や根性論の押しつけで、うつ病を発症し、自殺に追い込まれる労働者も出るようになり、労働法上も、労務管理上もやっと問題視されるようになった。しかし、未だ、全ての職場にこうした認識が深まっている訳ではない。最近の、企業による人員削減を背景としたリストラ手段として、労働者を自己退職に追い込むための手段に使われていたり、派遣労働者の派遣切りなどでも、同様に解雇手段として使われ出している。

 昨年から上映されている映画「沈まぬ太陽」を見ると、こうしたいじめ問題は、かなり前から存在していることが分かる。国鉄の民営化の際に、国労に加盟していた労働者に対して、職務と関係のない草むしりなどを行わせ、自己退職に持っていこうといた使用者がとった方法も、同様に理解できる。最近では、社会保険庁の解体による、新組織への再雇用にも問題点が見え隠れする。

 さて、こうしたいじめは、「パワー・ハラスメント」と呼ばれるが、その言葉が和製英語であるということは、気が付かなかった。

 パワハラと短縮形でも呼ばれるこの言葉の定義に関しては、色々と試みられている。「職場において、地位や人間関係で弱い立場の相手に対して、繰り返し精神的または身体的苦痛を与えることにより、結果として働く人たちの権利を侵害し、職場関係を悪化させる行為」という職場のハラスメント研究所の定義が、原則になるものとして参考になるだろう。

 裁判を通じて、今までの、企業の安全配慮義務の他に、職場環境配慮義務問う概念が定着しつつあることにも、注意する必要がある。

 いじめの発生しやすい職場は、コミュニケージョン環境も悪く、作業効率も悪化する傾向にあることを、企業、及びその実際の担当である労務管理者も、認識する必要がある。これは、人権問題と併せてとられるべきパワハラに対する姿勢でもある。

 本書は、パワハラの色々なケースについて、一問一答の形で分かりやすく解説しており、労務担当者に対する提言ともなっている。

 なお、本書には触れられていないが、空気の読めない労働者の中に、アスペルガー症候群の人が含まれている可能性については、別の配慮が求められている。今後、この問題に対する認識が、労働界、法曹界、経済界をはじめとした社会に深まることが期待される。パワハラ問題の中に、隠されているかもしれない問題として、対策が必要とされている。

死について学ぶことの大切さ/『わたしが死について語るなら (未来のおとなへ語る)山折 哲雄』

2010-01-21 00:08:49 | 読書
わたしが死について語るなら (未来のおとなへ語る)
山折 哲雄
ポプラ社

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 現代は、核家族化の進展、医療の進歩から、自宅で死ぬということが少なくなったようだ。病院での死亡が多くなったのかもしれない。その一方で、自宅での孤独死が報道されることが時々ある。人間関係の希薄に依る孤独死は、もっと多いと思われるのだが、人の目に触れない所で処理されているようだ。
一昨年の身元不明などで、引き取り手のない死者が3万2千人に上っていたことがNHKの調査で判明したという。

 こうした現象に反して、私たちの多くは、死について考えることもほとんどなく、毎日の生活に追われている。人は必ず死ぬものであるが、敢えて、死の問題に向き合うことを避けているのかもしれない。

 子どもたちも、昔の日本の生活から比べると、死の存在から遠くで生活を送っているようだ。

 ある調査では、若者の少なくない割合が、人の再生ということを信じているとのことだ。身近に、死を観ることが少なくなったことも原因と考えられる。
 近時、スピリチュアリズムという形の非合理主義が、社会に広がったことも無関係ではあるまい。

 著者が若い人に対して、死を学ぶことの大切さを訴えている本書は、生を見つめるためにも、妥当な考え方である。

 著者のライフヒストリーは、大いに参考になるだろう。寺院の長男として生まれながらも、寺を継がずに宗教学者への道に進んだ人生の記述は、死についても多くを語っている。

 死を学習する上で、古典から続く日本の文学が良いテキストになるというのはその通りだと思う。

 本書に載っていた二編の詩が印象に残った。

   金魚  北原白秋

 母さん、母さん、
 どこへ行た。
 紅い金魚と遊びませう。
 母さん、帰らぬ、
 さびしいな。
 金魚を一匹突き殺す。
 まだまだ、帰らぬ、
 くやしいな。
 金魚を二匹締め殺す。
 なぜなぜ、帰らぬ、
 ひもじいな。
 金魚を三匹捻ぢ殺す。
 涙がこぼれる、日は暮れる。紅い金魚も死ぬ死ぬ。
 母さん怖いよ、眼が光る。ピカピカ、金魚の眼が光る。

    
       大漁  金子みすゞ
 
 朝焼小焼だ 大漁だ。
 大羽鰯の 大漁だ。

 浜は祭りのようだけど
 海のなかでは 何万の
 鰯のとむらい するのだろう。


 著者は、戦後教育が生の肯定のみを推し進め、死に関する教育はおざなりにしたと言っている。
 その延長で、平等主義、個性の尊重といった教育方針に対して、否定的な評価を加えている。この点は、徒競争に順番を付けないという、おかしな反差別意識に基づく悪平等の考えが一部の教育現場で実行されていることは否定できない。しかし、個性の尊重に関しては、一部の保守主義者のステレオタイプのような主張には賛同できない。個性を尊重しない教育が、保守的な教育委員会などを通して推進されてきたというのが実情に思われるからだ。いじめの問題も、他の生徒と違うことから発生するケースが多いのではないか。「みんなと同じように振る舞える」事が、現場では要求されてきたのではないか。

