かったかくんのホームページ

日々感じたこと、心に残ったこと・・・綴っていきますね。よかったら、立ち寄って下さい。

懐かしい方たちとの観戦

2010年08月31日 | Weblog
今年になってから初めて、ナイターの観戦に行きました。懐かしい人たちに会って、一緒に観戦を楽しむことができました


先週、日田で勤務していたときの方から電話がありました。


「先生、明日、ナイター観戦に行きませんか。チケットを取ってくれています。」



 明日・・・いろんな出張も重なっていたけれど、5時に出れば、なんとか間に合うと思い、すぐにOKしました。チケットを取ってくれていた先生は、退職をされて、数年になります。奥さまも退職後、公民館の活動をされていて、それで知り合いました。 

 先生のご夫妻には、日田に勤務しはじめての頃から何かにつけて、声をかけてくれました。とても心強かったです。先生の子どもさんの会社の関係のスーパーボックスで見ることができました。よく見える位置でのVIP席です。これで、一緒に観戦をさせてもらうのは、2回目です。先生の観戦仲間が日田から一緒に来ていました。



 五馬の方も観戦ツアーに参加をしていました。Tさんは、五馬の自治会長さんをされています。地域のこどもたちを大切にする、とても優しい方で、五馬に勤めている時は、父のような存在でした。今でも「花見に行こう。」と誘ってくれます。



「これで、ナイターを見るのは、最後かもしれんね。」なんていうことを言いますが、奥さまを亡くされて一人で暮らしていますが、地域のためにアクティブに活躍をされています。
 


 本当に懐かしい方たちにたくさんお会いできて、楽しい時間でした。わずか2年間しか日田にいなかったのですが、今でも心からつきあえる大切な人たちと巡り会うことができました。
 


 試合もホークスが勝ちました。若手の投手が初勝利をあげました。勝利の花火を見ることができました。電車の往復切符を買っていたので、みんなと一緒に日田まわりでは、帰ることができませんでした。先生が、
「寄り道しないで、ちゃんと、まっすぐに帰りなさいよ。」
はい、はい。最後までしっかりお世話をしてくれます。


 先生をはじめ、日田のみなさま方、ありがとうございました。


赤ちゃん誕生おめでとう

2010年08月31日 | Weblog
「予定日より少し遅れているけれど、お母さんも元気がいいよ。」とゆうちゃん。そして、23日、待望のあかちゃんが誕生しました


「予定日より、少し遅れているので、心配だけど、お母さんも元気がいいよ。」


とゆうちゃん。そして、今月の23日、ついに待望の赤ちゃんが誕生しました。


 ゆうちゃんとのつきあいは、長いです。ゆうちゃんが、小学校4年生、5年生、6年生の時に担任をしました。まさかの3年間の担任です。今思えば、ゆうちゃんにとっては、迷惑?!な話です。


 優しいお父さん、お母さん、おばあちゃんなどに囲まれて、成長をしていきました。小学校当時は、よく病気をしていましたが、成長するにつれて、頑丈なゆうちゃんに。クラスを受け持っていたときに、クラスみんなを家に呼んでくれて、茶摘みをさせてもらったり、山芋を掘らせてもらいました。みんなにとっては、今でも忘れることのできない思い出です。



 社会人になってから、時間があれば、趣味の山登りに。久住はもちろん、祖母山・・・いろんな山に登りました。山から、メールで写真を送ってもらいました。時に、久住の方に水くみなどに連れて行ってもらったこともあります。社会人になってから、友だちのようなつきあいをさせてもらっています。アウトドア派のゆうちゃんになりました。


 
 趣味が広すぎて、結婚はいつになることやら・・・と思っていたら、昨年ついに結婚。そして、パパになりました。つい先日かのように思いますが、確実に時が過ぎていっています。4年生のとき、劇の主役に抜擢され、本番。突然、劇をやめ、トイレに駆け込んでいったこと、宇佐神宮での全国百人一首大会での頑張り。個人的にもたくさんの思い出があります。結婚をし、これから子育てにもエネルギーを使っていきます。



