普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

こんな夜中に

2017-01-29 02:19:47 | 普通な生活<的>な
気が付くと、毎晩こんな時間なんですよ。

自分の時間がやってくるのは、こんな時間……。
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異変?

2017-01-29 01:46:25 | 普通な生活<的>な
今年に入って、どうも去年までと違うなと感じるところが一つだけ。

いやに時間の経つのが、遅い。

去年までの時間感覚で言えば、すでに建国記念日(あ、2月11日ね)は、過ぎているところだ。

あれ? まだ1月だっけ? てな感じ。

皆さんはどうですか?

そんなことはありませんか?

思うに、明らかに時間の進みが遅くなっているのだろうと、ボクは思う。

量子論的には、時間はないものなのだそうだ。

現在も過去も、実は現在に集約されるものであって、概念としては存在するとしても実際にはないのだそうだ。

そのことを、実は仏教でははっきりと言葉にしている。

因果倶時。

すごいよね、3000年近く前に説かれた概念ですよ。

時間というものは、確かに自分にとっての物差しではあるし、他とのある種の共通認識のための単位ではあるけれど、実は自分だけのものであって、それは自由気ままに伸び縮みさせることもできるものというわけだ。まるで輪っかの様に無限ループさせることもできる理屈だ。

因果倶時だから、時間を止めてしまうこともできる。一瞬の点にすることも可能ということになるな。

それだから、ふと気づくと自分の都合が良いように、時間は歩みを変えているということなのだろうな。

いま、時間の経つのが遅いと感じているわけで、ボクにとってどんな都合があるのだろう?

そこのところは、自覚のない無意識領域の話なわけで、この不可解さが、堪らないわけですよ。

今年も、こんな感じなんだろうかな?

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レイバンのサングラス!

2017-01-15 01:17:27 | 極端な生活<的>な
ずいぶん前のことになるが、ボクのfacebookか何かのアカウントだかが「乗っ取られてるみたいですよ」と、親しい友人の一人が教えてくれたことがあった。

眺めてみると「レイバンのサングラスを安く売る」みたいな記事が、ボクのfacebookを通して様々な人に送り付けられていたみたいだった。

とりあえず、「こんなことになっているみたいでごめんね」的な記事を書いて、皆の元に届けばなと思った。

その時、そのことを教えてくれた人と、やり過ごしてくれた人と、もう一種類の人がいた。その代表例が「人として最低」というコメントを残してくれた人。

SNSの怖さだよな。その人にとってボクはすっかりネットを悪用する商売人ということになったわけだ。

正直、ネットを利用してモノを売ることが悪いことだとは思わない。だからボクはそのままにしておいた。

最近また、ボクのメールに「レイバンのサングラスなんちゃら」という記事が舞い込んでくる。いい迷惑だが、特段人を傷つけるわけでもないので、そのままにしている。

「人として最低」とコメントしてくれた人に対して、いいのか悪いのかよくわからないが、ボクはすっかり「覚めて」しまった。

その人はSNSを多用する。自分の思いや活動を人に送り付ける。それは親しい人にとってはとても嬉しくもあり、待ち遠しいものでもあるだろう。ボクもその一人だった。

だが、送られてきた誰かの記事が、それまでその人間が発信してきた記事とは異質だと思う程度の疑いやら、その人への信頼感が根底にあって記事は読むものだろう。

そうした検証もなく、一方的に「人として最低」という言葉を投げて終える感覚がどうしてもボクにはわからない。

その感覚のままだと、自分が同じ憂き目にあったときにどんな対応をするのだろうと、心配になる。

ま、ボクが心配することではないのだが、最近メールに舞い込んでくる鬱陶しい記事を見ていて、急に思い出したのでちょっと書いておきます。

乗っ取りにはご注意を! ただ、乗っ取られたときにどうしたらいいのかは、よくわからないままです、相も変わらず。
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東京「昭和な」百物語<その20> グリーンハウス

