普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

回文

2010-11-30 16:08:08 | 普通な生活<的>な
 日本語の言葉遊びに「回文」がある。60~70年代にかけて活躍されたトップコピーライターに、土屋耕一さんという方がおられた。土屋さんは言葉の専門家なのだが、その回文作品に「軽い機敏な子猫何匹いるか」というものがあった。ちょっとした衝撃を受けた。
 その頃から、たまに回文を作ってみたりしたが、ここでいくつか最近の作品を2回に分けてお披露目したい。今回は短い作品。

●ロココの美の心
●家内の田舎
●棚の下 私の鉈
●カナ読まぬ夜中
●神憑く伊勢の子乗せ行く。罪か。
●寝付き良くなく、泣くよ狐。
●元友の来て 話す名は 敵の元友

今回はこんな感じかな?
次回はもう少し高度な作品を紹介。


時空を超えたバッハが聴こえる ネットで実現、クラシック新時代

2010-11-29 00:58:58 | 音楽にまつわる話<的>な
エディット・ピヒト=アクセンフェルト(チェンバロ)
バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻
HQMA-00018
サンプリングレート:88.2KHz/24ビット
9月10日配信開始
カメラータ・トウキョウ/クリプトン

 今回紹介するのは、残念ながら「音盤」ではない。「音盤見聞録」を名乗りながら、別のメディアを紹介することにしたい。

●親日家で知られるエディット・ピヒト=アクセンフェルト

 音源自体は、1979年に日本の埼玉で録音されたものだ。戦前からヨーロッパで活躍し、1937年に「第3回ショパン国際ピアノコンクール」で第6位特別賞(ショパン賞)を受賞するなどした名演奏家、バッハを弾かせたら「敵う者はない」といわれた、ドイツのチェンバロ演奏家でピアニストのエディット・ピヒト=アクセンフェルト。残念ながら2001年に亡くなられている。享年87だった。

 エディット・ピヒト=アクセンフェルトと日本との関係は深く、親日家でもある。今年で第31回を数えた群馬県草津温泉で毎年開催される「草津夏期国際音楽アカデミー&フェスティバル」(2010年は8月17日~30日開催)では、亡くなられるまで毎年のように講師として参加。日本の若手演奏家育成に力を注がれた。

音源であるバッハの「24の前奏曲とフーガ」は、鍵盤楽器のためにすべての長調・短調を駆使した2組の「平均律クラヴィーア曲集」全2巻として残されている。エディット・ピヒト=アクセンフェルトの真摯な演奏はどれも、30年以上経た演奏とは思えない輝きに満ちている。

そして、今回この音源を取り上げたのにはもう一つのわけがある。

●CDより良い音が聴ける配信方法

実はこれ、CDというパッケージメディアではなく、ネット配信なのだ。

昨年6月、株式会社クリプトンが運営する音楽配信サービス「HQMストア」(HQM=High Quality Music)でデータ配信による音源販売をはじめたのだが、音源のクオリティが非常に高い。

従来のネット配信で用いられているMP3フォーマット等は圧縮前のデータに戻すことができない非可逆圧縮方式だが、これは圧縮前のデータに戻すことができる可逆圧縮方式のFLACフォーマットで配信している。だから、スタジオ・マスターと同水準の高音質なデータ(88.2kHz/24ビット)で、通常のCDクオリティ(44.1kHz/16ビット)を凌駕する。クラシック音源でありながら、CDより良い音が聴けるのだ。

この7月には「平均律クラヴィーア曲集」第1巻(BWV846~869) がすでに配信されていて、今回は第2巻の配信。これからは、こうした音源すらネット配信へシフトするという先駆けの感があり、「音盤」の残る可能性がいよいよ狭められるような気がしている。こうした流れ、傾向は増えていくに違いない。e-onkyo musicなども同様に展開している。

パソコンでも再生可能だが、専用プレーヤーなど高音質機器と接続すれば、音源のハイクオリティな聴きごたえある再生ができる。

【J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻  収録曲】
・24の前奏曲とフーガ
第1番 ハ長調 BWV870~第24番 ロ短調 BWV893

