普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

芝居。

2012-01-31 21:26:12 | 普通な人々<的>な
 どれほど真剣に取り組まなければならないものか!

 いまから20年ほど前に、およそ20年近いブランクを越えて、下北沢の駅前劇場で芝居をさせてもらったことがある。深田良介という文学座から悠木千帆(現在の樹木希林)らが立ち上げた六月劇場だったか、とにかく日本のアンダーグラウンド演劇のある部分を確実に担っていた男の作品。深田良介が「昭和の総括が終わっていない」とボクを誘ってくれたのだ。
 一週間ほどの公演だったかな。ボクは、正直まったく科白も入らず、舞台上の段取りもおぼつかない状態で舞台に立った。いま考えれば顔面蒼白ものなのだが、その時のボクは、なんだか浮き足立っていて、なにをしていたのかも思い出せない。ただ、昔取った杵柄的な感覚だけで芝居をしたような気がする。その程度の取り組みでいい結果が出るわけもない。
 自分の芝居がどれほど他のメンバーに悪影響を与えているか、肌でビシバシと感じながら千秋楽まで芝居を続けた。

 あの時、皆どう思っていたのだろう? なんやこいつ!? と思っていたのだろうと思う。なめるなよ、と。

 残念ながら、ボクはそうしたことへの配慮もなく、漫然と芝居を続けた。そして、いまでもあの時の芝居を振り返るたびに、冷や汗と、悔恨の繰り返しなのだ。取り返しがつかないのは承知。

 だが、いま、また芝居がしたい。もう、あの時のようなことは決してないのだが。
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今日、新年会でした。

2012-01-31 01:35:09 | 普通な人々<的>な
 今日、仕事先の新年会で、先ほど帰宅。五年ぶりに上野の精養軒へ。

 以前仕事をしていた、さる社団法人のお偉いさんが、ことの外精養軒が好きで、なにか事あるたびに精養軒で打合せでした。ちょっと極端だけどね。

 フランス料理には定評がある精養軒ですが、ビュッフェスタイルの料理もおいしゅうございました。

 それはそれとして、書きたいことは山ほどあるのだが、地震に胸を塞がれて、ここのところ書き損じている。

 気を取り直して、また色々書き記すことにしようと思う。

 それにつけても。地震が近いような気がするのは、否定できない。
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ちょっと胸が圧迫されてます。

2012-01-29 17:48:16 | 普通な人々<的>な
 4時46分の地震以降、胸苦しい感じです。
 お尻の下から突き上げるような地震でしたが、立川市は震度1だったそうで……。正直とてもそうは思えない揺れでした……。
 
 なんだか嫌な感じですね。
 昨日の朝といい、これまでになかった場所での地震のような気がしますが、このまま収まってくれればいいんですが。
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危険なのは、立川断層だそう……。

2012-01-29 15:29:35 | 普通な人々<的>な
「政府の地震調査研究推進本部は27日、マグニチュード7.4の地震が想定されている立川断層帯(東京都、埼玉県)の重点調査を来年度から始めることを決めた。
 震度6弱以上の揺れに見舞われる推定人口が1300万人と多いためで、3年程度かけて断層の形状や活動履歴を詳細に調べ、予測の精度向上につなげる。
 同本部によると、立川断層帯での想定地震の発生確率は、今後30年以内で最大2%と評価しているが、過去の活動を直接示す十分な資料がなく信頼度は低いとしている。一方、東日本大震災による地殻変動の影響で、発生確率は高まっている可能性があるとしている」(2012年1月27日19時57分 読売新聞)

 というような記事を読んだ。よくもシレッとボクの居住する地域の危険性をアピールしてくれたものだ。それにしても、立川断層の地震発生確率は「30年以内が0.5%~2%、50年以内が0.8%~4%、100年以内が2%~7%」(平成23年6月9日の地震調査委員会発表による)と、それほど高くないようにも思われるが、これは立川断層由来の活断層地震発生確率であり、他の地震との連動で起きる可能性を加味していない。「今後30年以内に70%の確立で発生」と予想されている、首都直下地震、多摩直下地震等との連動を考えれば、立川断層の危険性は、飛躍的に高まると考えるしかない。

