ボクの子どもの頃、小学校の図書館は宝の山のようだった。
キラキラとたくさんの宝石のように、たくさんの作者の作品が所狭しと並んでいた。
小学校の低学年の頃に、ボクが読んだ本はくそ生意気なようだが、明治、大正期の文豪の作品だった。夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、樋口一葉、尾崎紅葉……父親の口から出てくる作家の作品を、探しては読んでいた。
読んだのは良いのだが、作品名は記憶していても、内容はうろ覚えという作品が少なくない。いつかまた少し大人になったら読み直そうと思っていたのは確かだが、実行できたのは数えるほどの作品だけだ。
特に芥川龍之介の作品が好きだった。なにか胸の奥底にぞわぞわとする別の生き物が巣食った感じの読後感が好きだった。
少し大人になっても、昭和、それも戦後の作家作品にはとんと興味がわかなかった。結局、明治、大正、昭和初期の作家の作品が、ボクの枕元に並んだ。
青春期に最も読んだのは、昭和初期のいわゆる「新青年」の作家群だった。小栗虫太郎、夢野久作、海野十三、国枝史郎……あの作家たちの博識と博学に圧倒されながら自分の抱える世界とは全く異なる異世界に心を遊ばせていた。
昔は布団に入り、お気に入りの灰皿を用意して煙草をくゆらせながら、これまたお気に入りの小さな手元の灯りで本を読むのが、普通のことであって至上の快楽だった。一晩を明かしてしまうこともよくあった。煙草が一箱なくなっていたこともある。小説はそれほど面白く、夢中にさせてくれるものだったのだ。
戦後昭和の時代、多くの作家が優れた作品を残しているのだが、ボクが明治、大正、昭和初期の作家作品を愛でたようには、平成、令和の青年は昭和の作家作品を読んではいないだろう。
なにか、昭和の頃にボクも感じた(きっと多くの青年も感じていただろう)明治、大正期の作家への憧憬、畏敬というたぐいの思いは、今の青年にはないのだろうと思う。
断っておくが、それは決して悪いことでも間違ったことでもない。文学、小説というものに対するアプローチの仕方、あるいは文学、小説そのものの在りようそのものが、ボクの時代とは全く異なっているだけのことだ。
それはレコード盤をストックし大事に音楽を聴いたボクの青春時代の音楽の聴き方と、音源をダウンロードし、自分のスマホで無数の音楽を好きなように何度でも聞ける環境での音楽の聴き方とが、まるで異なるように、次々と現れては通り過ぎていく一過性のものになっている現代の文学へのアプローチは、違って当たり前なのだ。
そうは言っても、ボクには現代の小説作品を読めない。温める暇もなく次々と現れる作品を消化できるほど、胃は丈夫でないのだ。
だから結局、まるでループミュージックを聴くように、ボクはお気に入りの作品を何度でも繰り返し読むことになっている。
今ボクの手元にあるのは、「トールキンの小品集」だったりする。読むのはもう7度目くらいか。1970年代に海外SF小説に巡り合って、日本の作家から離れてしまったボクは、今では海外作品ばかり読んでいる。
なぜなら、日常を全く感じないで済むからね。
頭の中で色々なことがぐるぐるとめぐり、言葉がまとまらない。また次の機会に続きを書くことにする。今日はここで、お開きに。
キラキラとたくさんの宝石のように、たくさんの作者の作品が所狭しと並んでいた。
小学校の低学年の頃に、ボクが読んだ本はくそ生意気なようだが、明治、大正期の文豪の作品だった。夏目漱石、芥川龍之介、森鴎外、樋口一葉、尾崎紅葉……父親の口から出てくる作家の作品を、探しては読んでいた。
読んだのは良いのだが、作品名は記憶していても、内容はうろ覚えという作品が少なくない。いつかまた少し大人になったら読み直そうと思っていたのは確かだが、実行できたのは数えるほどの作品だけだ。
特に芥川龍之介の作品が好きだった。なにか胸の奥底にぞわぞわとする別の生き物が巣食った感じの読後感が好きだった。
少し大人になっても、昭和、それも戦後の作家作品にはとんと興味がわかなかった。結局、明治、大正、昭和初期の作家の作品が、ボクの枕元に並んだ。
青春期に最も読んだのは、昭和初期のいわゆる「新青年」の作家群だった。小栗虫太郎、夢野久作、海野十三、国枝史郎……あの作家たちの博識と博学に圧倒されながら自分の抱える世界とは全く異なる異世界に心を遊ばせていた。
昔は布団に入り、お気に入りの灰皿を用意して煙草をくゆらせながら、これまたお気に入りの小さな手元の灯りで本を読むのが、普通のことであって至上の快楽だった。一晩を明かしてしまうこともよくあった。煙草が一箱なくなっていたこともある。小説はそれほど面白く、夢中にさせてくれるものだったのだ。
戦後昭和の時代、多くの作家が優れた作品を残しているのだが、ボクが明治、大正、昭和初期の作家作品を愛でたようには、平成、令和の青年は昭和の作家作品を読んではいないだろう。
なにか、昭和の頃にボクも感じた(きっと多くの青年も感じていただろう)明治、大正期の作家への憧憬、畏敬というたぐいの思いは、今の青年にはないのだろうと思う。
断っておくが、それは決して悪いことでも間違ったことでもない。文学、小説というものに対するアプローチの仕方、あるいは文学、小説そのものの在りようそのものが、ボクの時代とは全く異なっているだけのことだ。
それはレコード盤をストックし大事に音楽を聴いたボクの青春時代の音楽の聴き方と、音源をダウンロードし、自分のスマホで無数の音楽を好きなように何度でも聞ける環境での音楽の聴き方とが、まるで異なるように、次々と現れては通り過ぎていく一過性のものになっている現代の文学へのアプローチは、違って当たり前なのだ。
そうは言っても、ボクには現代の小説作品を読めない。温める暇もなく次々と現れる作品を消化できるほど、胃は丈夫でないのだ。
だから結局、まるでループミュージックを聴くように、ボクはお気に入りの作品を何度でも繰り返し読むことになっている。
今ボクの手元にあるのは、「トールキンの小品集」だったりする。読むのはもう7度目くらいか。1970年代に海外SF小説に巡り合って、日本の作家から離れてしまったボクは、今では海外作品ばかり読んでいる。
なぜなら、日常を全く感じないで済むからね。
頭の中で色々なことがぐるぐるとめぐり、言葉がまとまらない。また次の機会に続きを書くことにする。今日はここで、お開きに。