 本当にゆうちゃん、おめでとう。こちらに戻ったときに会いに行きます。



アンコールワット展へ

2010年08月30日 | Weblog
ちょっと見たかった世界遺産の公開展覧会。最終日、ついに実現。しっかりと堪能してきました



 日本の歴史には、とても興味があります。東洋の歴史や文化については、あまり知識はありません。


 でも、公開されている「世界遺産  アンコールワット展」には、訪れてみたいと思っていました。最終日の今日、実現をしました。


 アンコールワットに興味を持ったのは、映画で、「地雷を踏んでさようなら」を見たからです。戦場カメラマンの一ノ瀬泰造は、1970年代激動のインドシナ半島、戦場を駆け回り、シャッターを押し続けた。次第に、ポルポト軍のゲリラの聖域、アンコールワットを撮影することに取りつかれ、突進します。


 あと一歩のところで26歳になったばかりの短い生涯を閉じてしまう。映画のラストシーンでは、アンコールワットを目の前にして、地雷を踏んでしまう・・・10年前くらいの映画ですが、感動の映画でした。


 しかし、なぜ、一ノ瀬泰造は、共産主義勢力の支配下に有った「アンコールワット遺跡」への潜入しようとしたのだろうか。もしそれが、自分の名誉だけの為だけではなく、アンコールワットの魅力としたら、アンコールワットは、どんなところだろうとずっと思っていました。



 特別展示室では、説明のレコーダーも借りて、しっかりと見て解説も聞きました。カンボジアの仏像は、砂岩などで造られていて、下のチケットの写真のように全体的に優しい雰囲気があります。9世紀以降、神仏の彫刻、石像の建物などすばらしい文化を残しました。日本の仏像とはまた違っています。そういった信仰があったにもかかわらず、残虐な内戦が24年間続きました。 



 アンコールワットの修復もかなり行われています。これからは、平和の象徴の場所であってほしいと願います。


アナログ派からの脱却

2010年08月26日 | Weblog
ふーっ。やっと一日が終わりました。今日は、午前中研修。そのままご飯も食べずにさらに会議。もうすでに次の会議が始まっている。ご飯をばたばた食べて、ちょっと遅れて参加。夜も近くの小学校での会議とつかれたあ


ワープロやパソコンが普及し始めても、アナログ派のかったかくんでした。


 先生たちの資料などを作成するときに、手書きの人がだんだんと減っていきました。そんなとき、手書きの人・・・アナログ派の人を見るとき、ほっとしていました。○○先生もいる、△△先生もだ。話はしなくても親近感が沸いていました。



 しかし、中学校に勤務してから、パソコンにふれなければ仕事ができなくなりました。成績の入力、パソコンの授業・・・時代からの脅迫でした。ほどよく勉強をしました。小学校の勤務の時は、それほど、パソコンに必要性を感じませんでした。



 今、考えると、アナログ派で通さなくてよかったと思うことが多いです。今日の午前中の研修では、病気での欠席者の報告を毎日するものでした。毎日、何人がどういった病気で欠席をしたのか、インターネットで県の方に送らなければなりません。すると、どこの地域でどの病気が流行しているのかが一目でわかるようになっています。欠席者の把握もデジタル化。すごい時代です。



 でも毎日の仕事がまた増えたなあ。文章を送るのも、メール指定というものも結構多いです。



 あのままアナログ派を継続していたとしたら、時代遅れのおっさんになっていたのかもしれません。中学校勤務になっての副産物だと思っています。ブログやホームページなどもなんとか作成できるようにまでなっています。 今、野球などの動画などいろんな機能をパソコンを通して見ることができます。学校の取り組みを動画で紹介しているところもあります。



 ツイッターとやらも出現してどんどんと進化をしていきます。どこまでついていけることやら。でもせめて、パソコンに振り回されるような生活だけは、しないようにしたいですね。



生徒から学ぶもの

2010年08月25日 | Weblog
2学期の始まりまであと5日となりました。まだまだ暑い日が続きますが、生徒にとっては、夏休みが終わっていきます。そんな中で、学校でもいろんな動きがあります