 しかし、死を見つめる教育の必要性はある。

読書『阪神大震災・聴覚障害を持つ主婦の体験』

2010-01-18 00:41:27 | 読書
阪神大震災・聴覚障害を持つ主婦の体験
紫陽花 まき
文芸社

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 17日の日曜日、阪神淡路大震災から15年目の様子を、テレビ番組で取り上げていた。震災当時、聴者も情報不足に苦しんだとの報告もあったが、コミュニケーション障害を持つ聴覚障害者の場合は、なおさら、情報が保障されないことから、震災時に多くの苦労を経験することになった。また、聴覚障害者は、精神病患者や、我々透析患者同様、見えない障害者である。見ただけでは、健常者と同じに見えるのだ。そうしたことからくる社会の無理解にも苦しんだ経験も報告されている。

 当日は、「ろうを生きる難聴を生きる」で、本書を出版された永江真樹さんが、震災時のろう者の置かれた厳しい立場を手話で語る内容の番組の再放送があった。

 永江さんの地震発生前から、地震発生当日の様子、避難所での暮らし、仮設住宅での生活についての体験を、彼女の語る手話を文章に起こしたのが、本書である。

 手話と学ばれている方はもちろん、1人でも多くの方に、当事者の声を聞いてもらいたいと願っている。

 救出にあたった自衛隊員の中にも、聴覚障害について理解がなく、がれきの下に閉じ込められた聴覚障害者の救出を求めた時の対応などは、腹立たしい思いがした。手話通訳者の女性が、ろう者の若者の救出を、道行く人々に頼んでも無視が続いた。ようやく、通りかかった自衛隊員達に救出を依頼するも、しぶしぶ受けたような状態で、大声で何回か叫んだが、応答がないので、「残念ながら、返事がないので亡くなられたようです」と言われたそうだ。ろう者なのだから、返事がないのが当たり前なのにである。結局、手話通訳者の方の必死の説明で青年の命は助かったが、もし、そのまま、立ち去られたらと思うとぞっとする話であった。
 また、永江さんが、食事の配給のために並んでいた時に、担当の女性自衛隊員に家族4人分の食事の支給を求めたが、意思疎通がうまくいかなかったので、1人分しかもらえなくて、仕方なく、夫婦2人は食べずに、子ども達二人に半分ずつ与えた事もあった。
 聞こえないゆえの、聴者とのトラブルもあった。

 なお、このトラブルで、娘さんは、成人した今でも、外傷性ストレス障害の治療を続けている。

 そのことに関連してであるが、同番組の後の、「子ども手話ニュースウィークリー」では、震災時の子どもたちの心のケアに当たるケア相談員が、この3月で廃止されることが紹介されていた。震災を体験した子どもたちが、中学口を卒業するという理由からだった。しかし、永江さんの娘さんをはじめ、今でも、ケアを必要とする子どもたちがいる。また、震災を体験しない子どもたちの間にも、影響が見られる場合があり、問題行動の原因と考えられるケースもあるようだ。そのために、心のケア相談員の制度の継続を強く訴えている元ケア相談員の活動を紹介していた。神戸市は、震災後、全国各地で、災害が発生した場合に、こうした心のケア相談員を派遣していた経緯もあるのだ。

 震災復興住宅の入居者の高齢化による様々な問題の発生、たとえば、今も続く孤独死等、また、地元商店街の復興の遅れなど、本当に、復興が終了したとはいえない状況が続いているようだ。

昆虫食から食文化を考える/『虫はごちそう!』

2009-12-24 00:08:12 | 読書
虫はごちそう! (自然と生きる)
野中 健一
小峰書店

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 昆虫食という食文化を通して、人間と自然との関係を見直そうとした児童向けの本書は、多くの示唆に富む本である。
 日本でも、長野県を中心に、今でも、昆虫が食用として用いられ、スーパーの総菜売り場や、土産物売り場でみることができる。

 戦時中に、食糧難の時代に、注目されたことがあったが、今では、敢えて虫を食そうとする人は、少数派となっている。

 著者が、本書の中で『自然と人々の関わり合いを、「食べる」ことに目を向けて、人々が自然を多面的にそして奥深く理解していることや、自然のものを味わうための知識や技術を築き上げてきたことを解明するのだ』と、大学での授業の目的を述べている。昆虫食もまさに、そうした観点から取り上げられている。

 ラオス、アフリカの「ブッシュマン」と生活を共にして、彼らの昆虫食を含めた食文化の理解を深めている。

 また、岐阜県恵那市の旧串原村での、クロスズメバチの巣を飼育する取り組みに関する情報は、とても驚きであった。

印篭は登場しません/『水戸黄門漫遊記 (よみがえる講談の世界』

2009-12-22 00:16:18 | 読書
水戸黄門漫遊記 (よみがえる講談の世界)