 胸の「ワサワサ」感は、抜けたり舞い戻ってきたりで、ハッキリしない。ま、地震とは関係なさそうだが……。
 
 ちなみに我が家の近くを通っている立川断層は、娘の通っていた小学校の下を通っている。
 最も護らなければならない子供達をおよそ無視した学校建設だなと、行政の姿勢に不信感を抱く父兄も多いと聞く。そりゃそうだな。子供達を通わせて、本来ならその場こそが避難場所になるほど安全であるべき学校が、最も危険な場所なのだから、ことがあれば親御さんは真っ先に学校から子供を避難させなければならないという、なんだかおかしな対応をせざるを得ないのだ。

 なんにしても、大地は揺らぐ。それは避けられない宿命のようなもので、それが最小のものであることを祈るしかないのだ、人間は。
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早朝の地震にびっくり

2012-01-28 13:22:32 | 普通な人々<的>な
 寝ていて、腰の辺りに微震動が伝わってきて目が覚めた。朝の7時43分だったらしい。寝ていて時間など判別もできなかった。すぐ点けたテレビのニュースはそう言っていた。
 耳を澄ますと、地鳴りを伴っているようにも思った。それから数分後にまた、同じような微振動を感じた。どちらかといえば、こちらの方がハッキリとして大きな揺れのように感じたが、ニュースで見ると、43分の揺れの方が大きかったそうだ。

 昨日のブログに「地震が近いのか?」と書いたが、胸の「ワサワサ」した感じが、いまは半減している。なくなったわけではない。震源が近いということで何かを感じていたのかもしれない。

 いずれにしてもこれは地震予知でもなんでもなくて、ただの偶然と思う。他にも心配事はたくさんあるのだから、「ワサワサ」感はそっちからきているような気もするのだ。

 なんにしても、ようよう怠りなきよう。
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地震が近いのか?

2012-01-27 10:36:10 | 普通な人々<的>な
 確かに予言や予測の類いは若い頃から好きで、よく目にしていた。だが、地震を予感したり、予知したりしたことなどはない。それほどボクは感度が良くないらしい。

 地震に関しては、ボクの両親がいずれも関東大震災の被災者だったし、なにより奥さんの家族は95年の阪神淡路大震災の経験者、というより全壊指定地域の居住者だった。
 阪神淡路大震災に関しては、多くの被災者に話を聞き、実際の被災地もつぶさに記憶に焼き付けて、身震いはするがそれでも実際の揺れは知らない。高速道路をなぎ倒す揺れがどんなものなのか、知る由もない。

 だが、阪神淡路大震災の時、不思議な経験をしている。
 おそらく、日本の中で被災地域以外の人間で最も早く阪神淡路大震災を知った人間の一人は、確実にボクだという経験。

 神戸在住の義母が、地震の起こった直後に電話をかけてきたのだ。1月17日午前5時47分を過ぎていなかったと思う。早朝の電話で、ボクは不機嫌に電話に出たと思う。

 すると電話の向うで、義母が「地震や」という。「そっちは大丈夫か?」というようなことも言っていたが、酷く興奮しているのが瞬時にわかった。「お義母さん、どうしました?」。ボクの問いかけに義母は「あっ!?」と言って「またあとでかけ直すわ、こっちは大丈夫だから」と言って電話を切ってしまった。

 ちょっと狐につままれた感じでボクはすぐに、寝ている奥さんに「お義母さんから『地震だ』と電話があったよ」と伝えた。
 正直なところ、地震といっても過去にそれほどの揺れを体験していないから、経験値の範囲内で想像をめぐらすしかない。
 奥さんも「フーン?」と言って、その時は布団から出てもこない。だが、次の瞬間「テレビを点けて」と跳ね起きた。
 テレビを点けたのは、義母からの電話が切れた、1分後くらいだろうから6時にもなっていなかったろう。
 
 NHKの画面は、地震速報の地図上の震度表示画面だった。神戸の周辺は震度が刻まれていたが、神戸を中心とした地域は、空白だった。しばらくは、それ以外なにも映らなかったのだが、突然NHKのアナウンサーの姿が映し出された。
 彼は、地震があったことを告げていたのだが、ボクも奥さんも、言いようのない衝撃を受けた。アナウンサーの背後に、横倒しになったビルが映っていたのだ。