2学期の始まりまで、あと5日となっています。学校では、夏の始まりとはまた違う活動が行われています。


 校舎内では、体育大会の応援の練習や話し合いが3年生を中心にもたれています。またグランドや体育館では、新人戦や駅伝大会向けて、部活が活発になっています。


 そんな中で、電話をとる機会が多いのですが、
「○○が痛いので、部活を休みます。」
と言ったような電話をよく受けます。


 思い出すのは、野球部を担当していたときのことです。最上級生の生徒。故障をしたことがありました。でもその生徒は部活を休みませんでした。


 ボール拾い、ノックのボール出し、後片付け・、グランド整備・・プレイはできないけれど、故障が治るあいだ、チームのために自分ができることをしてくれていました。よくクラスの目標や部活の目標などにあるのですが、


「一人はみんなのために、みんなは一人のために」
One for all. All for one.


 こんな選手がいるようなチームのムードは強いですよね。自分のことはできないけれど、でも・・・みんなのことはできる。



 レギュラーではありませんでしたが、本当に野球が好きだったのでしょう。高校に行ってからも野球を続けました。みんなも彼のことを尊敬していましたし、生徒たちが、これから生きていく中での大切なものを見せてくれました。



 こちらも彼から多くのことを学びましたし、また、彼のすばらしい姿を他の生徒たちに伝えました。今でも忘れることのできない思い出です。部活は、それぞれの技術を学ぶとともに、これから生きていく中で、大切なルールやマナー、人として大切なもの・・・を身につけていくものだと思います。それは、技術以上の価値があるでしょう。



 いろんな体験を通しながら、生徒たちは成長をしていきます。


20年の歳月

2010年08月24日 | Weblog
土曜日、地区のお祭りの20周年記念ということで日田の屋形船にのりました。地区の人たちで楽しいひとときを過ごしました



 地区の夏祭り「若宮祇園」が7月ににぎやかに行われました。今回で20回目を迎えました。なんとか細々と20回目を迎えることができました。


 20回の前は、お宮の舞殿でお神楽を上げるくらいでした。お神楽をあげているけれど、だれも見る人がいない・・・そんな感じのお祭りでした。そこで、地区のリーダーの方たちが、地区を盛り上げようと、若宮祇園を発足させました。



 毎年、行っていることは同じようなことですが、年に一度地区の人たちが集って楽しみます。地区の交流会です。20回が終了したというので、みんなで、日田の屋形船に先週の土曜日、バスを借り切って乗りに行きました。


 第一回目から関わってきた人たちばかりが集まりました。その頃の思い出話に花を咲かせながら、日田の船乗り場につきました。



 船の上は、豪華な食事でした。前に一回いったことがあるのですが、そのときは、観月祭で弁当でしたが、今回は、お膳でごちそうでした。
「日田は暑いよ。」
といわれていましたが、船に乗る直前まで夕立で、乗るときは、涼しい風が吹いていました。



 日が沈んであたりが暗くなっていくと、船やホテルの明かりがきれいに水面に映し出されます。ときどき、鵜飼いの船が近寄ってきます。なんとなくロマンチックな、そして時代が大正、昭和の時代にさかのぼったようなそんな気にさせられます。



 市町村合併をする前は、いろんな行事が地区にありました。しかし、予算の関係で、一気に減少しました。そんな中で、地区の人たちの手づくりで20回も続いていることは、すごいことだと思います。



 一緒に準備をしたり、(今年はあまり出ることができなくてすません)地区がまとまるために、派手なものはしなくていいけれど、みんなでできる範囲の中で、これからも継続できたらいいと思います。伝統を次の世代へとバトンタッチができたらいいですね。



 発足当時より、実行委員の人たちは、高齢化となっています。過疎が進むここでは、まだ若手で通用できる唯一の場所です。


PTAで佐賀の旅へ

2010年08月23日 | Weblog
昨日の日曜日。PTA研修旅行がありました。たくさんの方の参加の中、みんなで、佐賀の呼子に行きました。楽しく過ごすことができました

