普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

緑の中の、一点の赤

2018-05-26 00:06:13 | 普通な生活<的>な
時々、FBにふらりと歩いて目にした風景をUPしている。

今年の春、隅田川の畔を歩いていると、春めいた緑の中に、真っ赤な花が一輪咲いている。

それは、なかなかにドキリとする眺めで、カメラワークで言えば、この赤い花には何かあると、一気にクローズアップするような感じだった。

花は真っ赤なチューリップで、ボクは暫しその場にしゃがみこんで、つややかな花の赤さに見とれていた。



それから一カ月半ほど経った一週間ほど前、家の近くを散歩していると、30坪ほどの更地に生い茂った草の緑の中に、また一輪の真っ赤な花を見つけた。

更地の周囲には柵があり、近づくことができず花の種は分からずじまいだったが、やはりスーッと引き寄せられるような存在感があった。



先の真っ赤なチューリップ、そしてこの名もない真っ赤な花。二度あることは三度ある、とよく言うが、もう一度同じような風景に出あったら、なにか意味があるのではないかなとふと思った。

どんな意味なのかは判然とはしないが、決して悪い意味ではなさそうな気もした。

そして、昨日のこと。花ではないのだが、良く見かける生け垣の緑の中に、たったひとひらだけ真っ赤に変色した葉を見つけた。



とうとう三度目だなと観念した。

ちょっと変な感覚だが、観念した感じが一番近い。

だからと言って昨日今日と、何か変わったことが起きているわけでもない。トランプくんが我が儘を言ったくらいだ。長野で大きな地震もあったが、どちらも緑の中の赤が示唆するものとは違うようだ。

この一週間程度は、なにか緑の中の赤が意味することに、気を配りながら生活することにしようと思う。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

慶応義塾大学湘南キャンパス

2018-05-17 00:52:12 | 普通な生活<的>な
ボクは、早稲田大学Ⅱ文演劇科を中退した。昭和45年のことだ。

昭和42年に入学したが、大学紛争の真っただ中、2年間で種々の授業すべてで正味40数時間しか受けていない。革マルによるロックアウトで授業がなかったのだ。だから進級はテストではなく、すべて論文の提出だった。

従って友人など作りようもなかったが、御当人が覚えているかどうかはともかく、唯一できた友人が山本益博だった。食のエキスパートとして一世を風靡したあの山本益博だ。早稲田に通っていた。

学生の頃は、農民詩人として知られた松永吾一宅に寄宿し、さまざまな文学的エッセンスを吸収していた記憶がある。

やがて卒業論文に書いた落語家「桂文楽の世界」がそのまま書籍化され、演芸評論家として世に出ることになったのだが、食への興味が昂じて食の評論家になった。この分岐点頃までは、よく家に連絡があった。

いわく「加藤の論文を使って教授が授業をしているぞ」とか、「本が出たから読んでくれ」とか……。

彼が卒業し社会人になり、疎遠になってしまった。

そんなことはともかく。

今日は、三田にしかないと思っていた慶応義塾大学の湘南キャンパスに行ってきた。出向いた理由はともかく、そのキャンパスはまるでアメリカ西海岸のLA辺りを思い起こさせる、広大な敷地とモダンな校舎。最近の大学は、かくもイカシタものなのかと、ちょっと驚いてしまった。

ボクの知りうる限りの大学は、都市型のそれで、狭い敷地にゴチャついた、まるで迷路のような建物の連なりだった。東京六大学の明治、立教、法政、東大、慶応、早稲田いずれもその例にもれなかった。

まあ、1960年代の終わりから70年代初頭にかけての印象しか記憶にないのだが。

学生、というより子どもの数が年間100万人を切ってしまった日本で、有名大学といえども学生を確保し教育環境を維持することが困難になってきているわけで、慶応義塾大学湘南キャンパスのような環境整備は必須のものなのかもしれないと、何とはなしに理解した、今日でした。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その39>吉祥寺

