普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その10> あれ、とかこれの1・電話

2016-01-24 22:16:27 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和な「電話」という道具について。

もとより、今のようなパソコン・スマホなどという通信手段、情報収集手段などなかった。

画期的にも車載電話ができ、大きなお菓子箱をぶら下げるが如き携帯電話もできはしたが、昭和のそれは無骨で見るに堪えない、ましてや使うに忍びない代物だった。

ボクらにとっての通信手段は、手紙であり電報であり、電話だった。もっと言えば直接相手に会いに行くことだった。

ボクは昭和24年生まれだが、東京に引っ越してきて初めて我が家に電話が入ったのは、昭和33年だった。黒電話で、しかもダイヤルもなかった。どんなものかと言えば、一度外部から交換台(我が家は公団住宅だったから、電話番号は公団住宅宛の数回線だけだった。それが交換台に繋がり、交換手が800世帯ほどあった公団住宅の各部屋に繋ぐシステムだった)を通して我が家の端末電話に掛かってくるというもの。今でいえば、ホテルの各部屋にある内線電話のようなものだと思えばいい。

それが時を経ずして、昭和35年には各家庭ごとに黒電話が入った。それぞれに電話番号が割り振られたのだ。一気に電話が普及した時だった。いまでもその電話番号を覚えている。398-4☓☓☓。もちろん今ではかからない。

今の若者は「ダイヤル」と言う言葉も知らない。ヒチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」という映画タイトルの意味も分からないのだ。

公衆電話はあった。この公衆電話は、いまでは想像もつかない道具だった。当時いつ頃までだったか定かではないが、10円で日本全国、時間も無制限に繋がった。とにかくただただ便利さを共有するという意識だけだった。そのことで金儲けしようなどという発想は、電電公社にもほとんどなかったのではないか。

ちょうど昭和30~40年代のテレビ番組で、アメリカのSF物のテレビ・シリーズが人気だった。「スタートレック」「宇宙家族ロビンソン」「空飛ぶ円盤UFO]「アウター・リミッツ(Out of limits)」「世にも不思議な物語」……。

そうした映像の中で、腕にはめた通信機器を使って遠方の仲間と連絡を取るというシーンがよく登場した。

あれから半世紀。あの当時の映像の中の通信機器を遙に凌駕する道具を、ボクたちはいま、使っている。

感慨深いことだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

妻遊記 → 最遊記 に変更

2016-01-19 12:34:17 | 夫婦連載
昨日、報告した新企画、早くも奥さんから「妻が遊ぶ」よりは「最高に遊ぶ」方が良いとの指摘を受け、タイトル(まだ始まっていないんですが…)を変更します。

確かに奥さんの言う通り。「妻は遊び人」みたいな印象ですな。決してそんな女人ではないわけで……。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

<妻遊記>を始めます

2016-01-18 19:17:18 | 夫婦連載
ボクは、中国の古典が好きです。

「史記」、「三国志」、「水滸伝」、「紅楼夢」、「聊斎志異」、「金瓶梅」……、それになににもまして「西遊記」です。

西遊記はご存知の通り、サルと豚と河童が美麗な坊主を守って天竺に旅をするという奇想天外な物語。

これに倣って「妻遊記」をものしてみようと思い立ちました。

美麗な奥さんを護って西へと旅して、その旅行記を書こうというもの。護るのか護られるのか、その辺は定かではありませんが、西へ行こうというのは、二人の間で共通した認識になっています。西遊記のベースになっている玄奘三蔵の「大唐西域記」みたいなことになれば面白いし、西遊記並みの奇想天外さが描ければなお面白い、ということですね。

いつからはじまるのか、いまはまだ未定ですが、おそらく近々に始まりそうな予感。

こうご期待!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

新年の抱負

2016-01-13 19:22:38 | こんなことを考えた
松もあけ、鏡開きも終わり、次は節分。

あの「恵方巻」って、昔はなかったけれどいつの間にやら、節分の当然の「儀式」のように思われていますね。つらつら思い返してみるに1990年より少し前頃か、7-11が始めた「儀式」だったような気がします。