国書刊行会

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 明治期の講談の速記本のシリーズの最後は、順不同で、今日もテレビで最終回が放送されていた水戸黄門に関するものであった。
 水戸黄門が映像化されてから、各世代によっては、第一印象に登る俳優名はそれぞれ違うのであろう。大河内傳次郎を挙げる人は、かなりの年配の方かな。
 僕の場合は、月形龍之介の水戸黄門である。

 さて、こうした水戸黄門が諸国を漫遊する話は、幕末から明治にかけて、講談師が語った話が起源となっているらしい。
 明治期の講談を読むことは、色々な面で興味深いものである。

 本書は、明治35年9月、岡本偉業舘刊行の『水戸黄門漫遊記 旭堂小南陵講演 山田都一郎速記』である。
 講談で取り上げる水戸黄門も、登場人物の名前と、偽りの職業が、東京と大阪では違う。本書では、水戸中納言光国卿、佐々木助三郎、渥見角之丞の主従三名が、それぞれ天神林の光右衛門、助八、角兵衛となり、百姓となっている。
 東京では、儒者酔狂、弥太郎、左膳などの主従となったりしている。

 本書では、隠居後、正体がばれないかどうかを調べるために、近隣の安宿に泊まってみる予行演習の様子や、漫遊後の、熊に救われる話などが、面白く語られる。狭い農道を歩いている時に、向こうからやってくる百姓に肥桶の肥しをかけられる黄門さまが、後で、その百姓を呼び出し金子を与える話も有った。この話の落ちは、もし、肥しをかける相手が将軍様だったら、いくらもらえるかと百姓衆が語ったというもの。もちろん、当時の道徳観から、正義のために悪人を懲らしめる話も当然登場する。漫遊先が、東北方面というのも、伊達藩絡みのせいだという解説があった。

 この黄門様には、テレビでお馴染みの印篭が登場しない。黄門さまの正体が分かるのは、その刀などの持ち物や、風貌に負っている。すでに、諸国漫遊の話が、大名に伝わっている設定になっている。

 なお、印篭が登場するようになったのは、テレビ版の東野英二郎の黄門さまからだそうだ。

 本書付録は、後に南陵を襲名した三代目旭堂小南陵の講演CDであり、長い話の中から、抜粋された五席を聴くことができる。

 しかし、現代の講談の今後の運命は如何に。

冬の日に怪談を/『番町皿屋敷 (よみがえる講談の世界)』

2009-12-16 23:59:46 | 読書
番町皿屋敷 (よみがえる講談の世界)

国書刊行会

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 日本人は、怪談が好きなのかもしれない。最近も、一時期、ホラー映画が流行り、ハリウッドまで進出した。僕も、ホラー映画は大好きである。

 さて、怪異の中に、人間の欲望や怨念を描いた作品では、江戸の四大怪談が名高い。「東海道四谷怪談」「累ヶ淵」「牡丹灯籠」「皿屋敷」である。

 怪談は、夏に相応しいのかもしれないが、冬に観賞するのも、又、楽しである。
今年、8月にいのうえひでのり演出で上演された「怪談牡丹灯籠」が、11月27日にNHK教育テレビで放送された。先日、溜まっている録画の中からその作品を観てみた。原作は、大西信行で1974年に文学座で上演されている。今回は、瑛太、伊藤蘭の出演ということで話題になっていた。テンポのある展開で、原作者の三遊亭円朝が、狂言回しとして登場した。
 ※なお、人形劇団プークで上演された牡丹灯籠は、新宿の紀伊国屋ホールで観ている。この時は、先代の林家正蔵(彦六)師匠が人形を絡んで、劇中で噺をしていた。師匠は、芝居噺を伝える名人であった。

 さて、テレビの怪談に続いて、本書を読むことになった。明治31年1月に東京博成堂より刊行された「怪談 番町皿屋敷」(放牛舎桃湖講演、転々堂吟竹速記)による。
 この作品は、岡本綺堂による歌舞伎も名高いが、江戸時代にすでに民間の間に伝承されていたと思われる、廃屋と没落する家もイメージを伴っている作品が元になっているようだ。没落の原因は、奉公人が主人の理不尽さから殺害されることになっている。また、この話は、仏教における因縁話として、説教僧により、民衆に広められたようだ。

 前段は、「吉田御殿」の話になっている。豊臣秀頼に嫁いだ千姫、後の天寿院は、ニンフォマニア(色情狂)で、美形の男を吉田御殿に誘っては、用が済んでからは殺害し、遺体を井戸に投げ込んでいた。
 この屋敷跡は、後に旗本の青山主膳が拝領し、屋敷を設ける。盗賊改め役だった青山が捕縛したのが、盗賊の向崎甚内で、その娘お菊が、その後、手違いから青山家に奉公することになり、家宝の皿を一枚割ってしまい、中指を着られる羽目になり、後の井戸の中に身を投げて自害というのが、後段の話となる。お菊の呪いで、青山家は断絶。その後も、井戸から皿を数える女の声がする。
 話の終盤では、伝通院の三日月了誉上人によるお菊の成仏譚が語られる。これは、浄土宗の説教僧による影響であろう。9枚までしか数えられぬお菊に、10を加えることで救う話は、一連のパターンがあるようだ。雨月物語の青頭巾の救いを思い出した。

