昭和な「電話」という道具について。
もとより、今のようなパソコン・スマホなどという通信手段、情報収集手段などなかった。
画期的にも車載電話ができ、大きなお菓子箱をぶら下げるが如き携帯電話もできはしたが、昭和のそれは無骨で見るに堪えない、ましてや使うに忍びない代物だった。
ボクらにとっての通信手段は、手紙であり電報であり、電話だった。もっと言えば直接相手に会いに行くことだった。
ボクは昭和24年生まれだが、東京に引っ越してきて初めて我が家に電話が入ったのは、昭和33年だった。黒電話で、しかもダイヤルもなかった。どんなものかと言えば、一度外部から交換台(我が家は公団住宅だったから、電話番号は公団住宅宛の数回線だけだった。それが交換台に繋がり、交換手が800世帯ほどあった公団住宅の各部屋に繋ぐシステムだった)を通して我が家の端末電話に掛かってくるというもの。今でいえば、ホテルの各部屋にある内線電話のようなものだと思えばいい。
それが時を経ずして、昭和35年には各家庭ごとに黒電話が入った。それぞれに電話番号が割り振られたのだ。一気に電話が普及した時だった。いまでもその電話番号を覚えている。398-4☓☓☓。もちろん今ではかからない。
今の若者は「ダイヤル」と言う言葉も知らない。ヒチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」という映画タイトルの意味も分からないのだ。
公衆電話はあった。この公衆電話は、いまでは想像もつかない道具だった。当時いつ頃までだったか定かではないが、10円で日本全国、時間も無制限に繋がった。とにかくただただ便利さを共有するという意識だけだった。そのことで金儲けしようなどという発想は、電電公社にもほとんどなかったのではないか。
ちょうど昭和30~40年代のテレビ番組で、アメリカのSF物のテレビ・シリーズが人気だった。「スタートレック」「宇宙家族ロビンソン」「空飛ぶ円盤UFO]「アウター・リミッツ(Out of limits)」「世にも不思議な物語」……。
そうした映像の中で、腕にはめた通信機器を使って遠方の仲間と連絡を取るというシーンがよく登場した。
あれから半世紀。あの当時の映像の中の通信機器を遙に凌駕する道具を、ボクたちはいま、使っている。
感慨深いことだ。
もとより、今のようなパソコン・スマホなどという通信手段、情報収集手段などなかった。
画期的にも車載電話ができ、大きなお菓子箱をぶら下げるが如き携帯電話もできはしたが、昭和のそれは無骨で見るに堪えない、ましてや使うに忍びない代物だった。
ボクらにとっての通信手段は、手紙であり電報であり、電話だった。もっと言えば直接相手に会いに行くことだった。
ボクは昭和24年生まれだが、東京に引っ越してきて初めて我が家に電話が入ったのは、昭和33年だった。黒電話で、しかもダイヤルもなかった。どんなものかと言えば、一度外部から交換台(我が家は公団住宅だったから、電話番号は公団住宅宛の数回線だけだった。それが交換台に繋がり、交換手が800世帯ほどあった公団住宅の各部屋に繋ぐシステムだった)を通して我が家の端末電話に掛かってくるというもの。今でいえば、ホテルの各部屋にある内線電話のようなものだと思えばいい。
それが時を経ずして、昭和35年には各家庭ごとに黒電話が入った。それぞれに電話番号が割り振られたのだ。一気に電話が普及した時だった。いまでもその電話番号を覚えている。398-4☓☓☓。もちろん今ではかからない。
今の若者は「ダイヤル」と言う言葉も知らない。ヒチコックの名作「ダイヤルMを廻せ!」という映画タイトルの意味も分からないのだ。
公衆電話はあった。この公衆電話は、いまでは想像もつかない道具だった。当時いつ頃までだったか定かではないが、10円で日本全国、時間も無制限に繋がった。とにかくただただ便利さを共有するという意識だけだった。そのことで金儲けしようなどという発想は、電電公社にもほとんどなかったのではないか。
ちょうど昭和30~40年代のテレビ番組で、アメリカのSF物のテレビ・シリーズが人気だった。「スタートレック」「宇宙家族ロビンソン」「空飛ぶ円盤UFO]「アウター・リミッツ(Out of limits)」「世にも不思議な物語」……。
そうした映像の中で、腕にはめた通信機器を使って遠方の仲間と連絡を取るというシーンがよく登場した。
あれから半世紀。あの当時の映像の中の通信機器を遙に凌駕する道具を、ボクたちはいま、使っている。
感慨深いことだ。