2018-05-15 23:30:07 | 東京「昭和な」百物語
1961年、小学6年生の頃。荻窪に住んでいたボクは、なぜか友達と二人、高井戸まで家庭教師の下に通った。進学塾のようなものはまだなかった。小学校の教諭がアルバイトで家庭教師をしていた。

二人で荻窪から高井戸まで歩いて通った。

家庭教師の下に通ったからと言って、特段に中学受験をするわけでもなかった。二人とも区立中学に進学した。

通った先は、井の頭線の高井戸駅に近く、時々はそのまま井の頭線に乗り吉祥寺まで遊びに行った。水道道路と言われた吉祥寺まで続く幹線道路を歩いても行った。

なんとはなしに憧れのようなものがあった。

当時の吉祥寺は、北口にはサンロードが既にあり、まるで戦後の闇市のようなハモニカ横丁があった。上野のアメ横を、もう少しディープにしたような場所だった。確か伊勢丹もあったような気がする。

南口には前進座があり、井の頭公園(当時はなにやら酔っ払いだらけで胡散臭く感じていたが立ち飲みの伊勢屋もすでにあった)、井の頭動物園もあった。

どこに行くということもなく、井の頭公園を一周したり、西荻経由で歩いて帰ったりもした。

なにか散漫としているのだが、刺激的な印象があった。

新宿や澁谷、池袋などといった繁華街ではないのだが、なにか荻窪などとは違った大きな町然としていた記憶がある。デパートがあったせいかもしれない。

後に東京には珍しい近鉄百貨店ができた。プロ野球の近鉄バッファローズ・ファンだったボクは、それだけでも嬉しく、吉祥寺にはその後もよく遊びに行った。

デパートは近鉄、伊勢丹、丸井、東急と繁華街にはないラインナップだった。

吉祥寺好きは今でも続いている。

ただし大抵の場合、子どもの頃には胡散臭く感じていた、酔っ払いと化しているのだが。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

インタビュー 3連荘

2018-05-15 18:12:48 | 極端な生活<的>な
本当に久しぶりに、インタビューの3連荘です。

今日がその第一弾。いずれも当代一流の医師・医学研究者の方々です。

内容は披瀝できませんが、今日の印象では、非常に有益かつ楽しく軽やかなインタビューが続きそうで、内心ワクワクしています。

今日は新宿でしたが、明日は湘南某所。明後日は神田某所あたりでしょうか。

いずれにせよ、暑い夏の端緒の時期にふさわしいインタビューです。

変わった出来事でもあれば、またご報告します。

今日はこの程度で。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ゴールデンウィークは関西

2018-05-06 23:31:46 | 普通な生活<的>な
2018年のGWは、関西におりました。PCは持参せず、更新できませんでした。

関西でのベースは、奥さんの実家がある神戸。

車で東京・神戸間を往復しました。久しぶりの運転で疲れましたが、気分は爽快でした。

これまで足を向けることのなかった奈良に出向き、大仏さんにお目通りしてきました。

でかい。

写真にするとその大きさをあまり感じ取れないのですが、その理由が非常に単純なことだと気づき、大いに納得しました。

要するに、周囲の法具なども同じようにでかいということでした。

2年前には京都中心に関西を楽しみましたが、今年は奈良、そして大阪中心に出向きました。道頓堀や黒門市場、法善寺横丁などなど、旅行者気分で歩きまわりました。

奈良・大阪・神戸の新三都物語でしょうか。

地元の神戸も、南京町やらセンター街、元町と完全な観光旅行気分。

古くからの友人にも会い、飲み交わしました。三宮の高架下の2階にあるそこそこディープな飲み屋をはしごして、大いに気分も盛り上がりました。

写真はたくさん撮りましたが未整理で、近々アップしようと思います。

またまた、ここから再出発いたします。




コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その38>明治神宮「内苑」

2018-04-15 22:44:10 | 東京「昭和な」百物語
明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を祭神とする大正9年創建の神社。その規模は22万坪を誇る。