 なお、サイドストーリーとして、首切り役人・粂の平内兵衛のエピソードが語られているが、彼の出身が武州八王子で、今でいえば、ファンキーモンキーベイビーと同じことになる。兵内兵衛の祖父が信長の足軽で、主君の死後に八王子に居を構えたということになっている。地元に関することなので記しておく。
 
 さて、この講談本は、先の「安倍清明」同様、付録に四代目旭堂南陵講演のCDが付いている。※「安倍清明」の時は、三代目旭堂小南陵であったが、2006年に南陵を襲名している。
 CDにより、実際に講談の講演を聴くことが出来る。

勇気ある提言/『拉致―左右の垣根を超えた闘いへ』

2009-12-16 02:04:10 | 読書
拉致―左右の垣根を超えた闘いへ
蓮池 透
かもがわ出版

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 拉致問題が、何故膠着状態を続けているのか。北朝鮮による拉致被害者家族連絡会の事務局長を務められ、現在は、家族会とも距離を置き、拉致問題解決への提言を続けられている蓮池透氏の勇気ある著書である。

 「はじめに」で紹介されている毎年ゴールデンウィークに開かれる大集会の異様な様子には驚かされた。壇上で発言するたびに、日章旗を振りながら「そうだ!」「けしからん!」「『朝日新聞』出てこい!」「NHKはいるのか!」などと激高する者達。軍服姿も見える。外には、右翼の街宣車。その演説は、自分たち家族会の発言と同様であり、愕然としたと述べている。

 救う会の幹部には、日本の核武装や北朝鮮への先制攻撃まで訴える過激なイデオロギーを持つ者が少なくない。当然、従軍慰安婦も、強制連行も認めない人達が、家族会の集まりにも出席して、発言すらしているという。

 マスコミも、政府も家族会の言うことも聞いていれば良いという立場で、積極的に動こうともしない。メディアも家族会の言動をそのまま垂れ流すだけで善しとしている。
 
 国民も、当初の拉致被害者の救出ということから、北朝鮮打倒という方向に流されていった。

 経済制裁も、ロシアや中国が同調しない限り、意味のない行為である。

 長年の膠着状態は、今までのやり方が相応しくないことを意味している。

 だから、粘り強い交渉が必要である。

 そうした勇気ある提言に、今、耳を傾けるべきである。

 家族会や、政府の今までの経過も書いてあり、冷静に判断する材料となるだろう。

付記
 現在、『死刑のある国ニッポン』(森達也・藤井誠二/金曜日)を読んでいるが、その文中に次のような指摘があった。

「左からの転向って極端に反対側に行きますね。(笑)。戦後右翼のフィクサーと言われた田中清玄とかナベツネ(渡邊恒雄)とか「救う会」(北朝鮮に拉致された日本人を救出する全国協議会)の人たちとか。そこにはかつて自分が帰属した党や組織やイズムへの憎悪のようなものが働いている。だから、そんな人たちの主張って、何となく過剰な情念を感じてしまってどうしても腑に落ちない。(森)」

「でも、たしかに歴史の修正主義の人たちの教科書運動や北朝鮮の拉致被害者の支援をしてこられた方々の出自をみると、ぼくも森さんの持つ違和感は共有できるな。(藤井)」

講談を読んで聴いてみる/『安倍晴明 (よみがえる講談の世界)』

2009-12-15 00:31:02 | 読書
安倍晴明 (よみがえる講談の世界)

国書刊行会

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 落語と比べて、日本の話芸である講談は、めったに聴く機会がない。もちろん、独演会や寄席に出かければよいのであるが、今や、寄席に出かける人も少ないのだろう。講談師の数も少ないのではないか。新劇など、よその世界から、講談の世界に飛び込んだ者がいる。

 講談も時代の空気を反映してきた。戦時中は、戦局に貢献するような演目が演じられた。国策に積極的に貢献した講談師もいた。戦後は、「はだしのゲン」などの平和に関する演目を演じる講談師がいる。

 さて、本書は、3冊からなるシリーズの1冊である。一時期、流行となった安倍清明に関する講談本である。夢枕獏原作の『陰陽師』の一連の安倍清明ものは、テレビでは、稲垣吾郎が、映画では野村万斎が安倍清明を演じ、京都の清明神社には、若い女性がお参りに訪れた。
 安倍清明に関する説話は、今昔物語に既に見え、最近の流行りの原因は何だったのであろう。
 さて、本書は、明治40年6月10日出版の「講談 安倍清明 玉田玉麟講演、山田都一郎速記」に依る。内容は、神道講釈に分類される。もともと、講談は、仏教を民衆に分かりやすく伝える説教から始まったものであろう。有名な道成寺の絵説きの説教は、現代でも行われている。神道講釈は、仏教の影響を排したもので、吉田神道の影響が見られる。演じる時も、舞台にしめ縄等で結界を作り、神職姿で笏を持って演じられることもあったそうだ。
 本書の内容は、浄瑠璃「蘆屋道満大内鑑」と、かなり内容が違う所がある。たとえば、清明は狐の子どもではなく、保名と狐の間に生まれた子どもは、別の子どもが生まれている。話は、藤原元方、蘆屋道満らの謀反人との戦いを描いている。