 「生田(神社)さん」の北側の道沿いにNHKはあったのだが、NHK前からの中継画面で、NHKから三宮駅方面が写され、確かに横倒しになったビルが映っていたのだ。
「あのビル、お父さんのお得意さんのビル」と奥さんは言って絶句し、電話に取り付いて神戸と連絡しようとしたが、すでに回線は繋がらなくなっていた。

 それから数日もおかず、奥さんもボクも別々のルートで神戸に入るのだが、その話は、いずれまた。

 あとで聞いた話だが、義母は、同じ神戸(といっても六甲山を挟んだ反対側の三田)に住んでいた奥さんの姉・長女の家に電話をしたつもりだったらしい。それでもその間違い電話のお蔭で、多くの人が何日も連絡のつかない状況が続いた中で、少なくとも両親の無事だけは確認できていた。それはどれほどありがたいことだったか。

 この何日か、正直なところ、胸の辺りがワサワサする。それがなにに由来するのか判らない。ただいままで感じたことのない感覚で、戸惑っている。動物特有の地震感知能力なのかもしれないと思ったりもする。感度は低いはずのボクだが、なにか嫌な感じなのだ。

 とりあえず気をつけていよう。だからどうなるというわけでもないのだが……。



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Be Happy!!

2012-01-26 22:47:24 | 普通な人々<的>な
 皆さん、幸せになってください。

 大人も子どもも、男性も女性も、背の高い人も低い人も、色の黒い人も白い人も、日本人も外人も、太った人も痩せた人も、足の早い人も遅い人も、持てる人も持てない人も、もてる人ももてない人も、泣き虫も笑い上戸も、帽子が似合う人も似合わない人も、いま暖かい人もそうでもない人も、彼女や彼氏がいる人もいない人も、今年年賀状を出した人も出さなかった人も、両親が逝ってしまった人もそうでない人も、子どもが生まれた人も生まれてない人も、試験を受ける人も受ける予定のない人も、車に乗っている人も車に乗られている人も………その他ありとあらゆる人が幸せになって欲しいと思います。

 ただ一つ条件があります。

 人を不幸にしないこと。
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思い出したこと。初めて食べた中華そば。

2012-01-24 00:17:04 | 東京「昔むかしの」百物語
 ボクが初めて食べた中華そばは、上板橋の自宅アパート目の前にあった、鄙びた中華料理屋の「支那そば」だった。昭和30年頃のことだった。ボクはまだ小学校に入る前。店の名前は残念ながら覚えていない。

 上板橋のアパートは、東武東上線上板橋駅から、上板橋東映のあった商店街を抜けて川越街道を渡り、路を入ったすぐ右手にあった。
 典型的なハモニカ長屋で、暗く狭い中央通路の両脇に、6畳と4.5畳の部屋が幾つも連なっていた。廊下の電気は裸電球、トイレは共同。水はポンプ式の井戸だった。

 そこに引っ越した当初、川越街道を牛が引く大八車が行き来していた。馬も荷車を引いていた記憶がある。

 その鄙びた中華料理屋の出す支那そばは、決して奇をてらったモノではなく、本当にオーソドックスで透明な醤油ベースのスープに縮れ麺、ナルト、ほうれん草、周りの赤いチャーシュー、支那チクが行儀良く乗っていた。美味しかった。

 昭和33年になると、インスタントラーメンの先駆けといえる、日清のチキンラーメンが発売され、店に行かなくなった。それはチキンラーメンが美味しかったからだ。
 ただボクの記憶には、チキンラーメン以前に、インスタントラーメンの前段階とでもいえるような、棒ラーメンが発売されていたような気がするのだが……。
 
 チキンラーメンは一袋35円だったが、鄙びた中華料理屋のラーメンは45円だった。当時、インスタントラーメンを食べ続けると、胃に穴が開くと、まことしやかなデマが流れていたのも思い出した。誰がどのような意図を持って流したデマなのか、いまとなっては知る由もないが、ノーマルに考えれば、支那そば屋が流したと考えるのが普通だろうか。

 ボクが6歳から10歳にかけての間上板橋に住んでいた。その最後の1年くらいで、鄙びた支那そば屋はなくなった気がする。

 本当は、あの支那そばをもう一度食べてみたい。
 それと、近くのお大尽「小宮家」の令嬢だった、由紀子姫に会ってみたい。なぜか貧乏人のボクと彼女は仲が良く、近所のガキの中では、ボクだけが小宮家に出入り自由だった。なんだかいろいろなことを思い出してきたぞ……。!!!
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怒りを込めて、背中を注視!!