鬱蒼とした木々に覆われている明治神宮を、もともとからの森林地域と思っている人も多いのだが、実はほとんどが植樹だ。

元々は肥後藩加藤家の江戸屋敷別邸だった。その後井伊家の下屋敷、御料地と変遷し、明治天皇崩御後、天皇を慕う国民からの自発的な請願で明治神宮が創建された。

全国の青年の労働奉仕で造られた。

約300種ほどの全国から集められた木々を植樹し、現在は15万本強の森林となっている。

周辺には馬場、代々木公園、競技場などがあるが、戦前は練兵場が広がっていた。その名残が馬場だ。

戦争末期の東京空襲で焼失したが、終戦1年後の昭和21年には再建に踏みだし、還座祭は昭和33年に行われた。

実はこの時に再建された本殿の屋根瓦の一枚に、ボクの名前が刻まれていた。父が寄進をしたということだった。

明治神宮には外苑と内苑がある。内苑はとても趣のある一角で、子供の頃から足しげく通った。

初夏の5月には躑躅が咲き乱れ、6月になれば思いがけないほどの起伏に富んだ菖蒲苑が紫に染まる素晴らしい景観を誇っていた。

そしてなにより、清正の井戸と呼ばれる湧水があり、その清涼な佇まいはいつ訪れても胸がスーッとする思いになった。

ほぼ毎年内苑を訪れたが、昭和63年を境にまったく足を向けていない。これといった理由はないのだが、なにか足が向かない。

10年ほど前に、清正の井戸に行きたくなったのだが、パワースポットと呼ばれるようになっていて、長蛇の列をなした女性の姿をみて、やめた。

それでも明治神宮には、なかなかの思い出があり、機会があればまた通ってみたいと思う。

躑躅と菖蒲は、一度見たら忘れられないものなのだ。
コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その37>百貨店

2018-04-13 00:31:05 | 東京「昭和な」百物語
ボクが東京に家族と移住してきた頃、東京の繁華街のランドマークはほぼ百貨店だった。

銀座には松屋、三越、松坂屋、日本橋には白木屋、有楽町にはできたばかりのそごう。東京には大丸。

白木屋は呉服店として江戸期から続く名門だった。昭和7年、火災で多くの女性が焼死するという痛ましい事件が起こる。なぜ女性が多く焼死したのかといえば、当時の和装の女性たちには下着をつける習慣がなく、高所からの救助にホトが見えてしまうのではないかと二の足を踏み、焼死したらしい。そしてこの火災を契機に、日本女性も下着(ズロース)を着用する習慣が生まれたと言われている。子どもの頃白木屋と聞くと、道を挟んだ反対側に赤木屋というプレイガイドがあり単なる赤白という対比が印象的で、記憶に残っている。いつの間にか名前が変わり、業態自体もなくなってしまった。

そごうは有楽町の再開発で誕生した関西系の百貨店だった。日本で初めて「エアー・ドア(カーテン)」、要は今で言うエアコンを導入したデパートだったと記憶している。物珍しさに誘われてその風に当たるためだけに母親と出かけた思い出がある。それまでは、どこの百貨店でも夏には大きな氷柱を通路の真ん中に設えて涼を提供していた。エスカレーターもそごうが先鞭をつけたのではなかったか? フランク永井が唄って大ヒットした「有楽町で逢いましょう」という昭和歌謡は、このそごうのコマーシャルソングとして作られた曲だった。

銀座周辺以外の繁華街も、百貨店がランドマークだった。

ボクが一番出掛けたのは新宿で、東口では伊勢丹と三越が覇を競っていた。西口には京王、小田急ができたが、伊勢丹、三越の方が格上と思われ、新宿と言えば東口がメインだった。昭和40年頃まで、伊勢丹の一角に「額縁ショー」を売りにしたストリップ劇場があったように記憶しているが、間違いかもしれない。

池袋には東口に西武、西口に東武があった。このねじれがまた面白かった。東口には三越もあった。西武の最上階の大食堂で、よくカレーを食べた。

澁谷には東急と西武があった。東急にはプラネタリウムが併設されていた。

ざっと東京の繁華街を思い出してみると、こんな感じだ。昭和40年前後までは、この図式に変化はなかった。それが昭和45年を境に、音を立てて変化し始めた。そして平成になると、百貨店そのものの凋落が顕著になり、現在でも残ってはいるものの、他のランドマークにとって代わられ始めている。