 付録には、三代目旭堂小南陵による第二席、第三席、第四席、第五席の講演が吹き込まれたCDが付いている。
 耳からも、この講談の一部であるが、雰囲気を楽しむことが出来る。

本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作/気になるニュース

2009-12-14 09:40:56 | 読書
本の販売2兆円割れ 170誌休刊・書籍少ないヒット作(朝日新聞) - goo ニュース

 出版界における活字離れがなお一層進行した。一方で、電子図書の将来の普及の可能性も指摘されている。
 ニュースによれば、出版科学研究所の分析から、今年の書籍・雑誌の推定販売金額が2兆円を割り込むことが確実になったと報じられた。1989年から20年間にわたって「2兆円産業」といわれてきたが、最終的には1兆9300億円台に落ち込む可能性がある。バブル期の89年に2兆399億円となり、初めて2兆円の大台に乗り、96年に過去最高の2兆6563億円まで伸びたがその後は減り続け、昨年は2兆177億円と落ち込んだ。今年は10月末時点で1兆6196億1千万円と昨年同期比4%減で、11、12月の2カ月間で大幅に伸びる要素はないとしている。
(なお、書籍・雑誌の推定販売金額は、出版物の調査や統計業務を行っている同研究所が出しており、古書店やブックオフなど新古書店での販売金額は含んでいない)。

 書籍に関しては、10月末で昨年同期比3.9%減となっているオリコンの調査によれば、今年のミリオンセラーは、村上春樹著「1Q84」の2巻で224万部のほか2作のみである。なお、昨年は5作あった。

 売上を伸ばすために、各出版社は、新刊の刊行点数を増やすものの(89年の約3万8千点に比べ、昨年は約7万6千点。今年は10月末時点で昨年度比3.2%増加)、返品率は、08年の40.1%から、今年10月末時点で40.7%と悪化している。

 新刊の刊行点数は89年の約3万8千点に比べて、昨年は約7万6千点と倍増、今年は10月末時点で昨年より3.2%増えているが、販売金額の減少は止まらなかった。出版社は少しでも売り上げを増やそうと刊行点数を増やしているが、売れない本は書店が次々と返品している実態が背景にある。08年の返品率は40.1%で、今年10月末の時点では40.7%とさらに悪化している。

 最近、書店の店頭でも目立つのは、売らんかなのあくどいとも思える売り方である。人目を引くような、極端なタイトルと、本のキャッチフレーズ。そこには、かつての文化の香りは感じられず、香具師による露店販売の雰囲気するする。
 前述「1Q84」にしろ、出版前からの宣伝活動、予約販売など、作品の内容の他に、読者の購買欲を煽る販売戦略も重要な要素となっている。しかし、多くの新刊には、神通力が効かないようになっているのが、今回の数字に表れている。

 雑誌に関しても、10月末までの前年同期比で4.1%減となり、推定販売部数も大幅に減っている。(08年は前年比6.7%減の約24億3800万部だったが、今年は10月末時点で前年同期比7.3%減と過去最大の落ち込み幅になっている)。

 雑誌の休刊が目立ったのも、今年の特徴であった。同研究所によると今年は10月期までに「諸君!」「BRIO」「マリ・クレール」などを含む170誌が休刊した。「諸君!」のような右派の雑誌の休刊は、個人的には歓迎すべきことなのだが、出版文化という面からは、雑誌の休刊ラッシュ現象の動きは憂うべきことなのだろう。なお、「ロスジェネ」などの、利益よりは、自分たちの主張を発信しようとするオピニオン誌の刊行については、別の意味を考える必要がある。

 児童関係では、学習雑誌の廃刊が気になった。最盛期には、小学○年生は、たのしい○年生というライバル誌とともに、思い出の月刊誌であり、月に一度の発売日を楽しみにしていた。また、店頭売りではなかったが、学研の「学習、科学」両誌も、学習面や、夢を持つことで、子供時代に彩りを添えてくれた。寂しい限りである。
 なお、この傾向は、学研・旺文社の「中○コースと中○時代」の休刊の時から、始まっていたというのが、個人的な感想である。また、少年向け雑誌の「少年」の休刊は、もうかなりの過去のことになってしまったが、その時の失望感は忘れることができない。

読書 『江戸の子どもの本』

2009-12-11 01:07:48 | 読書


江戸の子どもの本―赤本と寺子屋の世界

笠間書院

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 子どもにとって、初めて出会う本は絵本であろう。最近の若者の読書離れは、子どもの時に、絵本をはじめとした児童文学に触れる機会が少なかったのが原因かもしれない。
 書店には、たくさんの絵本が置かれている。図書館も然り。後は、小さな読者を待つのみである。
 内容は、大人が読めば、また、深い意味を見出すことのできる絵本も少なくない。絵本と言うからには、その作画も、心を惹くものでなけらばなるまい。もしかしたら、子どもが初めて接するアートの世界かもしれない。