2012-01-22 13:45:11 | 普通な人々<的>な
 1950年代半ばにジョン・オズボーンの「怒りを込めて振り返れ」という戯曲が発刊されました。それは演劇青年となったボクにも、ある種の通過儀礼とでも言える避けては通れない戯曲で、後に60年代後半になり古本屋で買って読みました。後に映画にもなりましたが……。

 正直、面白くなかった。タイトルのインパクトは物凄いものがありますが……。

階層差別的、階級闘争的問題になんの解答もない、そういう戯曲。当時で言えばブレヒトなどの方がはるかにわかりやすく、イギリスの戯曲ということで言えば、オズボーンやアーノルド・ウェスカーらと同様「怒れる若者たち」の一人といわれた「ダム・ウェイター」などのハロルド・ピンターの方がはるかに面白かった! 人それぞれの好みですが……。

 で、「怒りを込めて…」ですが、オズボーンは「振り返」るわけですが、ボクはなにをするか?と言えば「注視」することしかない。なにをかといえば「背中」、この国を領導する方々の「背中」なわけです。

 正直「怒りを込め」て物事を見なければいけない時の様に思います。あまりにも怒りを忘れていた時間が長すぎたようにも思います。文句を言うのではなく、愚痴を言うのでもなく、ハッキリと怒りを口にすべき。そう思います。

 福島第一原発に対しても、震災復興の遅さに対しても、消費税増税に対しても、怒りを表に表さなければいけない。そう思います。いろいろの判断材料は有るけれど「山本太郎」くんを見ていてそう思いました。

 そして怒りの視線で、この国を正しい方向へと導くことが、後の世の民のためになるのだと感じています。領導者の背中が歪んだら、襟首を掴んで正す。

 問題は、その正しさが何人にとっての正しさであるか、常に明らかにすると言うことでしょうか。

 
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ボクの体の三分の一は、立ち食い蕎麦でできている

2012-01-21 22:36:34 | 東京「昔むかしの」百物語
 テレビを見ていたら、「嵐にしやがれ」で映画監督の大根 仁氏が、嵐の桜井くんに立ち食い蕎麦の極意を伝授していた。

 ボクもすでに高校生の頃から立ち食い蕎麦を食べていた。たぶん、立ち食い蕎麦としては草分けの店だっただろう。高校時代は中央線の荻窪に住んでいた。南口駅前のパチンコ屋の隣に名前は「富士そば」だったか正確な記憶はないのだが、立ち食い蕎麦屋ができた。初めて食べたときに「気楽になんとうまいものか!」と思った。それから病み付きになったというわけ。

 とにかく好きで、毎日食べてもなんの痛痒も感じないほど。さすがに三食とも立ち食い蕎麦というのはキツイかもしれないが、高校時代からだから、かれこれ45年ほど食べ続けていることになる。
 これまでにいったい何食くらい食べているのだろう?

 十何年か前に、「サラリーマンの体のほとんどは、マックでできている」と言う言葉があったが、はっきり言って、ボクの体の三分の一は立ち食い蕎麦でできている。

 ボクの中には立ち食い蕎麦にも流行があって、荻窪駅前の店がなくなるまではそこがベースで、新宿に行けば「梅もと」というように、先々で行きつけの店があった。だが、いまではかつて食べた店はほぼなくなっている。渋谷に好きな店があったが駅前の再開発で、なくなった。

