普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

お久しぶりです。

2021-08-17 22:53:07 | 普通な人々<的>な
生井ちゃんロスは、思ったよりずっと大きかった。
なんだか、少しも楽しくない。やる気が起きない。悲しいというのではない。だが、気怠い。

初めは生井ちゃんロスとは思わなかったが、どう考えてもそれしか思い当たらない。

自分の誕生日である7月12日は、家族が祝ってくれた。大いに飲み食いして、楽しかったが、家族以外の人とその喜びを共有する気にはならなかった。

そうこうするうちに、体調が思わしくなくなった。腹の具合がどうもおかしい。

それが1か月近くも続いた。いよいよもって家にこもらざるを得なくなった。

八月はなんとか力強くと思ったが、身近にコロナ陽性者が出現し、その状況は継続中。

断っておくが、生井ちゃんロスと言っても、生井ちゃんがボクを誘いに来ているわけではない。
これは本当に、自分自身の気分の問題なのだ。

今は、ただただ高揚感が欲しい。
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東京「昔むかしの」百物語<その70> 広告の形 2

2021-07-04 14:12:55 | 東京「昔むかしの」百物語
以前に、昭和の広告の形という原稿を書いたが、一つ忘れていた。
技法や技術的な広告の形として、空の広告を取り上げたが、実は地上にまごうかたなき広告の最高度の表現形態があった。

チンドン屋さん。

今でも活躍するチンドン屋さんはいるのだが、昭和20年代から40年代にかけては、どこの町の商店街にもチンドン屋さんはいた。

数人の編成で、鳴り物をライブで演奏しながら街中を練り歩く。商店街のセールは言うに及ばず、映画館の出し物の交代時期や、パチンコ屋、新装開店の店があれば、いつでも彼らの名演奏を聴くことができた。

ボクたちは、ハメルーンの笛吹き男を追った子どもたちよろしく、どこまでもチンドン屋さんの後を追ったものだ。

鳴り物の編成は、チンドンという通り、いなせな遊び人風のいでたちをした(という印象が強い)打楽器奏者が大小の和太鼓を縦に並べたチンドン太鼓に、摺鉦(四助といったような気もする)という鐘を「こんこんちきちんこんちきちん」と鳴らし、それに加えて鳥追い姿の三味線(これも記憶の中の印象)、ピエロの格好(こちらも同じ)をしたクラリネットやサックス、たまにはフィドルなどもあり、和洋混交の編成で、それはそれは目も耳も楽しませてくれるパフォーマンスだった。一人はクライアントのお店の名前やセール品目、日付などを大書した旗指物を振ったり、体の前後に看板をぶら下げたりしながらビラを撒く役目だった。

そして、一番よく演奏されていたのは哀調溢れる田中穂積の「天然の美」ではなかったか。単に思い込みかもしれないが…。曲目はわからないが元気の出る曲も多かったと思う。

チンドン屋さんの存在感は、子どもの頃に見たサーカスとなぜかダブル。それはピエロがいたからというだけでなく、なにか「天然の美」という曲の印象や、圧倒的な非日常感が近似で、心のどこかに刷り込まれて忘れることのできない感覚としてあるのだ。

今度チンドン屋さんに遭遇することがあれば、子どもの頃のようにしばらく後を追ってみたいと思う。
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東京「昔むかしの」百物語<その69> なるようになる~Que Será, Será~

2021-06-27 15:03:42 | 東京「昔むかしの」百物語
1980年、ボクはカメラマン・生井秀樹氏とデザイナー・唯野信廣氏との3人で事務所を立ち上げた。事務所といっても、当時住んでいた荻窪のマンションの一室を、それらしく改装しただけのものだった。

生井氏と唯野氏は、それまでボクが編集者として携わった仕事を共に協働してくれたどちらも信頼に足る盟友であり、友人だった。ボクが営業して仕事を取り、テキストはボクが担当し、写真は生井氏、デザインを唯野氏が担当した。

雑誌のページはもちろん、レコードジャケットや、アーティストのコンサート・パンフレットなど、結構それらしいものを製作し、そこそこに皆に喜んでもらったが、長くは続かなかった。

それというのも、2人は自分の仕事にプライドがあり、ボクが期待したほどに営業的な戦力にはなってくれなかったのだ。2人をよく知るボクも、端からそれほど期待はしていなかったが、斯く言うボクも営業は大の苦手で、いつの間にか事務所を維持するほどの仕事を獲得できなくなっていったのだった。

