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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その62>仕事・人

2020-11-15 15:44:37 | 東京「昔むかしの」百物語
社会に出て、既に50年が経った。簡単に俯瞰してみる。

大学を中退したのが3年に進級する1970年だから、ちょうど50年。

大学を止めて、芝居に専念しようと思った。それから外波山文明氏のはみ出し劇場で東北・北海道を回ったり、いくつもの劇団や同人の芝居に客演で参加したり、新宿や六本木で「黒魔術旅行団」名義で劇場公演を開いたりしたが、続けられなかった。

はじめて告白するが、正直、面白くなかったのだ。なにをしているのだろう? と、いつも疑念が頭のどこかにあった。

そのうちに、週刊誌の記者ライターへの道が開けた。当初は「七月企画」という編プロでアンカーライターとして活動していた。主婦と生活社でおよそ半年以上をかけて一人で「島の旅」というMOOKを作った。担当は京極さんだったか。必然的に芝居からは足が遠のいた。

やがていつのまにか廣済堂の「マネーライフ」編集者になっていた。七月企画のボス・ぴらさんの計らいだった。

この廣済堂時代に、今でも交流の続いているカメラマン・生井秀樹氏、超一級の記者・江原芳美氏と知り合った。

やがて編集長として川内康範先生が来られ、大事にしていただいた。海外(といっても韓国、台湾)取材は、ボクが担当した。

そこで過ごすうちに、当時人気の小説家、花登筐、川上宗薫の担当編集者になり、悪筆だった二人の小説原稿を読み取りリライトし入稿するようになった。これは勉強になった。そして、芸能方面の取材をするようにもなった。

そして知己だった田中唯士氏(後のS-KEN)の誘いで、「ロッキンF」の編集者になった。

ここで多くのことを学び、今の奥さんとも知り合い、今も交流のあるP-MODELや佐井好子さんなどとも知り合った。

ここまでが、20歳からの10年間。目まぐるしかった。

これ以降は、長くなるのでまたの機会に書くことにするけれど、読んでいただくとわかる通り、ボクはいわゆる就職活動をしたことがない。いつも誰かがお膳立てをしてくれて、道が開けて行った。これは、昭和という時代の大きな特徴だと思う。

ただただ人間関係だけが、道を切り開くファクターだった。コネなどといったことではなく、面白そうだから一緒にやらない? というような、人をまず信頼して事を始めるやりかた。

今のように、面接にマニュアルがあったり条件に満たなければ無条件に切られたりというようなことはなかった。

もちろんくそ生意気なボクだから、すぐに馬脚を現して辞めてしまったり喧嘩をしたりもした。そんな話は次回以降に。


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