普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

生井秀樹写真展開催中❗️

2024-07-26 07:52:40 | 生井秀樹
お久しぶりです。生井秀樹が亡くなって3年、生前から生井の表現をヘルプし続けていた大西さんが、生井秀樹写真展開催に尽力してくれました。

8月4日まで、高円寺ORIENTAL FORCEにて。

詳しくは、フライヤーを見てください。

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生井が亡くなって3年が経った

2024-06-17 14:22:23 | 生井秀樹
2021年6月15日、生井の命日。

あれやこれや書くことももうない気がする。

生井は宇宙に溶け込んだ。それが分かる。あとは新しい肉体を探し出して、もう一度この娑婆世界に生まれ変わってくればいい。まだ別の世界に行くということはないと思う。まだ修行が足りない。早く逝き過ぎだからな。

それがいつのことになるのかは分からないが、楽しみに待つとしよう。

また、ボクの写真ストックに新しい写真が見つかった。

アップしておく。いい顔してるよ、本当に。ちょい気取り気味だけどな。
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東京「昔むかしの」百物語<その77>こんなことしてたか!

2024-03-31 16:51:08 | 東京「昔むかしの」百物語
3カ月ぶりの投稿は、昭和のボクの生業の話。

昭和45(1970)年前後、ボクは芝居の世界にいたが、いかんせん当時は芝居では暮らしていけなかった。

そんなこんなで、声の仕事をしていた時期があった。つい最近、昔の写真を漁っていたら、この写真が出てきた。その頃のボクを切り取った一枚。右から3人目がボク。スカした(これもとんでもない死語だな)野郎だった。仕事も仕事だし、スーパーで買い物する奥様相手ということで、こんな格好をしていたのだと思う。時代だなぁと思う。

金鳥というメーカーが、化学雑巾と称して水を使わない当時としては画期的な不織布の紙雑巾を発売、そのラジオキャンペーンを担当した。

TSというそこそこに大きな広告代理店の仕事で、毎週各地のスーパーや百貨店(いかにも古いな)に出向いて、ライブ(のような体)で、その場にいるお客を相手にサッサを使ってもらい感想を引き出し、最後に「サッサで一言でした」で、締めるというキャンペーン。3カ月くらいやったかな。

当時はこの類のCMが結構あって、シャンプーだったかのテレビCMで石坂浩二が出演していたものが大人気だった。そのラジオ版といったものだった。

写真の通り、車でディレクター、キャンペーンガールの皆さんとワイワイ出かけては、約2時間程度の実働で5万円位のギャラだった記憶がある。良い時代だった、と言うしかない。

この時のディレクターが、東雲(しののめ)さんと言う方で、ボクはこの漢字の読み方を、その時は初めて知ったのだった。



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新年のご挨拶 2024

2024-01-01 16:46:33 | 普通な生活<的>な
2024年が明けました。
喪中につき、めでたいご挨拶は遠慮いたします。

それでも、新年は明けます。いま、地震の揺れを感じましたが、北陸地方が大きく揺れ津波の心配があるとのこと。激動の年の開幕とはいえ、なにも地震から始まらなくともと思ってしまいます。

北陸、日本海側の皆さんの無事を祈ります。

本年も、自分自身の可能性を自覚し、本ブログを継続してまいります。

引き続きよろしくお願いいたします。

2024 元旦
加藤 
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東京「昔むかしの」百物語<その76>立川という町 南口編

2023-11-03 21:38:47 | 東京「昔むかしの」百物語
立川駅北口の話を、前回したわけだがまだまだ言葉足らずで言いきれていないが、今回は南口に目を向ける。

正直、昭和・平成前期の立川南口はごちゃごちゃとした飲み屋街と、なにか猥雑な感じのする一帯の広がる未開発の地域だった。これといっためぼしいビルもなく、小口の雑居ビルがいくつかある程度で、他は小さな商店が軒を連ねていたような印象がある。

まぁ、あくまで印象で記憶が挿げ替えられているかもしれない。ただ、20年ほど前に何年間か地域のローカル新聞の取材記者をしていたことで、なぜ南口が北口のように再開発されずにいたのか、その理由はわかっている。

とても簡単な話で、まとまった土地の地権者がおらず、ほとんどが小口の地権者であり、それぞれの思惑から再開発が進まなかったということで、現在のような景観はやはり、モノレールの敷設を契機にできあがったものだった。