結局2年も持たずに、事務所は元のようにボクの居室になった。

それでも仲違いをするでもなく、ボクたちは良い友人であり続けた。それはついこの間まで続いた。

昭和という時代は、何度か書いたかもしれないが自由度の高い時代だった。お金の為というより、やりたいことをやりたいという思いが強かった。

だから、たとえ事業に失敗しても、「Que Será, Será」だったのだ。とりあえずやりたいことをやったから、「ま、いいか!」といった感じ。それは、言葉を変えて言えば、明日には明日の仕事が必ずあると、確信できる環境だったからだ。つまり、社会はそこそこにうまく回っていたのだ。

バブル前は、どこか社会が健全だったように思う。人が生きることのできた時代であり社会だった。

やがて社会はバブルに突入し、優先順位は思いより金の方が高くなった。社会は浮かれ倒していたが、バブルがはじけた瞬間から、生きるためには完全に金が最優先の社会構造が作られていった。

その流れに乗り損ねたのが、ボクと唯野氏。生井氏は仕事柄流れに乗るもくそもなく、くる仕事は拒まずのスタンスで、良い仕事をし続けていた。

年を経るとともに、ボクを支えてくれていた人たちは引退し、仕事の一線から姿を消していった。ボクも唯野氏も生井氏も、取り残された老人めいていった。

今年に入って唯野氏の訃報を聞いた。この10年ほどは良い話を聞かなかった。酒が唯野氏の唯一のマイナス点で、結局酒が彼の命を縮めたようだ。

そして、生井氏の訃報は6月15日に聞くことになった。闘病に入った経緯もすべて知っていたし、余命を宣告されていたのも知っていた。それでも急だった。

ボクは、元気だ。もちろん体力の衰えはある。仕事や人間関係での精神的な部分でのもろもろの喪失感もある。だが、すこぶる元気だ。

かつての盟友は、もういない。だが、彼らを背負ってもうひと花咲かせようと思った。

それこそ「Que Será, Será」の思いで。

なにをするかは、だから、これから考えることにする。
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生井秀樹カメラマン

2021-06-15 22:29:06 | こんなことを考えた
45年以上、ボクが信頼し続けたカメラマン、生井秀樹氏が亡くなった。

カメラマンとしてはもちろんだが、長きにわたり数少ない友人の一人として接してくれた、掛けがいのない存在だった。

ロックが好きで、繊細なくせに豪放磊落を気取り、いつも少しにぎやかな場を好んだ。

初めて会ったのは、ボクが25歳の時だった。マネーライフという雑誌の編集者とカメラマンとしての出会いだった。
思い出せないくらいたくさんの仕事をした。

ボクがロッキンFという音楽雑誌の編集者に転身し、音楽関係の写真を依頼すると一も二もなく手助けしてくれた。
彼の写真はモノクロにハードエッジとでも言える大きな特徴が表れていて、読者に大きなインパクトを与えた。
中でも、日本のニューウェーブシーンを席巻したP-MODELの写真は、ライブもアーティスト写真も、すべてを生井氏に依頼した。

そんなこともあってか、ボクが音楽と無縁の仕事を始めてからも、生井氏はP-MODELの写真を撮り続け、それはついこの間まで変わらなかった。

ボクが新星堂の仕事を始めた時も、写真は生井氏にすべて依頼していた。矢沢永吉のポスターも、生井氏に撮ってもらった。評判が良かった。

音楽関係の仕事は、昨日まで生井氏に頼んでいた。ライブがあれば連れだって出かけた。中島みゆきの夜会まで一緒に出掛けた思い出がある。

もう、それもできない。何かが欠落してしまったような気分だ。

今年の初め頃から体調を崩していたが、これほど早い別れの時は想像もしていなかった。

コロナ禍で、別れを告げることもできない。だが明日、無理を承知で会いに行こうと思う。

多分、遺体安置所。

もう一人、日本のトップ芸能記者だった江原氏と三人で、定期的に飲んでいた。サイゼリアが定席で、浴びるほどワインを飲んだ。ひょっとすると、あれが良くなかったのかと、ふと自責の念が沸き起こる。

いやいや、楽しかった。だからそんなことはないと思いたい。

そんなことはない、と今日の夢にでも出てきて言ってくれないか、生井秀樹よ。

合掌。


在りし日の生井秀樹カメラマン
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東京「昔むかしの」百物語<その68>象のはな子

