普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

一念三千の世界観の凄さ 2

2012-03-30 19:30:16 | ちょっと宗教<的>な
(前回の原稿の最後で「この続きは、また明日」と書いたが、すっかり「嘘つきハンス」になってしまった。携帯で原稿を書くことは書いていたんだが、長くなりすぎて投稿できなかった。ご勘弁を。
では、あらためて……)

さて、昨日の続きです。

それでは、一瞬の一念に備わる三千ものパラレルな世界とは、一体「なに」を根拠に示されているのでしょうか?

この根拠こそ、一念三千という言葉そのものにあります。三千という、具体的な数の根拠こそが、その答えです。どこから導き出した数なのか? ということですね。

天台大師はその根拠を、まず十界という人間の生命の有り様・境涯に求めました。
地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩 仏
この十界ですね。すべての人の生命には、まずこの十界が備わっているという、釈尊の教えを根拠にします。

そして、十界それぞれにはさらに十界が備わっていると、天台は説くのです。
地獄という生命の有り様の中にも仏界はあるとするのです。
すべての衆生、すべての生命を救い切るには、「地獄に仏」は不可欠だということです。
逆もまた真で、「仏の顔も三度」と奈落の底に突き落とされることもある。

十界それぞれにまた十界が備わるわけですから、都合百界の位層が生まれます。

この位層それぞれの中で、今度は自分の生命そのものがさまざまな姿になって顕れてきます。時には表情のように形を変化させ他に働きかけ、あるいは力で相手をねじ伏せようともします。さまざまの変化を見せます。それは因果という生命の約束事=法にコントロールされています。
その働きを十如是と言います。

如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等

この十の生命の顕れ方です。

そしてこの生命の顕れ方は、百界においても等しく顕れてくる。
従って、都合千の生命の立ち顕れ方がここではっきりとしたものとなってくるわけです。
だけれども、これで終わりではありません。

この先まだなにがあるというのかといえば、こうした生命の発現が、どんな場合におきるかという検証がされていません。簡単に言えば、一人の時なのか、二人の時なのか、それとも大勢の時なのかということです。

仏教ではその違いを「三世間」といいます。一人に対応するのが「五陰世間」、二人に対応するのが「衆生世間」、大勢に対応するのが「国土世間」ということになります。

千の生命の立ち顕れ方は、また三世間という「場」によっても変化してくる。
お分かりの通り、これで三千というパラレルな世界が完成しました。

天台の説く「一念三千」は、一瞬の思いはこの時間も空間も越えた三千の世界の中から、あなたが瞬時に選び取って外からの働きかけに対してなんらかの反応を示している、と言うことなのです。

これがあらあらの「一念三千」の説明ということでご勘弁を。

だけれども、これではただの理論武装が済んだだけです。一番大事なのは、「それがどうした?」という問いかけに応え得る、実践論的方法論的アプローチが、この「一念三千」に備わっていなければ意味がありません。

どういうことかといえば、こうした世界があるのが分かったのだから、なにか事あるときには、その働きかけに一番相応しく、また自分で納得できる対応の仕方ができなければ意味がない、ということです。三千の反応のどの「一」を自分で選び取れるのか。これが最も大事なことなのです。

長くなりました。この続きはまたあし……いやいや、また次回ということで。
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一念三千という世界観の凄さ

2012-03-28 09:18:55 | ちょっと宗教<的>な
久しぶりにちょっと宗教的な側面に足を踏み入れます。

断っておきますが、宗教的なことを書くからといって、ボクが宗教のオーソリティということではありません。

興味があるというにすぎません。

そこのところを理解して貰った上で読んでもらえればと思います。

さて一念三千です。これは6世紀(隋の時代)の中国の天才僧、天台大師の説いた法門ですが、本当のところ非常に難解で深い。

携帯電話でちまちまと原稿を書くような内容では断じてないのですが、書くわけです。

そんなわけですから、難しいことは、どうしたって書けない。天台大師に詳しくまた敬愛してやまない方たちには、叱られるかもしれませんが、やっぱり書くわけです。

一念三千の考え方の基本も一通りではありませんが、決めうちでいきます。

さて、この一念三千が意味するところは、人の生命活動というのは、一瞬のことであっても一通りではない、瞬間的な生命活動にも三千もの選択肢が存在する、というものです。

まさに読んで字のごとく「一念三千」です。

選択肢と書きましたが、不正確かもしれません。なぜならこの選択は無意識の領域で行っているものであり、実際のところ、自覚的ではない。むしろ自分の意にそぐわないことの方が多いのです。

