ボクが4歳の誕生日を無事にやり過ごして少し経った頃、ボクの身にあまり世間でも例のない、全然無事にはやり過ごせない出来事が起こる。
時は昭和28年。おそらく9月か10月の事だったろう。正直、詳しい日にちなど覚えてはいないのだ。だが、当時住まっていた島根県松江市で、おそらく近所の友達と走り回っていたのだから、それほど寒い時期ではなかったろう。
記憶を辿ると、近所の友達とチャンバラをしようということになった。だが刀になるものがない。その時思い出したのが、近所にあった少年鑑別所(当時は刑務所と記憶していた)だった。いつも(と、勝手に記憶していたのだが)塀沿いに細工用に巾1cm、長さ50cmほどに割られた竹の棒が荒縄で束ねて置いてあった。
後で聞いて知ったことだが、少年鑑別所では、受刑者の少年たちが山陰名物の竹細工を作っていたのだという。その材料の竹が、意外と無造作に鑑別所の入り口近くの塀の外に置かれていたのだ。
そこから1、2本をチャンバラの道具として供出してもらおうと思ったわけだ。4束ほど積んであったろうか、周囲には誰もいない。ボクは、それほどきつく縛られていない束から、一本の竹の棒を引き抜いた。次の瞬間、その竹の棒はボクの左目に突き刺さっていた。
その瞬間は、いったい何が起こったのか、まったくわからなかったが、ボクは火のついたように泣き出した。そして、そこから家まで大声で泣き叫びながら帰った記憶がある。
お袋は、どこか遠くから尋常でないボクの泣き声が聞こえてくるので、慌てて勝手口から飛び出し、松江城の堀端沿いに、文字通り血の涙を流しながら歩いてくるボクを見つけたそうだ。
直ぐに医者に。名うての藪と言われていたが、そこしかない松江の駅に近い眼科医を尋ねると「こりゃ酷いね。だけどなにもできないなぁ、幸い眼底と黒目の損傷は免れているようだから、おいおい時間が経てば治るんじゃないかな」てなご託宣。
お袋はその言葉を信じて、投薬(多分痛み止めだろう)と目に負担をかけない道具としての眼帯をボクの治療道具としてずっと使い続けた。
だが、数カ月経ても、一向に治る気配はなかった。
一体全体ボクの目はどうなっていたのかというと、片目少年になっていたのだ。竹の棒は微妙にカーブがついていて、そのカーブがボクの左黒目の縁にうまい具合に刺さった。だから黒目は無傷で済んだ。ただ眼球をバランスよく吊る役目の毛様体は切れた。外側の毛様体が切れたものだから、当然黒目は鼻側に吊り込まれ、片目になってしまったのだ。
その頃のボクの写真を、次回公開予定。
ここまでは、松江の話。「昭和な」東京の話でも何でもない。この事件をきっかけに我が家は松江を後に、上京する。ひょっとするとボクの引き起こしたこの事件がきっかけと言うよりは、父親の東京での就職がタイミングよく決まったのではなかったか。
親父は戦中、兵役に就かず、大政翼賛会の中枢にいたようで、その頃の知己や、それ以前の岩波文庫や新潮文庫時代からの知己が、親父の就職に奔走してくれたのではないかと今は思う。新生活運動協会の専務理事、東京に出てからの、それが親父の仕事だった。
ボクが4歳の12月に、家族は東京へとたどり着く。その時、東京駅でボクはテレビジョンというものを始めて見た。東京駅構内に街頭テレビジョンが設置されていたのだ。大群衆が身じろぎもせずに、小さなテレビジョンの画面を食い入るように見ていた。確かにプロレス中継だった。
今思えばある意味、ボクは歴史の生き証人だ。昭和のエポックでよく登場する東京駅での街頭テレビジョンの風景写真、ボクは紛れもなくあの群衆の一人だったのだから。
やがて、ボクは小学校に入学、1年の夏休みに東京大学の著名な眼科医の執刀で、目の手術を受ける。おそらく毛様体をつなぐ手術。
ボクはその手術のおかげで、2年越しの両眼視で世界を見ることになった。この時期の2年は大きな影響を視力、視覚に与える。
ボクが見たその世界は、紛れもなく魔法に満ちた世界だった。
長くなりすぎました。この続きは次回。
時は昭和28年。おそらく9月か10月の事だったろう。正直、詳しい日にちなど覚えてはいないのだ。だが、当時住まっていた島根県松江市で、おそらく近所の友達と走り回っていたのだから、それほど寒い時期ではなかったろう。
記憶を辿ると、近所の友達とチャンバラをしようということになった。だが刀になるものがない。その時思い出したのが、近所にあった少年鑑別所(当時は刑務所と記憶していた)だった。いつも(と、勝手に記憶していたのだが)塀沿いに細工用に巾1cm、長さ50cmほどに割られた竹の棒が荒縄で束ねて置いてあった。
後で聞いて知ったことだが、少年鑑別所では、受刑者の少年たちが山陰名物の竹細工を作っていたのだという。その材料の竹が、意外と無造作に鑑別所の入り口近くの塀の外に置かれていたのだ。
そこから1、2本をチャンバラの道具として供出してもらおうと思ったわけだ。4束ほど積んであったろうか、周囲には誰もいない。ボクは、それほどきつく縛られていない束から、一本の竹の棒を引き抜いた。次の瞬間、その竹の棒はボクの左目に突き刺さっていた。
その瞬間は、いったい何が起こったのか、まったくわからなかったが、ボクは火のついたように泣き出した。そして、そこから家まで大声で泣き叫びながら帰った記憶がある。
お袋は、どこか遠くから尋常でないボクの泣き声が聞こえてくるので、慌てて勝手口から飛び出し、松江城の堀端沿いに、文字通り血の涙を流しながら歩いてくるボクを見つけたそうだ。
直ぐに医者に。名うての藪と言われていたが、そこしかない松江の駅に近い眼科医を尋ねると「こりゃ酷いね。だけどなにもできないなぁ、幸い眼底と黒目の損傷は免れているようだから、おいおい時間が経てば治るんじゃないかな」てなご託宣。
お袋はその言葉を信じて、投薬(多分痛み止めだろう)と目に負担をかけない道具としての眼帯をボクの治療道具としてずっと使い続けた。
だが、数カ月経ても、一向に治る気配はなかった。
一体全体ボクの目はどうなっていたのかというと、片目少年になっていたのだ。竹の棒は微妙にカーブがついていて、そのカーブがボクの左黒目の縁にうまい具合に刺さった。だから黒目は無傷で済んだ。ただ眼球をバランスよく吊る役目の毛様体は切れた。外側の毛様体が切れたものだから、当然黒目は鼻側に吊り込まれ、片目になってしまったのだ。
その頃のボクの写真を、次回公開予定。
ここまでは、松江の話。「昭和な」東京の話でも何でもない。この事件をきっかけに我が家は松江を後に、上京する。ひょっとするとボクの引き起こしたこの事件がきっかけと言うよりは、父親の東京での就職がタイミングよく決まったのではなかったか。
親父は戦中、兵役に就かず、大政翼賛会の中枢にいたようで、その頃の知己や、それ以前の岩波文庫や新潮文庫時代からの知己が、親父の就職に奔走してくれたのではないかと今は思う。新生活運動協会の専務理事、東京に出てからの、それが親父の仕事だった。
ボクが4歳の12月に、家族は東京へとたどり着く。その時、東京駅でボクはテレビジョンというものを始めて見た。東京駅構内に街頭テレビジョンが設置されていたのだ。大群衆が身じろぎもせずに、小さなテレビジョンの画面を食い入るように見ていた。確かにプロレス中継だった。
今思えばある意味、ボクは歴史の生き証人だ。昭和のエポックでよく登場する東京駅での街頭テレビジョンの風景写真、ボクは紛れもなくあの群衆の一人だったのだから。
やがて、ボクは小学校に入学、1年の夏休みに東京大学の著名な眼科医の執刀で、目の手術を受ける。おそらく毛様体をつなぐ手術。
ボクはその手術のおかげで、2年越しの両眼視で世界を見ることになった。この時期の2年は大きな影響を視力、視覚に与える。
ボクが見たその世界は、紛れもなく魔法に満ちた世界だった。
長くなりすぎました。この続きは次回。