 昨年までは、毎年秋が深まった中でPTA研修旅行が行われていました。本年は、夏休み中に、研修旅行をすることが決定。昨日、開催されました。


 PTA研修部の方たちが、いろんなお世話をしてくれました。


 昨年は、木造校舎のつくりなどを学習するということで「五馬中学校」に行きました。今年は、桃山文化の歴史を考える?ということで、佐賀の唐津・呼子方面へ。
 いざ、出発です。三光からは意外と遠いです。


 
 まず、めざすのが、名護屋城。朝鮮出兵で、豊臣秀吉が築いたお城です。以前一度、訪れたことがあるのですが、博物館の方にしか行きませんでした。今回は、現地のガイドさんから説明を聞いた後、大手門から、東出丸まで登りました。



 北は、北海道から、南は、琉球までの大名が名護屋城の周りに陣をはりました。東出丸の
展望台からその位置を確認することができました。当時、豊臣秀吉は、その権力に本丸から、酔いしれていたのでしょう。
 場所は違いますが、「夏草や 兵どもが  夢の跡」ですよね。

 ここから、朝鮮半島に出兵をしていき、帰らぬ人になった兵もたくさんいます。また多くの朝鮮半島の住民が連れてこられた悲劇の場所でもあります。名護屋城を撤退するときは、それぞれの陣屋は、きれいにこわしていったとのことです。また、博物館の方に聞いたのですが、江戸時代、陣屋跡が、隠れキリシタンの場所にならないように、警戒も厳しかったとのこと。いろんな歴史のドラマとなった場所です。



 上の写真は、東出丸からのものです。登れる人がここまでやってきました。ここから、陣屋がのぞめます。ナイスビューでしたが、とにかくこの日も暑かった。


博物館も見学したあとは、
「いざ、呼子へ」
イカの活造りを食べました。一番上の写真は、食べる前に写真を一枚。2人で一ぱいという贅沢感。満腹となりました。これだけでも大満足。唐津のくんちの記念館に立ち寄ったあと、最後に、唐津のおさかな村へ。


 まぐろの解体ショーなどを見たりしました。新鮮な魚がいっぱいでした。お家の方たちもたくさんのお土産を買っていました。きっと、それぞれの家庭の夕食の食卓では、ここでの魚や海産物がたくさん出たのでしょう。



 お家の方たちとの楽しく親睦もできました。
 また写真も、今度の土日の間に現像をしますね。



感謝の気持ちを込めて

2010年08月21日 | Weblog
新聞。子どもへのメッセージです。ブログでもいつか書いたのですが、祖父を想う子どもへの感謝の気持ちです



先日の新聞に投稿をした記事が出ました。言葉では言わないけれど、わが子へのメッセージです。


 もうまもなく、子どもも結婚をします。父が、病気と闘っている中でも、子どもの結婚の話になると、最後まで、
「孫の結婚式に出るまで死なれんね。」
と気持ちを取り直していました。病気と闘う父の強さは、全部で、6人いる孫たちの存在だったのかも知れません。共働きをしている中、父も母も本当に孫を愛情持って育ててくれました。感謝をしています。そして、そのことは、孫たちも心の中に大切にしていると思います。かわいがった下の孫の高校入試の合格もわがことのように、喜んで聞いて、何日かして旅立ちました。


葬儀の時の子どもの弔辞で、


「僕は、おじいちゃんのことが赤ちゃんのころから大好きで、僕が小さい頃の日課は、昼間はおじいちゃんとドライブや散歩、夜はおじいちゃんの布団に入って一緒に寝ることでした。


毎晩眠れない自分に昔話などいろいろおしゃべりをして寝ていたのを今でも覚えています。そして、小さい頃の僕は、おじいちゃんと一緒に大学へ行くんだとも言っていました。


あの頃はまだ大学生はまだまだ遠い先のことだったけど、そんな僕も無事リハビリの専門学生になりました。早いものですね。去年の春くらいからあまり体を動かせなくなってしまったとき、僕が帰ったら、いつもお風呂に入るのを楽しみにしていました。