<J-CAST NEWS モノウォッチ 音盤見聞録掲載原稿を転載>


奥さんは魔女 その1

2010-11-27 03:51:57 | 思いもよらない未来<的>な
 ボクの奥さんは不思議な人だ。色々不思議な事もあるのだが、中でも一番の不思議は<医者>だということ。
 別に医師の国家試験を通ったと言う意味ではない。医学知識がハンパないのだ。それも、無意味なものではなく、例えば子どもの発熱がなにに起因しているのかをキチンと理解し対応する。医者に行かずにだ。
 それはボクの体の変調に対しても同じだ。「ほっとけば2日で治るよ」と言われれば、2日で治るし、3日といえば3日かかる。
 本人は別に不思議でもなく、当たり前に誰でも分るものだと思っている。自分だけの能力とは思っていないのだ。
 しかも、病名も的確に言う。誰かに教えられたわけでもない。ボクは彼女が19歳の時から知っているのだから、病気の知識を学んだのであれば、知っているはずだ。なにしろ彼女は音大のピアノ科出身だから、そんな病気の知識を学んだとしたら、学校を卒業してから。つまりボクと付き合ってからと言う事になるわけだが、そんな形跡はない。なにより付き合い始めたその時は既に、<医者>だった。
 色々エピソードもあるけれど、おいおいお話しするとしよう。

記憶

2010-11-25 23:41:09 | 超常現象<的>な
 60歳を越えたが、不思議で仕方ないことがある。それは、記憶。
 皆さんは、幾つくらいの時からの記憶があるのだろう? 是非コメントにして教えて欲しいのだが、僕はおそらく生まれた瞬間からの記憶がある。その有様は次のようなものだ。
 父が島根新聞の編集局長だったこともあって、以前にも書いた松江の城を囲む堀端の、島根新聞の社宅のような一軒家でボクは生まれた。
 それは夏の夕方だった。空はオレンジ色だった。ボクは縁側にいる。盥があり、ボクはその中に入れられる。暖かい感触。それが産湯だった。
 その前、ボクは母の腹から出ようともがいていたが、出られない。足がうまく外に出てくれないのだ。逆子だった。
 ボクは病院ではなく、自宅で産まれた。産婆も間に合わず、母は半ば立ったまま自然分娩で逆子のボクを産んだ、とかなり大きくなって聞かされた。
 ボクの記憶の中で、瓦礫の山に乗り上げる戦車の写真というのがある。それは1950年6月に勃発した「朝鮮動乱」を報ずる写真だと、かなり大人になって父に教えてもらった。それまで、なんの写真かまったく不明だったのだが、胸の痞えが降りた。生後11ヶ月の記憶。
 ボクは4歳で松江から家族で上京した。だから松江の記憶は4歳までのものだが、その記憶を書けといわれれば、優に原稿用紙100枚は書けるだろう。
 真剣に。皆さんの記憶を教えて欲しい。

ちょっと怖い話⑧ 忌むべきモノ・鼠

2010-11-25 23:34:54 | 超常現象<的>な
 松江で、幼い頃の僕と父の遭遇した〝事件〟だ。
 ある日、台所の上がり框で、ボーと僕は立っていた。まだ二歳位だったと思う。おそらく母が夕飯の支度をしているのを見ていたのだろう。そのうち、母が竈の辺りを覗き込むようにしていたかと思うと、急にキャッと叫んで尻餅をついた。その時、母の着物の袖の下辺りから、直径十五㎝くらいの黒い影が物凄い勢いで僕めがけて飛んできた。その影が、ツンツルテンの着物の裾から一気に僕の体を駆け上り、兵児帯を締めているのに着物の中で駆け回り始めたのだ。
 母の声に驚いて、父が「どうした?」と台所に駆け込んできた。
 母は、腰を抜かしたまま僕のほうを指差して「アワアワ」言っている。
 父は僕が泣きもせず立っているのを不審そうに見ていたが、着物のあちこちが膨らんだりするのを見咎め、慌てて僕の着物の懐に手を突っ込んだ。
 おそらくその辺りが動いたのだろう。そして、袖口からも左手を突っ込んだ。その時、父もギャッと叫んだ。父の動きが止まり、袖口から突っ込んだ手を静かに引き抜いた。その中指に、体長十五㎝はあるだろう大きな溝鼠が喰らいついていた。ブランと父の中指にぶら下がった溝鼠の体を伝って、血がぼたぼたと三和土にたれた。
 父の中指は、あと少しで食いちぎられるほどの重症だった。その指のまま、父は鼠を三和土に叩きつけて殺した。
 絶命した溝鼠を、僕はじっと見ていた。母は父の指の治療をするために、薬箱を取りに奥へ走った。父は三和土にしゃがみこみ、左手首を押さえながら止血し、痛みをこらえていた。
 溝鼠が、一瞬首をもたげ、僕をにらみつけた。
 その瞬間に、僕は大声で泣き出した。一連の騒動は、何がなんだかわからなかったのもあって、どうということもなかったのだが、そのときの溝鼠の目が怖かったのだ。
 それ以来、鼠も僕の忌むべきもののひとつになった。

