60歳になるまで、20歳頃から40年以上煙草を吸っていた。
吸い始めた当時、芝居にどっぷり浸かっていたボクは、いつの間にか缶入り、しかも両切りのピースを日に二缶、都合100本を毎日吸っていた。
体に良いか悪いかは問題にもならず、ただただ吸っていた。
パイプも吸った。海泡石(メシャムとも言ったかな)の彫刻モノは、お値段も張るけれど何か特別感があってよく口にした。自分で彫ったりもした。葉巻も吸った(正確には吸わずに、くゆらせる)。
そのうち朝の歯磨き時に、吐き気がするようになった。「おぇっ」てなもんだ。煙草を吸い始めて12,3年経った頃だった。さすがにその頃にはピースはヘビーで、ハイライトに変わっていたが、本数は変わらなかった。日に100本。
吐き気がいやで、銘柄は忘れたが少し軽いものに変え、やっぱり100本。
そうこうするうちに、銘柄はさらに軽いものに変わり、本数も日に二箱程度(それでも40本)に減っていった。
煙草はどこでも吸えた。映画館だろうが電車の中だろうが、病院でも吸えた。吸い殻は歩きながら道の端に捨て、踏み消した。
「地球は巨大な灰皿である」
と言うのは、僕が若い頃にこっそり作った標語。今どきこんなことを言ったら、嫌煙家に訴えられるだろう。当時だって公言できる類のものではないのだが……。
寝たばこも普通だった。枕元には好きな灰皿が置いてあった。
そんな煙草習慣が変化したのは、健康上煙草は最悪のもの、という概念が一般化した昭和60年を過ぎたあたりからだろうか。受動喫煙などという言葉が、そろそろ姿を現しはじめの頃。
ボク自身が特段に気を使ったわけではないのだが、環境が変化していった。
そして止めは子どもの誕生だ。煙草を止めはしなかったが、日に20本程度と、本数が劇的に減った。
昭和の最後の頃(息子の誕生は昭和59年)だった。
やがて平成に入ると、パブリックスペースでの喫煙は、何か後ろめたい行為となり、周囲に気を使いながら吸うということになり、プライベートな家や車と言った空間でも、気を使わなければならないようになった。
煙草を吸うという行為は、中毒性、依存性があると一般的には信じられていて、その呪縛に知らず知らず囚われていたわけだが、60歳になった時に、突然、煙草を吸うということそのものが、ただただ面倒くさくなった。
タスポだったかタポスだったか、煙草を吸える年齢だという証明証のようなものがなければ、煙草は自販機でも買えなくなった。好きな時に吸えない、まるで管理されているような気分になり、60歳の冬だったか「面倒くさい!」と一言叫んで、ボクは煙草をやめた。
それ以来、ただの一度も吸いたいと思ったことはない。禁断症状なんぞも、一度も出ない。
中毒性も依存性も、ただの思い込み、思い込まされだったのだと、ボクは確信している。
煙草は、昭和の国家管理の専売物から、昭和60年になり私企業化され、平成へと手渡された。そのことがだんだんと煙草への規制が強化されたことの根本的な理由だ。
専売物の頃は、国庫を潤わすアイテムの一つだった煙草は、吸わせるためにはなんでもありだったというだけの話だ。
その道筋の中で、煙草の中毒性も依存性も、ことさらに強調されて逆ホメオパシー的なことになっていたのだろうと思う。
だからボクは、しょうもない「面倒くさい」という理由で、煙草を止められたのだ。
そう確信している。
吸い始めた当時、芝居にどっぷり浸かっていたボクは、いつの間にか缶入り、しかも両切りのピースを日に二缶、都合100本を毎日吸っていた。
体に良いか悪いかは問題にもならず、ただただ吸っていた。
パイプも吸った。海泡石(メシャムとも言ったかな)の彫刻モノは、お値段も張るけれど何か特別感があってよく口にした。自分で彫ったりもした。葉巻も吸った(正確には吸わずに、くゆらせる)。
そのうち朝の歯磨き時に、吐き気がするようになった。「おぇっ」てなもんだ。煙草を吸い始めて12,3年経った頃だった。さすがにその頃にはピースはヘビーで、ハイライトに変わっていたが、本数は変わらなかった。日に100本。
吐き気がいやで、銘柄は忘れたが少し軽いものに変え、やっぱり100本。
そうこうするうちに、銘柄はさらに軽いものに変わり、本数も日に二箱程度(それでも40本)に減っていった。
煙草はどこでも吸えた。映画館だろうが電車の中だろうが、病院でも吸えた。吸い殻は歩きながら道の端に捨て、踏み消した。
「地球は巨大な灰皿である」
と言うのは、僕が若い頃にこっそり作った標語。今どきこんなことを言ったら、嫌煙家に訴えられるだろう。当時だって公言できる類のものではないのだが……。
寝たばこも普通だった。枕元には好きな灰皿が置いてあった。
そんな煙草習慣が変化したのは、健康上煙草は最悪のもの、という概念が一般化した昭和60年を過ぎたあたりからだろうか。受動喫煙などという言葉が、そろそろ姿を現しはじめの頃。
ボク自身が特段に気を使ったわけではないのだが、環境が変化していった。
そして止めは子どもの誕生だ。煙草を止めはしなかったが、日に20本程度と、本数が劇的に減った。
昭和の最後の頃(息子の誕生は昭和59年)だった。
やがて平成に入ると、パブリックスペースでの喫煙は、何か後ろめたい行為となり、周囲に気を使いながら吸うということになり、プライベートな家や車と言った空間でも、気を使わなければならないようになった。
煙草を吸うという行為は、中毒性、依存性があると一般的には信じられていて、その呪縛に知らず知らず囚われていたわけだが、60歳になった時に、突然、煙草を吸うということそのものが、ただただ面倒くさくなった。
タスポだったかタポスだったか、煙草を吸える年齢だという証明証のようなものがなければ、煙草は自販機でも買えなくなった。好きな時に吸えない、まるで管理されているような気分になり、60歳の冬だったか「面倒くさい!」と一言叫んで、ボクは煙草をやめた。
それ以来、ただの一度も吸いたいと思ったことはない。禁断症状なんぞも、一度も出ない。
中毒性も依存性も、ただの思い込み、思い込まされだったのだと、ボクは確信している。
煙草は、昭和の国家管理の専売物から、昭和60年になり私企業化され、平成へと手渡された。そのことがだんだんと煙草への規制が強化されたことの根本的な理由だ。
専売物の頃は、国庫を潤わすアイテムの一つだった煙草は、吸わせるためにはなんでもありだったというだけの話だ。
その道筋の中で、煙草の中毒性も依存性も、ことさらに強調されて逆ホメオパシー的なことになっていたのだろうと思う。
だからボクは、しょうもない「面倒くさい」という理由で、煙草を止められたのだ。
そう確信している。