普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

父・加藤千代三の短歌 7

2021-05-11 15:19:33 | 父・加藤千代三の短歌
くれていく 雲のうごきの おごそかよ
片空かけて 晴れていくなり


前回紹介した2首とは、趣が変わる1首。同じ時期の作品だ。19歳というから1925(昭和元)年頃の作品と思われる。

次から紹介する数種の端書に、こうある。
「潮音を去ってから作歌をはなれてしまった。折にふれて浮かんでは消えていったものは多い。以下はそのときどきに、どこかの隅に書きつけていたものである」
ここでは内1篇だけ紹介する。冒頭の歌とどこか対比できる歌のように感ずる。

夕あかり まさに消えつつ 西空の
雲ひとひらの 赤のきびしさ
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父・加藤千代三の短歌 6

2021-05-06 15:36:14 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三は上京したのも束の間、理由は定かではないが一年も経たず信州の小諸に居を移す。おそらく人間関係の軋轢か何かがあったのではないかと、想像する。同時に大恩ある太田水穂の「潮音」から去る。
まだ19歳だった。ここで、幾多りかの人々と交流を持ったようだが、それがどなたであったのか具体的には分からない。

さしかかる 木曽の山路に 雪とけて
椿の花の 紅をこぼせる


しばし、小諸で暮らすが、思い出すのは故郷の母の面影だったようだ。

母上よ その山かげにおわさずや
夕べは雲の かならずおりつ
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父・加藤千代三の短歌 5

2021-03-01 17:10:32 | 父・加藤千代三の短歌
だいぶんと間が空いてしまいましたが、そこはそれ、色々とありましたもので。

前回は、17歳で上京するまでの歌を2首あげましたが、あと1首見つけましたので紹介しますが、相当に暗い歌です。貧しく幼い千代三の心象風景が、手に取るようにわかります。

ここにみる 墓場の松の さびしさよ
ひぐれをくろく 風にゆれゆれ


次回からは、上京後の歌になります。
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父・加藤千代三の短歌 4

2021-02-11 16:51:02 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第4回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

前回、2首を挙げましたが、今回も2首を紹介します。

洩れてさす 雑木林の 陽の中に
静かな藤の ふさはたれたり


松の花 こぼるるに似て 散りきつつ
潮の音近し 丘の径かも


自然の情景に己の思いを託す、千代三の短歌のそうしたありようが、ボクは好きです。
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父・加藤千代三の短歌 3

2021-01-25 17:14:49 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第3回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

この添え書きの後には数種の歌が記されています。

順番に記載します。

カナ文字の 幼なき妹の たよりより
懐かしまるれ ふるさとの山


今回はもう一首。

ここからは 家もみえねば ふるさとの
山と空とに 別れするなり


ボクは中国山系の山々の稜線が大好きです。その大きな理由の一つは、千代三の歌によります。
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父・加藤千代三の短歌 2

2021-01-21 17:09:26 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

2回目は、「太田水穂氏にはじめて逢う」と、添え書きがあります。

師の君よ ふたたびきませ 宇迦山の
ふもとの原の みどりする日は


短歌誌「潮音」の主催者・太田水穂が、島根の「潮音」同人宅に招かれ逗留した際に、その同人が天才少年と地域で評価されていた父・千代三を招いて引き合わせたと、聞いた記憶があります。