2017-01-14 02:24:11 | 東京「昔むかしの」百物語
1960年代の終わりに近づくと、世の中は騒然とする。

ある意味、1960年6月15日の東大生樺美智子さんの国会南門での機動隊との衝突による死亡で始まった反安保闘争という「政治の季節」が、ピークに達するのだ。

60年安保闘争から70年安保闘争へ、学生が主体となった政治闘争は刻々と姿かたちを変えながらも連綿と受け継がれ、その間のベトナム反戦、沖縄闘争などのファクターを抱え込みながら、一種のカタストロフとでもいえるような悲劇的な高揚を見せる。まるで負けを覚悟の捨て身の新宿、安田へとなだれ込むのだ。その先に浅間があり三菱もあった。

その一方で、束の間のアバンチュールのように、ヒッピーというそれまで自分たちが知っている世界とは違う世界がアメリカやヨーロッパにはあるみたいだぞ、的な期待や高揚と、ナチュラリズムに名を借りた怠惰で、退廃的な現実があった。

その象徴が、今では信じられないことだが、長髪の兄ちゃんやとっぽい姉ちゃんが、ハイミナールやシンナーでおっぺけぺになりながら、新宿アルタ前に存在した芝生の一角で一日中寝転がっているという事実があった。その一角をグリーンハウスと称した。全然温室じゃないけどね。

しかも彼らは、ヒッピーではなくフウテンと呼ばれた。あ、彼らじゃないか、ある意味ボクもだった……。ボクはおっぺけぺじゃなかったけどね。

その一角に入りきれない連中は、新宿中央通りの「風月堂」「ウィーン」という喫茶店に入り浸った。コーヒー一杯でおよそ半日以上をそこで過ごした。政治的ではない時は、ボクはこのウィーン一派として過ごした。

なんて、その第一人者のように書いているけれど、そうではなくて、十把ひとからげの一人。芝居もやっていて忙しかったし、あまりそこにはいられなかった。ただし、いられるときはそこの住人のようにふるまっていたな。

でもね、ことさらに言うわけじゃないけれど、それはそれで楽しかった。政治も含めて新しいカルチャーとして理解していた。

昭和という時代は、前半は戦争だらけだった。そして中盤は政治的だった。最後の最後は……なんともいわく言い難い不思議な終わり方をした。混乱を避けながら混乱を招き、消耗し、果てたという感じ。

それでも、なにか元気だった。今よりははるかに元気だった。
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少々痛んで、年明け

2017-01-10 00:47:50 | 普通な生活<的>な
新年が おめでとうと言い 顔を出し

2017年そうそう、少し体を痛めています。奥さんも。

精神は健康そのもので、なんともはや。このバランスをどう整えるか?

その方法は、すでにボクの手の内にあります。

少し時間をかけて、2017年がかつてないほど最高の年になるよう!

生きていきます。
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謹賀新年、です

2017-01-02 02:16:58 | 普通な生活<的>な
謹賀新年


2016年と同じですな。

………。

2017年が明けましたが、どうしたわけか昨年末から例年のような年末年始の緊張感やら慌ただしさなどが、まったくありません。

ちょっとした変化はありますが、淡々と日々が過ぎていきます。

これは何なのでしょうか? ちょっとですか戸惑いも感じます。

今年もお節料理はすべて手作りしましたが、31日のおよそ3時間で作りました。作るに際してのバタバタも全くありませんでした。

写真をアップするような代物でもなく、エビの煮物、ピーマンの肉詰め、煮しめ、鶏のチリソース炒め、ブリの照り焼き、ミートローフ、卵焼き、ごぼうと牛肉の煮物などなど。

どれも家族には好評で、すでになくなりました。

今年の年頭は、これほど淡々と過ぎていますが、どう考えても新しい人生の第一歩という感じも強く、なにやらボク自身が大化けしそうな予感があります。

期待していてくださいね。

本年は、殊によろしくお願いします!!
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