 最近も時々食べる。「小諸」か「ゆでたろう」が最近の流行。

 前にも書いたかもしれないが、浅草橋に行けば出向く店がある。「笠置そば」という幟が立っていて、店自体は串揚げ屋の提灯が下がり、看板には「立ち飲み屋 ろくでなし」とある。どれを目指していけば良いのか……と思いながら、立ち食いそばを食らう。駅のすぐそばのガード下にある。頼んでからてんぷらなどは揚げてくれる。蕎麦も良い。
 いまは、そこが一番の店かな。ただ、浅草橋にあまり行かないのが、残念。

 今度家で蕎麦を打ってみようかと思っている。ただ、ボクは蕎麦が好きというわけではなく、立ち食い蕎麦が好きなだけなのだけどね。

 だが、もっと好きなものがあって、それはラーメン、中華蕎麦。この話は近々に。
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「ALWAYS三丁目の夕日'64」 第三弾!

2012-01-20 14:44:59 | 東京「昔むかしの」百物語
 「ALWAYS三丁目の夕日'64」の公開が明日に迫った。テレビの芸能コーナーには、出演者の堀北真希ちゃんや、小雪さんなどが入れ替わり出演して、公開ムードを盛り上げている。

 今回は「東京オリンピック」の開催された「'64」年が舞台だそうで、ボクら程の年配者は、青春まっただ中で、映画とは無関係にその時代を思い出すだけで、意外にも身体が熱くなったりする。

 '64年、ボクは15歳。中学3年だった。この年は新幹線の開業した年でもあったが、ボクらの修学旅行(to 京都)は、まだ品川発の修学旅行専用列車「日の出」号だった。

 東京オリンピックで忘れられないのは「東洋の魔女」「裸足のアベベ」、そして重量挙げの「三宅義信」と「ジャボチンスキー」だろうか?

 同じ年、ベトナム戦争は激化の端緒を踏んだ。歴史上最大規模のM9.2というアラスカ地震が発生したのもこの年。

 思えば青春のバイブルのようだった「平凡パンチ」が創刊されたのも確かこの年だった。

 良い時代といえば良い時代だった。明日があった。未来を語ることができた。
 貧しくはあったが閉塞感はなかった。戦後、すべてを失ってゼロから出発した日本国民にとって、わずか19年でオリンピックを開催したことの誇りと自信は、未来への大きなバネになった。それは中坊のボクでも感じた。

 いまの若者は、自分の生きた時代に何かを感じ、思い出したい記憶、思い出して高揚するような記憶を持てるのだろうか? おそらくボクらのような、共通の記憶、同じ価値観といった記憶ではなく、もっと個人的な記憶しか持てないのではないだろうか?

 前2作は楽しく観た。「ALWAYS三丁目の夕日'64」はどんな気分にしてくれるのだろう? 正直なところ、映画もいいのだが、ビッグコミックオリジナルに連載されていた西岸良平さんの漫画にこそ、ボクの「三丁目の夕日」は輝き続けているのだが…。
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びっくり!

2012-01-20 14:07:54 | 普通な人々<的>な
 怖ろしいほどのリアクション。自分と娘の宣伝をした途端に閲覧数激減! ま、そんなものでしょうか。皆さん鋭いね! でもまた機会があったら紹介するんだ!
 
 気分を変えて。

 大いなる災いが近づいているという、ご託宣を下してくれる方々が大勢いる。半ば信じられるものと、そうでもないものとの分岐点はどこにあるのか?

 最近気がついたのは、誰のためにご託宣を下しているのかという点。当たり前のことだが、遍く一般の人々へのご託宣であれば、一応信頼できる。そのご託宣が正しいか、当たっているかということはさほど問題ではない。姿勢の問題。

 一番信頼できないのは、言いたいことを言っている予言者めいた人たち。言うことに価値があり、伝えることには重きをおかない。自分本位ということでもあるのだろうか?