昭和を知る者にとっては、少し寂しさを感じるが、ま、やむを得ないと言うところだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その36>原宿

2018-03-19 23:02:04 | 東京「昭和な」百物語
以前にも、原宿に関しては昭和30年代の様子を書いたが、原宿が一番原宿らしかった時代は、1970年代の終わり頃、一番変化が大きな時だったかもしれない。

1970年代の終わり頃には、舘ひろし、横山剣などもメンバーだった「クールス」が246から少し入った地下(だったと記憶しているが間違いかもしれない)のバーだったかカフェだったかの「レオン」を拠点にブイブイ言わせていた。まだバイク仲間の頃には岩城滉一もいた。

1980年になると、休日になれば表参道は歩行者天国になり、竹の子族だのローラー族などが現れ始めた。竹の子族の最盛期は1985年頃だったか。

原宿が音楽と切り離せない町になったのはこの頃だ。

クールスにはロック雑誌の取材で面通しをした。レオンまで足を運んだ。

竹の子族が表立って取り上げられた頃のボクはすでに大人で、竹の子族は横眼で眺めていた。

一世風靡が登場する頃は、まさに昭和の終わりが見え隠れし始めた頃。

原宿は、それまでの明治神宮の参道という、それなりに静謐としたイメージから、真反対の町へと変貌したのだ。それはまさに昭和から平成への移行と丸被りしているとボクは思う。

周辺も「〇〇通り」などというネーミングを施されたおしゃれストリートが何本も誕生していった。

キラー通り、とんちゃん通り、竹下通り、骨董通り、キャットストリート……ちなみにキャットストリートは、元々澁谷川と呼ばれたほぼどぶ川だった。そこに蓋をして道にしたものだ。

ボクが持つ原宿への印象で変わらないものと言えば、キディーランドやオリエンタルバザールはもちろんだが、明治通りの交差点を原宿駅方面に向いて左にあるビルに掲げられていたジーンズ「LEE」の看板だろうか。今はもうないのだろうな。

それでも、一歩裏道に入れば、細い入り組んだ路地でつながる古い町並みが残る原宿。確か銭湯もあったはずだ。

若者の街のようではあるが、実は戦前から続く古い顔を持つ町でもあるのだ。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

硬貨の発行枚数

2018-02-26 00:44:31 | 気づいたこと
今年の1月から、妙にピカピカの100円玉と500円玉に遭遇している。

当然今年に発行された硬貨なのだが、これまで生きてきて、その年の発行硬貨に1月からお目にかかった経験はない。

硬貨は、予定枚数に従って発行されるのだそうだが、調べてみると今年(平成29年)は100円玉がおよそ5億4400万枚、500円玉は4億2000万枚だそうで、かなり多いかと言えばそうでもなくて、例年よりいくらか多目という程度のようだ。

金額に直せば100円玉は544億円分、500円玉は2100億円分ということになる。

それにしても、ピカピカの硬貨と言うのはなにやら胸のあたりが騒めく。新しく発行された硬貨は、取り立てて価値があるというものではないのだが、どこか銀行強盗でもして手に入れた感がある。あるいは海賊行為でも働いたか……。

なにか意味ありげで、1枚ずつ手元に残している。ちなみにボクの手元を素通りしていった今年発行の500円玉は2月25日現在で7枚(内1枚はまだ手元に)、100円玉は13枚(内1枚はまだ手元に)。

やっぱりどう考えても多い気がする。

そういう前例があるわけではないのだが……、ひょっとするとなにかの起こる前触れかもしれないなどと思ったりもする。

ま、何が来てもいいように準備だけはしておこう。……と思ったが、現金が600円じゃ如何ともしがたい。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

ゆるむ

2018-02-12 23:53:37 | 気づいたこと
寒さが、ゆるみ始めましたね。

それにしても北陸地方の降雪は、聞きしに勝るもので、わずか20㎝ほどでにっちもさっちもいかない東京の様子と比べれば、それは想像をはるかに上回る天災とでも呼べるもの。北陸の皆さんの気を引き締めて生活する様は、ニュースなどからひしひしと伝わってきました。