南口を降りると、駅前から飲み屋があり、多くのサラリーマンが管をまく光景が日常茶飯事だった。そして特筆すべきは立川の競輪場が北口側にあり、市に莫大な財政的バックアップを与えていたのだが、その車券が外れた競輪ファンが、南口の飲み屋に足を運んだ。買った連中は北口側で飲んだ。要するに、南側の飲み屋の方が安上がりに飲めたわけだ。

その棲み分けというか区分けは、今でも残っている印象だ。

そして南口には、もう一つの顔があって、それが極めて特異なものだった。それは柴崎町側に広がっている(いまでもまだ残っているが)真如苑という新興宗教団体の存在だった。今では主だった祈祷施設は北口側に移動しているが、全国に勢力を広めた真如苑の本部は昭和30年代から柴崎町の諏訪神社に隣接してあり、多くの信者が立川駅南口を闊歩していた。昭和の頃は町を挙げて真如苑をサポートし、町ぐるみ真如苑という印象だった。その代わりと言っては何だが、真如苑の信者が決まった日時の早朝から、立川駅南口周辺の掃除をやっていた。それは立川駅南口の風物詩的な捉えられ方までしていた。

実を言えば立川駅南口は、それしかなかった。そう言い切ってもいいエリアだった。
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東京「昔むかしの」百物語<その75>立川という町、まず駅北口

2023-10-27 17:51:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和の頃、よもや立川で暮らすことになるとは思ってもいなかった。

とはいえ7~8年の間、川を越えた日野に住んでいたから、それほど意外なことでもなかったのだが、平成になってすぐの1993年だったか、立川の北のはずれの現住居に移転した。乗降駅の駅前には一軒、当時の感覚では「万屋」的なコンビニがあるだけで、駅前だけでなく自宅の半径1キロ以内にはマーケットも食べ物屋も全くなかった。車がなければ生きられない辺境の地という印象だった。そこで唯一嬉しかったのは、自転車で一走りすれば国営昭和記念恩賜公園をまるで自分の庭のように散策できたことだ。それ以外は、不便この上なかった。

今でこそ立川を代表する国営昭和記念恩賜公園だが、その頃は、まだできたばかりで訪れる人もあまりなかった。現在は整備されて公園に沿って立派な南北道路が走っているが、当時は米軍から返還された土地だったにもかかわらず未整備で、不思議な景観の野原だった記憶がある。

JR立川駅はそこそこの地方都市的賑わいがあった。ただし北口方面だけ。駅ビルは、確か「WILL」と言っていた記憶があるが、いつのまにか「ルミネ」になっていた。北口に出て西側には老舗の第一デパートがあり、道を挟んで髙島屋があった。中央通りの東側には伊勢丹があり、FROM中武もすでにあった。丸井もあった記憶がある。百貨店の屋上には当たり前のように遊具施設が並び、大勢の親子連れで賑わっていた。

北にワンブロック歩くと川が流れていて映画館が何軒か並んでいた。

その辺りまでは、割合に地方都市然としていたが、シネマストリートと呼ばれた辺りはどこか青線的なイメージが残る一角だった。狭い道の両脇にバーなどの飲食店が軒を連ねていて、戦後の米兵相手の飲み屋街といった風でさびれているがモダンな印象もあった。伊勢丹やFROM中武の裏手も、飲み屋がひしめき合っていた。

今のようなペデストリアンデッキができたのは、平成になってだいぶ経った頃。多摩都市モノレールが開通したのと同じ頃だったと思う。その頃から一気に今の立川のように少しあか抜けた街になっていったと思う。放置されていた米軍から返還された土地にも開発の手が入り、多くの公共施設が建ち並ぶ副都心的な景観に様変わりしていくことになる。
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世界線が微妙にずれ始めているような気がする

2023-10-26 18:32:39 | 普通な人々<的>な
皆さんは、何かこれまで自分の生きてきた歴史というか世界の在り様と、なんとはなしに違う次元に移行したのではないかと感ずることはないだろうか。