そして、いつも
「気持ちよかった、ありがとう。」
と何度も言ってくれていたね。まだまだ理学療法を習いたてで介助も思うようにできないけれど、「うまいね。いい理学療法士になれるよ。」そういう言葉を聞くたびに、今度帰ったときには、もっと楽に介助ができるようにしようと思い、勉強に励んでいました。


僕は、これからおじいちゃんによく言われた優しく誰もが心を開いてくれるような理学療法士になれるようにがんばります。僕たち孫を優しく大事に育ててくれたおかげで、無事に成長できています。
 本当にありがとうございました。


 この弔辞の中で、語りつくせないほどの思い出をくれたおじいちゃん、これからは、今まで病気と闘ってきた分、ゆっくりと体を休めて、おじいちゃんが大事にかわいがってくれた僕たち孫のこれからの成長を見守ってください。」





 生きていたら、誰よりも喜んでいる父でしょう。そんな思いも感じながら、君が選んだ素敵な人と、しあわせな家庭を築いてもらいたいと想います。

遅かりし後悔

2010年08月20日 | Weblog
 「先生、ちょっと最近、またおなかがでてきたんと違うかなあ。」
と、隣りの席の先生。

「最近、絶対に太っているよ。」そこまで強調するかあ。


少し反撃。「この間、検診に行ったときは、かなり体重は減っていたんだけどね。」
 
 

そう言ったものの、確かに、最近ズボンもきつくなったし、気になったので、帰ってから体重計にのってみました。なんと・・・わずか、検診からわずか一ヶ月もたたないのに、この夏それもこの猛暑にも負けず、3キロも体重が増えている。びっくりしました。



 確かに検診で結果がよかったので、ちょっと油断をしていました。またこの夏、外で食事をする機会も多かった・・・。遅かりし後悔。



 「2学期は、給食も減らさんとね。」
と隣りの先生。
「車を駐車場の一番遠いところにおきない。」
と養護の先生。みんな親切にも温かい?!アドバイスをしてくれます。



 ちょっとそれから(それからと言っても2日間)努力をしています。夜の散歩。けっこう、みんな歩いているんですね。「かったかちゃんも歩きよんのかい。」夜なのに、歩きながら、人の顔がよくわかるなあ。おどろき。



 次に、事務の方が、レッグマシーンを学校に持ってきてくれました。インターネットによると、「1分運動するだけで、1ヶ月後には、驚異の結果。」「ズボンの13号が9号になった。」「はけなくなったズボンがはけた。」(愛用者の声)CMでは、「特別に開発された美脚マシーン」「なぜこんなも短いエクササイズ時間で引き締められるのか」ナイスCM。でも本当かなあ。


 休み時間に、気になっている人がかわりばんこにマシーンをおいてある部屋に。こうもライバルたちがいるのだから、張りもあります。1分だからあっという間です。ちゃんとみんな、仕事はしています。1日に3~4回。これなら継続できる。



 学校の休みの日、「今日はできない。」と思っていました。ところが、小倉に行く用事がありました。500メートル離れたスポーツ店が2軒ありました。こっちのスポーツ店で1分間。500メートル歩いてもう一つのスポーツ店で1分間。すばらしい努力。ばっちり。継続しています。でも、そうしても始めてから、また少し体重が増えた。どうして?食もへらしているのに。まったく。



まあ、「継続は力なり」1ヶ月後は努力を実らせます。

友人とのひととき

2010年08月19日 | Weblog
大学時代の一番の思い出は、野球を続けてきたことです。4年間、楽しく、苦しく・・・過ごしてきました。そしてその仲間たちを中心として今でも仲がいいというのがうれしいことです



