普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

ニューカマー!

2012-03-07 11:40:48 | 音楽にまつわる話<的>な
 英語の中でも、まるで死後のような言葉だが、結構好きだ。
 新人というわけだが、ニューカマーってなんだか新人は新人でも「ゲイノウ関係」の新人みたいな印象を受けるな……。

 ま、どうでもよくて、そんなことを書きたいのではないのだ。

 ボクは音楽関連のことを書くのだが、毎日のように登場する新人=ニューカマーについてはあまり書かない。それは、作品が出来上がってはじめて評価できるものだと思うし、それを聴いたリスナーが、一定の評価を与えて初めて論及できるものだと思っているのだ。

 つまり、リスナーに「予断」を与えたくないということなのだ。
 ボクが書くことに「バイアスの掛かった意見」という方も多いが、人がものを言う時になんのバイアスもかけずに言ったとすれば、それはその人が発言する意味などない、ただの解説ということになる。
 ボクが発信する言葉は、できれば僕にしか発信できない言葉でありたいと思うわけで、バイアスの掛からないはずがない。

 だから、リスナーがそれぞれに意見を持った段階ではじめて意見を述べるようにしたいと思っているのだ。

 S-Kenから音源が送られてきた。新人に関する意見を求められた。これは嬉しいことで、一所懸命に聴かせてもらった。アーティスティックでエモっぽいし、非常に優れたアーティスト。

 ボクは音楽って、二通りの評価法があると思っている。

 一つは、音楽そのものの力があるかどうか。
 一つは、その音楽がなぜ今生きる(自分も含めた音楽を聴くかもしれない人々すべての)ために必要か。
 このふたつ。
 後者に関して言えば、社会性とでもいうべき側面かもしれない。
 要は、なんでもそうなのだが、ことに音楽を聴くと言う営為にはプライベートとパブリックの二面性があるということだ。

 このことは皆わかっているようで、実はわかっていない。どちらかに依存しようとする。それはその音楽を確かに認められたいという気持ちからどちらかにバイアスがかかるのだ。

 実は、これは聴く側の営為も同じことで、音楽を聴くという意味を自分なりにどちらかにバイアスをかけることで、安心しようとする。そしてそれは聴き手である限り、常に自由に選択できる。

 音楽が売れると言うことの裏には、以上の無作為の作用が存在する。
 この互いの営為が重なった時に、音楽にそれなりの存在理由があれば売れるし、売れなくとも認知はされていく。

 そんなことを機軸に、意見を言わせてもらった。近々登場するニューカマー! その時にまた、きちんと言及します。
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