最近のボクはその思いが強い、というか実際になにか「ずれ」てきているような気がして仕方がないのだ。

例えば、分かりやすいところでは漢字だ。

ボクの若い頃というか、当然のように当用漢字を学び、少し古い書物などで戦前の漢字の使われ方、あるいは使われていた旧字を学ぶなどしたのだが、例えば饂飩で使われる偏は「食」であり、決して「𩙿」ではなかった。ところが今はいつの間にか餃子の偏も「𩙿」になっている。まだある。「辻」は一点「しんにゅう」だったはずなのに、二点「しんにゅう」になっている。校正の仕事をしていると、気になるというより気にしなければいけないわけで、戸惑うのだが、最近はそれほどのことではないらしい。名前ならいざ知らず、「高」という字も「髙」と混用されている。

以前にどこかで書いたが、お金に関しても不思議な気分になることがある。今では電子マネーが一般的になっているようだが、電子マネーを支える根拠が、ボクにはどうしても理解できない。紙幣や硬貨などの貨幣には金本位制というれっきとした根拠があるわけだが、電子マネーの根拠がボクには見えない。ビットマネーに至っては、昔昔に犯罪として摘発された「円天」と何が違うのか、まったく分からない。当時「円天」は疑似通貨と呼ばれ、とんでもない金融犯罪扱いだった。

こうした「事」もそうなのだが、「人」が激変していることに、ある種の違和感を覚えざるを得ない。誰もがしたり顔で、笑顔で、SNSなどに登場する。ニュースの街頭インタビューなどは、違和感を感じる最たるものだ。聞かれていることと答えの妙な乖離。

社会的な側面で言えば、他人を注意することもできない極度のコンプライアンスの重視も、気味が悪い。

それはそれでいいのだろうが、ボクには違和感しかない場合が多い。今の世界は、違和感を感じるボクが違和感の元なのかしらんと時に思うこともある。

世界はボクにとって、生きることの意味を教えてくれるハズのものだったが、最近はロシア×ウクライナ、イスラエル×イスラム過激派などの対立軸から漏れてくる発言を聞いていても、あまりにカオスでまったく理解できない。和平が訪れる気配も感じられない。

まぁこれは、ボクが阿保なのかもしれないが。
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三回忌

2023-07-04 00:38:08 | 普通な人々<的>な
6月15日が、生井秀樹の三回忌だった。

生井と所縁のある人が集まって、三回忌を営むという連絡があった。

諸々の理由が重なって、残念ながらボクは参加できなかった。

だが、三回忌の数日前に、ボクは生井の夢を見た。それも二日続けて。

一日目は、なにか空港のラウンジのようなところで、生井のお別れ会に参加していた。どういった趣旨のお別れ会かと言えば、生井は「そろそろ旅立つ。あちこち行こうと思うがもう戻らない」と言うのである。

「もう戻らない」という言葉は、様々な意味でボクに迫ってきた。その時ボクは「あぁ、生井は記別を受けて成仏するのだな」と理解した。

生井は少し寂しそうな顔をしたが、「まあ、これで終わるわけでもなし」と言った風に、笑顔を見せた。

もちろん様々な出来事がありはしたのだが、覚えているのはこの件りだけだ。一日目はそれで終わり。

二日目は、階段を昇っていく生井の後姿を目で追っている自分視点の夢だった。

階段と思ったのは、ひょっとすると飛行機のタラップだったかもしれない。生井はその階段の先にある箱のようなものに乗り込んでいった。最後に振り返り左手をひょいと挙げて箱の中に消えた。

きっと生井は無明に至り、やがて新たな生を受けて、ボクの生活圏のどこかに生まれてくるのだろうなと思った。

ボクの生活圏というのは、ひょっとするとボクの来世での生活圏ということなのかもしれない。

だから、今世に出会ったようなまた新たな出会いがあるのだろうと思う。

あの夢が、今世での生井との最後の別れだったのだろうと思う。

そう思おうと思う。

在りし日の、生井。さらば。




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80万アクセスです。もちろん10数年がかりです。

2023-05-25 16:20:56 | 普通な生活<的>な
ありがとうございます。長い間、投稿することもなく、ただただ放置していたのに、いつの間にか80万アクセスを記録していました。

本当にありがとうございます。まだまだ、続けます。間は空くかと思いますが、まだまだ続けます。
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東京「昔むかしの」百物語<その74>渋谷