まだこれから先も、油断のならない寒気がやってくる可能性もありますが、東京はこの2,3日はなんとなく寒さも緩んで、それと同時にこちらの気も緩みがち。

この3連休は、文字通り緩んでました。

なにがどうということではないのですが、どことなく気が緩んでいるような、そんな感じです。

その一つの証明と言いますか、気が付けば本も読んでいないし、スマホでニュースを検索することもありませんでした。

なにか、世間とぷっつりと途切れた感が否めない。

これははっきりと緩みですね。

そう気づいたわけですから、またたった今から気を引き締めて生きることにします。

そんなこんなで、おやすみなさいませ。







コメント (2)
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その34>銀座

2018-02-06 01:18:29 | 東京「昭和な」百物語
ボクらの青春時代に、銀座周辺は欠かせないものだった。数寄屋橋や日比谷、京橋、日本橋、新橋までは、徒歩圏内で歩いて移動したものだ。

銀座の柳、もまだ残っていた。

銀座4丁目の三愛と服部時計店、三越といったランドマークだけでなく、日比谷近辺の映画館(ほとんどなくなってしまった)、文具の伊東屋などなど、別段なにをするわけでもなく歩きまわった。

昭和40年前後には「みゆき族」が出現し、みゆき通りには当時のメンズ・ファッションブランド「VAN」や「JUN」の薄茶色の紙袋を持ったアイビー共が溢れていた。ボクもその中に、少しだけいた。ニキビだらけの中・高生の頃だ。

あれやこれやあったのだが、一番記憶に残っているのは、日劇だ。映画館から劇場からストリップ劇場までそろっていた。

殊にストリップ劇場だった日劇ミュージックホールに出演する女性たちは、本気で尊敬できるダンサーだった。一番覚えているのは、アンジェラ浅丘、岬マコ、小浜ななこなどというスターたちだった。彼女たちは、踊り子と言う言葉がぴったりとはまるスターだった。田中小実昌などが、週刊誌にあれこれと書いていたのを思い出す。

ボクはまだ劇場に足を運べるほど大人ではなかったが、憧れの空間だった、憧れの踊り子たちだった。

大人になって唯一足を向けたストリップ劇場は、日劇ミュージックホールだった。日劇が取り壊される1981年までに、念願かなって2度だけ足を運んだ。

日劇ミュージックホールは、女性の裸が芸術にまで昇華した空間だった。

いまでは銀座もただの東京の一地域に過ぎないが、昭和の頃の銀座は、なにか「銀座」と聞いただけで身が引き締まるような、わくわくするような、ある種「聖地」のような、特別な地域だったのだった。



コメント
この記事をはてなブックマークに追加

阪神淡路大震災 23年目に思う

2018-01-17 18:38:39 | こんなことを考えた
以前にも書いたことだが、23年前のあの日、あの災厄を関西圏以外で最も早く知ったのは多分ボクだった。
後に全壊指定地域となった灘区に住む、義理の母からの間違い電話で、ボクは地震発生とほぼ同時に、阪神淡路大震災の起きたことを知ったのだった。

あわてふためく義母の様子から、なにか尋常ならざることを想起できはしたが、後に知ることになる巨大な災厄であったことなど、想像の埓外だった。

一週間も経ず、実際に自分の目で見ることになった惨状は、例えようもないトラウマを、ボクに植え付けた。

あれから23年。ボクの中に残り続ける固い滓がある。

そして、それはボクが宇宙に溶け込むまで、残り続けるのだろう。

いやいや、来世にまで持ち越されるかもしれない。

あの災厄は、そういうレベルのものだった。

また、1年後にそのことを強く意識せざるを得ない日がやって来るのだ……。
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

東京「昭和な」百物語<その33>宇宙

2018-01-17 18:36:23 | 東京「昭和な」百物語
「ボクら」がはじめて「宇宙」を意識したのは、1957年に打ち上げられたソ連のスプートニク2号で、はじめて地球の生命体である犬、雌のライカ犬が地球の周回軌道に乗り(二度と地球の土は踏めなかったが)、宇宙空間に進出した時だった。