音楽遍歴<その5>

2010-11-24 11:37:41 | 音楽にまつわる話<的>な
 76年から80年まで、都合4年間「ロッキンf」で編集者として働いた。本当に楽しい毎日だった。当時のボクは、ZZTOP、CSN&Yやジェファーソン、オールマン、グランドファンク、それにJジョップリン、Jヘンドリクス、ドアーズといった、60年代、70年代前半のアメリカンロックの系統を好んで聴いていた記憶がある。それは、ボクの音楽の原点がキングストン・トリオというところにも大いに関係しているだろう。
 ブリティッシュロック系は、もちろんクリムゾンやツェッペリン、Pフロイド、EL&Pといったプログレがかった音、T-REX等のグラム系、そして最も好きだったブライアン・フェリーのロキシー・ミュージックなどは聴いたが、ハードロック的ニュアンスの大きいものはあまり聴かなかった。
 なぜかはわからない。音楽のもつニュアンスをハードロック系の音は壊しているような気がしていたと言う記憶はあるが、それが具体的にどこを指しているのかは不明だ。
 一方、国内はどうかというと、実は76年までの日本の音楽シーンは、まさにロック創世紀。どちらかといえばフォーク、ニューミュージックと呼ばれる音楽がレコード化の対象であり、ロックはまだディレクターもよほどのものでなければ対象にしなかった。
 その中にあって四人囃子、RCサクセション、安全バンド、カルメンマキ&OZ、ウェストロードブルースバンド、上田正樹とサウストゥサウス、金子マリ(バックスバニーやスモーキーメディスンなど)、キャラメルママ(細野晴臣!)、久保田真琴と夕焼け楽団、竹田和夫のクリエイション、外道、そしてキャロル、サディスティックミカバンド、ごまのはえ、サンハウス、シュガーベイブ、頭脳警察、ティンパンアレー、裸のラリーズ、ファニーカンパニー、紫、コンディショングリーン、村八分、ムーンライダース、憂歌団などなど、英米の影響を受けつつも、日本的ニュアンス、オリジナリティーも併せ持つグループなども活躍しはじめていた、まさに玉石混交の時代だった。とはいえ上手くなければダメという不文律はあった。
 それが、一気に音楽が若者の手中に落ちる「事件」が起こる。

今日は「いい兄さんの日」です!?

2010-11-23 09:33:29 | まあまあ社会<的>な
 最近「○○の日」というのが流行っている。昨日は「良い夫婦の日」だったそうだ。11月22日の文字の語呂合わせ。
 11月で結構気になったのが「11月11日→ポッキーの日」。ポッキーが並んでいるという、これは視覚的な印象からきたもの。同じ11月11日が「電池の日」というのも面白かった。十一十一で「電池の日」。こちらもポッキーに近い発想かな。
 しかし、ほとんど毎日がなにかの記念日で「○○の日」と呼ばれているのは、どうなんだろう? 11月でみると、6日と21日だけなにもない。あとはすべての日が「○○の日」。

 昔はというと、例えば今日は「勤労感謝の日」と素直に言ったけれど、最近はどうなんだろう? さしずめ「良い文の日」とでもなるんだろうか? ちょっと調べたら「勤労感謝の日」、「手袋の日」、「外食の日」、「Jリーグの日」、で、やっぱり「文の日」もあったけれど、これは毎月23日なのだそうだ。そして「いい兄さんの日」でもあった!