 新しい児童書が出版される一方で、読まれる機会がなくなってしまう古典的作品も少なくない。宮沢賢治にしても、全ての作品が読まれる訳ではないし、忘れ去られそうな名作も、また、掘り起こす必要があるだろう。単なるノスタルジーではなく、宝石のように輝いていた作品を埋もれさせてはならない。ほんの10年位前の作品ですら、誇りをかぶった古本と化しているものがある。

 さて、日本の子どもたちが、絵本を読み始めたのはいつ頃からなのだろうか?この疑問に対する回答を、本書は提供している。江戸時代に出版された絵入り本の中から、子どもたちが読んでいた「赤本」が取り上げられている。江戸時代中期に江戸で出版されていた赤本は、表紙が丹色(にいろ)だったことから、そう呼ばれるようになった本である。

 1冊が10ページの赤本は、その内容については、昔話、先行する説話、浄瑠璃・歌舞伎などを、その当時の「現代風」なものに仕立て上げたものなど、多種にわたる。正月のお年玉として購買された子ども向けの縁起物と言われているが、大人たちも読んでいた。

 江戸時代から明治初期まで、日本の子どもたちは赤本という絵本を読んでいたことになる。

 本書は、全丁の写真版と本刻が収録されているので、当時の絵本の雰囲気を楽しむことができる。
 収録作品は、「桃太郎昔語(ももたろうむかしがたり)」、「きんときおさなだち」、「兎大手柄」のおなじみの物語3篇と、当時の寺子屋の様子を具体的に描いた黒本・青本に属する「寺子短歌」である。

 3編の話は、それぞれ、桃太郎、金太郎、かちかち山の話であるが、内容はかなり毒がある。最近の昔話の再話は、教育的配慮から毒がすっかり消え去っている。

 桃太郎の誕生に関しては、桃から生まれる果生譚と、桃を食べて若返った爺婆から生まれる回春譚があるが、「桃太郎昔語」は、回春譚である。

 「きんときおさなだち」は、金太郎こと快童丸が源頼光の家来にとりたてられる時に、今まで、家来にしていた熊と猪を投げ殺している。その前の話では、雷を捕え、木に縛りあげた上に、太鼓を壊している。

 「兎大手柄」は、かちかち山の原話通り、おばあさんがタヌキに殺されて、タヌキによってタヌキ汁にされている。それを知らないおじいさんが、おばあさん臭いと言いつつ、その汁を食べてしまう。タヌキいわく、「流しの下の骨見ろ、くわい、くわい」。絵を見ると、流しの下には、おばあさんの骨がある。

 当時の価値観との違いから、残酷な話に感じられるのだが、江戸の子ども達には、受けていたのだろう。

 「寺子短歌」は、いろは歌の「い」から「京」までの48文字を頭に読みこんだ教訓尽くしとして展開し、同時に、寺子屋の様子が生き生きと描かれている。当時の子どもたちの声が聞こえてくるようである。悪ガキも、当時から活躍していた。

 なお、巻末には、資料が載っていて参考になる。その中に、巌谷小波の桃太郎ときんたらう、浜田広介のかちかち山も載っているが、赤本と比べてみるのも面白い。かちかち山は、当然のごとく、毒気が抜かれている。

 
 

「理解」という支援/『性犯罪被害にあうということ』

2009-10-30 01:03:19 | 読書
性犯罪被害にあうということ
小林 美佳
朝日新聞出版

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 犯罪被害者の刑事裁判への参加、そして裁判員制度といった新しい制度も下での犯罪被害者への社会の理解が求められている。しかし、現実は、自分が犯罪被害者になるか、家族が犯罪被害者となった場合でもなければ、日常生活からは思索の対象から外されるのが普通になっているのだろう。
 犯罪被害者にも、刑事犯罪、交通犯罪といった対象となる犯罪のより、その受け止め方が違ってくる。また、家族の反応も変わってくる。全てを、一つのケアで対処することは出来ない。

 特に、性犯罪被害者の場合は、被害者における自己否定の感情や、社会の「常識」との乖離に苦しむことになる。被害者になったことが、「恥ずかしいこと」「周囲には黙っていること」という意識と、被害にあった怒りとが葛藤する事もあるだろう。また、家族との関係も微妙なものとなる。友人関係にも暗い影を落とすこともある。セカンドレイプという二次的被害もある。

 被害者の当事者としての手記は、社会や周囲が「理解」するための貴重な証言である。24歳の時に、性的犯罪に巻き込まれてからの、著者の被害者としての思いを伝えなくてはという意思が強く感じられた。事件後の、激しいフラッシュバックや、男性との性的関係に嘔吐が伴うようになったことなど、日常生活を送る一般市民には思いもよらない心身共にダメージを与えられた事が綴られていることに。