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今日から、父・加藤千代三の残した短歌を、一つずつ

2021-01-16 20:39:01 | 父・加藤千代三の短歌
ボクの父・加藤千代三は、日露戦争の翌年、島根県に生まれた。

千代三と言う名は、その時代相を良く表している。

尋常小学校しか出ていない千代三は、奉公に出された置屋のような旅館で、酌婦に囲まれながら、父の利発さを知った旅館の旦那に与えられた万葉集を読みちぎり、学んだ。

そして地域では知らぬ者のない天才少年歌人と言われるほどになった。

明治が終わり、世の中は大正となり、やがて「潮音」の太田水穂に出会い上京を促され、島崎藤村の知己を得、岩波文庫、新潮文庫の創刊に携わった。

戦前には第二回直木賞の候補作を上梓するなど作家を志したようだが、戦時中は大政翼賛会に籍を置いた。

戦後は故郷の島根新聞社で編集局長となったが、マッカーシズムによる赤狩りにより退社を余儀なくされ、再び東京に戻り新生活運動の専務理事として、社会活動に専念した。

やがて20世紀の終わりに93歳の生涯を終えるのだが、その間一貫して続けていたのは、天才少年歌人と言われた、歌人としての矜持だ。

千代三の残した短歌の数々は、彼の書籍にいくたりかがみえるだけで、ほとんどがちりじりになっている。

最近、千代三の残した資料の中に、自分で思い出せる短歌を書き残したものを見つけた。

これから、それらを一つずつこのブログにアップし、後代に残しつつ皆さんに紹介させて頂こうと思う。

まず今日は、おそらく15歳頃に詠んだものを。添え書きには「岡垣義忠氏結婚の日に」とある。

かえで葉の そよげる家に 師の君の
妹背のちぎり し給うぞよき
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太田水穂

2019-03-20 01:17:11 | 父・加藤千代三の短歌
最近、仕事で出向くのは小石川界隈が多く、少し前から昼の休みには周辺を散策するようにしている。

なぜなら、ボクが5歳の頃(おぉ! 64年も前の事!)の住まいは、富坂上近くの横丁を入った、6畳一間だったか、4.5畳一間だったかの、超おんぼろ安アパートだった。仕事先の小石川から意外に近いのだ。

島根から家族で上京し、代々木の叔母宅に居候した後に家族4人で住んだ。それほど長い間ではなかったが、思い出深い。

文京区の富坂(小石川)、春日、小日向、といった地域は、何か独特の雰囲気がある。

ことに小日向は坂も多く狭隘な道路が細かく走っている。

おそらく富坂(小石川)のおんぼろアパートに住んだのは、父・加藤千代三があの辺りに土地勘があったからではなかったかと、今では思う。

岩波文庫、新潮文庫の編集者時代には、西片町にあった島崎藤村の居宅に通ったと書き残している。もちろん戦前の話だが、西片も富坂から近い。

それはそれとして、先日小日向のあたりを歩いていたら、藤寺(正式名称は曹洞宗・伝明寺と案内板に書いてある)という禅宗の寺の前に出た。



脇には藤坂。



案内板によれば江戸幕府三代将軍家光が伝明寺に立ち寄る機会があり、寺に藤の花が咲いているのを見て「これこそ藤寺なり」と言ったとか。

そして、ボクが少し驚きなにか運命を感じたのが、その案内板の末尾に詠まれている短歌を読んだ時だった。

「藤寺のみさかをゆけば清水谷
        清水ながれて蕗の薹もゆ」

そして、その詠み人は、太田水穂だった。戦前の短歌界を束ねた「潮音」の主催者であり、天才少年歌人と言われた父・加藤千代三を、島根の田舎から東京へ連れ来たって島崎藤村に委ねた、その人の歌だったのだ。
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父・千代三の残してくれた魂

2012-07-20 17:59:25 | 父・加藤千代三の短歌
昔、ボクがまだ20歳代の頃、亡くなった父が生涯でたった一つと言ってもいい助言をしてくれた。

「貧しいときこそ、身なりをきちんとしなさい」

なんだか、分かったような分からないような、そんな印象で聞き流していた記憶がある。
常に貧しかったボクにとっては、なかなか厳しい助言となっていたが、確かにそれはそうだなと思う。

「貧すれば鈍す」という言葉が、頭に浮かぶ。

貧しさは大概の場合人を内向きにするし、人との関わりも思うようには運ばせてくれない。

畢竟自分のことしか考えられなくなり、対外的な感覚は麻痺する。

そのことを、自分で自覚し自省しながら、人と関わっていきなさいということなのだろうと、いまは理解する。人との関わりがある限り、いつか必ず蘇生できるというメッセージと、いまは思う。