 その逆の、良い一例。

 地震予知をする方の中で、ボクがよく拝見するのが、「みゆ吉」さんのブログ。なにか親近感を感じてしまうような内容で、好きです。
 「みゆ吉」さんの19日のブログは、以下のような内容でした。

「2012/ 1/19 去年の今頃~ 2012-01-19 13:41:00 miyukichikunの投稿
テーマ:ワケワカランヽ(;´ω`)ノ

過去記事を読んでみたのですが、去年の1月後半に似ているのかなと思いました。

なんだろう?なんだろう?って、初めて体験する体感に、積み重ねてきた予測を合わせてみて、有り得ないだろうと思い始めてきた頃です。

その頃の体感を経験したのですが、今回またそれと似たような感知をしているとしても、何しろ2回目ですので(汗)よく判らないが正直なところです。

昨夜も更新したい、警戒を呼び掛けたい気持ちを必死で抑えていたんです。
体感がキツすぎて、ほとんど眠れていません。

今、超高音ピーーー‥‥が強く感知されていますが、耳より上の方で聞いていますので九州以南、沖縄か台湾辺りかもしれません。

昨夜から焦るほどのボリュームとほぼ振動と言っていいくらい強い床の震えを伴っている巨人の足音ですが、宮城沖まで北上してきたようで、只今も継続中です。

ゴォォォ‥‥(関東~中部地方)も鳴り止んでいません。
この音で耳が詰まっている感じでしょうか。

あまりにも大きな存在感を地球から感じています。
人間なんかにゃどうする事もできないなと。
そんな事を思わせるアピールっぷりだと伝えておきますね。

浸水した区域に戻るなんて、私には全く考えられません。
私の個人的なトラウマなだけなのかもしれないですが、この体感を受けていたら皆そう感じるのではないでしょうか~(>_<)
眠っていないからマイナス思考なのかも。

今すぐ揺れてもおかしくない感じがしていますが、また数日~数ヶ月後の発震になるのでしょうか。

震災後に自分で検証していないので、私が過去記事を読み返してみても記録の意味がなかった‥‥(ToT)

それでも、淡々と体感を記録する事は続けていこうと思います。

足の裏にも微震動感じています。

こんな程度できっとご期待には添えないとは思いますが、どうぞ防災意識をしっかり持っていましょうね。

それでは~m(_ _)m 」

 ボクは結構信じてる。だから、ちょっと警戒しようと思う。



 

 
 

コメント (1)
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アメリ!!

2012-01-18 00:18:26 | こんなことを考えた
 娘のイラストを掲載したが、ライナーを書いたのはボクだった。
 その拙文をここに掲載する。そのイラストとして、彼女の残る2作品を載せることにする。

【 オルゴール・カフェ SMILE 】

「カフェ」といえばパリ。パリっ子の日常の中に「カフェ」はある。
ゴッホ、ユトリロ、ドガ……多くの絵描きがパリの「カフェ」を描いた。
さまざまの芸術作品の中に描かれた「カフェ」だが、そんな中に「カフェ」は人生の縮図、そんなことを思わせてくれた映画があった。
 ちょうど10年前の2001年4月に上映され、フランス映画史上最大のヒット作と言われた「アメリ」だ。日本でも大人気を博した。



Ⓒ 早希 2011

 主人公アメリ・ブーランを演じた主演のオドレイ・トトゥは、06年には「ダヴィンチコード」、09年には「ココ・アヴァン・シャネル」に主演するなど活躍の場をハリウッドにまで広げているが、やはり彼女にとって女優としての最高のキャリアとなったのは「アメリ」に他ならない。繊細で、それでいてエスプリの効いたユーモアすら感じさせる少女の精神世界を見事に体現した。
 彼女を起用した監督のジャン=ピエール・ジュネは、後にハリウッドで「エイリアン4」を手がけるなど多才な監督だが、「アメリ」ではことのほか豊かな、一見歪んだようにさえ見えるアメリという少女の精神世界が、日常の中に違和感もなく解き放たれている様を描いて秀逸だった。
その舞台は「カフェ」だった。



