普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

歴史上の人物伝⑤ジャン・アンリ・ファーブル

2018-10-28 22:49:03 | 歴史上の気になる人々<的>な
この原稿は、もう15年も前にある総合誌のために書いた「偉人伝」の一つ。

『昆虫記』で名高い、フランスの博物学者ファーブルは、一八二三年十二月二十三日、ルエルグ地方の小さな村・サン・レオンの極貧といえる家庭に生まれた。十歳の時に生活苦から父の家族ともども移り住んだロデツで、カトリック学校に入学、学ぶことができた。この学校の合唱隊に入れば、月謝がただだったおかげだ。やがてトゥルーズ、モンペリエと移り住んだが、暮らし振りは一向によくならず、一家は離散、ファーブルは自活し勉強を続けなければならなかった。
だが、ファーブルはここで並外れた意志力を発揮する。アヴィニョンの師範学校なら奨学金を受けて学ぶことができる、そうすれば教育者への展望が開けると、独学で奨学金選抜試験を受け、見事に一発で合格、卒業するのだ。そして小学校の教員となるが、向学心は抑えがたく、文学・科学のバカロレア(中等教育終了証)を取得、さらにモンペリエ大学で数学・物理学の学士号をも取得する。
 バカロレア受験の勉強を続けている最中「代数学を教えて欲しい」と学生に頼まれたことがある。ファーブルは代数学を学んだことはなかったが、あえて引き受ける。「自分も勉強するいいチャンス」だと思ったからだ。
 常に前向きに事にあたったファーブルらしいエピソードだ。
 後に昆虫たちに向けられたファーブルの観察眼は、幼いころから自分を取り巻く環境にも向けられていた。五歳のとき彼は、太陽を見ながら考える。「この燦燦と輝く太陽の光は、味わうものか、眼で愛でるものか」。まず口を大きく開け目を閉じる、すると光は消えうせた。目を開けると光はまた現れる……ファーブルは「これでよし。私は眼で太陽を見るのだと、はっきり知ることができた、なんと素晴らしい発見だろう!」
 またカルパントラの中学校で教えていた時代、そのカトリックの威厳を湛えた学校を「偏狭、陰気、暗さは少年院のようだ」と評している。「日の光も空気も奪われた、獣の檻のようなもの、それが教室だった」と。自然の中で学ぶことを生涯続けたファーブルらしい論評ではないか。
 結婚するが、第一子、第二子とたて続けに幼くして亡くす。「臨終のときのお前の姿を、私はいつまでも見つづけるだろう」「大きくなっておくれ、そうしたら、少しずつ蓄積している私にとって実に大事な知識を、おまえの魂に注ぎ込んであげよう」と、その痛みを記している。
逆境に立ち向かう前向きの意志、清新で的確な観察眼、生命への慈しみ、ファーブルの『昆虫記』にこめられたすべての要素は、当然のように彼自身の生活の中で培い、深化させたものだった。『昆虫記』こそ、最も雄弁なファーブルの自伝だったに違いない。
 彼の人となりを愛した人々は多い。ロマン・ロラン、メーテルリンク……。最晩年、ファーブルは再び困窮生活に陥った。その時、彼らはこの高潔で生命を愛しつづけた偉人救済の募金運動を行ったほどだ。
「ルエルグには愛着を持っている。大きな影響も受けている。よそで生まれていたなら、私はまるで違う人間になっていただろう」
 ファーブルは地中海、プロバンスの自然を愛した。そして天寿を全うするかのように、亡くなった。一九一五年十月十一日、九十二歳だった。

追記:ファーブルの『昆虫記』を日本で初めて翻訳したのは、あの賑やかな料理愛好家・平野レミさんのお父上、仏文学者、詩人でもあった平野威馬雄氏だ。レミさんにお父上のことをインタビューしたことがある。もう20年近く前の話。
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歴史上の人物伝④ アルベルト・アインシュタイン

2011-01-18 23:25:26 | 歴史上の気になる人々<的>な
●E=mc2。人類史上、最も単純で美しい公式を作り出した調和の人。

 二十世紀の物理学は、大変革から始まったといわれる。その大変革とはプランクの量子論、そしてアルベルト・アインシュタインの相対性理論に他ならない。相対性理論はやがて、原爆を生む……。
 理論物理学者であり、哲学者、人権闘争家、平和活動家、そして高名なバイオリニスト……アインシュタインを紹介する肩書きは枚挙に暇がない。だが一言で評するなら、アインシュタインは、人間として生きる上での、調和と善なる魂を求め続けた人だったのではないか。
 一八七九年三月十四日、ドイツのウルム市に商人である父・ヘルマンと母・バウリーネの間に生を受け、学生時代はスイスで過ごす。
 アインシュタインは十二歳の時、ユークリッド平面幾何学の調和し整然とした理論体系に感銘し「十二歳から十六歳までの間に微積分学の諸原理も含む数学の初歩を学んだ」と述べているが、同時にこの時代に、生涯を貫く、人間への深い哲学的考察、悪しき権力との闘いをも始める。
「何が悪いって、学校が恐怖や作り出された権威・権力で運営されるほど悪いことはない。生徒の健康な感情、誠実さ、自信すら壊し、卑屈にする」と、当時のギムナジウム(学校)に対し、慣習に縛られず虚栄を捨て、堂々と己の意見を述べることで闘いを挑んでいたのである。
 二度の結婚、ノーベル賞受賞など、生活者としての極まりはあるが、彼の生涯は自ら「ジプシー」と呼ぶ、精神の自由人だった。
 一九五五年四月十八日、アメリカ・プリンストンで逝去するまでに、数えきれない業績を打ち立てたアインシュタイン。
 だが彼の業績以上に、その生き方そのものが二十一世紀を生きる我々をはるかに勇気づけるのだ。
 二十世紀は科学と経済、政治力学に翻弄され「分断と殺戮の世紀」と呼ばれ、その究極の結果ともいえる悪魔の兵器・原爆を生み出した。当初アインシュタインは、原爆製造を当時のアメリカ大統領ルーズベルトに進言している。それはナチスが原爆を製造しつつあるという危機感からなされたものだった。彼等が原爆を持てばなんの道徳的制約も躊躇もなく使うに違いないと、アインシュタインは恐れたのだ。
 だが戦争末期、原爆はアメリカによって製造されたばかりでなく、実際に使用された。アインシュタインは原爆が実際に使われたこと知ると「オー、ヴェー(恐ろしい)」と言ったきり口をきけなかったという。
 やがて彼は、その過ちを素直に認め一九四六年には原子科学者協会を設立、原子力エネルギーの危険性に対する啓蒙活動を開始するのだ。
 そして「我々の世界は、かつてなかった重大な危機に直面している。善悪いずれにも使える絶大な力が誕生したのだ……我々は素手のまま破局へ押しやられようとしている」との有名な警句を発し「この問題の解決は人類の心の中にある」と結んだのだった。
 いま「分断と殺戮の二十世紀」から「調和と共生の二十一世紀」へと時は流れた。新世紀を担う人々の生き方は、アインシュタインの生涯に学ぶことができる。過ちを恐れず、人間の心を大切に生きるのだと、語り続ける勇気を持つことなのだと。
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歴史上の人物伝③ ブレヒト

2011-01-11 12:30:00 | 歴史上の気になる人々<的>な
<なぜこの期に及んでブレヒトなのかといえば、記憶の掘り起こしと懐古。
 ボクが早稲田の学生となったと同時に所属した劇団が、60年代後期当時、日共系の所謂ブレヒト劇団だったことで、ブレヒトへの興味が湧いた。それ以前はどちらかといえば実存主義的演劇に身を寄せていたが、演劇論としてのブレヒト解体作業が面白かったのだ。
 この原稿自体は、いまから10年ほど前に書いたものだ>

●ブレヒトの異化効果は、お笑いの手法に通じる!?
 ドイツを代表する現代劇作家ベルトルト・ブレヒトは、一九五六年、東西冷戦真っ直中の東ドイツで、今日の共産主義体制崩壊という世界の趨勢を知ることなく死んだ。前年の五五年には共産主義下にあっては最高栄誉ともいえるレーニン平和賞を受賞し、成功の絶頂のままに共産主義者として殉じたが、決して教条主義者ではなかった。政治的存在でもなかった。
 ヨーロッパのみならず全世界を覆った全体主義との闘争の方法論として共産主義的なるモノを選択したのであって、当時の世界精神を体現したにすぎなかった。
 一八九八年、アウクスブルグの製紙工場支配人を父として生まれたブレヒトは、第一次世界大戦当時、ベルリンの大学で自然科学と哲学を学ぶ学生だったが、衛生兵として応召、一九二二年戯曲『夜うつ太鼓』を発表、ドイツ演劇界からクライスト賞を贈られ一気に注目を浴びた。一九二八年には『三文オペラ』を発表、国際的にも注目される作家となった。
 ヴァイマール共和制下で自由と共産主義との洗礼を受け、急進的作家としての地位を固めたブレヒトは、当然の帰結としてナチスと対峙することとなる。『三文オペラ』まではアウトサイダー、以降は明確にマルキシズムへと傾倒し社会変革を視野に入れた作品を発表し続けた。
 その代表が『処置』『イエスマン/ノーマン』『第三帝国の恐怖と貧困』の一連の教育劇であった。これらの作品で「叙事的演劇、異化効果」といわれるブレヒト独自の演劇構想を確立、感情・インスピレーションを徹底的に排除した機能的演劇は「演ずる者を教育する」というブレヒトの演劇論を真に具体化し得た作品群であった。
 1933年2月27日に起きた国会議事堂焼き討ち事件の当日、15年に及ぶ亡命生活に旅だった。北欧からアメリカに渡った彼は『ガリレイの生涯』などの代表作品を発表し続けるが「文学的な仕事のすべてをナチズムに対する闘争にゆだねた」と、後に戦後アメリカ社会を席巻したマッカーシズム旋風の中、非米活動調査委員会への供述で語っている。
 やがてアメリカを追われるように四八年東ドイツに帰還したブレヒトは、妻であり女優であるH・ヴァイゲル主演で『肝っ玉おっ母』を上演、晩年まで彼の活動拠点となったベルリーナ・アンサンブル設立を許可され、ブレヒト演劇確立の舞台とした。
 オペラ『ルクルスの審問』では、平和主義を標榜し東ドイツ当局により上演禁止処分を受けた。ブレヒトはやはり、教条主義者ではなかったのだ。ブレヒトは晩年に『ぼくには墓石はいらない』と題する一篇の詩を残した。彼の心のあり場を指し示しているようで面白い。
「僕には墓石はいらない/しかしそれでももし君たちが僕の墓石が必要だというなら/墓石にこう記していただきたい/『彼はさまざまな提案をした/われわれはその提案を受け入れた』と/こういう碑銘を記せば/僕も君たちも、みんな讚えられたことになる」(岩淵達治訳)
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歴史上の人物伝② アルフレッド・ヒチコック

2011-01-07 16:55:36 | 歴史上の気になる人々<的>な
アルフレッド・ヒチコックの
『報われぬ人生』
という作品。


 一八九九年、八月一三日。ロンドン郊外の八百屋、ウィリアム・ヒチコックに三人目の子供が誕生する。アルフレッドと名付けたこの子供が、後に「サスペンスのマエストロ」と言われ、二十世紀の映画史を語る上で、欠くべからざる名監督アルフレッド・ヒチコックとなることなど、両親は知らなかった…。
 ヒチコックは、十五歳で父に先立たれ学校を止め労働者の仲間入りをした。そして映画と出会い、苦労を重ね自力で監督になった。誰も助けてはくれなかった。新進気鋭の監督として渡米後、空襲を受けているイギリスを捨てたと英映画界からの中傷を受けた。
 ハリウッドでは『断崖』『ダイヤルMを回せ』『北北西に進路を取れ』『サイコ』『鳥』など、傑作を世に送り出しながら不当に低い評価……ヒチコックは常に一人で戦う運命だった。それが過食・肥満の原因であり、やがて彼自身の生命をも奪う。
 ヒチコックは生涯に五十七本の映画を撮った。イギリスで二十七本、ハリウッドで三十本。
 一九三九年、四十歳になりハリウッドのプロデューサー、D.O.ゼルズニックに招かれ、アメリカに渡る。ゼルズニックはヒチコックのサスペンスの手腕を売れると考え、ヒチコックはイギリスで燻っているよりはハリウッドで己の才能を開化させたいと考えたのだ。
 渡米第一作が『レベッカ』だった。D.D.モーリアの小説の映画化であり、この記念すべき第一作は四〇年度アカデミー賞の作品賞を獲得する。だが、監督賞は逃す。そしてヒチコックは、数回のノミネートはあったものの、生涯監督賞からは見放される。
 それはハリウッドが、「ヒチコックを他愛のない内容の、おもしろい映画を作る男」という評価しかしなかったからだといわれる。ヒチコックの映画には、必ずワンカット監督自身が登場する。そんなイタズラが、品格を重んじたハリウッド向きではなかったのだろう。
 グノーのマーチに乗って太ったヒチコックのシルエットが現れるTVシリーズ『ヒチコック劇場』の成功で、五八年にはゴールデングローブ賞を獲得、七九年にはアメリカ映画制作者協会から功労賞を贈られ、晩年には本国イギリスからナイト爵位の称号を与えられるなど、一見報われた生涯のようであったが、実際は違った。
 ナイト爵位の授与式は、埃を被り荒れ果てたままの自分のオフィスではなく、映画のセットに作られた作り物のオフィスで行われた。
「長年一つのことに専念していれば、いつかは誰かに認めてもらえることが、これで立証されたわけです」
 記者会見で皮肉タップリに語ったヒチコックの冗句に誰も笑わなかった。
「私が引退するのは、私が死ぬ時」
 ヒチコックは常々妻アルマに語っていたが、七六年の『ファミリープロット』を最後に、映画作りの話はまったくないままだった。そして映画を作りたいという希望を抱いたまま、『報われぬ人生』というタイトルの失意の生涯を終えたのだ。
 一九八〇年四月二九日のことだった。
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歴史上の人物伝① 田中正造

2011-01-06 16:27:54 | 歴史上の気になる人々<的>な
 過去に、様々な雑誌などに書いた人物評伝を、思い出し出し(実のところフロッピーに閉じ込められて、救出不可能なのだ)掲載しようと思います。適度な長さのものもあれば、長大なものもあります。斜に構えたものも、ストレートなものもあります。
 第一回目は、明治の啓蒙政治家・田中正造です。

【日本で最初の反公害・人権闘争に殉じた】
田中 正造(1841.12.15. - .1913.9.4.)

 日本の公害の原点と言われる足尾鉱毒事件の悲惨は、戦後に数々の公害事件が露見するまで歴史の彼方に葬り去られていた。
 そして、足尾鉱毒事件を帝国議会で告発し続け、鉱毒被害民と共に戦い彼等の中で死んでいった田中正造の名も忘れ去られていた。
 一八四一年栃木県安蘇郡小中村の名主の跡継ぎとして生まれ、わずか一七歳で名主となった正造は、若年ながら「朝飯前に、必ず草一荷刈る」「朝飯後には……2時間商用に従事」「村の小児に手習いを授ける」「夕食後……見回りの後友人と漢籍の講習を為す」と自らに課し、農民であることを自覚しつつ学び、後継の育成にもたゆまぬ名名主であった。
 やがて領主・六角家の悪政改革を唱え約十一ヵ月、また江刺県(現在の岩手県)の下級官吏時代にも、無実ながら上役暗殺事件の嫌疑を受け三年と二十日もの間投獄されるなど、権力悪と対峙し続ける硬骨の人であった。獄舎で政治経済を学ぶ向学の人でもあった。
 明治十一年、民権運動の高揚の中、田中も「政治に一身を捧ぐ」と神に誓い家財を捨て、三十五年間の生活予算をたて質素に生活し始める。清廉の人でもあった。
 二年後、まず県議として地方政治に携わり、同十七年には悪徳県令・三島通庸追放運動を組織、この時も理不尽にも投獄されている。
 同二十三年、第一回総選挙で衆議院議員に。この瞬間から田中正造は足尾鉱毒事件と生涯を掛け向き合うことになる。
 足尾銅山は、明治二十年古河市兵衛による経営が始まり鉱毒事件が顕在化する。急激な拡張と増産が主因だ。度重なる渡良瀬川の大洪水で、鉱毒は流域三十万人に上る被害民を生み出す。田中は同二十四年の第一回帝国議会で、政治上の問題として早くも「人権・憲法・法」を軸に鉱毒問題質問書を提出する。
 だが質問書への回答は「原因不確定。防災設備も万全」であり、議会も行政府も古河の側にあった。しかも行政府は被害民に対し、古河の意を汲み示談攻勢を仕掛けた。中には五銭で「苦情がましき儀一切申出まじく候」と、理不尽な永久示談契約をさせられた者もいた。県議など有力者がその任に当たった。
 被害民は苛立ちを募らせ、同三十三年には川俣事件が起こる。請願運動に出発するため川俣の渡しに集った丸腰の農民たちに警官・憲兵が襲いかかり、サーベルで殴り百人余に怪我をおわせ、七十余人を捕縛したのだ。
 田中は同事件を「国の機関が古河市兵衛の小間使野郎の如くに使われている」と評した。
 政治の無力を痛感した田中は、天皇直訴事件などを起こすが、同三十四年議員を辞す。
 やがて「この窮民の一人を救い得ば、正造ここに死して少しも恨みなし」と被害甚大の谷中村に居を移す。以後被害民の辛苦を己が辛苦とし、大正二年九月四日癌で病没するまで、生を賭して被害民と共に戦い続けた。
 不思議な符合か、病没したのはかつて政治家を志し「三十五年の予算」をたてた、その三十五年目のことだった。享年七十二。
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