簡単に言ってしまえば、例えば突然、思いもよらぬ相手から恋心の告白をされた時に、あなたはどんな反応をするでしょうか? 反応の様は、少し考えただけでも幾つも思いつくでしょう。

車で人を轢てしまったとします。その瞬間、あなたはどんな反応を示すでしょうか?

いまは考えやすいように極端な瞬間を選んでいますが、人の生命活動、意識は、ボーっとした瞬間のことであっても、同じように働きます。

要するに、人の心の働きは、予定調和などということはなく、瞬間に移ろう心の連なりだと言うのです。

そしてその瞬間に選び取る生命の働きには、選んだ理由があり、それがその瞬間のあなたの境涯によるというのが、「一年三千」の大まかな主旨と言えるでしょうか。

簡単に言えば、人は常に一瞬の内に三千のシチュエーションをもっていて、そこから無意識の領域ではあるけれど自分でその瞬間に最適なシチュエーションを選択し、生きていると言うのです。

最適な選択と言っても、最良とは限りません。あなたの人生に必要な選択と言えば良いでしょうか…。

(長くなりました。ここまでを前編としましょうか…。続きは明日と言うことで)
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自由主義の本当の意味②

2012-03-20 15:30:17 | 普通な人々<的>な
 前々回、「自由主義の本当の意味」という記事を書いたが、今日はその続き。
 続きといっても、そう大したものではなく、繰り返し、自由主義の意味する「自由」は、一握りの支配者の「自由」なのだという事を、重ねて、言っておきたいのだ。

 自由に人々を支配する自由、自由に貨幣を作り出す自由、自由に世界の行く末を決める自由……これを自由と呼ぶのだ。
 ボクラが、晩飯になにを食うかを考えることなど、自由でもなんでもない。

 支配者は、支配を徹底するのに邪魔でなければ、どうでも良いのだが、邪魔になれば徹底的に排除する。

 そういう支配者が、厳然とこの世界には存在していると、ボクには思えてならないのだ。

 現に、そうした支配と戦っている人々も少なからずいる。

 それを、妄想の範囲を出ないと無視する人もいる。馬鹿にする人もいる。だが、ボクには無視も馬鹿にもできない。なぜなら、どう考えても姿の見えない支配者は、存在している。巧妙に姿を隠しているが、明らかにどこかにいる。

 実は、ギリシャの経済危機の時にそう思った。なぜなら、ギリシャは経済のみならず、金を借りることでアイデンティティの放棄まで迫られている。国家がアイデンティティの放棄を迫られるというのはどういうことか、それはそうさせることで簡単に支配できるようになると判断している何者かがいるからに他ならない。ユーロがそうしているのではないことは、誰の目にも明らかだろう。ユーロは表立って何者かの意向を伝えているに過ぎない。

 これから先も、この「自由」という命題には言及せざるを得ないかな……。
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85000PVを越えていました!!

2012-03-19 16:38:52 | 普通な人々<的>な
 今朝仕事から戻り、バタンキュー(この擬音、死語のように使われなくなったなぁ)。いま気付いてPCをのぞいたら、85000PVを越えていました。

 自分で宣言したこととはいえ、こうした御礼の報告も10万PVまで後3回しかできないと思うと、悲しい気がします。

 ……そうか! 止めたと、自分で言えば良いのか! と、アホなことを書いている場合ではなくて、この数日間で、ボクの身の回りにいるたくさんの人が、突然「地震が来そうな気がする」と言い始めました。

 ボクもそんな気がしています。お互いに気をつけましょう。
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「自由主義」の本当の意味

