(前回の原稿の最後で「この続きは、また明日」と書いたが、すっかり「嘘つきハンス」になってしまった。携帯で原稿を書くことは書いていたんだが、長くなりすぎて投稿できなかった。ご勘弁を。
では、あらためて……)
さて、昨日の続きです。
それでは、一瞬の一念に備わる三千ものパラレルな世界とは、一体「なに」を根拠に示されているのでしょうか?
この根拠こそ、一念三千という言葉そのものにあります。三千という、具体的な数の根拠こそが、その答えです。どこから導き出した数なのか? ということですね。
天台大師はその根拠を、まず十界という人間の生命の有り様・境涯に求めました。
地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩 仏
この十界ですね。すべての人の生命には、まずこの十界が備わっているという、釈尊の教えを根拠にします。
そして、十界それぞれにはさらに十界が備わっていると、天台は説くのです。
地獄という生命の有り様の中にも仏界はあるとするのです。
すべての衆生、すべての生命を救い切るには、「地獄に仏」は不可欠だということです。
逆もまた真で、「仏の顔も三度」と奈落の底に突き落とされることもある。
十界それぞれにまた十界が備わるわけですから、都合百界の位層が生まれます。
この位層それぞれの中で、今度は自分の生命そのものがさまざまな姿になって顕れてきます。時には表情のように形を変化させ他に働きかけ、あるいは力で相手をねじ伏せようともします。さまざまの変化を見せます。それは因果という生命の約束事=法にコントロールされています。
その働きを十如是と言います。
如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等
この十の生命の顕れ方です。
そしてこの生命の顕れ方は、百界においても等しく顕れてくる。
従って、都合千の生命の立ち顕れ方がここではっきりとしたものとなってくるわけです。
だけれども、これで終わりではありません。
この先まだなにがあるというのかといえば、こうした生命の発現が、どんな場合におきるかという検証がされていません。簡単に言えば、一人の時なのか、二人の時なのか、それとも大勢の時なのかということです。
仏教ではその違いを「三世間」といいます。一人に対応するのが「五陰世間」、二人に対応するのが「衆生世間」、大勢に対応するのが「国土世間」ということになります。
千の生命の立ち顕れ方は、また三世間という「場」によっても変化してくる。
お分かりの通り、これで三千というパラレルな世界が完成しました。
天台の説く「一念三千」は、一瞬の思いはこの時間も空間も越えた三千の世界の中から、あなたが瞬時に選び取って外からの働きかけに対してなんらかの反応を示している、と言うことなのです。
これがあらあらの「一念三千」の説明ということでご勘弁を。
だけれども、これではただの理論武装が済んだだけです。一番大事なのは、「それがどうした?」という問いかけに応え得る、実践論的方法論的アプローチが、この「一念三千」に備わっていなければ意味がありません。
どういうことかといえば、こうした世界があるのが分かったのだから、なにか事あるときには、その働きかけに一番相応しく、また自分で納得できる対応の仕方ができなければ意味がない、ということです。三千の反応のどの「一」を自分で選び取れるのか。これが最も大事なことなのです。
長くなりました。この続きはまたあし……いやいや、また次回ということで。
では、あらためて……)
さて、昨日の続きです。
それでは、一瞬の一念に備わる三千ものパラレルな世界とは、一体「なに」を根拠に示されているのでしょうか?
この根拠こそ、一念三千という言葉そのものにあります。三千という、具体的な数の根拠こそが、その答えです。どこから導き出した数なのか? ということですね。
天台大師はその根拠を、まず十界という人間の生命の有り様・境涯に求めました。
地獄 餓鬼 畜生 修羅 人 天 声聞 縁覚 菩薩 仏
この十界ですね。すべての人の生命には、まずこの十界が備わっているという、釈尊の教えを根拠にします。
そして、十界それぞれにはさらに十界が備わっていると、天台は説くのです。
地獄という生命の有り様の中にも仏界はあるとするのです。
すべての衆生、すべての生命を救い切るには、「地獄に仏」は不可欠だということです。
逆もまた真で、「仏の顔も三度」と奈落の底に突き落とされることもある。
十界それぞれにまた十界が備わるわけですから、都合百界の位層が生まれます。
この位層それぞれの中で、今度は自分の生命そのものがさまざまな姿になって顕れてきます。時には表情のように形を変化させ他に働きかけ、あるいは力で相手をねじ伏せようともします。さまざまの変化を見せます。それは因果という生命の約束事=法にコントロールされています。
その働きを十如是と言います。
如是相 如是性 如是体 如是力 如是作 如是因 如是縁 如是果 如是報 如是本末究竟等
この十の生命の顕れ方です。
そしてこの生命の顕れ方は、百界においても等しく顕れてくる。
従って、都合千の生命の立ち顕れ方がここではっきりとしたものとなってくるわけです。
だけれども、これで終わりではありません。
この先まだなにがあるというのかといえば、こうした生命の発現が、どんな場合におきるかという検証がされていません。簡単に言えば、一人の時なのか、二人の時なのか、それとも大勢の時なのかということです。
仏教ではその違いを「三世間」といいます。一人に対応するのが「五陰世間」、二人に対応するのが「衆生世間」、大勢に対応するのが「国土世間」ということになります。
千の生命の立ち顕れ方は、また三世間という「場」によっても変化してくる。
お分かりの通り、これで三千というパラレルな世界が完成しました。
天台の説く「一念三千」は、一瞬の思いはこの時間も空間も越えた三千の世界の中から、あなたが瞬時に選び取って外からの働きかけに対してなんらかの反応を示している、と言うことなのです。
これがあらあらの「一念三千」の説明ということでご勘弁を。
だけれども、これではただの理論武装が済んだだけです。一番大事なのは、「それがどうした?」という問いかけに応え得る、実践論的方法論的アプローチが、この「一念三千」に備わっていなければ意味がありません。
どういうことかといえば、こうした世界があるのが分かったのだから、なにか事あるときには、その働きかけに一番相応しく、また自分で納得できる対応の仕方ができなければ意味がない、ということです。三千の反応のどの「一」を自分で選び取れるのか。これが最も大事なことなのです。
長くなりました。この続きはまたあし……いやいや、また次回ということで。