 大分で、大学時代の野球部の同級会がありました。それぞれにいろんなところで活躍をしているようです。

 仕事が終わってから大分に向かいました。大分に着いた時には、待ち合わせの場所で、もうみんなが待っていてくれました。


「遅い。」仕方ないやろ。


毎日、講義が終わってから、グランドでボールを追いかけました。いつかも書いたけれど、他の学年は、10人を超えていたのですが、かったかくんたちの代はわずか4人でした。4人というのが、またまとまりやすい人数なのかも知れません。車でどこかに行くのも、アパートに寄りつくときも、そして、麻雀をするのもぴったしです。



 30名を超える大所帯のチームでしたが、縦のつながりも深かったです。



 決して強くはなかったのですが、弱くもないチームでした。部に入っていたおかげで、九州・山口各地を転戦することができました。県内三大学リーグ戦(今は、中九州リーグとなっています)、インカレ、明治神宮大会予選、三経戦など、いろんな大会に出場しました。試合に出るのも人数が多いので、大変。上に下に・・・はさまれて、レギュラーには、3年生の後半からです。それまで下働きでした。出れるところならどこでも。しかし、それがあとから役に立ちました。いろんなポジションが経験できて、卒業してからも草野球チームでは、便利屋になっていました。



 毎年一度くらい集まっています。
「男っち、ふだんお互いメールとかで連絡を取り合わなくても、ときどきあうだけでも距離を感じさせないよね。」
なるほど。男とか女とかではなくても距離を感じさせない仲です。



 会社に勤めている人、行政で頑張っている人とそれぞれです。学校に勤めている人には、部活の練習試合を頼んだりしていました。年は重ねていますが、気持ちはあの青春のときのままです。



 時間をたつのも忘れて、会話を弾ませました。同級生のところに泊まらせてもらいました。家族の方には、「田舎に泊まろう」ではないけれど、夜中の訪問に迷惑をかけました。
 



 つながりの中で、日田に勤務していたとき、日田に住んでいる野球部の先輩たちにとてもお世話になりました。単身赴任をしている自分に、いろんな機会に声をかけてもらいました。おかげで日田でも充実して過ごすことができました。



 次回もまた声がかかってくることでしょう。またみんなに会えることを楽しみにしています。

盆が過ぎ秋に向かっています

2010年08月18日 | Weblog
お盆が過ぎました。帰省してきた人たちもいて、家もにぎやかでした。しかし、盆がおわり、みんなが戻っていくと、にぎやかさから一度に静かになりました。盆がおわり、そして季節は秋へと移っていきます

お盆が過ぎていきました。昼間の暑さは、どこも同じですが、夜になると、なんとなく秋の予感がする風が頬にあたります。


帰省していた子どもたちも今日、活動の場所へと戻って行きました。帰ってくるときは、いいけれど、行ってしまうと、家の中にちょっぴり隙間ができたような気がします。
「寂しくなったね。」
というのが、口には出さないけれど、家族の表情に出ています。


 自分自身3人きょうだいの末っ子でした。きょうだいを見送ることが多かったです。また学校を卒業したらすぐに家に戻りました。だから「見送る」という機会が多かったのです。


上二人が高校の時から家を出ていたので、帰省してくるのを待ちわびたり、戻っていくのを寂しく両親と見送ったりしていました。特に、きょうだいたちは、結婚してからは、なかなか帰ることができなくなりました。そういう状況で、見送る両親の目には、涙がこぼれているときもありました。


 
帰省というのは、うれしさと寂しさが混在します。でも元気であれば、また会える楽しみがあります。



それまで、それぞれの生活の中で、健康で頑張って欲しいと思います。


研究会が終わってちょっと小休止

2010年08月17日 | Weblog
今年の夏は、いろんな研究会が行われています。8月の最初には、豊後竹田市で、お盆前には、佐賀市で開催されました。いろんな方たちの取り組みを知ることができました

 中津市の所属している先生たちのある会で、研修部長をしています。夏から秋にかけて3つの大きな行事を企画したり、参加したりします。


 一つ目は、一泊二日の8月4日からの竹田大会への参加でした。この大会に参加するために、打ち合わせに大分市に何度か行きました。そして、参加できる先生たちの数を確認して宿泊や行程のお世話をしました。