Ⓒ 早希 2011

 アメリが家を出て自分の人生をスタートさせ働き始めた「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン(Cafe des 2 Moulins)」こそ、その舞台となったお店。「カフェ」こそ人々が集い、笑い、泣き、怒り、喜び、生きる格好の回り舞台だと、ジャン=ピエール・ジュネ監督は知っていたに違いない。映画の中でも秀逸だったのは、モンマルトルの「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン」に寄り集う人々の人間模様だ。この店は実際にモンマルトルに現存していて、いまでも当時のままに営業している。そして映画はこの「カフェ」を舞台に進行していく。
 そしてジュネ監督は「カフェ」という回り舞台には、必ずといっていいほど、人々を酔わせる音楽があることも、どうやら知っていたようだ。
 アメリには「アメリのワルツ」はじめ、ワルツを主体としたオリジナリティ溢れる音楽が使われていた。ヤン・ティルセンがアコーディオンや、ヴァイオリン、おもちゃのピアノ等を駆使して紡ぎだしたメロディーは、映画音楽として主人公・アメリの人生を豊かに表現したのはもちろんだが、おそらくは現実世界の無数のアメリにとっても、自分の人生を見事に飾る音楽になり得たろう。
 人生を彩る音楽に出合う、それは大きな喜びだ。音楽は、人生という舞台になくてはならないもの。人生の節目節目に、必ずといっていいほどその時代を映し、その時の自分に寄り添うような音楽があるものだ。
 いまここにオルゴールで奏でられた『オルゴール・カフェ SMILE』がある。全32曲。ほとんどが多くの人々と出合い大きな影響を人々に与えたJ-POPの名曲たちだ。
 言い方を変えれば、誰でもが一度は聴いたことがあるに違いない名曲たち。
 この中には、きっとアメリにとっての主題歌「アメリのワルツ」のような、あなた自身の主題歌が紛れ込んでいるかもわからない。

そういえば、映画「アメリ」のおかげで当時大人気となったスイーツがある。



Ⓒ 早希 2011

「クレーム・ブリュレ」。焦がしプディングのことで、カスタードの上を覆う焼かれたカラメルの層を「スプーンで割ること」が、可愛いアメリの趣味の一つだった。
 こんな屈託のない明るく元気な生き方をしようと、『オルゴール・カフェ SMILE』は囁きかけてくるようだ。
<音楽ライター 加藤 普>
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70000PV超!!

2012-01-16 16:13:36 | 普通な人々<的>な
 昨日、70000PVを超えました。ありがとうございます。

 仕様もない内容から、そこそこにシリアスなものまで、飽きもせず目を通していただき感謝感謝です。

 毎回写真を載せようかと思ったこともありましたが、載せ方が判らず断念しました。当時、携帯での投稿がマイブームだったので……。

 そこはそれ、判らんものはわからんということで。

          ★                     ★

 70000という区切りのいい数字なので、何かしたいと思い、今日から、娘のイラスト作品を少しずつ紹介します。

 興味があれば、コメント欄にでも書き込みを。

 第1回目は、オーマガトキというレコード会社の、オルゴールCDのライナー用に書き下ろした3枚のイラストのうちの1枚。

 映画「アメリ」の舞台になった「カフェ・デ・ドゥ・ムーラン(Cafe des 2 Moulins)」をイラストにしています。

(Cafe des 2 Moulins)



Ⓒ 早希 2011  
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なんという邂逅!

2012-01-13 12:17:15 | 音楽にまつわる話<的>な
 昨晩、新星堂の関連レコード会社であるオーマガトキの新年会に参加した。非常に気持ちの良い新年会だったのだが、そこで思いもかけない邂逅があった。

 本当に30年振りの出会い。1976年当時、インターソングという音楽出版社で、デビューしたてのエアロスミスのプロモートを精力的にやっていた新井廸久氏。その後いくつもの音楽出版社で経営に参画し、今はソニー・ミュージックパブリッシングのスーパバイザーであるとのこと。

 本当に30年前までは毎晩のように一緒に飲んでいた。飲めば新井氏はメキシコへいっていた経験もあって、「花祭り」を弾き唄ってくれた。それはすばらしいパフォーマンスで、飲めば必ずせがみ聴かせてもらったものだ。

 そんな当時の空気感に一気に包まれたような印象で、余計に昨晩の新年会は、「殊更に」気持ちが良かった。

 さまざまな邂逅・出会い、そして別れも経験しながら人は生きていくものなのだが、心地よい出会いはとにかく大事にしたい。もちろんそればかりでは人は進歩しないものだが、それでも心地よい出会いは、人の心を豊かにする。

 近いうちに、新井さんの「花祭り」を聴かせてもらいたいと、本気で思っている。
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