父・加藤千代三は、88歳で脳梗塞で倒れ93歳まで闘病し続け亡くなったが、考えてみればいつもダンディだった。もちろん相応に老いていってはいたが、どこか「キチン」としていた。

明治の男の気骨だったかもしれないが、老醜を晒すまいとする胸の内の闘いの顕れだったのかもしれない。

父は、病に倒れ右半身に麻痺が残った。それでも歌を詠み、左手で墨絵を描き続けた。その集中力は半端ではなかった。

老いて、彼のように生きられるか?

なかなかな難題である。

今、父・加藤千代三の描いた墨絵を整理している。近々、ここで紹介させてもらおうと思う。
加藤千代三の魂の凝縮した墨絵たちだ。



ちなみにこれはその一つ。故郷の島根を描いたもの。半紙に描いたものだから、半紙がよれてしまっているが、なんとかよれを直せないか思案中。

左上に書かれた文章は、
「高盛山の中腹には
 三本松があった。
 ここまでは兄が見送
 ってくれた。ここから
 はひとり山を越えて
 養家に帰っていっ
 た。恐ろしかった。
 少年の日の思い出
      である。」
 とある。
 雲田という本家筋に養子に出された父・千代三が、ある日加藤の家に戻り、再び養家に戻る時に見た故郷の風景を描いている。
 後ろ髪曳かれる思いで辿った道だろうことは、容易に想像できる。
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加藤千代三のこと

2011-10-16 15:29:09 | 父・加藤千代三の短歌
 島根の中尾さんへ送らせていただこうと、父・加藤千代三の残したものを整理しているのだが、遅々として進まない。

 中尾さんには申し訳ないばかりだ。今にも崩れそうな単行本もあれば、変色した中性紙で組まれた本、中性紙の原稿用紙かと思われるほどに変色した原稿などなど。

 このまま送って良いものかと思えるものがほとんどだ。

 時間切れになりそうで、申し訳なさで一杯だ。
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父を知る人、その後

2011-09-17 00:07:04 | 父・加藤千代三の短歌
 昨日、生前の父を知る方からブログにコメントをいただいたと書いた。
 その方は、島根県在住の中尾隆義さんとおっしゃる方だった。
 今日は思いもかけず、電話をいただいた。
 
 そしてお話を伺ううちに、いまから20年以上も前、父がそれほど優れない体調を押して「島根に帰る」といって帰郷したことがあったのだが、その折に、島根に父を呼んでくださり、彼の地で父の面倒を見てくださった方だとわかった。
 そして、彼の地で父の事績を探り、父の残した作品などを収集して下さっている方だとも知った。
 なんということだろうか! 不肖の息子としてはただただ頭を垂れるのみだ。

 なんとか父の事どもを、中尾さんと共有させていただければと思う。できるだけの資料をボクも探してみることにしようと思った。
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父を知る方

2011-09-16 17:05:29 | 父・加藤千代三の短歌
生前の父を知る方が、このブログにコメントを寄せて下さった。

なんと有り難いことだろう。

もちろんボクはその方と面識はない。お名前すら存じ上げなかった。母が存命であれば、あるいは存じ上げていたかもしれないが…。

それでもなにか、胸の内が暖かに、懐かしい気持ちになっているのはなぜだろう?

島根の方だが、お幾つになられるのだろう? 新聞社関係の方だろうか?