2023-05-25 15:31:39 | 東京「昔むかしの」百物語
渋谷は、おしゃれな街だった。昔からおしゃれ。

かの有名なスクランブル交差点は昭和48年頃にできたと思うのだが、その頃にはあちこちに同様の交差点があり、それほど話題にも上らなかった。

それより、渋谷にはかつて駅前にどぶ川が流れ、ロープウェイがあったということの方が驚きだ。

渋谷にはよく行った。国電はもちろん、都電でも荻窪から新宿、新宿から渋谷と乗り換え出かけた。トロリーバスでも行った。

昭和50年代になるとNHKには取材でよく出向いた。ジャンジャンというライブハウスが西部の裏手にあった。シャンソンや浅川マキをよく聴きに行った。

急な階段を昇るLIVE HOUSE屋根裏ではよく羽目を外した。頭脳警察の解散ライブも屋根裏だった。

東急ハンズができて、話のタネに見に行った。PARCOができてやはり話のタネに出掛けて行った。

今はなくなってしまったが東急本館も地の利は良くなさそうだったが、なにか孤立感が半端なく逆によく行った。

忘れられないのが、東急のプラネタリウム。よくできた天体観測施設だったよな。なんということもなく夜空を見に出かけた。

個々の飲み屋や飯屋には言及しないが、イタ飯屋から立ち食いソバ屋まで、雑多にあって飲み食いには不自由しなかった。

そうそう。京王井の頭線が良かったな。短い路線だけれど、なにか気分の良い路線だった。渋谷~吉祥寺という流れがボクにはマッチしていてよく乗った。

神泉にはうまいスパゲティー屋があった。

渋谷はこんな感じの箇条書きでしか表現できないかな。




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東京「昔むかしの」百物語<その73>思い出横丁

2023-05-25 14:07:35 | 東京「昔むかしの」百物語
その昔、今インバウンドで海外の旅行客が溢れる新宿「思い出横丁」を、ボクらは様々な思いを込めて「小便横丁」と呼んでいた。

戦後すぐの頃は「軍隊キャバレー」なる風俗店があり、新宿から大久保方面の車窓から派手な看板が見えていて、昭和の中頃まで存続していて、客は女性従業員に敬礼しながら酒を飲んでいた。なんのこっちゃよく分からないが、太平洋戦争を良しとする多くの客でにぎわった。聞いた話では彼の地は安田組というやくざ組織が関与していた一帯だったという。

小便横丁という名の由来は、トイレなどない一帯(あるにはあったが行くのが面倒だった)で、線路沿いの壁に誰も彼もが立小便をしたことが由来と理解している。

ボクがこの辺りに出没していたのは10代の終わり頃から20代の前半だったが、今でもあると思うが「菊屋」や中通り沿いの2、3件ほどの一膳飯屋と飲み屋だった。「菊屋」は、当時飲みなれなかった焼酎を飲んで、のべつ飲みつぶれていた。

既に安田組などのやくざの影響力は薄れていたとは思うのだが、それでもボクの知る東京のダークゾーンの一つだった。他には歌舞伎町、センター街、ゴールデン街、池袋の西口裏や、渋谷のセンター街、東の線路沿いの一帯などなど。なにせ、ダークゾーンこそが最高におもしろかったから。

ボクの出没していた1970年前後には、まだヒロポン(今でいう覚醒剤だが、錠剤で売っていた時期があったそうだ)中毒の親父や、今でこそ普通に売られている戦後闇市のホッピーやカストリ焼酎、電気ブランなどという、言ってしまえば代用アルコールの類で酔っ払った親父たちがゲーゲーと吐き戻しながら飲んでいた。

あの頃は、「アウトローしか勝たん」と言うような時代だった。ボクもまたアウトローには憧れた。

こうした一帯は、戦後の闇市がベースになっていて、その闇市は前述したような安田組、和田組などの的屋が統括していた。やがて、その一帯に三国人(この言葉もいまでは差別用語なのだろうが、日本に居残った朝鮮人、中国人、台湾人をそう呼んだ)のアウトローが進出し、歌舞伎町などでも日本のやくざ、中国系のやくざ、そして韓国系、ベトナム系の闇組織と、統括勢力が変わっていったという。今はどうなのか知らない。聞くところによれば、歌舞伎町を追い出された組織は、立川、八王子へと都落ちしたとかしないとか。