 本書の中で、”事実を受け止める”ことが、被害者にも周りに人にも必要であるとの指摘は重いものであるが、また、難しいものでもある。しかし、その点をクリアしなくてはなるまい。
 ”事実”に関して著者は言う、「被害者にとっては、被害にあい、自分の身体や気持ちが傷ついていること。そしてそれは他人の手によるものであり、決して自分の非を探す必要はないということ」「周りの人たちにとっては、自分の大事な人が、悩み苦しんでいること。それが自分ではなく、その人であること。自分の苦しみの発端は、被害者本人の辛さがあってこそだということ。そしてそこには、絶対に悪い、第三者の手が下されていること」と。

 AV作品が描く、性に関する虚構も性犯罪に影響を及ぼしている可能性が高い。また、本書では、被害を受ける男性に関しても、いじめにおける性的虐待や、女性によるセクハラにも少し触れている。

 「タガタメ」の詞を聴いた時、著者は、自分の気持ちを理解している曲だと思ったそうだ。

Mr.Children タガタメ 音ズレ無し



一つのジェンダー論として/『関係する女 所有する男 (講談社現代新書)』

2009-10-21 23:56:50 | 読書
関係する女 所有する男 (講談社現代新書)
斎藤 環
講談社

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 2006年1月、東京都国分寺市が、人権学習の講座に講師に上野千鶴子氏を招いていたのを、急遽中止した事件があった。また、ある自治体では、フェミニズムの図書の撤去という現代の焚書ともいえる行為を行った。
 何故、保守主義者や国家主義者、あるいはファシストたちが「ジェンダーフリー」の考えを嫌うのか、この疑問に答えてくれるような適当な本を探していた。

 本書は、入門書として面白い本であった。ただし、著者の精神分析の立場は、検証することのできないものなので、参考意見にはなるが、証明できない理論として理解した。ただし、こうした分析も、科学としてではなく、思想的、哲学的論理をしては大変興味深いものである。知的冒険をしばし、楽しめる点で。

 なお、本書で、日本で使われている「ジェンダー」を「社会的文化的性差」と訳すことは誤訳であり、それがジェンダー論に混乱をもたらしている原因の一つだという指摘(山口知美氏による)は、初めて知った。訳としては、「社会的文化的な性のありよう」とすべきとのことだ。

 なお、「ジェンダーフリー」論の中にある、着替え男女同室論、ランドセル同色論・鯉のぼり廃止論などの、とんでもない「強迫的ジェンダーレス」論の否定も当然のことであろう。

 八木秀次氏や西尾幹二氏といった、「著名な」保守的論壇人が展開する「バックラッシュ」の言説に対する批判は痛快であった。

 また、世の中に氾濫している、性差を脳や器質により全てを説明しているような「トンデモ」本に対する批判も有効であった。たとえば、右脳左脳論などの非科学性の指摘などである。1993年に、ゲイの遺伝子が発見されたとのニュースが報道されて話題となったが、後に、これを否定する研究結果が出た。しかし、この事はニュースにもならなかった。誤解だけが、人々の記憶に残ったようだが、この手の話が「トンデモ」本には多く見受けれらる。(たとえば、アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ『話を聞かない男、地図を読めない女』主婦の友社、2002年)

 著者の、所有を追及する男と、関係を欲する女という精神分析による概念は、話としては面白いのであるが、精神分析は疑似科学の分野であることから、実験による実証は出来ない。
 その延長上での、著者の「おたく」と「腐女子」を通しての考察も、興味ある考えな方なのだが、同様に科学的に検証されるものではない。文化論として理解すべきなのか。

 参考: ニコ動から、コメントは消してみた方がいいだろう。腐女子に関しては、本書でも言及するが、おたく以上に多様性を帯びているので、一つの概念でまとめることは、困難なことらしい。

【替え歌】 ヤオイン 【バ行の腐女子】



教育の自由をめぐって『性教育裁判―七生養護学校事件が残したもの (岩波ブックレット)』

2009-10-11 01:55:36 | 読書
性教育裁判―七生養護学校事件が残したもの (岩波ブックレット)
児玉 勇二
岩波書店

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 2007年7月に、都立七生養護学校(現七尾特別支援学校)で、恐るべき教育介入が行われた。2日前に、定例都議会一般質問で、土屋敬之都議が七生養護学校で行われている性教育に関して非難を行っていた。これを受け、石原都知事は「あげられた事例どれを見ても、あきれ果てるような事態が堆積しているわけでありまして、すべての先生がそうとは申しませんが、しかし、そういう異常な何か信念を持って、異常な指導をする先生というのは、どこかで大きな勘違いをしているんじゃないかとおもうんです」と語った。そして当時の横山東京都教育長は、不適切な教育が行われないように「適切な」措置をとると答弁していた。

 その日、土屋議員を含む都議3名、日野市議1名、町田市議1名、杉並区議1名、東京都教育委員会職員7名、そして何故か産経新聞記者1名が、学校を訪れた。校長、教頭2名との面談の後、全員で、午後3時頃、性教育の教材が保管されていた保健室に入室、養護教諭らを一方的に非難した。そして、性教育用の人形の下半身をむき出しにした状態で並べ、産経新聞の記者に写真を撮らせた。翌日の産経新聞朝刊に「過激性教育を都議が視察」との見出しで記事が載った。教材も没収されることになる。

