普通な生活 普通な人々

日々の何気ない出来事や、何気ない出会いなどを書いていきます。時には昔の原稿を掲載するなど、自分の宣伝もさせてもらいます。

東京「昭和な」百物語<その46>広告の形

2018-09-29 01:32:13 | 東京「昔むかしの」百物語
昭和30年代。正確な年代は覚えていないが、ボクが上板橋に住んでいた頃だから昭和33年前後のことだと思う。

良く青空をバックに結構な低空飛行で複葉機やセスナ機が飛んだ。それらの飛行機は、ビラをまき散らして飛んだ。

今で言えば、B6サイズくらいの色付きのざら紙に、デパートや大きな商店の宣伝が印刷されていた。映画の宣伝もあったかな、印刷された内容の記憶ははっきりしない。ひょっとすると、選挙の広報などもあったかもしれない。

そう、それは新聞などを購読できない、戦後の貧しい日本国民に対するとても手っ取り早い広告だった。

空から舞い落ちるビラは、それを見つけた子どもたちの好奇心を大いにくすぐり、誰もが追いつくわけもないのに機影を走って追った。だが、滅多にビラを手にできることはなかった。

空を飛ぶ飛行機は、低空飛行とは言え案外遠くを飛んでいたのだ。

この広告方法は、戦中の伝単の影響だったろう。伝単とは制空権を握った敵国の航空機が戦況の真実(とは限らず、デマも含めて)を知らせる目的で、上空から無差別的にビラをまいたことを意味した。

戦後、その方法論は平和な民間の利用へとシフトしたわけだ。

だが、このビラ撒きは30年代の後半には廃れた。ビラはゴミになり、低空飛行は事故に結びつくという認識が主流になったのだろう。建築物の高層化もその理由のひとつだったに違いない。

派手な割には費用対効果が低かったということもあったろう。

ネツト曳行というものもあった。宣伝文句を書き付けたネット状の横断幕をひらひらとさせながら飛んだ。こちらもビラ撒きと同じ時期に姿を消した。

同じ頃、デパートなどの屋上から大きなバルーンが揚げられていた。そのバルーンと屋上などをつなぐ綱の部分には、デパートの催事などを大書した幕が貼られていた。アドバルーンと呼ばれていた。飛行機によるネット曳航を固定したようなもので、おそらくネット曳航より費用対効果ははるかに高かったろう。

まだ見通しの良かった昭和40年代までは、多くのデパートの屋上から空に向かって揚がっていたと思う。

広告の歴史の中でアドバルーンは、おそらく効果的なものの一つと考えられていたのではないだろうか。ただ、どんどんと高層化していく町ではその存在意義は薄れる一方でもあったろう。

昭和47年頃、知り合いから思いもよらないアルバイトを勧められた。彼が主導してやり始めたまったく画期的な媒体による宣伝広告の作成だった。

それは巨大な飛行船のボディに広告を描く仕事。描くと言ってもおそらくシール様のものを貼り付ける作業だったのだろう。彼はそれで一時財を成したと記憶している。飛行船による宣伝広告の草分け的な存在だったのだろう。

ただ、ボクはやらなかった。芝居で忙しかった。

それにしても!

よく考えてみれば、飛行船での宣伝は、アドバルーンと飛行機のビラ撒きを合わせたようなものではないか。なにか時代のつながりを感じさせるものではあった。

戦後の昭和という時代は良くも悪くも、まだ戦争を引き摺ったまま新しいものに飛びつく、そんな時代だった。

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東京「昭和な」百物語<その45>飲み屋・ツケ

2018-09-26 23:49:48 | 東京「昔むかしの」百物語
いまは、飲み屋さんのほとんどは、チェーン店である。

もちろん個人経営の飲み屋さんもあるのだが、昭和の飲み屋さんはほとんどが個人経営だった。

マニュアル化された営業形態の店など、知り得る限り「養老の滝」くらいだった。

チェーン店の特徴は、マニュアルに従ってとても分かりやすい会計システムであること、ほとんどが廉価であること、その代わり店と客との距離は決して近くはないこと。

昭和の飲み屋は、決して安くはなかったが人と人との距離は近かった。酒を飲むと言うよりは、誰かと会いに、話しに出向いたという言い方が正しい。

ボクにも新宿、荻窪、阿佐ヶ谷近辺に行きつけの店が何軒かあった。

そして今では信じられないことだろうが、ツケが利いた。

ツケという言葉自体いまの若い人はわからないのではないかと思うのだが、店で飲んだその日の料金は支払わず、後日まとめて支払う形を「ツケ」といった。つまり、よく行く店、店側としては、よく来る客にしかツケはできない、させないということ。

ツケというのは、帳面に「書き付けておいて」という意味(歌舞伎が語源という話もあるが、考えすぎにも思える)で、その日に手元が不如意でも、とりあえず店への支払いをせずに、店が書きつけておいた金額の総額を、月末の給料日辺りにまとめて払うのだ。

それは、お互い相手を信頼することで成り立つ支払いのシステムということでもあろうか。

店は客が支払いすることを信頼し、客も店による支払金額の水増しなどがないことを信じて、支払うわけだ。

飲み屋は人を見てツケを許し、客は店に通うことを約束する。

ただ形だけを見れば、いまのクレジット払いと同じようなものかもしれない。だが、ツケにはすでに書いたように、人と人の間を取り持つ情け、思い、信頼のようなものが存在していた。

それこそ、昭和までのアナログ人間の特性だったと言っていいかもしれない。

平成(今となっては、平成も過去となる最後の時を過ごしているのだが)という、人間関係すらデジタル化した時代には、まったくそぐわない習俗だったというべきか。

ツケを通じた人と人の関りは濃密であり、悪くすれば犯罪を助長する側面もあった。

それでも、ボクなどは今でもツケが利く店はないものかと探しているくらい、心が動く言葉なのだ、ツケという言葉は。



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暑さが遠のきました。お久しぶりです

2018-09-02 23:26:21 | 普通な生活<的>な
とうとう8月は一本の原稿も書きませんでした。

こんなことって、滅多にあることではないのですが、なにかそうするしかないという感覚でした。

7月の終わりに体調を崩しましたが、さすがに体温40度が3日続くというのは、年齢的にはきついものがあったようです。

自分自身ではそれほどの負担とは感じていなかったんですが、どうやら結構堪えていたようです。

暑さも相当に負担だったようです。

ただボクにとって太陽光は大きな栄養というか、何ものにも代えがたいもので、太陽が輝いている時にはできるだけ、光を浴びるようにしていたいのです。

そんなわけで、光を浴びることの代償として、なんとなく暑さにやられた感もありました。

それにしても、今年の暑さはやばいものがありました。38度って何なんでしょうか?

実際に体感してみようと、仕事の合間に外に出てみましたが、10分もいられませんでした。さすがに人っ子一人いませんでした。

9月に入って、今日などは上着が欲しいくらいの涼しさでしたが、この急激な湿気や温度変化は、ますます極端なものになっていくのだろうと思います。

気候の変動が人の命を左右するほどに激しいものになるなどとは、これまで考えたこともありませんでしたが、これからはそれが普通になるのではないかと、危惧しています。

皆さんも、できる限りの体調管理をされんことを!

少し涼しくなって、原稿を書く意欲が戻ってきました。

またよろしくお願いします。



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