思い出横丁を通るたびに、あの頃を思い出す。店の佇まいは変わらないのだが雰囲気はまるで別物で、危険な香りなど一つもない。聞こえてくる呼び込みの声もどこか中国なまりがある。そういう意味では別の危険な香りがするというのは、言いすぎかな。
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何年振りかで、新宿歌舞伎町に行った

2023-05-04 23:51:42 | 普通な生活<的>な
5月3日。娘夫婦と出産準備で新宿に。出産と同時に新居に引っ越すということで、クーラーなどの家電を買いに出かけたのだ。それはそれとして。その脚で歌舞伎町に出向いた。
もう何年も歌舞伎町には足を踏み入れていなかった。行く用事もなかったのでおそらく20年はくだるまい。

ゴジラが顔をのぞかせるTOHO BILDINGと、KABUKICHO TOWERという高層階ビルが建っていた。ボクの知っている歌舞伎町とは、まるで別の世界がそこにあった。

昭和の時代。歌舞伎町はアウトローの生息するエリアだった。地回りのやくざが幅を利かせ、一般客はおそるおそる飲み屋の扉を叩いた。歌舞伎町を象徴したのはコマ劇場とミラノ座だった。そこは今も変わらないのか、コマ劇場跡がTOHO BILDINGに、ミラノ座跡がKABUKICHO TOWERになっていた。

昭和の時代。歌舞伎町は表向きは芝居と映画と音楽の街だった。ただ、夜の歌舞伎緒は昼間と一変、男と大人のための歓楽街に変貌した。

名物の一膳飯屋も、人気のスナックも、こじんまりとしたライブハウスも劇場も、それはそれは魅力的で、ボクは何度も小さな劇場で芝居をした。ボクらが芝居をしている小屋の上層階では、まだ売れる前の「レディ・ジェーン」のつのだ☆ひろが、ライブをやっていたりした。

ある時、いつものように気心の知れたカップルと、ボクと彼女の4人で酒を飲み夜中近くなった。その日はカップルの旦那のライブがあって、その打ち上げを4人でやったというわけだ。4人とも帰る方向は同じで、新宿通りに出てタクシーで帰るつもりだった。

歌舞伎町をふらふらと4人で歩いていると、地回りのチンピラ3人と絵に描いたように肩がぶつかり口論になった。酒を飲んでいるせいもあって強気のボクは、チンピラを怒らせるようなことを言ったのだろう、暴力沙汰になりそうな気配が漂った。女性2人を先にその場から遠ざけ、男2人でさも「やったろうかい」といったそぶりを見せて、次の瞬間、脱兎のごとくその場から逃げた。

酔っている割には、素早く逃げおおせた。おおよそ歌舞伎町を半周するほどは走ったろうか。タクシーをみつけ、飛び乗って帰った。他の3人もうまくその場を切り抜けたと後で知った。彼女にはしこたま怒られた。「私を放っておいて何をしているのだ、あなたは」というわけだ。

歌舞伎町の思い出は、この話以外にも腐るほどある。

5月3日に足を踏み入れた歌舞伎町は、おそらく走ることなどできないほどの人の波。まあ、走ることもないだろうが。

こんな昔話をしても、誰の耳にも届かない時代になったということだけは、はっきりしている。
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孫しか勝たん

2023-03-26 22:00:23 | 普通な人々<的>な
2022年の9月に、息子夫婦に男の子が誕生した。孫はかわいいと、世間では通説になっているのだが、なぜか本当にかわいい。

ボクは元々子供が好きな方だと思う。電車の中で母親に甘える子供を見たりすれば、「あぁ、愛らしいな、かわいいな」と目じりが下がるのだが、孫は、もう比べものにならない。かわいらしさの度が違うのだ。他の子供がどれほどかわいらしかろうと愛らしかろうと、モデルにでもなりそうな美形の子供であろうと、孫と比べれば月と鼈なのである。

時々、息子夫婦が今住んでいる神奈川県のK市まで夫婦で遊びに出掛ける。息子夫婦が夫婦だけで出かけたいと言えばこれ幸いと孫に会いに出かける。

昨日も孫に会いに出かけた。7カ月になった孫は、早くも歩行器で家中を歩き回っている。その歩行器も、ジジババが買ったものだ。それほど高い買い物ではないが、あれやこれやと結構買わせてもらっている。惜しくもなんともない。「君の役に立つものを買わせていただいて、ありがとう」ってなもんだ。

本当に、孫しか勝たん。息子や娘が幸せに暮らしてくれることが老夫婦の望みであり、孫はそのバロメーターのようだと思う。子供に対しては何か言おうかなと思う場面もある。だが孫にはそんなことは1㎜たりとも思わない。ただ元気でいてくれればいいなとしか思わない。

新たに孫が、この夏娘夫婦に生まれる。あぁ、なんと嬉しいことなのだろうと思う。忙しくなりそうな気もするが、それはそれで嬉しさの方が勝る。

本当に、孫しか勝たん孫が二人になる。孫孫しか勝たん勝たんだ。
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東京「昔むかしの」百物語<その72>明治神宮

2023-03-22 23:08:19 | 東京「昔むかしの」百物語
明治神宮は、遊び場だった。叔母の家が代々木の北参道(後に表参道に転居)にあって、小学生の頃は毎週のように明治神宮で遊んでいた。

明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする、1920年の11月(明治天皇の崩御後)にできた比較的新しい神社で、なにより他の神社と異なるのは、あの鬱蒼とした森が実は、植林によってできた人工の森であるということだ。全国青年団の勤労奉仕で造苑整備されたものなのだ。

元々は肥後藩主であった加藤家(加藤清正公!)の別邸だった。神宮の内苑と呼ばれる一角には「清正の井戸」と言われる湧水が今でも滾々と湧き出している。

明治神宮は終戦間際の空襲で焼失している。戦後の昭和33年に再建されたが、創建時と同じように国民の浄財を原資に再建された。屋根瓦の1枚には、ボクの名が刻まれていると、幼い頃亡父に聞いた。

そんなこともあって、僕は明治神宮が好きだったのだ。

内苑の躑躅や花菖蒲の季節には、決まって出かけた。見事な花々とその庭園美は幼心にも常に鮮烈な印象だった。

ボクのもう一つのお気に入りは青山練兵場跡の馬場で、馬を見ることだった。それと絵画館(あそこも外苑に含まれるらしい)で、日清・日露戦争を描いた絵画(だったと思う)を見ることだった。

明治神宮にまつわる話は、文化の日や正月の初詣の表参道の賑わいなどについて書いた記憶がある。原宿駅の御料列車(御召列車)のことも書いた。

最近では明治神宮もそれほど宗教施設としての認識もないようだが、ボクにとっては殊更に遊び場であって初めから宗教施設などではない。だが、ある種の静謐とした空気感は、他では感じることのできないものがあった。それも原宿と言う流行の最先端を任ずる都会の、真っただ中にあることが、不思議でならない。いや、不思議と言うより奇跡のような気もする。

それはそれとして、ボクにとって明治神宮は、今ではない。幼い頃の思い出として、大きな存在だ。

時として訪れたいと思うのだが、なかなか足が向かない。近いうちに足を運びたいと思う。どうせなら躑躅や花菖蒲の季節が良いかなと思う。もうじきだ。

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お久しぶりです。こちらは元気です

2023-03-21 23:23:35 | こんなことを考えた
また3カ月のインターバル。2023年も、あっという間に4分の1が過ぎようかという春のとば口。

桜も早々と開花宣言。今週中にも満開を迎えようかという塩梅。

なんの脈絡もなく、突然ブログを書きたいと思いついたのがつい5分前で、いまこうして言葉を紡いでいる最中。

音沙汰を発することのなかった日々は、それはそれでなかなか楽しい日々で、奥さんと旅行に行ったり(2023年になって2度も温泉旅行にいっているわけで)、日々の仕事もそれなりにこなして、健康もさほど悪化する兆しも見えず、健康と言えば健康。

息子には2022年の秋に息子が誕生し、娘にも今年の夏に子どもが誕生するという喜ばしい招福万来的な日々。

2023年は、このブログで書いてきた「東京『昔むかしの』百物語」を書き切ろうと決意している今。

本当は、ここで<その72>を書こうと思ったのだが、残念ながらモチーフが浮かんでこないので、明日に。

また少しずつ、この楽しい時にわが身を溶け込ませ、思いを書いていこうと思う。

またぞろ、よろしくお願いします。

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