45年以上、ボクが信頼し続けたカメラマン、生井秀樹氏が亡くなった。
カメラマンとしてはもちろんだが、長きにわたり数少ない友人の一人として接してくれた、掛けがいのない存在だった。
ロックが好きで、繊細なくせに豪放磊落を気取り、いつも少しにぎやかな場を好んだ。
初めて会ったのは、ボクが25歳の時だった。マネーライフという雑誌の編集者とカメラマンとしての出会いだった。
思い出せないくらいたくさんの仕事をした。
ボクがロッキンFという音楽雑誌の編集者に転身し、音楽関係の写真を依頼すると一も二もなく手助けしてくれた。
彼の写真はモノクロにハードエッジとでも言える大きな特徴が表れていて、読者に大きなインパクトを与えた。
中でも、日本のニューウェーブシーンを席巻したP-MODELの写真は、ライブもアーティスト写真も、すべてを生井氏に依頼した。
そんなこともあってか、ボクが音楽と無縁の仕事を始めてからも、生井氏はP-MODELの写真を撮り続け、それはついこの間まで変わらなかった。
ボクが新星堂の仕事を始めた時も、写真は生井氏にすべて依頼していた。矢沢永吉のポスターも、生井氏に撮ってもらった。評判が良かった。
音楽関係の仕事は、昨日まで生井氏に頼んでいた。ライブがあれば連れだって出かけた。中島みゆきの夜会まで一緒に出掛けた思い出がある。
もう、それもできない。何かが欠落してしまったような気分だ。
今年の初め頃から体調を崩していたが、これほど早い別れの時は想像もしていなかった。
コロナ禍で、別れを告げることもできない。だが明日、無理を承知で会いに行こうと思う。
多分、遺体安置所。
もう一人、日本のトップ芸能記者だった江原氏と三人で、定期的に飲んでいた。サイゼリアが定席で、浴びるほどワインを飲んだ。ひょっとすると、あれが良くなかったのかと、ふと自責の念が沸き起こる。
いやいや、楽しかった。だからそんなことはないと思いたい。
そんなことはない、と今日の夢にでも出てきて言ってくれないか、生井秀樹よ。
合掌。
在りし日の生井秀樹カメラマン
カメラマンとしてはもちろんだが、長きにわたり数少ない友人の一人として接してくれた、掛けがいのない存在だった。
ロックが好きで、繊細なくせに豪放磊落を気取り、いつも少しにぎやかな場を好んだ。
初めて会ったのは、ボクが25歳の時だった。マネーライフという雑誌の編集者とカメラマンとしての出会いだった。
思い出せないくらいたくさんの仕事をした。
ボクがロッキンFという音楽雑誌の編集者に転身し、音楽関係の写真を依頼すると一も二もなく手助けしてくれた。
彼の写真はモノクロにハードエッジとでも言える大きな特徴が表れていて、読者に大きなインパクトを与えた。
中でも、日本のニューウェーブシーンを席巻したP-MODELの写真は、ライブもアーティスト写真も、すべてを生井氏に依頼した。
そんなこともあってか、ボクが音楽と無縁の仕事を始めてからも、生井氏はP-MODELの写真を撮り続け、それはついこの間まで変わらなかった。
ボクが新星堂の仕事を始めた時も、写真は生井氏にすべて依頼していた。矢沢永吉のポスターも、生井氏に撮ってもらった。評判が良かった。
音楽関係の仕事は、昨日まで生井氏に頼んでいた。ライブがあれば連れだって出かけた。中島みゆきの夜会まで一緒に出掛けた思い出がある。
もう、それもできない。何かが欠落してしまったような気分だ。
今年の初め頃から体調を崩していたが、これほど早い別れの時は想像もしていなかった。
コロナ禍で、別れを告げることもできない。だが明日、無理を承知で会いに行こうと思う。
多分、遺体安置所。
もう一人、日本のトップ芸能記者だった江原氏と三人で、定期的に飲んでいた。サイゼリアが定席で、浴びるほどワインを飲んだ。ひょっとすると、あれが良くなかったのかと、ふと自責の念が沸き起こる。
いやいや、楽しかった。だからそんなことはないと思いたい。
そんなことはない、と今日の夢にでも出てきて言ってくれないか、生井秀樹よ。
合掌。
在りし日の生井秀樹カメラマン