2021-06-10 17:15:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和20、30年代、日本中にアジア各国から像が寄贈された。

太平洋戦争の敗戦から10年も経たずに日本の子どもたちに喜んでもらいたいという、アジア各国からの信愛の使節だった。

子ども心に、日本は世界(アジア)から好かれているのだなと思った記憶がある。

戦中の日本が、アジア各国で悪行を行ったという風説からは、想像もできない日本への信愛の情溢れる事実だ。

ボクの子どもの頃は、上野恩賜公園の動物園と、井の頭公園の自然文化園に像がいた。井の頭文化園の像は、タイ生まれのはな子といった。それまで上野動物園にいたが、井の頭に引っ越した。上野には確かインドから来たインディラという象がいた。当時のインド首相ネルーの娘さんの名前だった。

はな子は、二度の事故で二人の飼育員を死なせている。そのせいで殺人象と言われたこともある。



この写真は、ボクが小学1年生の遠足の写真(だと思う)。手前の白い帽子がボクだが、奥にいる像は記憶は定かではないが、多分井の頭のはな子だ。リンゴを投げてはな子が食べてくれたのを覚えている。

ボクは象が好きだった。見ているだけで心がほっこりした。なぜだろう?

そういう意味では、アジア各国が日本の子どもたちのためにと像を寄贈してくれたことは、少なくともボクに関しては、アジアの人々の思いのままに受け止めていたことになる。

ボロボロになったアルバムを眺めていたら、こんな写真が出てきた。当時のわくわく感が心の奥底から湧きだしてきた。

65年などという月日は、まるでなかったかのようなものだと思った。

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父・加藤千代三の短歌 7

2021-05-11 15:19:33 | 父・加藤千代三の短歌
くれていく 雲のうごきの おごそかよ
片空かけて 晴れていくなり


前回紹介した2首とは、趣が変わる1首。同じ時期の作品だ。19歳というから1925(昭和元)年頃の作品と思われる。

次から紹介する数種の端書に、こうある。
「潮音を去ってから作歌をはなれてしまった。折にふれて浮かんでは消えていったものは多い。以下はそのときどきに、どこかの隅に書きつけていたものである」
ここでは内1篇だけ紹介する。冒頭の歌とどこか対比できる歌のように感ずる。

夕あかり まさに消えつつ 西空の
雲ひとひらの 赤のきびしさ
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東京「昔むかしの」百物語<その67> 少し角度を変えて、音楽

2021-05-11 09:39:07 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクにとって、音楽が生活の一部だった時期もあったが、今となっては寸毫も生活とは関係がない。そういう意味でいえば、純粋に個人的な好き嫌いで音楽を聴ける環境にあるといって良いのだが、昔のように、音楽に対してそれほどの意味を感じることがない。

昔むかし、ボクにとって音楽が生活の一部だったのは、1970年代=昭和の後半にあたる。音楽雑誌を作っていたということはもちろんのことだが、それだけではなく、音楽に大きな可能性と意味を感じていたのだ。簡単に言えば、音楽は世界を変える可能性すら秘めた、変革の道具とさえ思えたのだ。

1960年代後半から80年代前半の約20年、昭和40年頃から60年頃までが、ボクにとって音楽は生活の一部だった。毎日のように歌い、ギターをかき鳴らし、自分の表現欲求を満たしていた。そして他の「彼ら」の歌や音に、耳を傾けていた。

海外からは、驚くほど斬新で革命的と思えるほどの音楽が、毎日のように姿を現し脳髄を刺激した。フォークという潮流が現れ、ロックへと移行していった。そしてそれは、世界の政治動向とまったくリンクしていた。

今の音楽とは違って、当時の音楽は確かにすべての同時代人に共通するカルチャーだった。だから政治にも敏感に反応した。アメリカのベトナム戦争遂行という、今から考えれば暴挙としか言えない戦争行動に、世界中の若者が音楽でも対抗しようともがいていた。それはヒッピームーブメントや、学生運動と連動していった。