僕らが子どもの頃に、とても楽しかった「儀式」は、お正月の一連の行事(初詣、初荷、少したっての鏡開き……などの、一年のはじめを彩る儀式の数々!)、節分、桃の節句、花見、端午の節句、八十八夜、海開き、お月見、土用の丑の日、紅葉狩り、文化の日、そしてクリスマスに大晦日。その間に春分、夏至、秋分、冬至があり、なにか粛々と時間、日々、季節が過ぎて行ったような印象があります。

昭和30~40年代頃には、こうした極めて日本的な季節と時の移ろい(クリスマスは別)を、メディアもこぞって取り上げていましたが、チョコレートの売り上げを計って見事に功を奏した2月14日の「バレンタインデイ」を皮切りに、西洋的な「儀式」が幅を利かせるようになりました。

「バレンタインデイ」、かぼちゃのジャック・オー・ランタンでおなじみの「ハロウィン」、「クリスマス」が、日本に根付いた西洋の3大祭りですが、なんだかさらに増えそうな気もします。謝肉祭とか感謝祭とかいって……。

ところで「恵方巻」。豆まきを追い落として節分の主要な儀式となりましたが、どうなの? って感じもあります。豆まきは、後の掃除が大変だから毛嫌いされたとのことですが、これまた、どうなの? 本当? という気になります。ただ、確かに最近「鬼は外、福は内」の掛け声、全然聞こえませんね。

企業の戦略にうまうまと乗せられた感のある祭り、儀式もありますが、それでも季節感を失うのだけは避けたいところです。

なにはともあれ、今年一年も、良い時の流れ、季節を感じながら過ごしたい。これが、今年の年頭の抱負です。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

謹賀新年

2016-01-04 23:35:47 | 普通な人々<的>な



明けましておめでとうございます。

今日から新しい年の仕事が始まります。

去年のちょうど今頃、新しい仕事を初めて、変わろうと決めました。

一年経って、今年は具体的に花開く年ですね。

今年からの年々の積み重ねの中で、皆様にとって最良の瞬間が訪れますように。

最高の結果を得ることができますように!

心から祈っております。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京「昭和な」百物語<その9> 荻窪付近

2016-01-03 01:23:37 | 東京「昔むかしの」百物語
2012年の3月に、このブログで荻窪のことを書きました。
それを、多少手を入れて再録することにします。


 小学3年の冬休みに、上板橋から荻窪に移り住んだ。
 昭和33年頃の荻窪は、まだまだ住宅街として成立するほどのものではなかった。むしろ今の軽井沢的な、避暑地然とした佇まいだったような記憶がある。
 もちろん駅周辺には商店街もあれば、飲み屋もあった。だが、どこか普通の町という感じではなかった。

 当時の中央線は、まだローカル線の域を超えず、まだ通勤電車という趣はなかった。今は「高尾行」というが、当時は「浅川行」だった。どこかの区間は単線だったような記憶もあるが、間違いかもしれない。
 ボクが引っ越した頃には、まだ荻窪に丸ノ内線は乗り入れていなかったが、それから4年ほどで丸ノ内線が全線開通、荻窪は新宿や銀座に出かける恰好のターミナル駅になっていた。この頃から、中央線は通勤路線に変貌し始めていた。

 荻窪駅南口駅前は、ある不動産屋が駅前の再開発に応ぜず立ち退きを拒否、つい10年ほど前まで昔と変わらない雰囲気を醸し出していた。
 北口は、いまはなくなってしまったがほぼ立ち飲みの一杯飲み屋が階段を上った直ぐ右側で繁盛していた。駅を背にした右手には小さな店がひしめき合う一画があってラーメン屋やこちらも一杯飲み屋が、軒を連ねていた。その北側を甲州街道が東西に走っているが、昭和33年当時は、都電杉並線(高円寺-荻窪間は荻窪線と呼称)の終着駅があった。都電は、地下鉄丸ノ内線の開業の、翌昭和38年には廃線となった。