 今日11月23日が色々な日であるのは良いが、それにしたって「いい兄さんの日」というのはありだろうか? 「いい兄さん」って誰が何のためにそう呼ぶのだろう?
 一歩譲って今日を「いい兄さん」と限定的に呼べる「兄さん」をリスペクトする日だとしよう。兄さんは「いい兄さん」であって欲しいという願望が込められているとしても、今時は、兄さんのいない人の方が多いと思うし、「いい兄さん」と限定すれば、その数は絶滅危惧種並みに激減しそうな気もするが……どうなんだろう?
 ま、どうでもいいか……。

音楽遍歴<その4>

2010-11-21 14:48:48 | 音楽にまつわる話<的>な
 立東社「ロッキンf」に入ったのは、ボクが27歳になる1976年の6月だった。創刊当時「ロッキンf」の「f」はなにかと、よく聞かれた。創刊に際して何度かディスカッションをする中で、family、friend、factoryなどなど様々な意味づけが行なわれたが、folkで良いじゃないかという意見が主流だった。当時、ロックはまだまだ黎明期で、どちらかと言えばフォークソング的な流れの延長に、ロックがあった。
 「ロッキンf」には扱う音楽という取捨選択だけでなく、ようやく楽器を手にすることが普通の事のように思われ始めた頃で、プレイヤー向けの雑誌という側面が大きかった。同じ頃「プレイヤー」という雑誌も創刊されているくらいだ。楽譜を掲載し、演奏に資する教則的な記事も多かった。記事中には、エレキギターのアタッチメントを自作するコーナーもあり、人気だった。
 創刊当時は、ロックもフォークも、新しい日本の音楽シーンの礎になるだろう音楽は、すべて扱った。当然洋楽にも重きを置いたが、こちらは「プレイギター」というコンセプトから、ハードロック・アーティストの登場頻度が高かった。
 最も人気があったのは、ツェッペリンのジミー・ペイジであり、ディープ・パープル(この時は脱退していた最中)のリッチー・ブラックモアだった。ジミー・ペイジと並ぶ三大ギタリストのエリック・クラプトンも、ジェフ・ベックも当然人気だった。この4人のローテーションで記事を回せば、まず間違いなかった。
 そんな雑誌のコンセプトがある一方で、ボクはというと勝手気ままに好きな音楽をページにねじ込んでいた。他の編集仲間からすれば、ロクでもない野郎だという思いがあったに違いないが、そんな事には気も回らない年頃だった。

恐怖の喫茶店

2010-11-20 22:10:35 | 極端な人々<的>な
 昔々、奥さんと結婚する前のこと。神戸在住だった彼女に会いにでかけた。むろん、地理は不案内で、三宮がどこだかだけを頭に叩き込んで、約束の時間まであちこち歩き回った。
 70年代後半の三宮は、当然震災の20年近くも前で、昔の神戸の面影が残っていた。
 どこをどう歩いたか、喉が渇いて喫茶店を探していると、道の少し先にどうやら喫茶店らしいものが見えた。何気なくその店のドアを開けた。
 中はカウンターと二人がけのテーブル席が3つほどあるこじんまりしたもの。7~8席あるカウンター席は半分埋まり、テーブル席も2つが埋まっていた。えらく繁盛しているような印象を受けた。
 ただ、妙な違和感を覚えた。それは客が全員、男だということと、その客たちのヘアースタイルが独特だったこと。7人の客のうち3人がほぼ坊主に近く、4人がパンチパーマだった。服装はラフで派手目な色柄のシャツスタイル。その上にブレザーを着るか着ないかくらいの差。全員だぶだぶの印象を受けた。
「いらっしゃい」
 マスターらしき人がそう言ったのだが、客全員が、ボクをねめ回すような視線を投げかけてきた。
「あ、まちがえました」
 この言い草はあるか? ないよな! でもボクはそう言って、後ろ向きのままドアから外へ出た。
 神戸はY組の本拠地だった。選りに選って、組関係の喫茶店に紛れ込んだらしい。実際店の2階は組事務所だったようだ。
 そんな事が分ったのは、ずっと後のこと。
 この時はただ「やばい!」と思って、間違えた事にしたのだ。この判断は、間違っていなかったと今でも思っている。

ちょっと怖い話⑦ 逢魔ヶ辻か?