当時、保守的な社会と右翼的政治傾向がベトナム戦争遂行の主体者であり、それを阻止するのは左翼的政治傾向の標榜する革命的な行動しかないと、多くの若者が信じ行動した。

音楽そのもので何かができるわけではないとは知っていたが、音楽は確かに次の行動を見定め決定付ける指標にはなり得たように思われた。

1970年前後まで、音楽は革命的だった。というより左翼的だった。だがそれは瞬く間にエンターテインメント業界に取り込まれていった。「金の成る木」として「大人」が認めたのだ。そこから生れる「金」は、本来革命的だった「彼ら」を「大人」に変えた。それですべては終わった。1970年代前半は、その移行期で玉石混交とした時代だった。

だがそこに、レゲエとパンクという、まったく「大人」とは縁のないカウンターカルチャーの代表格が現れたことで、音楽は一変した。右翼だの左翼だのと言うステレオタイプの思想傾向ではなく、存在意義を問うかのような音楽たち。たちまちこの潮流は若者を、音楽を変えていった。だが、結局レゲエもパンクも、たちどころに「金の成る木」として「大人」の認知するところとなった。5年も持たなかった。

形だけのレゲエとパンクがもてはやされることになり、それはポップスの一つの形に過ぎなくなった。

ロック・ミュージシャンが、何億という「金」を稼ぐなどと言うのは、1970年頃まではあり得ないことだった。ここで書いてきた通り、ロックも含め音楽は意味のあるカルチャーの一つだった。だから「金」とは無関係のものだった。「金」は結果として付いてくるものであり、目的とするものではなかった。だから意味が持てた。「金」が目的になった瞬間に音楽の意味は消え失せたのだ。

したがって現在は、ボクにとって音楽は「寸毫も生活とは関係がない」のだ。

2020年のアメリカ大統領選挙で、アメリカのミュージック・スターたちが、選挙動向に影響力を行使しようとしていた。ことに女性ミュージシャンたちにその傾向が強かった。

だがボクの目には、肌を露わにし煽情的なダンスで何十億という金を稼ぐ彼女たちが、まるで街娼のようにしか見えない。つまりは「金」を目的とし、手段の一つとして身を売った女性のようにしか見えないのだ。

その彼女たちが、巨万の富を背景に政治を語ることの陳腐さを、はっきりと見せてくれたのが今回のアメリカ大統領選挙だった。

そう、音楽はボクの知るそれとは、まったく別のものになり果てているのだ。

それは日本でも同じことなのかもしれない。ボクの肌感覚では、そうなのだ。
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佐井好子という稀有のアーティストの復活

2021-05-06 16:07:56 | 音楽にまつわる話<的>な
1976年から1980年まで、日本の音楽シーンの最先端で仕事をさせてもらった。

国内外を問わず多くのアーティストと接し、インタビューをしたり、音源の紹介をしたりしたのだが、何度か言及しているように、その間にボクが心震わせたアーティストは3組だけだった。

沖縄のハードロックバンド・コンディショングリーン、P-MODEL、そして佐井好子だ。

ロック雑誌を作っていたが、当時の世界はハードロック全盛でことにギタリストの人気が高かった。E・クラプトン、J・ペイジ、J・ベック、R・ブッラックモア、サンタナなどなど、ワンフレーズ聴くだけですぐにそれとわかるギタリストが、大勢いた。
 
だが日本では、彼らのコピーすらままならない時期が続いていたが、海外ギタリストとの差を一気に詰めたのがコンディショングリーンのシンキだった。沖縄の海兵隊のキャンプにあったライブハウスまで聴きに行った彼のギターは、心技体が一体化した聴く者の心揺さぶるものだった。

コンディションは、作っていたロック雑誌の要請に則した中でのマイ・フェイバリット・アーティスト。

そうではなく、ボク自身が聴き手として心を打ちぬかれたのがP-MODEL。Punk New Waveとカテゴライズされた一群のアーティストの中で、彼らの存在は群を抜いていた。カテゴリーに縛られないという意味での彼らの斬新な音とライブ感は、いまでもピカ一の最先端だ。

そして、佐井好子だ。当時は、山崎ハコ、森田童子、中島みゆきなど、まさに時代を体現するような女性アーティストが元気で、初めは佐井さんも、そんな一人に見られていたような気もするが、それはとんでもない間違いだった。

テイチクから1975年8月のファーストアルバム『萬花鏡』をリリースしたのを皮切りに、翌1976年にはセカンドアルバム『密航』。1977年にはテイチクから日本コロムビアへと移籍『胎児の夢』を、1978年には『蝶のすむ部屋』をリリースする。1977年には詩集『青いガラス玉』(婦人生活社)、日活映画『夢野久作の少女地獄』の主題歌を担当するなど、音源制作以外でもその才能を発揮していたが、『蝶のすむ部屋』を最後に、1979年、突如活動を停止する。

