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東京「昔むかしの」百物語<その71> 海水浴

2022-08-13 16:30:51 | 東京「昔むかしの」百物語
小学校低学年の頃、海水浴ではないが、二子玉川に従弟たちと良く泳ぎに行った。

二子玉川は今でこそ、おしゃれな高級住宅地然としているが、昭和30年代はまだ避暑地の様相だった。叔母や母も一緒だった。お弁当を持って出かけ、ボクたちは川崎側の川べり(もちろんまだ護岸工事はされていなかったと記憶する)に茣蓙を広げ、昼過ぎから日の沈むまで遊びつくした。

川遊びは危険と、今のご時世ではライフジャケットを付けたりしながらの川遊びで、二子玉川で泳ぐことなどもちろんできないだろうし、せいぜいラフティングでもするといったところだろう。

そういう意味では、あの頃はただただワイルドだったという外ない。

二子玉川での遊泳は、ある時突然禁止となった。川の水の汚染、水難事故、様々の要因があったのだろうが、ボク個人としては、ある時泳いでいて息継ぎをしようと顔を合上げたら、目の前に干からびたウ〇チが浮いていて、慌てて皆のいる土手に戻った。その時、ボクの中で二子玉川は、終わった。

海水浴は湘南が定番だった。由比ガ浜や葉山、要するに湘南と言われる一帯はどこでも泳げた。日帰りでも十分遊べた。夜になると、どこの浜でも夜光虫が淡く青い光を放ちながら、波とともに岸辺を縁取っていた。

湘南ではないが、追浜で遊んだ記憶が鮮明だ。だいぶ大人になって追浜を訪ねたことがあるが、ボクが遊んだ当時の面影はなく、埋め立てられているというのではないけれど、夏の遊び場としては全く不適な場所になっていた。

ボクが海水浴に行っていた当時の追浜は、子どもの胸のあたりの深さがどこまでも続く遠浅の海で、波も穏やかだった。だから、何の心配もいらずに海水浴を楽しんだ。浜の裏手には丘がありその麓には太平洋戦争時の防空壕が放置されていた記憶がある。母に「入るな」と言明されていたが、従弟と少しだけ足を踏み入れたが、すぐに見つかりこっぴどく怒られた。

今でも思い出す追浜の海だが、前述の通り海水浴には全く不向きな海になっていた。何かの養殖なのか何だか分からないが、浜から相当の沖合まで葦というかなにかは不明だが、細い枝がおよそ1m置きに突き立てられ、泳ぐどころか歩くこともできなさそうだった。

今どうなっているのかは、あいにく知らない。

他には千葉の勝浦に、家族で海水浴に出掛けたことを覚えている。珍しく父も一緒だったことで、少し緊張していてあまり羽目を外せなかった記憶があるが、宿の裏手が用水路で、水はほぼ足首までしかなかったが、麦わら帽子を落とし父が水路まで下りて拾ってくれたことを覚えている。

夕飯に出たアワビだったかトコブシだったかが苦味はあるものの、やたらにうまかった記憶がある。

もう一つ。小学校の臨海学校で冨浦に行った。その年は梅雨の長雨、悪天候続きで一泊二日の臨海学校初日まで雨が降り続き、海で泳げたのは二日目の午前中になってだった。

そんなこんなで皆我を忘れるとでも言えるくらいに無我夢中で遊んだ。少し沖まで泳いでいくと、目の前にぷかぷかと浮いているものがあった。よく見るとくちゃくちゃに丸まった、聖徳太子の描かれた千円札2枚だった。すぐに海から上がり、宿のガラス窓に張り付けて、宿を出るまで乾かし、何人かの仲間と土産を買う足しにした。

さすがに交番に届けるなぞ、全く頭に浮かばなかった。教師に届けるなぞも思いつかなかった。悪天候で半分以上楽しめなかった臨海学校を哀れんだ、神様の贈り物だと思ったものだ。
その時のボクと友人の世界では、それが一番妥当だった。
コメント
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