2010-11-19 09:44:44 | 超常現象<的>な
 三十路に手のかかる頃、杉並区荻窪に住んでいた。JR荻窪駅(当時は国鉄だった)の南口から三分ほどのマンションの二階で一人暮らしをしていた。ただ、マンションの隣りの部屋が空き、結婚を約束したばかりの今の妻が引っ越してきていたから、一人暮らしとはいえ、壁を隔てた同棲とでもいえたかもしれない。
 彼女の部屋は、僕の部屋で一緒に過ごすことが多かったこともあって、家具などほとんどなく、ガランとしていた。ソファとカラーボックスがいくつか置いてある程度。
 それでも時には、何もないから広々とした部屋で、二人でゴロゴロと過ごすこともあった。二人きりで好きなレコードを(CDではない)ポータブルプレーヤーで聴いたり、本を読んだりしていた。
 そんなある日、彼女の部屋でその当時飼っていたマルチーズのココと、三人でのんびり過ごしていた。のんびりしたいときに、生活感のない部屋でゴロゴロするのは何よりの贅沢と、その時は思っていた。
 いつの間にか夏場の少し汗ばむような、トロンとした夕闇が忍び寄ってきた。部屋の灯りを点けようとソファから立ち上がりかけると、突然ココがパッと跳ね起きた。そして、玄関ドアに向かってうなり声を上げるのだ。やがて何もない部屋の白い壁に向かって数歩進み、今度は尻尾を振り始めたのだ。そして小さくワンと吠える。それは何かを威嚇するような吠え方ではなく、むしろ親愛の情を感じさせた。
 だが僕は、部屋に得体の知れない空気が満ちてくるのが分かった。どうやら彼女も同様らしく、玄関から続く壁の、高さ一メートル辺りの部分を凝視している。
 僕には「得体の知れない空気」と感じられたものだったが、ココと彼女には別の「実体」が見えていたのだ。
「空気」は、動いている。なにか流れを感じる。玄関から何も置かれていない壁伝いにベランダにゆっくりと風のように抜けていく。僕はベランダのサッシが少し開いていることに気がつき、閉めようとベランダのほうに行きかけた。すると彼女が僕を制止する。
「今は動かないで」
 口元に指を当て「シッ」と言った。僕はサッシを開けるでもなく閉めるでもなく、そこに立ち尽くしていた。やがてココが尻尾を振りながらベランダ近くまで来ると、外に向かって「ワン」と鳴いた。彼女は「フウ」と大きく息をつきベランダに出てしばらく外を見ていたが、部屋に戻るとこんな事を言った。
「すごく奇妙な集団。ほとんどが動物なんだけれど中に子供が二人。二人とも裸でおよそ二十頭ほどの犬や牛や豚と、仲良さげに笑顔でゆっくりと玄関からベランダに抜けていったわ」
 抜けていったその集団は、二階からなんの矛盾も感じさせず地表に降り立ち、マンションの建つ一角から30mほど離れたところにある四ツ辻で、何かに吸い込まれるように消えていったと、彼女は言った。
 それが何なのかは、今もって分らない。ただ近くに生肉屋があったことだけが、なんとなくあの一団が現れた合理的な説明になりそうな気がしたが、それでも二人の子供の意味は不明だ。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>

聴き入ってしまう、ジャンゴ・ラインハルト生誕100周年記念盤!