2012-03-18 13:02:42 | まあまあ社会<的>な
 考えることはたくさんある。やることもたくさんある。
 考えることは他人には見えないから、口に出したり実行したりしない限りは、自由だ。
 だが、やることは自分でこっそりと誰の目にも触れずやらない限りは、決して自由ではない。

 戦後教育を受けて自由の意味を、現代の日本人はまず自分の立場に立って考える。自由という言葉の本質を個に引き当てて考えるように教えられてきた。
 それが一番自然だと考えてきた。個人主義の自由主義。

 だが、それはほんとうだろうか? 日本には元々自由という言葉も発想もなかった。free、libertyという外国語に対応する言葉として、明治以降に作られた言葉だ。士農工商という身分制度が厳然とあった日本には、そこから逸脱する自由さえなかったのだ。
 それが戦後教育の中で、とってつけたように自由という言葉が「自由」気侭に自己主張し始めた。

 もう少し考えてみよう。自由という言葉の意味をwikipediaでみると「両者の共通点は、現在的意味合いの自由とは異なる意味で用いられた点である。freedom および liberty の用法にも残っているが、近世までは<特権>を意味する語であった。<民衆の持ちえない権利を有している>状態が freedom または liberty であった。1729年に出版された辞書によれば、権利付与や時効によって得られる<高貴なる者の特権>と定義され、但し書きで『一部で、各人が思うように行動できる力という意味でも用いられてきている』と言及されている」と書かれている。

 実はこの理解こそ、「自由」という言葉の本質であり、いま流布している「自由主義」という言葉の本質なのではなかろうか。

 少し考え方を変えてみよう。この「自由」は誰の自由なのかということだ。そして良く考えてみると、決して自分の「自由」でないことだけはわかるだろう? そして主義としての自由、パブリックな自由などというものもないことが分かるだろう。それは「勘違い」なのだ。
 
 では誰のどんな自由なのか?

 一握りの特権階級が、人々を自由に使役する「自由」、と考えると実にすっきりする。
 つまり一般人は「自由に生きている」と思わされているだけで、決して自由ではない。それは自分の周囲での不自由さを考えてみればよく分かることだろう。

 我々が知っている「自由主義」という言葉の本質は、人を支配する自由を持っている<高貴なる特権を持った者>のアイデンティティ表明というだけのことなのだ。

 そんなろくでもない考え方、という人もいるだろう。

 だが、考える自由を駆使して考えれば考えるほど、残念ながらこうした結論に達する今日この頃……。
 今日は、ここまで。
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手が悴む。今日の寒さは、なに!?

2012-03-17 10:27:03 | 普通な人々<的>な
 またも徹夜のお仕事で、いま家に帰り着きました。
 奥さんがコーヒーを落として飲んでいました。その香ばしい香りが、いまも鼻の奥に残っていますが、ボクは寝るためにビールを飲んでいます。

 朝酒かい!? と突っ込みを入れられそうですが、眠れないのですよ。
 帰りに要する時間が1時間を越えると、神経がそれなりに興奮して、眠れない。
 酒の力を借りるというところです。

 それにしても、今朝の寒さといったら。手が悴んでいます。「悴む」って、死語に近い「瀕死語」とボクは呼んでいましたが…。

 思い返してみるに、まだ10℃を越えない日本(東京)の気温ですが、ひょっとすると半年近く冬なんではないかしら?
 確か去年の11月頃からすでに冬だった気がしますね。

 以前にもこのブログで書きましたが、1970年代は温暖化などという言葉はなかった。むしろ「氷期が近い、いまは第四間氷期だ」という論調でした。

 一部の人々(非常に良識的なのに、他人からはエキセントリックだと思われてしまいそうな言動をする)の間で、アル・ゴアの「不都合な真実」によって決定的な方向性を当てられ、まるで地球人総体の認識と化した感のある「地球温暖化」、二酸化炭素の悪戯は、実は大嘘だった(少なくとも明らかな根拠などなかった)という意見も叫ばれているようで。

 なにが真実で、なにが大嘘なのかは、自分で判断するしかないのだけれど、ある種のガイド役が「不都合な道筋」をあたかも「真実」のごとく提示するというのは、よくあること。

