日本人は「モノを知る」という行為を、次の手はずで行う。
まず五感で識る。そして「それ」がそこにある理由を探る。それが人であれば、なぜそこにいるのかを識ろうとする。
そして「それ」が、自分とどう関わっているかを考える。さらにその関わりが生み出すこと、モノ、事象を考える。さらにそのこと、モノ、事象が取り巻く環境に及ぼす影響・関りを考える。
その上で、結果として生み出された環境がさらに社会全体に及ぼす影響、さらにその影響が導き出す社会的な結果を想起する。
そうした諸々の思考の挙句に、徐にそこにある「モノ」あるいは「人」と如何に関わるかを瞬時に判断し、実行に移すのだ。
これが日本人の特性だ。
この思考のプロセスは、日本人にしか辿ることのできない思考の道筋。
そんなことは考えてない、そんな面倒なことはしていない、なんだか胡散臭いぞ、と思う方もいるかもしれないが、それは気づいていないだけだ。
実は日本人は、この思考プロセスを常に、瞬時に行っているのだ。とは言え、多少のタイムラグは生まれるけれどね。
日本人の大きな特性の一つに「和をもって尊しとなす」がある。
この「和」は、前述のプロセスがなければ生まれないものだ。
このプロセスの途中で思考を放棄すると、誤解や思い込みから生まれる憤怒や瞋恚、焦燥やら拒否・否定などといった負の思考が生まれてくる。
負の志向は別段悪くない。時として人には必要な哲学的要素だ。ただ、それは個人の営為での話。人と自分の彼我の距離・関係を慮る時には、不要な思考だ。
他者と自分の関係は、前向きなものであるべきだと考える。……ボクはね。
この思考プロセスこそが、日本人の日本人たる由縁である。
大声で人を威圧したり、人に話をさせないほどに立て板に水のように話をする人、実はボクはあまり好きでない。ボクの概念から言えば、日本人から逸脱しているように思えるから。断っておくがすべての人が日本人である必要などない。世界の様々な国・地域で生まれ育った人々がいるわけで、ただ単にボクは日本人的発想、言葉の選び方、思考のプロセスが好きなだけだ。
日本で暮らしている日本人のように見える人が、逸脱していると、ちょっと嫌だなと思ってしまうのは勘弁してください。
まあ、ボク個人の単なる思い込みの話かもしれないがね。
まず五感で識る。そして「それ」がそこにある理由を探る。それが人であれば、なぜそこにいるのかを識ろうとする。
そして「それ」が、自分とどう関わっているかを考える。さらにその関わりが生み出すこと、モノ、事象を考える。さらにそのこと、モノ、事象が取り巻く環境に及ぼす影響・関りを考える。
その上で、結果として生み出された環境がさらに社会全体に及ぼす影響、さらにその影響が導き出す社会的な結果を想起する。
そうした諸々の思考の挙句に、徐にそこにある「モノ」あるいは「人」と如何に関わるかを瞬時に判断し、実行に移すのだ。
これが日本人の特性だ。
この思考のプロセスは、日本人にしか辿ることのできない思考の道筋。
そんなことは考えてない、そんな面倒なことはしていない、なんだか胡散臭いぞ、と思う方もいるかもしれないが、それは気づいていないだけだ。
実は日本人は、この思考プロセスを常に、瞬時に行っているのだ。とは言え、多少のタイムラグは生まれるけれどね。
日本人の大きな特性の一つに「和をもって尊しとなす」がある。
この「和」は、前述のプロセスがなければ生まれないものだ。
このプロセスの途中で思考を放棄すると、誤解や思い込みから生まれる憤怒や瞋恚、焦燥やら拒否・否定などといった負の思考が生まれてくる。
負の志向は別段悪くない。時として人には必要な哲学的要素だ。ただ、それは個人の営為での話。人と自分の彼我の距離・関係を慮る時には、不要な思考だ。
他者と自分の関係は、前向きなものであるべきだと考える。……ボクはね。
この思考プロセスこそが、日本人の日本人たる由縁である。
大声で人を威圧したり、人に話をさせないほどに立て板に水のように話をする人、実はボクはあまり好きでない。ボクの概念から言えば、日本人から逸脱しているように思えるから。断っておくがすべての人が日本人である必要などない。世界の様々な国・地域で生まれ育った人々がいるわけで、ただ単にボクは日本人的発想、言葉の選び方、思考のプロセスが好きなだけだ。
日本で暮らしている日本人のように見える人が、逸脱していると、ちょっと嫌だなと思ってしまうのは勘弁してください。
まあ、ボク個人の単なる思い込みの話かもしれないがね。