久しぶりにちょっと宗教的な側面に足を踏み入れます。
断っておきますが、宗教的なことを書くからといって、ボクが宗教のオーソリティということではありません。
興味があるというにすぎません。
そこのところを理解して貰った上で読んでもらえればと思います。
さて一念三千です。これは6世紀(隋の時代)の中国の天才僧、天台大師の説いた法門ですが、本当のところ非常に難解で深い。
携帯電話でちまちまと原稿を書くような内容では断じてないのですが、書くわけです。
そんなわけですから、難しいことは、どうしたって書けない。天台大師に詳しくまた敬愛してやまない方たちには、叱られるかもしれませんが、やっぱり書くわけです。
一念三千の考え方の基本も一通りではありませんが、決めうちでいきます。
さて、この一念三千が意味するところは、人の生命活動というのは、一瞬のことであっても一通りではない、瞬間的な生命活動にも三千もの選択肢が存在する、というものです。
まさに読んで字のごとく「一念三千」です。
選択肢と書きましたが、不正確かもしれません。なぜならこの選択は無意識の領域で行っているものであり、実際のところ、自覚的ではない。むしろ自分の意にそぐわないことの方が多いのです。
簡単に言ってしまえば、例えば突然、思いもよらぬ相手から恋心の告白をされた時に、あなたはどんな反応をするでしょうか? 反応の様は、少し考えただけでも幾つも思いつくでしょう。
車で人を轢てしまったとします。その瞬間、あなたはどんな反応を示すでしょうか?
いまは考えやすいように極端な瞬間を選んでいますが、人の生命活動、意識は、ボーっとした瞬間のことであっても、同じように働きます。
要するに、人の心の働きは、予定調和などということはなく、瞬間に移ろう心の連なりだと言うのです。
そしてその瞬間に選び取る生命の働きには、選んだ理由があり、それがその瞬間のあなたの境涯によるというのが、「一年三千」の大まかな主旨と言えるでしょうか。
簡単に言えば、人は常に一瞬の内に三千のシチュエーションをもっていて、そこから無意識の領域ではあるけれど自分でその瞬間に最適なシチュエーションを選択し、生きていると言うのです。
最適な選択と言っても、最良とは限りません。あなたの人生に必要な選択と言えば良いでしょうか…。
(長くなりました。ここまでを前編としましょうか…。続きは明日と言うことで)
断っておきますが、宗教的なことを書くからといって、ボクが宗教のオーソリティということではありません。
興味があるというにすぎません。
そこのところを理解して貰った上で読んでもらえればと思います。
さて一念三千です。これは6世紀(隋の時代)の中国の天才僧、天台大師の説いた法門ですが、本当のところ非常に難解で深い。
携帯電話でちまちまと原稿を書くような内容では断じてないのですが、書くわけです。
そんなわけですから、難しいことは、どうしたって書けない。天台大師に詳しくまた敬愛してやまない方たちには、叱られるかもしれませんが、やっぱり書くわけです。
一念三千の考え方の基本も一通りではありませんが、決めうちでいきます。
さて、この一念三千が意味するところは、人の生命活動というのは、一瞬のことであっても一通りではない、瞬間的な生命活動にも三千もの選択肢が存在する、というものです。
まさに読んで字のごとく「一念三千」です。
選択肢と書きましたが、不正確かもしれません。なぜならこの選択は無意識の領域で行っているものであり、実際のところ、自覚的ではない。むしろ自分の意にそぐわないことの方が多いのです。
簡単に言ってしまえば、例えば突然、思いもよらぬ相手から恋心の告白をされた時に、あなたはどんな反応をするでしょうか? 反応の様は、少し考えただけでも幾つも思いつくでしょう。
車で人を轢てしまったとします。その瞬間、あなたはどんな反応を示すでしょうか?
いまは考えやすいように極端な瞬間を選んでいますが、人の生命活動、意識は、ボーっとした瞬間のことであっても、同じように働きます。
要するに、人の心の働きは、予定調和などということはなく、瞬間に移ろう心の連なりだと言うのです。
そしてその瞬間に選び取る生命の働きには、選んだ理由があり、それがその瞬間のあなたの境涯によるというのが、「一年三千」の大まかな主旨と言えるでしょうか。
簡単に言えば、人は常に一瞬の内に三千のシチュエーションをもっていて、そこから無意識の領域ではあるけれど自分でその瞬間に最適なシチュエーションを選択し、生きていると言うのです。
最適な選択と言っても、最良とは限りません。あなたの人生に必要な選択と言えば良いでしょうか…。
(長くなりました。ここまでを前編としましょうか…。続きは明日と言うことで)