 多くの場合その根拠は、提示した個人の資産の増大をみれば、なにが根拠だったかすぐにお里が知れることに。アル・ゴアの姿を最近見ないが、彼はどこで「ゆったりとしたセレブの休日」を楽しんでいるのだろう? などとつい思ってしまう、貧乏人なのでした。
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地震という生命活動

2012-03-15 12:13:06 | 普通な人々<的>な
 最近色々考えている中で、地震とはどのようなことであり、どのように付き合い、どのように恐れ対処し、どのように畏れ敬えばいいのかと言うのが、結構大きな命題になっている。

 物理的な原因、起こる問題、対処の仕方というのは誰もが知りたく思い、メディアも注視し特集を組んだりもするけれど、実は、地球は生命体であると想定したときには、地震も身震いのようなある種の生命活動になるわけで、その生命活動が果たしてどんなものなのかを、それなりに真剣に考えたりしてみるのだ。

 物理的に判明している「プレート」は、地球を人間に引き当てて見れば、内皮にでも当たるかもしれない。外皮は顕在化する地すべりやそれこそ雪崩や津波に引き当てられそうだ。

 生命を維持するために、不要なものを剥ぎ取らなければならないということもある。それは血やリンパの流れを必要とするだろう。おそらくマグマの流れや地下水脈がそれに当たるだろう。

 骨は当然地殻だろうし、内臓は地殻中心近くに存在する、マグマ溜まりやなにかだろう。

 地球にはおよそ生命としての人間が持つすべてがある。

 今朝方も地震があった。仕事中だったが、一瞬だが騒然とした空気感が支配した。ただ誰もやばいかなという雰囲気を醸し出しはしたが、それ以上はなにもしなかった。

 なにか地球の発している信号を、誰もが読み取っているのかと思うくらい、慌てもしなければ心配もしなかった。

 それにしても。人間はもう少し謙虚になって、地球と対話するといいかもしれないなと、結構真剣に思っている。
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下町の良い感じ。

2012-03-14 20:03:57 | 普通な人々<的>な
最近、下町づいている。

 仕事場がなにやらそちらの方面にシフトしている感じで、文京区の小石川、本郷やら、墨田区の本所界隈、そのついでに台東区の上野、御徒町、浅草なんぞに出没している。

正直なところ、下町方面にはあまり馴染みもなかった。

一時、6~7年前までの何年間か、上野の寛永寺の脇で仕事をしていたことがあるが、それほどあちこちに足を運ぶこともなかった。
せいぜい国立博物館どまり。

それが最近は、歩く楽しみを覚えてあちこち歩き回り、まったく繋がることのなかった、下町の街と街が見事に繋がって、愉快この上ない。

上野と浅草が近いこと、その間に合羽橋が横たわっていること、両国、本所が目と鼻の先だということ、「やねせん(谷中に根岸、千駄木)」と本郷もご近所みたいなものだということなど、いまではしっかりと頭に入っている。

だからと言って、なにがどうということもないのだが、見聞が多少とも広がったのは確か。

今度じっくりと、浅草周辺を散策したい。伝法院通り辺りで良い店の一軒も見つけておけば、その内良いことの一つや二つありそうな気にもなるではないか!
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PCの前に座れない。貧乏暇なしとは、よく言った!

2012-03-14 13:59:14 | 普通な人々<的>な
時間のない中、食事に出て仕事場に戻りかけた途中、車のクラクション。

交通法規を冒したわけでもないのにと訝しんでいたら、「オヤジ」の掛け声。見ると、久しく会っていなかった愛する息子クンが、会社の車と思しき軽車両から、手を振っていた。

助手席に乗り込みしばし歓談。すぐに戻るということで、時候の挨拶に毛の生えた程度の対話だったが、心がけっこう満たされた。

対話は人間にとって必要不可欠だと、再確認した次第。
ことに家族のように気の置けない人間関係の対話は、重要だな。
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あれから1年。時の流れの早さに戸惑う。

2012-03-11 20:20:28 | 普通な人々<的>な
 東日本大震災から、すでに1年が経ったということに、驚きを禁じえない。
 早い。時の立つのがこんなに早いとは! これまでに感じたこともなかった早さ。
 よく、人は死期が近づくほどに時の経過の早さを自覚するようになるという。
 してみると、ボクは死期が近づいているのかなどと、あらぬ絶望感に囚われる気分にもなる。ボクは、どんな死を迎えるのだろう?