 障害者の性に関しては、世界的にも、また、国連で採択された障害者権利条約でも、性教育を含めてその重要性は認識されている。特に、知的障害者の場合は、被害者にも加害者にもなりうる可能性が高く、「性=生」教育が、障害者の自己肯定感、他者との関係における安心感を保障するためには、必要不可欠のものである。
性的自己決定権を含む人権と理解されなくてはならない。

 七生養護学校でも、問題解決のために、長い期間をかけて性教育が試行錯誤されてきた。抽象的な理解が難しい生徒のための教材の工夫や、自分の身体の大切さを認識するために作られた「からだうた」も、教師たちが、保護者の声を聞きながら作り上げてきたものであった。教育現場での評価も高く、平成13年には、心身障害者教育夏季専門研修に七生の教師が講師として呼ばれ講演を行っている。この研修会は、東京都知的障害養護学校校長会及び同教頭会が主催するものであった。

 この事件の背景には、都教育委員会の変質があった。都知事は就任直後、教育委員に氏と関係の深い人物を送り込み、「心の東京革命・推進プラン」では、「国の施策に忠実で、国のために奉仕する事に『喜び』を見出す人間を作り出す」という考えが根底にあった。それまで自由であった教育現場に、厳重な管理体制を敷き、挙句の果てには、教職員会議での挙手採択禁止の通達まで行うに至った。

 そして、産経新聞というマスコミを使うことも大きな特色であった。

 この事件の不当性に関して、東京地裁に2005年5月に、教諭や保護者が提訴する。そして2009年3月判決の判決を迎えることになった。

 判決の骨子は次の通り。
①七生養護視察に際しての三人の都議らによる養護教諭への避難などの行動は政治的介入であり、「不当な支配」である。
②都教委は都議らの「不当な支配」から教員を保護する義務があるのに放置したことは、保護義務違反となる。
③「こころとからだの学習」が、学習指導要領・発達段階を無視したとして、都教委が教員を厳重注意した事は、児童生徒や保護者からの事情聴取もなく専門家の見解も検討せず、裁量権の濫用にあたり、原告のうち12人に対する計120万円の損害賠償を命じる。

 なお、現在、裁判は控訴され東京高等裁判所で進行中である。この事件により、全国的に性教育が委縮する事態を招いた。再び、生徒の教育を受ける権利を取り戻すためには、まだ、闘いは必要である。東京地裁に判決は、その反撃のスタートラインとなるだろう。

 なお、元校長の「金崎」裁判も1審で勝訴しているが、その間の事情や、障害者と性の問題の関する問題提起、また、保護者や卒業生の声など、本書をお読みください。 

『10代がつくる平和新聞 ひろしま国』/私達に期待されている事

2009-09-13 01:50:28 | 読書
10代がつくる平和新聞 ひろしま国
中国新聞社
明石書店

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 広島の地方紙の「中国新聞」に、ジュニアライターによる「ひろしま国 10代がつくる平和新聞」が、月2回、特集紙面で掲載されていることは、本書で初めて知った。総監は、2007年1月29日だそうだ。小学生から高校生までの記者が、自分たちで企画した平和に関する取材をみると、何もしない大人たちが恥ずかしくなる。オバマ招聘プロジェクトなど、行動に結びつくものもある。本書は、創刊号からのダイジェスト版だが、その記事の内容の豊富さには驚かされた。様々な分野の人へのインタビューもある。子ども兵士やクラスター爆弾といった、広島から世界に目を向けた記事もある。もちろん、原爆投下に対する子供たちの疑問とその調査結果も興味深かった。
 世界の人にインタビューする時、ヒロシマの子どもとして期待されていることを感じると言う。原爆が落とされた街に生まれたことが、自然と、世界に向けて、もちろん国内に向けても、放っておけば風化してしまう原爆の記憶を伝えていく使命のようなものを感じ取っている。被爆者の平均年齢も高くなっている現在、その体験を直接聞ける最後の世代である子どもたちとの意識を持っている。
 我々、ヒロシマに住んでいない大人たち、あるいは子どもたちも、長崎の原爆、第五福竜丸事件を経験した国の人間として、やはり、世界に向けて、平和の声を発信しなくてはいけないという事を再認識させられた。また、加害者としての歴史を経験した国の人間としての思いも伝えていく必要があるだろう。

 さて、「ひろしま国」の創刊号では、広島市内の中学校の平和学習から生まれた「ねがい」という曲に着目した記事『「ねがい」ぼくらの国家はエンドレス」が載っている。「ひろしま国」にふさわしい国家として「ねがい」を選んでいる。記事のタイトルのエンドレスというのは、はじめの曲の歌詞が4番目まであり、2002年にNPO法人の「JEARN」(ジェイアーン)が、「5番目の歌詞を作ろう」という運動「ねがいコネクション」を展開した結果、2007年1月28日現在で、28カ国から622番までの歌詞が寄せられた。2009年6月26日現在では、1679番まで広がっている。世界中に広がった平和への思いを歌詞にして表現する運動は、今も続いている。そんな意味でエンドレスの歌なのである。

 「ねがい」は、「ひろしま国」のホームページから聴くことができる。

「ひろしま国」ホームページ 「ねがい」

フェスタin茨木 ねがい♪