できるものなら、お会いして、お話しを伺いたいものだと思う。
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父・加藤千代三のこと 〈4〉

2011-02-06 14:58:42 | 父・加藤千代三の短歌
 本当なら前回書くはずだったのだが、父・加藤千代三の生まれた家について書いておこう。
 加藤の家は名字帯刀を許され、僧籍を輩出した家柄と書いた。聞こえはいいが、千代三が誕生した当時の当主・金五郎は、わずかな田畑も持たない小作農だった。
 金五郎は千代三に常日頃こう語っていたという。
「百姓になるな。貧しくとも、わが家の古く正しいすぐれた家柄を語って、その誇りを忘れるな」
 これは、心のそこまで負け犬になるなという自戒でもあっただろうが、どれほど血筋や家柄を誇ってみたところで、日々の生活は楽になりはしなかった。
 金五郎のわずか二代前には、加藤は小作ではなく名主だった。だが時の当主が放蕩の道楽者だったという。四人の妾を東西南北に配し、己の土地を踏み外すことなく、馬車で通えたという。
 そのことを記憶していた千代三の父親・金五郎が「百姓になるな」といったのも頷ける。とはいえ、プライドを抱えた小作農というのも珍しい。
 だが千代三にとって百姓になる他はない。そういう時代であった。
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父・加藤千代三のこと 〈3〉 孤高の姿

2011-02-03 22:10:30 | 父・加藤千代三の短歌
 加藤千代三を描こうとする時、彼のどの部分に光を当て、どの部分を影として描けばいいのか、迷う。
 彼の生涯は、真実のものであったが、決して世俗の成功を収めたものではない。お金という物差しが計る今の日本の価値観から判断すれば、むしろ敗者かもしれない。そういう意味では、彼の生涯は、暗く荒んだもののように思われる。確かに最晩年の加藤千代三は、苦悶していた。己の貧しさを嘆くこともあった。
 だがその一方で、彼は常に世の中を見ていた。『僕は十年先を見る』、よくそう言っていた。そしてその作業は、死の間際まで続いた。
 何のために、十年先を見ようとしなければならないのか? 問題はそこにある。
 加藤千代三は、晩年に至っても、十年先が今よりより良い社会でなければならない、真剣に、本気でそう思っていた。そのために何ができるかを、半身不随の体を何とか立ち直らせようと必死にもがきながら、毎日模索し、ペンを取ることで行動しようとしていた、ペンを動かない右手から不自由な左手に持ち替えて。
 それはまさに孤高の人の姿だった。
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父・加藤千代三のこと ②

2011-01-26 13:11:27 | 父・加藤千代三の短歌
 父・加藤千代三が生まれたのは、明治39年(1906)8月10日と聞いていたが、本人の談によると本当は6月10日だったという。なにか、生まれた当時の「祭り」との関わりで、出生日を遅らせたということだったが、事の次第は詳らかでない。この年は「丙午(ひのえうま)」で、その辺りが関係していたのだろうか。
 明治39年というと、前年に日露戦争があった。日本はそれこそ、戦勝気分に溢れていて、父の名も「千代三」であり、「千代に八千代に」の「千代」の意味だろう。
 ただ、あまり丈夫ではなかったようだ。
 記憶にある、父の語った言葉を紡いでいくと、加藤という家は戦国末期から江戸初期にかけて名字帯刀を許された「加藤勘十」という、おそらくは元武士であったろう「墓の石彫り(墓石に名などを刻む)」を祖とするらしい。
 その後、連綿と加藤家は続くのだが、その筋の中で僧籍の者や尼などを輩出したという。明治17~20年にかけて南禅寺の管長として名の残る初代・少林梅嶺は、加藤の一族だった。その兄には狩野派の画家で、雪渓を名乗る者もいた。
 梅嶺が管主となり、南禅寺に向かう姿を見て雪渓は「墨染めの衣を纏って行けばいいものを」とつぶやいたという逸話も、加藤の家では語り継がれている。
 しかし。千代三が生まれたのは極貧の小作農の小倅としてだった。
 それ以前の家系を聞けば、それなりに名門の家という印象だが、千代三が生まれた当時、加藤の家は没落し果てていた。
 その理由は……。次回ということで。
〈続く〉
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