 それは置いておいて。

 東日本大震災を契機に、巨大地震への警鐘が、それこそ乱打されるような按配になっている。東京直下型は震度7を越えると予想が修正され、南海・東南海・東海地震が三連動で起きる可能性が高まったとまで言われる。

 こうした予測が的中すれば、日本は崩壊する。経済が立ち行かないどころか、被災した人々の日々の生活すら、どこの誰もが救援の手を差し伸べることすらできないということになるだろう。

 それこそ、究極の被災者として後世に語り継がれるようなことになるに違いない。それも日本という国は滅び去って、この日本の国土には別の支配者が存在しているような気もする。

 いずれにしても、東日本大震災に匹敵する巨大地震は、必ずこの何十年の間に起こると予測されている。

 ボクたちは、阪神淡路大震災、東日本大震災と未曾有の災厄にすでに2度も遭遇している。この先、同じようなレベルの災厄を何度経験することになるのだろう?

 こんな経験をするかもしれない人々は、地球上の歴史を俯瞰しても希なのではないかと思う。
 希であることは、良いことなのだろうか? 他の人々には経験できないことという意味だからね。………良いわきゃない!!
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会長、社長、前社長、みんなでシカト

2012-03-09 19:10:27 | 普通な人々<的>な
 これはもう笑い話だ。

 3月11日を目前に控えて、東京電力が発表したところによると、勝俣恒久会長、西沢俊夫現社長、清水正孝前社長、当日は、お三方いずれも福島の住民の前には姿を現さないそうだ。

 従ってお言葉もなし。

 要は謝罪一つしないということだ。

 世界に対してはどうか? そんなことに思いもかけないんだろうね、この人たちは。

 これを称して「三馬鹿トリオ」ということにしておこう。

 よしんばどこかの誰かに謝罪の言葉を発したとしても、おそらく責任逃れの言葉の後ということになるだろう。

 腹の底からの謝罪、心の深い部分での痛みを伴った謝罪など、望むべくもないのだろう。

 あ~ぁ、本当にこうやって文字を書いているだけで、はらわたが煮えくり返ってくる!! と言いたいところだが、半分失笑しかでてこない自分も情けない。
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電気料金は払えない お金がないんだも~ん!?

2012-03-08 13:25:36 | 普通な人々<的>な
 電気料金を払わないとなると、営業妨害だが、払えないのにはわけがある。

 金がない? 払うに足るサービスを受けていないと感じる? 払う必然性を感じない? ……なんでもいいや。

 ただ、これから3ヶ月間だけ、金がなくて電気料金が払えないということで、日本中の全世帯、全企業が利用料金を払わなかったらどうなるだろう?

 本当は、これこそが東電に対するボクラが突きつけなければいけない行為だと思うのだが皆さんはどう思いますか?

 舐められるのはもうたくさんだ。
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ニューカマー!

2012-03-07 11:40:48 | 音楽にまつわる話<的>な
 英語の中でも、まるで死後のような言葉だが、結構好きだ。
 新人というわけだが、ニューカマーってなんだか新人は新人でも「ゲイノウ関係」の新人みたいな印象を受けるな……。

 ま、どうでもよくて、そんなことを書きたいのではないのだ。

 ボクは音楽関連のことを書くのだが、毎日のように登場する新人=ニューカマーについてはあまり書かない。それは、作品が出来上がってはじめて評価できるものだと思うし、それを聴いたリスナーが、一定の評価を与えて初めて論及できるものだと思っているのだ。

 つまり、リスナーに「予断」を与えたくないということなのだ。
 ボクが書くことに「バイアスの掛かった意見」という方も多いが、人がものを言う時になんのバイアスもかけずに言ったとすれば、それはその人が発言する意味などない、ただの解説ということになる。
 ボクが発信する言葉は、できれば僕にしか発信できない言葉でありたいと思うわけで、バイアスの掛からないはずがない。