2010-11-16 17:27:49 | 音楽にまつわる話<的>な
 実態はわからないのだが、ヨーロッパでかつてのナチによるユダヤ人排斥運動に似た、ヒステリックな人種排斥運動が起きているらしい。その対象はロマ。別の言い方をすればジプシー。仏政府はこの夏に、不法移民取り締まりで拘束した「ロマ人約700人の強制送還」に踏み切ったのだが、もともと不定住のロマ民族をどこに「強制送還」したのかといえば、ルーマニアとブルガリア。このあたりもよくわからないのだが、フランス国内には1万5千人程度のロマの人々がおり、折に触れ排斥の対象になっているという。イタリアでもフランスに追随するような措置が取られているという。
 これは経済の停滞などが原因になっているきわめてポリティカルな話だが、ロマ、ジプシーといわれて思い出すのは、ヨーロッパでジャズの革命を果たした、ロマ民族出身のギタリスト=ジャンゴ・ラインハルト(1910.1.23 - 1953.5.16)だ。
 今年はジャンゴの生誕100周年に当たる。その時に、ロマ迫害に踏み切ったサルコジは、ヒトラー並に永遠に記憶されてもおかしくはない。なぜなら、ジャンゴ・ラインハルトはすべてのヨーロッパのジャズ文化を支える根っこであり、文化という意味において、フランスは最大にロマの恩恵に浴している国のひとつなのだから。
 ロマ強制送還が行なわれている同時期に、ここ日本でジャンゴ・ラインハルト生誕100周年を祝すように、ジャンゴの創りあげたマヌーシュ・スウィングのナンバー1ギタリスト、巨匠ストーケロ・ローゼンバーグ率いるローゼンバーグ・トリオのジャンゴ・ラインハルト・トリビュート・アルバムが発売されていた。
 しかも、そこにはジャンゴ同様、ロマ出身のマヌーシュの大物ギタリスト、ビレリ・ラグレーンも参加している。発売から3ヶ月近く経っているので、初回限定盤があるかどうかは、確かめて欲しいのだが、初回限定DVDにはローゼンバーグ・トリオのレコーディング・セッションの様子などが納められていて貴重だ。音は、無条件に聴き入ってしまうクオリティ。
 いつかもっと詳しくジャンゴ・ラインハルトというギタリストについて触れてみたい。それほど魅力的なのだ、この人の音楽は!

ザ・ローゼンバーグ・トリオ
with ビレリ・ラグレーン
ジャンゴロジスト(+6)
スペシャル・エディション
VIVO-255
(初回限定盤は限定DVD付 日本盤特典:ボーナストラック6曲)
2940円
2010年8月22日発売
プランクトン

【ジャンゴロジスト(+6)  収録曲】
01. Vendredi 13
02. Dream Of You
03. Peche A La Mouche
04. Clair de Lune
05. Choti
06. Double Jeu
07. What Kind Of Friend
08. For Sentimental Reasons
09. Gipsy Groovin'
10. Coquette
11. In A Sentimental mood
12. I'll never Smile Again
13. Sweet chorus
14. Webster
15. Indifference
16. Moonglow
17. Yours And Mine
18. Tears

<日本盤特典>
★ボーナス・トラック6曲:配信のみで販売されたミニアルバム"Free As The wind"を収録。
19. Les Flots Du Danube
20. The sheik Of Araby
21. I Wonder Who's Kissing Her Now
22. Margie
23. That's Why They call Me Shine
24. Saint-Louis Blues

(J-CASTニュース 音盤見聞録掲載原稿を転用
 → http://www.j-cast.com/mono/2010/11/11080436.html)

