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東京「昔むかしの」百物語<その75>立川という町、まず駅北口

2023-10-27 17:51:33 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和の頃、よもや立川で暮らすことになるとは思ってもいなかった。

とはいえ7~8年の間、川を越えた日野に住んでいたから、それほど意外なことでもなかったのだが、平成になってすぐの1993年だったか、立川の北のはずれの現住居に移転した。乗降駅の駅前には一軒、当時の感覚では「万屋」的なコンビニがあるだけで、駅前だけでなく自宅の半径1キロ以内にはマーケットも食べ物屋も全くなかった。車がなければ生きられない辺境の地という印象だった。そこで唯一嬉しかったのは、自転車で一走りすれば国営昭和記念恩賜公園をまるで自分の庭のように散策できたことだ。それ以外は、不便この上なかった。

今でこそ立川を代表する国営昭和記念恩賜公園だが、その頃は、まだできたばかりで訪れる人もあまりなかった。現在は整備されて公園に沿って立派な南北道路が走っているが、当時は米軍から返還された土地だったにもかかわらず未整備で、不思議な景観の野原だった記憶がある。

JR立川駅はそこそこの地方都市的賑わいがあった。ただし北口方面だけ。駅ビルは、確か「WILL」と言っていた記憶があるが、いつのまにか「ルミネ」になっていた。北口に出て西側には老舗の第一デパートがあり、道を挟んで髙島屋があった。中央通りの東側には伊勢丹があり、FROM中武もすでにあった。丸井もあった記憶がある。百貨店の屋上には当たり前のように遊具施設が並び、大勢の親子連れで賑わっていた。

北にワンブロック歩くと川が流れていて映画館が何軒か並んでいた。

その辺りまでは、割合に地方都市然としていたが、シネマストリートと呼ばれた辺りはどこか青線的なイメージが残る一角だった。狭い道の両脇にバーなどの飲食店が軒を連ねていて、戦後の米兵相手の飲み屋街といった風でさびれているがモダンな印象もあった。伊勢丹やFROM中武の裏手も、飲み屋がひしめき合っていた。

今のようなペデストリアンデッキができたのは、平成になってだいぶ経った頃。多摩都市モノレールが開通したのと同じ頃だったと思う。その頃から一気に今の立川のように少しあか抜けた街になっていったと思う。放置されていた米軍から返還された土地にも開発の手が入り、多くの公共施設が建ち並ぶ副都心的な景観に様変わりしていくことになる。
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