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昭和の時代をドラマから感じます

2012年04月19日 | Weblog
終戦のスローな流れとあたたかさ
                セピア色した 昭和の時代




「梅ちゃん先生」の番組をハードディスクに毎日保存して、視聴しています。ドラマを見ながら、セットがよくできているなと感心します。戦後の生活の様子が巧みに描かれています。



自分自身も昭和の時代に生まれ、時を過ごしてきました。戦争が終わって、10数年過ぎて生まれましたが、昭和の幼少期、何となくスローな流れと人と人との繋がりが濃いかったように思われます。



自分の幼少期と現代ではかなり生活の様子も違っています。いろんな思い出や思い入れがあります。
印象に残っているもの・・・。



◇中津~山国間では耶馬溪鉄道が走っていました。家の裏側が線路だったので、耶馬溪鉄道を走る列車の汽笛の音は、生活の音の一部でもありました。線路伝いにあぜ道がありました。


今では、その道が歩くことはほとんどありませんが、当時は、列車と駆けっこで競走をしたりもしました。駅に続く生活道路でもありました。通勤時間では、高校生の乗り降り、中学生の乗車などで、駅前は混み合いました。




◇馬車が通っていました。馬で材木をひかせていました。家は、店屋だったので、鞍やひずめなどの馬具なども売っていました。


当時は、アスファルト道路ではありませんでしたので、土の上に、馬の糞が落ちていて、投げたりしたのはこの頃、少年だった人には思い出があるでしょう。




◇電話も交換の人がでて、「○○○番をお願いします。」と言ったらつないでくれていました。プッシュ式やダイヤル式ではなく、電話の横に回すものがついていて、それを回してしばらくすると、交換の方が出ました。


市外にかけるときは、「そくじ(字はわからない)をお願いします。」と言うと、市外にかける局につながり、またそこの交換の方に番号を言うようなシステムでした。複雑な方法ですが、人と人とが繋がりあわなければ生きていけない時代でした。





 まだまだ数え切れない昭和と今では文化の違いがあります。「梅ちゃん先生」とは話がかけ離れましたが、「梅ちゃん先生」のドラマの中の家族のように、家族も核家族が少ない時代でした。いろんな形で人と人とが関わる以上、多くの軋轢も生まれたことでしょう。


しかし、それを跳ね返す、乗り越える力は身についていたのではないでしょうか。



 「梅ちゃん」が医者になろうとする時代には、セットや時代背景が違っていると思いますが、今は、昭和を感じさせるストーリーを一日15分楽しんでいます。


写真は、かつて三光にあった三沢中学校です。