普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

あめにぬれて、歩く

2019-02-28 11:27:18 | 普通な生活<的>な
ボクの幼い頃、世界は無頓着に核実験を行っていた。地下核実験施設など作るのは、かなり後になってからの話しで、あちこちの海で(ことに太平洋、インド洋辺り。なぜなら欧米にはあまり影響のない海だからね)ドカンとドカンと爆発させていた。

日本の新聞の論調は、世界唯一の被爆国がまずありきで、「爆発させた核爆弾は、広島型原爆◯◯個分」という、型にはまったものだった。

同時に、核による影響の悲惨さも一応は忘れずに書いていた。

その事が、現実のものとなったのが、1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験に巻き込まれる形で被爆した第五福竜丸、そして久保山愛吉船長の話だ。

驚くことに、あれから65年も経っている。

具体的な歴史的事実は、それぞれ調べてもらうとして、この事件は当時5歳だった子供心にも相当ショックだった。

その事が、おそらくボクの心に刷り込まれていたに違いないのだか、世界で行われていた核実験の影響で、降る雨には放射性物質が含まれていると言われ、その雨を当時「黒い雨」と称した。

だから、雨の日に傘をささずに歩くなどは言語道断、「シンギン・イン・ザ・レイン」などと鼻唄混じりに踊るなどあり得ないことだった。

ボクが、雨に濡れて歩くことができるようになったのは、実はごく最近の事、ようやく10年ほど前に、雨に濡れて歩く快感を知った。

今日、久しぶりに雨が降っています。

傘をささずに、鼻唄を歌いながら、駅まで歩きましたよ。

なかなかの、解放感。
コメント (2)
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東京「昭和な」百物語<その51>歌舞伎町

2019-02-25 08:58:49 | 東京「昔むかしの」百物語
やくざが仕切っている一角。

そういう認識が、一般的なのは今も変わらない。

ただ、仕切っているやくざの質が違う。昭和の頃は、日本のやくざ、それが中華系に変貌し、いつの間にやら、韓国系にとって変わられた。

国際化しているのだ。

昭和のやくざには、まだ任侠という言葉がついて回ったが、どんどんとドラスティックになり、昭和の情緒的な雰囲気は完全に駆逐された。

地回り中のチンピラに、酔った勢いでちょっかいを出し、歌舞伎町中を走り回って逃げたことがある。逃げ切ったが、酔いは回った。

さすがに怒らせるとまずかった。

だが、それでもまだ、やくざと一般人との間には暗黙の了解があり、手を出されることは、少なかった。

いまのような、本当にヤバイという雰囲気はなかった。

多くの飲み屋が、潰れもせずに生き永らえていた。

この、生き永らえていた感こそ、昭和なのではあるまいか。

最近の歌舞伎町に足を踏み入れた時、そんな気がした。

どんどんと、新陳代謝が進み、暫く無沙汰すればもう違う町感が漂う。

ボクにとっては、昭和的な歌舞伎町が、恋しくはある。

それはまさに、日本のやくざの仕切りだったからこその雰囲気だったのかもしれない。
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東京「昭和な」百物語<その50>東京都美術館

2019-02-11 23:16:01 | 東京「昔むかしの」百物語
モノの弾みということが、昭和にはあった。

自分の思いとは全く別の、選択肢というのではなく、突然思いもしなかった道が目の前に立ち現れる感じが、言葉としては一番近いかもしれない。

あれは昭和50年頃だった記憶がある。

東京都美術館という、非常に長い歴史を持った日本で最初の公立美術館だった東京府美術館が、昭和18年に東京が都制へとシフトし府から都に変わり、昭和43年には新館建設の準備委員会が立ち上がり、昭和50年に新しい美術館として3つの機能を掲げ生まれ変わった。
三つの機能とは、

(1)美術館が主体性をもって企画展を進め、現代美術の秀作を収集し、常設展示を充実させる「常設・企画機能」
(2)公募団体の要請に応えられる規模と設備を整え、作家の技量を発揮できる場とする「新作発表機能」
(3)都民の文化活動を促進するために、美術研究、創作活動、美術普及の場を提供する「文化活動機能」

この三つだった。

おそらくこの3番目に関してなにかできそうだと思ってくれたのだろう、当時のボクの創作活動を知る知人が一緒に講堂の杮落しのイベントをやらないかと声を掛けてくれた。

それが誰だったのか、ハッキリとは覚えていないが、ボクは舞台監督的な立ち位置で協力したと思う。主体は武蔵野美術大学の卒業生だったかもしれない。

天下の東京都美術館のイベントを、どこの馬の骨ともわからない一介の自称クリエイターレベルの人間に任せるというのは、尋常ではない。

その当時、落語家からパントマイマーに転身した「好ちゃん(その後、残念ながら30代の若さでガンでこの世を去った)」をステージに引っ張り出し、舞台転換を自力でやりながらイーゼルに置かれたキャンバスの絵を、次々に複数枚、複数人で完成させていくというようなイベントもやった。

こんなことは、今の時代には絶対ありえないことなのだと思う。

イベントそのものの観客動員は芳しくなかったが、その経験は大きな影響をボクに与えた。

そこに座すべき位置を据え、その後に繋げていれば、僕の人生も変わったものになっていたことだろう。ボクはそうしなかった。

こんなことは昭和には当たり前に起きていた。自分の身をどこに置き、連れていくかによっては、思いもしない世界への扉が開かれた。

そういう意味では、なにか社会という規範にがんじがらめにされ、社会の成り立ちも合理性やらデジタル的な計算と、外れることの許されないマニュアルでできているような平成以降の世の中では、絶対に起きそうもない人間の可能性が感じられる時代だったことは確かだ。


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