 だから、リスナーがそれぞれに意見を持った段階ではじめて意見を述べるようにしたいと思っているのだ。

 S-Kenから音源が送られてきた。新人に関する意見を求められた。これは嬉しいことで、一所懸命に聴かせてもらった。アーティスティックでエモっぽいし、非常に優れたアーティスト。

 ボクは音楽って、二通りの評価法があると思っている。

 一つは、音楽そのものの力があるかどうか。
 一つは、その音楽がなぜ今生きる(自分も含めた音楽を聴くかもしれない人々すべての)ために必要か。
 このふたつ。
 後者に関して言えば、社会性とでもいうべき側面かもしれない。
 要は、なんでもそうなのだが、ことに音楽を聴くと言う営為にはプライベートとパブリックの二面性があるということだ。

 このことは皆わかっているようで、実はわかっていない。どちらかに依存しようとする。それはその音楽を確かに認められたいという気持ちからどちらかにバイアスがかかるのだ。

 実は、これは聴く側の営為も同じことで、音楽を聴くという意味を自分なりにどちらかにバイアスをかけることで、安心しようとする。そしてそれは聴き手である限り、常に自由に選択できる。

 音楽が売れると言うことの裏には、以上の無作為の作用が存在する。
 この互いの営為が重なった時に、音楽にそれなりの存在理由があれば売れるし、売れなくとも認知はされていく。

 そんなことを機軸に、意見を言わせてもらった。近々登場するニューカマー! その時にまた、きちんと言及します。
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21時間労働。

2012-03-06 11:08:20 | 普通な人々<的>な
 はじめに断っておくが、これは自分の意志でやったこと。
 なにをしたかというと、ぶっ通しで21時間働いた。
 月曜日の朝10時に仕事場に着き仕事を始め、途中で移動の時間はあったものの、今朝の7時半までぶっ通しで仕事をしていたのだョ。

 とりたてて辛いということもないのだけれど、かなりへヴィーなことには変わりはない。
 だが、心臓が強いのか、無神経なのか、はたまた「M」なのか。
 いずれにしてもボクは元気だ。

 昔まだ30歳代の頃に、4日徹夜をして4百字詰め原稿用紙2百枚相当の一冊の単行本を書き上げたことがあるが、いまは還暦を過ぎているわけで、ひょっとしたら倒れるかなとも思ったが、いっかな元気だ。

 まあ、これが続くとなると、チョッと引くかな……。

 いま家に戻り、これから一眠りしようかなと思っています。

 それでは。
 
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これは朗報? それともジョーク?

2012-03-05 13:42:34 | 普通な人々<的>な
3日前に書いて、アップし忘れた原稿。


ニュースをチェックしていたら、こんなものが。

「放射能で汚染された玄米を精米して水で研ぐと、放射性セシウムを7割以上除去できることが、放射線医学総合研究所の田上恵子さんの研究でわかった」

一瞬「へーッ!?」と思ったが、次の瞬間、「何のこっちゃ?」と思ってしまった。

こんな話がニュースになることは、何者かによる作為、としか思えないのだ。

なんと言えばいいのか……。

まず、田上さんの労には敬意を表しておくが、普段我々が米飯を食卓に出すプロセスを確認しておくと、以下の通りだ。

最近は無洗米などあるが、基本的には米屋で玄米か精米済みの白米を買い、好みの量を水で研ぎ、炊いて食す。

我が家は玄米のことも多いが、多くの家庭では精米した白米を食すことだろう。

どうだろう? 誰もが、どこの家庭でもすでにやっていることで、まるでそうすることではじめてセシウム対策になるかのような言われ方をしても、どうなのかなぁ? と思ってしまうのだ。

むしろ、残りの3割の残存セシウムの除去の仕方を教えて欲しいものだ。

このニュースを書き換えれば「通常の洗米でセシウムの7割は除去できるが、残りの3割も●●すれば除去できることがわかった…」

これで初めてニュースになると思うのだが……。どうだろう? そうでなければ、意外に質のいいジョークという感じか…。
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