なぜ活動を停止したのかは、以前一緒にお茶を飲んだ時に「憑物が落ちたみたいに」と言っていたが、彼女とは現役時代からよくお茶を飲んで話をした。彼女と話ができたのは、ボクが新青年系の作家(夢野久作、小栗虫太郎、橘外男、久生十蘭、横溝正史などなど)が好きで、佐井さんもまた彼らが好きだったことによる。話しはSF小説にまで及んだ。

まだ覚えているのは、彼女が活動休止してしばらく経った頃に、荻窪の喫茶店で話した内容。SF小説の潮流、サイバー・パンクと代表作家・ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』について。ボクは「指輪物語」について話した記憶があるが、間違いかも。

その後、音信が途絶えたのだが、このブログが再会のきっかけになったことは書いた。再会後は友人を交えて飲んだりしたが、先日驚きの電話があった。東京に家も買って生活の基盤は東京と思っていて、近々連絡しようと思っていた矢先だった。「奈良に帰る」というのだった。

そしてこんなメールが。

「加藤さん、その後お元気ですか?
私は前にお話した通り、奈良に引っ越しました。元気にしています。
件名に書いた通り、私の過去の作品が、CDのタクラマカンを含め、すべてレコードで再発されます。ライブのアンコールで歌った新曲を入れたBOXも」

おっと、これは! 少しフライング気味だけれど、再発レコードの情報を掲載する。

—————————————————————————————————————————
<アナログBOX情報>
280_plbx1

『佐井好子特別限定アナログBOX』
品番:PLBX-1
定価:¥29,700(税抜¥27,000)
発売日:2021年7月7日
★ディスクユニオン & P-VINE OFFICIAL SHOP限定販売
★完全初回数量限定生産

<ディスクユニオン 予約ページ>
https://diskunion.net/portal/ct/detail/1008258701


https://anywherestore.p-vine.jp/pages/saiyoshiko-box

<特製BOX内容>
●今回発売のLP5枚
『萬花鏡』『密航』『胎児の夢』『蝶の住む部屋』『タクラマカン』
●7inch record 
A面:「日本一小さな村」(山本精一が監修 / コラボした新曲です)
B面:「暗い旅」(書籍『 青いガラス玉 』にのみ付けられたCDから日活映画『少女地獄』(1977年)挿入歌のフルヴァージョン。バックはコスモス・ファクトリー)
●ブックレット(B5判24~30Pを予定)
秘蔵写真や本人による詩、イラストそしてJOJO広重による「佐井好子ストーリー」をまとめたもの。
●7inchとブックレットを投げ込んだ直筆サイン入りの白ジャケット(直筆ナンバリング付き)

<商品情報>

240_plp7122

佐井好子 / タクラマカン
Sai Yoshiko / Takla Makan
品番:PLP-7122
定価:¥4,180(税抜¥3,800)
発売日:2021年7月7日(水)
夢野久作/谷崎潤一郎/つげ義春の世界観が!独自の幻想ワールドでファンを魅了する佐井好子が2008年にリリースした30年振りの新作!
1978年の4枚目を最後に「自分の気に入った歌が出来るまでは」と休止宣言をして、、30年。
その幻想魅惑の世界をサポートするのは山本精一、早川岳春、芳垣安洋、JOJO広重、片山広明、プロデュースは吉森信。
更に渚にての柴山伸二も参加!より熟成し妖艶な佐井好子の世界が堪能できる!ジャケは勿論本人によるイラスト!

240_plp7123

佐井好子 / 萬花鏡 
Sai Yoshiko / Mangekyo
品番:PLP-7123
定価:¥4,180(税抜¥3,800)
発売日:2021年7月7日(水)
極めて耽美幻想的歌手=佐井好子1975年衝撃のデヴュー・アルバム。
日本的な土着性~民謡的歌唱が幽玄な空想世界へ誘う名作。大野雄二のアレンジも冴えわたる。

240_plp7124

佐井好子 / 密航 
Sai Yoshiko / Mikkou 
品番:PLP-7124
定価:¥4,180(税抜¥3,800)
発売日:2021年7月7日(水)
「密航」をテーマにシルクロードあたりの異国情緒溢れる佐井好子幻想ワールドが炸裂する傑作アルバム。
まさに女性にしか描けない世界、、聞くものをゆるやかにインナートリップさせる。眠れぬ夜の脳内に彷徨うシルクロード。

240_plp7125

佐井好子 / 胎児の夢
Sai Yoshiko / Taiji no Yume 
品番:PLP-7125
定価:¥4,180(税抜¥3,800)
発売日:2021年7月7日(水)
1枚目に続き大野雄二がアレンジャーとして参加しより音楽的要素を支えた夢野久作的怪奇性極まる佐井ワールド。
タイトルの「胎児」が示すようにより内なる精神世界への旅。佐井好子弱冠24歳、詩人で画家で歌手としての孤高なる存在。ジャケも傑作。

240_plp7126

佐井好子 / 蝶の住む部屋
Sai Yoshiko / Chou no Sumu Heya
品番:PLP-7126
定価:¥4,180(税抜¥3,800)
発売日:2021年7月7日(水)
山本剛トリオをバックにした極めてジャズ色の強いアルバム。
内なる精神世界から外の世界へ出口を見出したかのようなシュールでダイナミズムな世界。
この78年のアルバムの後、佐井は「自分が気に入る曲が書けなくなった」と世界に旅に出る
—————————————————————————————————————————
解説は、多分JOJOさん。

いま当時のままに、レコードと言うのが良い!

皆さんの手元に届けと、ご紹介。
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お久しぶりです 2ヶ月のご無沙汰です

2021-05-06 15:52:35 | 普通な人々<的>な
色々ありました。

友人が病に倒れる(コロナではありません)も、この嘘くさいコロナ禍を慮って見舞うことも会うこともままなりません。

別の友人がプロデュースした本の原稿を、ずっと書いておりました。その内、紹介いたします。

90歳を過ぎた、神戸の義母の見舞いにも行けません。

なにやら人の足を止め、家に籠らせることが、コロナを理由に推し進められているようですが、家に籠ることが必要な、コロナではない何らかの出来事が起こるのかなとも思っています。

ボクは昭和の人ですから、反骨精神を大事に生きています。ですから、こっそりと家を抜け出してどこぞへ出かけたりもしています。少し離れたスーパーとか、電車に乗って買い物とか……。

それも難詰されることであったりすると、ボクはよけいに大胆に何かをしたくなってしまいますが、しかし、そこはぐっと抑えています。ボクはそうだけれど、ボク以外はそうでもないので。

お久しぶりでしたが、近況報告でした。
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父・加藤千代三の短歌 6

2021-05-06 15:36:14 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三は上京したのも束の間、理由は定かではないが一年も経たず信州の小諸に居を移す。おそらく人間関係の軋轢か何かがあったのではないかと、想像する。同時に大恩ある太田水穂の「潮音」から去る。
まだ19歳だった。ここで、幾多りかの人々と交流を持ったようだが、それがどなたであったのか具体的には分からない。

さしかかる 木曽の山路に 雪とけて
椿の花の 紅をこぼせる


しばし、小諸で暮らすが、思い出すのは故郷の母の面影だったようだ。

母上よ その山かげにおわさずや
夕べは雲の かならずおりつ
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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その66>金縛り

2021-03-01 17:21:33 | 東京「昔むかしの」百物語
原稿の前に。
先週、FBのメッセンジャーが乗っ取りに会い、多くの皆さんにご迷惑をかけました。改めて陳謝します。
ボクからのメッセンジャーメールのyoutube画像は、決して開けないでください。よろしくお願いします。

一応収束はしていますのでご安心を。

さて、ボクは以前にも書いた記憶がありますが、17歳から34歳になるまでの17年間、ほぼ毎日金縛りにあっていました。

それは昭和の時代に生きた40歳までの半生の、ほぼ半分にあたります。毎日寝付く前の通過儀礼のように、金縛られていました。それは恐怖がボクを包み込むという瞬間で、ぞわっと背筋に悪寒が走った時から、振り絞るように声を発するまでの数分間続きました。

歩いていて金縛りのような状態になったこともあります。店先で動けなくなったこともありました。

と同時に、ここでは詳しく書きませんが、様々な霊体験もしました。霊夢も見ました。

ものの本によれば、子どもの頃からの金縛りは社会人になれば収まるそうですが、結構な歳行きまで続いたものです。

それが、ある瞬間にパタッとなくなりました。憑物が落ちたようにと、よく言いますが、まさにそんな感じです。

いま思うのですが、昭和という時代には、どこか思想・哲学・宗教という所謂内省的な生命の方向性があったようです。言い換えれば生命の負の傾向性とでも言いましょうか。

それは、多くの青年の生命の脚を引っ張り続けていたようにも感じられます。

演歌も暗く淀んだ生命を歌っていました。死と言う言葉が普通に歌われていました。

ベストセラーではないけれど、多くの青少年に影響したのは、深く内省した挙げ句、死を選んだ青年の著作だったりしました。右翼でも左翼でも、戦争と言う巨大な生命の坩堝から抜けだせずにいた青年も多かったように思います。戦争は色濃く時代の通奏低音を奏でていました。

そんな背景があって、ボクは金縛られていたのではないかと、最近になって思うわけです。

なぜなら、金縛られなくなったのは、ボクが結婚し子どもが誕生した、まさにその時だったからです。

それは、後ろ向きではいられない時間軸の中にボクが身を置いた瞬間でもあったのです。

気が付けば、平成になり、沈思黙考するような局面などなくなりました。明るく前を向いて、楽しく生きることがどれだけ大切か、あの人もこの人も口にするようになりました。良いことです。

歌は、どれもこれも人生の応援歌のようで、カラオケではひたすら盛り上がることが良しとされました。おじさんが昔の曲など歌えば、その場の空気はカッキーンと氷付きそうでした。

どっちがいいという問題ではなく、時代が生み出すアトモスフェアは、確かにあるということでしょうか。

今でも鮮明に覚えていますが、ボクが最後に金縛りにあった時に見た幻は、なぜか狸になった母が、ボクに汚物を投げつけるという幻影でした。

それをどう紐解けばいいのか、ずっと考えていましたが、はっと気づきました。

もう10年以上も前に亡くなった母ですが、当時、ボクは宗旨替えをしたのです。

17歳の時に母がさる宗教団体に入信し、ボクも連れられて出入りしていましたが、特段熱心に勤めたわけでもなく、ある種の親孝行でした。

しかし結婚を機にすっぱりと止め、法華経を自分の芯に据えました。

よく考えると、ちょうど母が信心したある宗教団体に、出入りしていた間だけ、ボクは金縛られていたことになります。

どんなことにも何かしらの因と果がまとわりつきます。それがうっすらわかりました。
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父・加藤千代三の短歌 5

2021-03-01 17:10:32 | 父・加藤千代三の短歌
だいぶんと間が空いてしまいましたが、そこはそれ、色々とありましたもので。

前回は、17歳で上京するまでの歌を2首あげましたが、あと1首見つけましたので紹介しますが、相当に暗い歌です。貧しく幼い千代三の心象風景が、手に取るようにわかります。

ここにみる 墓場の松の さびしさよ
ひぐれをくろく 風にゆれゆれ


次回からは、上京後の歌になります。
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父・加藤千代三の短歌 4

2021-02-11 16:51:02 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第4回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

前回、2首を挙げましたが、今回も2首を紹介します。

洩れてさす 雑木林の 陽の中に
静かな藤の ふさはたれたり


松の花 こぼるるに似て 散りきつつ
潮の音近し 丘の径かも


自然の情景に己の思いを託す、千代三の短歌のそうしたありようが、ボクは好きです。
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東京「昔むかしの」百物語(昭和編)<その65>恋・愛・出会い

2021-01-29 23:34:19 | 東京「昔むかしの」百物語
ボクの初恋は、成就した。しかしすぐに破局した。

一歳年下の、高校時代は同じ演劇部の後輩だった。小学校時代も人形劇クラブで一緒だった。嫋やかで美しい少女だった。その頃から恋心を抱いていたが、中学・高校と同じ学校で、なおさらに恋心は募った。彼女の家の近くの電信柱の陰から、彼女の姿をじっと見つめる日もあった。

高校を卒業して、改めて告白をし付き合い始め、彼女が高校を卒業してすぐに同棲した。それは結婚も同様だった。仲間に祝福されて江古田のスナックで披露宴を開いた。金もない実力もない何もないままに、阿佐ヶ谷のオンボロアパートでのままごとのような同棲生活が始まった。