ちょっと怖い話⑥ 蛇な怖さ

2010-11-15 11:24:19 | 超常現象<的>な
 ボクの生まれた島根県松江市は、なんだか蛇が多かった記憶がある。
 ボクがまだ3歳か4歳頃の話。母親の叫び声で庭に出ると、角を生やした直径七㎝以上はありそうな、青大将がいたことがある。明らかに角を生やしていた。兜の角のような角。あれはいったいなんだったのか? 冷静に考えると、おそらく蛙を頭から飲み込みかけで、蛙の2本の後ろ足が角のように見えたのではないか。そう考えると、確かにそれが答えだと思える。
 また、家の庭に入る木戸の脇に井戸があった。この井戸には、よく兄たちが堀で釣った鯉や鮒が放してあり、それを見るのが僕は好きだった。
 ある日、前日に上の兄が大きな鯉を釣ったと自慢そうに話していた。僕は翌日早速、井戸を覗き込んだ。
 そこには骨だけの鯉が泳いでいた。死骸が浮いていたのではない、骨だけの鯉が確かに泳いでいたのだ。
 高級料亭で生き造りし、身を削いだ魚を水槽に泳がせたりするが、まさにあの光景だ。
 理由はわからないが、おそらく蛇の仕業だったに違いないと思っている。
 以前書いた風呂の話ではないが、天井の梁からとぐろを巻いた蛇が降ってくるなどということは、結構日常茶飯事だった。
 そして、口笛を覚えたての僕に、母が耳元でそっとこう囁いたことがある。
「夜道で口笛を吹くと、蛇に飲まれる『夢』を見るよ」
 その言葉の魔力は、この歳になっても消えない。「夢」なのにである。
 僕にとって、蛇は、忌むべき生き物のひとつになっている。
 東京では蛇などは動物園にでも行かなければお目にかかれないが、いまだに夜道では口笛を吹けない。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>

音楽遍歴<その3>

2010-11-14 12:18:08 | 音楽にまつわる話<的>な
 芝居をしていたこともあり、仕事はアルバイト。それこそやった仕事は10や20ではないが、声の仕事が一番金になった。いまでもあるが化学雑巾「サッサ」が出始めた頃にラジオCMのMCをやっていた。街中やスーパーで主婦に声をかけ、「サッサ」の使用感などを聞き、「サッサで一言でした」で締める。その他にもまだ途中休憩のある頃のTVに出たり、アフレコをやったりもした。
 新宿の「ぼろん亭」という喫茶店でアルバイトをしていた時に、編集プロダクションの社長と知り合い、雑誌の記者・ライターになった。芝居の資金稼ぎになると思ったのだが、思いのほか忙しかった。いつの間にか芝居から物書きにシフトしていた。
 初めての仕事が、「船の旅」という当時出始めたばかりのムック形式の本をほぼ一人で作ることだった。主婦と生活社に入り浸ってほぼ1年がかりで創りあげた。いま思えば、よくやったものだ。その後、なし崩し的に廣済堂がはじめて出す月刊「マネーライフ」の編集者になっていた。
 この廣済堂時代に、都合4人の編集長に仕えたが一番お世話になったのは、「マネーライフ」が隔週の「週刊時代」になって編集長になられた川内康範先生だった。なぜか日本の芸能界の重鎮でもあり、韓国とのパイプを持たれ政治的にも大きな存在だった川内先生が、可愛がってくれた。社員旅行で熱海に行ったときには、歌合戦のようなものが催され、ボクは野坂昭如の「黒の舟歌」を歌ってグランプリを頂いた。焼失したホテル・ニュージャパンの事務所によく呼びつけられ怒られたが、当時数少ない海外(といっても韓国、台湾だが)取材はボクが行かせてもらった。
 なんの御礼もお返しもできぬまま、一昨年先生は他界された。慙愧に耐えない。
 この頃、いくつかのレコード会社のディレクター、音楽雑誌、芸能マスコミ関係者と知り合った。政治的な記事も芸能記事も、十把一絡げで関わっていたから。
 そんな中、当時は忙しさも手伝って音楽というよりは、芸能には関わったが、それまで聴いていた若者向けの音楽を聴くことはなかった。歌謡曲、演歌を聴く環境だった。
 それが、ヤマハ関係の仲間から、音楽雑誌立ち上げの話が舞い込んできた。編集ができて音楽が好きで詳しい人間がいない、ついては加藤手伝ってやってくれないかという話になった。その話を持ってきてくれたのは、S-kenこと田中唯士だった。渡りに船。そして、それが立東社の「ロッキンf」だったのだ。