荻窪駅北口の左手一帯は、市場のような風情がある一角だった。やがて、西友がビルを建てる。
 
 昭和33年当時、南口を出て駅から5分ほど歩いたところにはスケートリンクがあった。それもローラースケートリンク。リンク自体の営業をしていたかどうかは記憶にないが、そこにはクラブハウスもあり、中央軒という美味しいレストランまで併設されていた。
 ボクは中央軒が大好きで、本当にハンバーグをよく食べた。デミグラスソースの美味さは半端なかった。なにを食べても美味しかった。そこそこ大人になってからの一時、本当に毎日のように食べに行って、あっという間に10㎏太り、少々足が遠のいた。
 その後、場所を移動して営業していたが、いまではもうない。もう一度あのデミソースを味わいたい。
 そこへいくまでの途中には、ピンク映画の常設館まであった。

 要するに、避暑地っぽかったのだ。それもそのはずで、戦前から近衛家の別荘「荻外荘」(てきがいそう)があり、今は公園になっている音楽評論の草分け・大田黒元雄の別宅などがあった。ボクの住んでいた近くには、角川書店の角川一族の居宅もあった。
 やれ「せんべい屋」の社長のお妾サンが住んでる家だの、ヤクザだったか右翼だったかの大物の別邸などが散在していた。
 荻窪から阿佐ヶ谷にかけての一帯は、作家の井伏鱒二などが住まい「文人村」とも呼ばれていた。
 早い話が、ちょっと文化の香りの漂う町であったのだ。北口の喫茶店「邪宗門」、中古レコード店「月光社」、南口の名曲喫茶「ミニヨン」……そうそう、ライブハウスの草分け「ロフト」も、荻窪の南口から始まったはずだ。ロフトの名物、若かりし頃の平野社長がコーヒーを落としたり酒をついでくれたりしたものだ。
 一番記憶にあるライブは矢野顕子のライブかな。

 荻窪での記憶は色々ある。青春のベースになったのがこの町だったから。
 数年前までお世話になっていた音楽ショップ「新星堂」も、1974年頃から本社機能は荻窪にある。店舗はもっと前から今の本社敷地にあった記憶があるが、間違いかもしれない。

 一時期荻窪はラーメンのうまい町として全国に知られたが、舌の肥えた文化人が多かったのは確かで、中央軒にも触れたが、荻窪に住まっていた頃に食に関して不足を感じたことは一度もない。
 ことにラーメンは、やはり抜きん出ていて、春木屋、丸福、丸信はベスト3だった。ボクは切れのある魚介系出汁の丸信がことの他好きだった。この丸信ラーメン、実はあの昨年亡くなった山岸の親父さんが世に広めた東池袋のつけ麺「大勝軒」と、親戚関係にあるラーメンだったと、最近知った。うまいはずだな。
 南口からちょっと外れたところには、「三ちゃん」という名物の焼きそば(そばではなくヴィジュアルはうどん)がうまい店があり、今でもあるようで、時々無性に行きたくなる。それこそ毎日のようにあっさりした細麺の中華そばか焼きそばを食べていた。

 中でも忘れられないのが、非常にしょうもないことだが、北口の阿佐ヶ谷よりにあったパチンコ屋。中央線から店が見えるのだが、昼間の看板は「パチンコカモメ」と読めるのだが夜蛍光管に光が入ると「パ」と「カ」が切れていて読めず、口には出しにくい店名となっていた。それは、ボクが中学生から高校生になってもそのままだった。本当にかなり長い間放置されたままだった。お蔭で少年だったボクと仲間の笑いと話題のネタは尽きなかった。
 
 荻窪は、ボクにとっては三分の一程度ではあるが、明らかに人生の原点になっている。

以上。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ゆく年くる年

2016-01-01 02:04:20 | 普通な生活<的>な
大晦日、大掃除が終わらず。

カウントダウンは家族4人で、ハイタッチ。

良い年になるだろうと、家族4人とも、疑いもしない!

そんなこんなで、年越しそばを食べるのを、忘れてしまった。

なにかと、慌ただしい年越しで。

奥さんは、買い出しに出かけ、戻ってきてものの2、3時間でおせち料理を作り上げてしまった。

新年の御挨拶は、旨いと分かりきった奥さんのおせちを頂いて、また改めて。




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする