普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

さあ! もっと続けるぞ!

2019-06-19 20:58:11 | こんなことを考えた
ちょうど4年前の6月24日に、こんなブログを書いています。

「300000PV&125000IP OVER!」
2015-06-24 13:13:22 | 普通な人々<的>な
「200000PVを超えてから、皆さんの訪問数を報告することを止めていましたが、ちょっと感動で、報告します。
表題通りで、300000PV&125000IPを超えました。この数字の凄さを噛みしめています。
2010年にブログを始めてから、ここまで来れるとは正直思ってもみませんでした。偏に皆さんのおかげです。
300000を超えたから、なにか皆さんに記念品を配るとか、そういった企画はありませんし、それがどおした? と、ドラえもんに言われそうですが、なにかとても嬉しい。
きっとまだ先はあるのだろうから、その先を目指して書き続けます。」

というような内容です。
あれから4年で、カウンターを見るとPV「610000」、IP「250000」になっていました。

とりあえず「1000000PV」目指して、精進します。

ありがとうございます。これからもよろしくお願いします。

東京「昭和な」百物語<その53>留置場

2019-06-19 02:52:06 | 東京「昔むかしの」百物語
暴力行為の現行犯とやらで、逮捕・拘留された。1978年だか79年だかのことだから、昭和53か54年の、まだロッキンFの編集者だった頃のこと。

荻窪の駅前でサラリーマン風の男が、年寄に馬乗りになり殴りかかっている場面に遭遇した。なぜそういうシチュエーションになったのか分からぬまま、とにかくサラリーマン風の男の「殴る」という行為を止めさせようと、彼の腕を押さえつけた。

ボクのその行為が気に入らなかったのか、今度はボクに突っかかってきた。で、止むを得ず相手をしようかと身構えた矢先に、近くの駅前交番から巡査が2名やってきて、ボクとそのサラリーマンは交番に連れて行かれた。

ボクはそのサラリーマンの腕を抑えただけで、むしろ突っかかってこられた時に喉のあたりをつかまれ、痛みすら覚えていた。

ところが、サラリーマンには二人の連れがあった。その二人と3人で、まるでボクが連中に先に手を出したかのようなことを言い出した。

それはないだろうと、殴られていた爺さんを探したが、どこかにトンズラしてしまったようで姿はない。結局、ボクが悪者にされた。

そのサラリーマンと仲間は、ボクを告訴した。どんなつもりだったのか?

そこで、耳を疑う発言を巡査がした。

「こういう場合、見て見ぬふりをした方が良いんですよ」

そう言った巡査の後ろの壁に、「許すな暴力! 云々」と書かれた啓発ポスターが貼ってあったのを、今でも忘れない。

結局ボクは荻窪警察署の留置場に2泊3日する羽目になった。その間ボクは何番だったか忘れたが「○○番」という、聞きなれない呼ばれ方をされることになった。

爺さんを殴っていたサラリーマンも2泊3日したようだが、ボクとしてはどうにも釈然としない。納得もできない。で、取り調べには応じたが、ボクが暴力をふるったということに関しては頑なに否定した。留置場で出る食事にも、一切手を付けなかった。房の中ではずっと座禅を組んでいた。

荻窪警察署の取調官は、オリジナルの調書をサクサクと作成し、ボクに認めろと迫るがボクは認めなかった。

すると「何時までも帰れないぞ」と、テレビドラマにでも出てきそうなセリフを吐く。

ボクはそこそこに長髪だった。そして黒いジャンパーを着ていた。それは革ジャンなどではなく、レコード会社が宣材で作った黒い薄手の生地で背中にアーティスト名が白抜き文字で書かれた、一見して宣材とわかる代物だったが、警官はあくまで「革ジャン」でなければならないと言うのだ。

調書にはボクの風体が書かれていたのだが「革ジャンを着た活動家風の男」としてあった。

もうその一点で調書そのものを否定した。はじめの頃はボクをどうにかして拘留しておこうという警察の意志がありありとしていた。だが、話をしていくうちに、風向きが変わった。どうやら、もう一人の逮捕者・サラリーマン風の男の言い分が、二転三転したらしい。早く帰りたい一心で、ボクへの敵意もなにもどうでもよくなったのだろう。ボクの言い分の方が間違いないという流れになったようだ。それに加えて、ロック雑誌の編集者というボクの素性も納得し始めた。

取調官は、終いには「お願いだから認めてくれ」と言う。一度作った調書は、変えられないということらしかった。

ふざけるなとは思ったが、結局、腰縄に手錠を掛けられ護送車で地検に送られ、不本意だが「罪状」を認め、ボクは「晴れて」釈放された。

父親が荻窪警察まで迎えに来てくれたが、ボクを担当した取調官に「意志の強い青年」と評価されたことを告げられた。2泊3日も人の時間を奪って、なにを今さらと思った。

そしてボクを告訴したサラリーマン三人組は、当寺羽振りの良かったスーパー「ダ●エー」の社員だと教えられた。なぜそんなことを教えてくれたのか? 本来言うべきでもない、どうでも良い話ではないか。

おかげでボクには「歴」が一つ着いた。だがそれも、それほど嫌なものでもなかった。

昭和という時代は、アウトサイダーがかっこ良さげに見えた時代で、放っておいてもさしたる妨げにもならない、そんな価値観が普通にあったのだった。












東京「昭和な」百物語<その54>長髪文化

2019-06-14 09:55:45 | 東京「昔むかしの」百物語
髪は長かった。


1975年頃のボク

もちろんビートルズやストーンズなど、欧米のミュージシャン達の影響はあったが、それよりも「なぜ長髪にするのか?」と言う理由が肝心だった。

今考えれば、本当に面倒な意識構造を持っていた。だがそれは自分自身のアイデンティティを発見することと同義であり、その作業を抜きにした自分はあり得なかった。

ボクにとって昭和とは、そんな時代だった。

ただ、その理由はそう大したものではなかった。

曰く「自分の納得できない枠組みを形作る社会への、反抗」
「社会的枠組みの中での、自己主張」「ヒッピー的ナチュラリズム」……。

なにより「もてるかもしれない」と言う幻想。中には、「床屋に行かずに済む」と言う切実な理由もあった。金がなかったのだよ。

だが、そうした訳のわからない理由であるにせよ、ものを考えるというきっかけの一つではあった。

よく学生運動と長髪を結びつけることもあったが、それは、床屋に行かないというだけの結果で、体制への反抗、的な意識とは一線を画していたように、ボクは思う。

髪の長い奴は「左翼」、短い奴は「右翼」的な短絡的判断も、横行していた。

ボクは髪が長かった。時にはインディアンの如く三つ編みにしてあるいたりもした。それは端から見れば、バカ野郎のファッションと思われただけだ。

昭和の日々の中では、長髪というカテゴリーが誕生し、その後の若者文化の中で、ヘアファッションの一つのチョイスとして定着した。

長髪の誕生そのものは、結構ハードな哲学的背景もあったが、それは昭和という時代での話。

ただ、ボクには今でも長髪に対する抵抗感は、皆無だ。