 この大会に向けては、昨年より発表するようになっていました。発表原稿の準備、プレゼンテーションの準備などで発表ができるように進めてきていました。プレゼンには、3つの動画をいれたのですが、3つ目の最後だけは、自己満足しています。「子どもたちの発達」について、生徒たちが頑張っている様子を報告しました。


 とりあえず、終わって、ほっとしました。講演会では、イタリア・フィレンチェ歌劇場若手の専属歌手で活躍中、大分市出身の渡辺弘樹さんの歌と話を聞くことができました。高校の音楽の授業で先生に才能を認められてから、いろんなコンクールに出場しました。音楽大学そして、イタリアでの活動。世界の渡辺になっています。高校時代の先生との出会いが、海外で活躍する彼のターニングポイントになっています。きっとすごい先生なのでしょう。



 竹田から帰ると、すぐに今度は、一泊二日での佐賀県での九州大会です。これは、参加するだけで良かったのですが、20名近くの先生たちのJR、宿泊、食事・・・など世話をするとなると、行程が急に変更になったり、人数の変更などいろんな突発的なこともあったので、大変な面も。


 研修では、九州大会だけあって、内容も濃くて、これからの自分のあり方の参考になりました。佐賀では生まれて初のムツゴロウを食べました。おいしいようなそうでもないような・・・。不思議な味でした。




 強制的なものもありますが、時には、研修会に参加して、刺激をもとめていくことが自分を高めていくことにもつながるような気がします。



 10月の後半には、県北の先生たちの研修会の事務局となっています。これが3つめの最後です。これが終われば、なんとか一年間が乗り切れそうです。

本耶中・三光中OB交流戦

2010年08月14日 | Weblog
中学校勤務も長くなってきました。3年間で・・・ということがすでに14年目を迎えています。中学校勤務は、3校ですが、野球部があったのは、2校です

計画はあったのですが、実行となるとなかなか日程などが合わなかった交流試合。


中学校勤務は、14年目を迎えています。小学校勤務は16年ですから、もうちょっとで、中学校の生活も小学校を追いつきます。中学校は、3校を経験させてもらいました。それぞれにすばらしい学校でした。2校で野球部を担当しました。



みんなで遅くまで、ボールを追いかけました。またお家の方たちも協力していただきたくさんの思い出を創ることができました。勝つことだけでなく、みんなで活動をしていく中で、友情も育んでいきました。


いつか、教えた学校同士の交流試合をしたいという思いがありました。本耶馬渓中学校と三光中学校の教えた生徒同士の試合です。


「みんなで集まろう。」
と生徒たちは言ったものの仕事や帰省の関係で実現は伸びていました。



ついに、今年の夏・・・お盆初日の昨日、三光中学校のグランドでその試合が実現できました。三光中学校で勤務している関係で、三光中学校の卒業生に会う機会は多いです。しかし、本耶馬渓中学校の生徒には、卒業してから初めて会う人もいました。



本耶馬渓中時代では、新人戦決勝戦。1対0でリードした最終回、一死満塁のピンチ。1年生投手から2年生投手へのリレーで、感動の勝利。7年ぶりの県新人戦への出場を果たしました。

三光中学校も、決勝戦でサヨナラ勝利した試合。また中津市になって初めての総体でもサヨナラ勝ちで県総体に出場した熾烈な戦いをした思い出が残っています。
昼頃から集まり始めて、集合時間の1時になると、グランドがにぎやかになりました。
暑い中でしたが、2回試合を行いました。



高校を出てから、それぞれの職場で、学校で頑張っている生徒たちです。野球を通して、同じ中学校の仲間たちとまた、学校は違う仲間たちとつながりができていきました。

まず、本耶馬渓、三光の生徒たちのお世話で第一回の試合が実現できました。これからも続けていけたらいいですね。



府内戦紙をみることができました

2010年08月10日 | Weblog
先日の土曜日、日曜日には、家族にそれぞれにいろんな用事があって、大分に行っていました。昨年は、小倉に行ったときに、ちょうど、小倉の花火大会でした。今年は府内戦紙が行われていました



 土曜日は、学校心理士会の役員会が大分で行われました。11月に、筑波大学の先生を招いて学校心理士会の公開講座が大分大学で開催されます。その話し合いを持ちました。
気軽な会で、食事をしながらの話し合いです。


 参加しているのは、大学の先生やカウンセリングの専門の先生なので、難しい言葉もたくさん出ますが、役員会の話し合いに出るだけで、いろいろ勉強になります。なるほどと思うことばかりです。ついていくのがせいいっぱいです。専門的には、大学の先生などにお任せして、自分ができる役割をがんばっています。




話し合いが終わり、ホテルに戻るときに、大分では、府内戦紙(ふないぱっちん)が行われていて、賑やかでした。


インターネットによると、「昭和60年、地域商店街の活性化について協議する中、大分商工会議所青年部は青森の『ねぶた』を基に大分らしさと躍動感を加えようと独自で電飾の山車を作成し『大分七夕祭り』の市民みこしに1基で参加した。当時の市長さんが、子供の頃遊んだ『ぱっちん』(めんこ)の絵柄の様だと評したことから『府内ぱっちん』と命名される。府内とは、大分市中心部の昔の呼び名である。」



一基の山車が、歴史を重ね、今年は、19基となっていて、山車に踊りに中央通りが人で埋められていました。夏本番といった感じで、祭りの熱気が感じられました。大分の祭りの雰囲気をしっかりと味わいました。


大分からの帰りは、車で熟睡。三光中学校の生徒とお家の方の車が追い越していったらしい。「先生、熟睡していましたね。」しっかり見られていた・・・。

人の縁は円②

2010年08月09日 | Weblog
 今日は、夏季休暇でした。盆前は、出張なんかがあり、ゆっくりできそうもないので、今日は、お墓そうじなど盆の準備をしました。でも仕事はたまるとつらいものがあるので、朝と夕方は、学校で仕事をしました。人の縁が円と感じさせる一日でした


 今日は、今日が休みだと思うと、体も休みモードでなんとなくだるかったのですが、一日いろんなことでフル回転でした。


 朝ちょっと学校で仕事をしてから、お墓のあるお寺に行きました。めったに墓参りをしないぶしょうものですが、たまには、お寺での行事に参加をしました。


 すると、採用された学校での先生がいました。その時は、すでに退職前でしたが、新米の自分たちに優しく接してくれました。それから考えると、もう80を超えているでしょう。確かに体は、少し痩せたようですが、言葉はあのときのまま。


「雪が降ったときに道路に立っていたら、車に乗せて行ってくれたね。」

「あの当時の先生で、なくなった方もいて寂しいね。」


 いろんな思い出話をしてくれました。勤務した豊田小学校は、1500人の学校でした。先生たちも多かったのですが、みんなまとまっていて楽しく勤務することができました。そして、豊田を離れてから会っていなかったのですが、お寺でお会いにすることができ、懐かしかったです。



 夕方家に帰り、パソコンで資料を作っていると、USBの差し込み口がパソコンの中に入り込んでしまいました。あらら・・・穴はいずこへ。そして、音声も出なくなりました。


 こうなって困ったときの頼みは、小学校5年生の時に教えたことのあるひろくんです。すぐに電話をしました。
「USBの差し込み口が中に入った。音も出ない。」
「いっちゃる。」
なんと、中津から来てくれました。感激。パソコンを分解して、元通りにしてくれました。す、すごい。



 音は・・・。あれこれしてくれたけれど、出ない。あーでもない、こーでもないとしていくうちに、音楽がなり始めました。魔法のようでした。音が出ないときは・・・・ということで、説明をしてくれました。わかったようなそうでもないような。今では、自分にとっては、パソコンだけではなく、何かにつけて頼りにしていて、自分が生徒で、ひろくんが先生です。先生をしている中で、生徒に追い越されていく事を感じるのはうれしいですね。



 縁は円です。生きている道を歩いていく中で、どこかでまた巡り巡ってくることも多いですよね。