ひとつも彼女が幸せを感じることのなかった同棲生活だったろう、と思う。三年で別れが訪れた。ままごとのような同棲生活の当然の帰結だった。

二人目の恋人、三人目の恋人、そしてそれまでのどの彼女とも異なる、ボクにとってはまったく得難い四人目の恋人が現れた。今の奥さんだ。

奥さんとの出会いは言葉にできないほど、不思議で奇妙で強烈なものだった。

ボクは当時音楽雑誌の編集者だった。その日はフリートウッドマックというイギリスのブルースバンドのインタビューで大阪に出向いていた。魅力的な女性ヴォーカルが加入して、一気に世界的な人気に火が付いたバンド。その時は『ルーモア(噂)』というアルバムが売れていた。

万博ホールでのライブの後に、楽屋でインタビューという予定だった。

12月4日の寒い日だった。当時デンスケと言う大きな録音用のカセットを肩からぶら下げ、ボクは万博ホール最寄りの地下鉄・千里中央駅で、タクシーを待っていた。

ところがいくら待っていてもいっかなタクシーに乗れない。すると、後ろから「どちらに行かれるんですか? それではいつまでもタクシーは捉まえられませんよ」と、うら若い輝くような少女が声をかけてきた。

彼女は「私も万博ホールに行く」と言い、ボクをタクシー乗り場から少し離れたところに連れて行き、さっさとタクシーを拾い、同乗して目的地にも向かったのだった。

タクシーの中で彼女は「並んで待っていても、乗れないの」と言った。彼女が言うには「順番を守る文化ではない」ということだった。

ボクはとりあえず礼を言い名刺を渡し、インタビューが終わるまで待ってくれるとは思わなかったが「もしよければお礼にご飯でも食べよう」と、彼女に言った。彼女は笑顔を見せたが、ボクの申し出には答えなかった。

それでも、その時すでにボクは彼女に恋をしていた。だが、それ以上の話はできなかった。もし待てるのであれば、万博ホールの入り口で待っていて欲しいとだけ彼女に伝えた。

ライブが終わりインタビューを終え、ボクは急いでホール入口に向かったが、彼女の姿はなかった。当たり前だ。

東京に戻り、編集部でそうしたいきさつを同僚に話したりもしたが、彼女に会うためのなんの手掛かりもない。名前も知らない。もう二度と会えないのかと思いながらも、忘れられずにいたのだが、年末進行で忙しいある日、レコード会社回りをして編集部に戻ると、「加藤さんお客さんがみえました。また後で来られるそうです」と言われた。若い女性の二人組だという。心当たりもないまま、デスクワークをしていると「加藤さんお客さんです」と、事務の女の子が言う。

言われるまま入り口付近を見ると、彼女が立っていた。まぎれもなくあの万博ホールの彼女だった。ボクは「アッ」と声を出したと思う。どぎまぎしながら彼女に近づき「どうしたの?」と、わけのわからない問いかけをすると、彼女は「タクシー代を返しに来た」と言うのだ。

確かにあの時タクシー代はボクが出した。当たり前の話だ。だがボクは、その一言でサクッと気持ちが肝に落ちた。近くの喫茶店に彼女を誘い、席に着くなりボクは「ボクと結婚しよう」と言った。まったくとんでもない発言だった。馬鹿じゃないのと言われても仕方ないと思った。

だが彼女は「はい」と応えた。

それがボクたち夫婦の馴れ初めである。

その時同席していた彼女の友人がいる。彼女はボクたちの話を、あっけにとられて聞いていたと言う。こんなことってあるの? と思ったそうだ。

それから神戸在住の彼女と、音大を卒業して上京するまでの2年間の遠距離恋愛を含め5年に及ぶ付き合いの後、結婚した。

気が付けば、もう44年経った。まだボクはあの時のことを鮮明に覚えている。

これは、噓としか思われないけれど本当の、「昭和の恋の物語」だ。

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父・加藤千代三の短歌 3

2021-01-25 17:14:49 | 父・加藤千代三の短歌
父・加藤千代三の書き残した短歌を、紹介していきます。

第3回目は、こんな添え書きがある一首です。

「太田水穂主筆『潮音』の誌友となり、数多くの歌を発表したが、記録なし。十五歳から十七歳上京までの間、僅かに記憶する歌」

この添え書きの後には数種の歌が記されています。

順番に記載します。

カナ文字の 幼なき妹の たよりより
懐かしまるれ ふるさとの山


今回はもう一首。

ここからは 家もみえねば ふるさとの
山と空とに 別れするなり


ボクは中国山系の山々の稜線が大好きです。その大きな理由の一つは、千代三の歌によります。
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