ちょっと怖い話⑤ 白い靄

2010-11-10 13:08:52 | 超常現象<的>な
 昼日中、普通に生活していて金縛りにあったことが一度だけある。
 僕は、二十歳の頃は役者を志していて、仕事といえば声、今でいうナレーターのようなこともしていた。仕事のあるときは羽振りが良かったが、仕事がなければその日の飯にも事欠くような生活だった。
 それでも、物欲にはそれなりに支配されていて、ことに古道具屋、今で言えばアンティークショップによく通った。ある日八王寺に用事があって行ったのだが、そこである古道具屋の店先から少し入った店内に、桐の箪笥があるのが見えた。なんということもない普通の引き出し式の桐箪笥。通常上下に分かれて六段という形なのだろうが、上なのか下なのか三段だけ置いてあった。これが、取っ手の細工が龍を象ったもので、なかなかの代物だった。
 僕は店内に入ると、その前にじっと立って眺めた。ものの十秒も経たないうちに、厭だな、と感じ始めた。間もなく金縛りの状態になった。昼日中に立ったままの金縛りだ。そうこうするうちに、脂汗が背中を流れた。
 すると、桐の箪笥の一番下の引き出しがスーッと音もなくあき始めた。これはやばいと思うのだが、ピクリとも動けない。引き出しの中から長い白いけむりか靄のようなものがするすると湧き出してくる。そして、その煙は僕の足元から、まるでとぐろを巻いて獲物を絞め殺す蛇のように、僕の体に巻きついてくる。
 徐々に体全体が圧迫されるような息苦しさを感じ始め、とうとう靄が首の辺りまで来た。何とかしなけりゃと、焦りを覚えた瞬間、店の五十歳代半ばの主人が「どう? 結構いい細工でしょ?」と話しかけ、僕の肩に手を置いた。その瞬間に金縛りはとけ、靄は跡形もなく消え去った。引き出しも元の閉まった状態に戻っていた。
 脂汗を流しながら、僕は一目散にその場から離れた。
 さすがに日中の金縛りは、いくら慣れている僕でも、初体験であり、その気色の悪さといったらなかった。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>

ちょっと怖い話④

2010-11-08 15:50:02 | 超常現象<的>な
 昭和二十年代後半の、幼い頃の体験である。断っておくが、霊的な体験ではない。
 当時、僕は小泉八雲の住まっていたことで名高い、島根県松江市に住んでいた。松江城の堀端沿いで、小泉八雲の居宅だったところから、四百メートルほど離れた、亀田橋という橋の近くだった。小泉八雲といえば『怪談』である。「耳なし芳一」である。何とはなしに「陰」を感じさせる地域ではあった。
 市内の繁華な一角から、松江大橋を渡り、茶町と呼ばれたあたりから県庁を抜け、城山をめぐる細い道を歩くと、やがて亀田橋に出る。
 この城山をめぐる細い道は、幼心に強烈な印象で残っている。城山での椎の実採りやどんぐり拾いは楽しかった思い出だ。だが、昼間でも木々に覆われた城山はほの暗く、冬には、道を歩く後ろでぽとりと椿の花が音を立てて落ちる。時折、かさこそと蛇が枯葉に埋もれた道を過ぎる。何の音だか得体の知れない音が、遠近から、季節ごとに聞こえてくるのだ。その音は、怪談に付き物の笛の音よりも恐ろしかった。
 そんな中で、僕の記憶に焼きついて離れないのは、ある寒い夜のたった一コマの映像と、その音だ。
 僕はまだ三歳くらいだったろう、五右衛門風呂に父に抱かれて入っていた。
風呂場の電気は仄暗く、壁に取り付けられた四〇w程の裸電球だった。その裸電球が、パキンと音を立てて割れた。その瞬間真っ暗になったが、突然雷光が輝き、続いてドンと落雷の音がした。その雷光が、風呂場の窓に映し出したのは、巨大な蛇の影だった。そして落雷の音と同時に、風呂場にボチャンボチャンとなにかが落ちてきた。父は僕を抱いたまま、ぎゃっと叫び声をあげて、風呂場を飛び出した。
五右衛門風呂の中には、数匹の蛇がのた打ち回っていた。
 あの蛇の影と、電球の割れるパキンという音は、鮮明なままだ。よく考えると、あまりにも季節外れの落雷で、僕の記憶違いかもしれないが、印象としては、冬に近い秋だったような気がする。
<拙文『黄泉路のひとり歩き』より抜粋>