その後、1961年にボストーク1号で地球を周回し「地球は青かった」の名言を残した人類最初の宇宙飛行士ユーリィ・ガガーリン、1963年ボストーク6号に搭乗し「私はカモメ(ヤー・チャイカ)」と、意味はよくわからないが印象的な言葉を残した初の女性宇宙飛行士ワレンチナ・テレシコワが、相次いで宇宙空間に進出し、帰還した。

なぜか黎明期の宇宙進出は、ソビエト連邦の記憶しかない。もちろんアメリカの宇宙飛行士も宇宙に進出していたのだが、あまり強い印象はない。名前も覚えていない。アメリカの印象はアポロ計画で初めて印象付けられた。

この1960年代における米ソの宇宙競争は、まさに夢と希望と本物の未来を見せてくれたような気がする。

両陣営の巨大な国家間のせめぎあいとしての宇宙開発競争が生み出した結果に、ボクらは一喜一憂し、開かれた宇宙へと広がる世界を、希望と夢と言う言葉で表現しさえしていた。実はそこには底知れぬ戦争戦略、戦術の具体化としての宇宙開発が存在したのだが、ボクらはただ夢を抱いて眺めていた。

もちろん日本の宇宙開発にも過大ともいえる期待を抱いていた。

だが当時の日本の宇宙進出の道具は、ペンシルロケット言われた、小さな小さな試射ロケットだった。それでもボクらは、そのロケットに大きな夢を託していたように思う。

少なくとも、大国の戦略的宇宙開発とは異なる、純粋に学術的な宇宙へのアプローチであることを、本能的に理解していたのかもしれない。

文京区茗荷谷にあった窪町小学校、杉並区荻窪にあった西田小学校に通いながら、ボクは確かに宇宙を想起していた。

ただし、宇宙は抱きかかえられるほど近くにあった。そう、週刊少年マガジンと、週刊少年サンデーの中に。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加

恭賀新年

2018-01-02 03:23:40 | 普通な生活<的>な



     恭賀新年

2018年、明けました。

新しい年の始まりです。

皆様にとって、すべからく良い年でありますよう、祈ります。

引き続きよろしくお願いします。

加藤 明=久明=普
コメント
この記事をはてなブックマークに追加

行く年、来る年

2017-12-31 02:49:58 | 普通な生活<的>な
2017年が、ゆきます。。

良い年でした。皆さんにとっては、いかがでしたか?

ボクにとっての今年の重大ニュース、特にありません。

この何もなさと言うのは、善き哉善き哉、と言う感じです。

一字に凝縮すれば、「境」でしょうか。

様々な事共の「変化の境目」の年だったという事でもありますし、なにか自分自身、境目を超えて新しい次元に飛び込んだような感覚もあります。

実は、師走に入り山崎貴監督の「DESTINY~鎌倉物語」を、奥さんと一緒に観てきました。

ボクたち夫婦は、映画は好きですが、それほど映画館に足を運ぼうという気にはならない夫婦で、一緒に観に行った映画は、片手で収まる程度です。

でもなぜかこの「鎌倉物語」はボクから誘って観に行くことにしましたが、奥さんも観たいと思っていたそうです。

妖怪と共にある鎌倉の日常という物語の荒唐無稽さに、まったく違和感を感じることもなく、また、ボクたち夫婦が送っている日常と少しも遜色がないことに驚きつつ、楽しく観終わり、にこにこと家路につきました。

この映画を観たことも、今年の一字が「境」になった遠因でしょうか。

小栗虫太郎に「人外魔境」という秘境探検小説がありますが、2017年に再読しました。それも「境」の一字を想起させる遠因であったでしょうか。

なににしても、今年も多くの皆さんにブログを通してコンタクトできたことを感謝しつつ、2018年を迎える準備を、したいと思います。

ありがとうございました。

新年のご挨拶は、改めて。

コメント
この記事をはてなブックマークに追加